2007年06月17日

教育再生会議 第二次報告から(1) 道徳教育をめぐって5

382344f1.JPG 教育再生会議が、第二次報告を出した。ほんとうにこれでもか、これでもかといった具合に、改革案が出てくる。

 薬づけという言葉がある。どんな良薬だって、いろいろな薬を立て続けに与えれば、いい結果にはならない。周知徹底されないうちというか、理解が進まないまま、ことがどんどん進んでしまっているように思う。
 これで、日本の教育は大丈夫かな。


 まあ、わたしとしては、少しでも、広く皆さんの理解が進めばありがたいと思うので、わたしなりの考察を加えたいと思う。


 初回は道徳教育の問題を、おもに、教科化することの問題、評価の問題の観点から述べる。

 そのまえに、教育再生会議の第二次報告全文にリンクしよう。

 教育再生会議 第二次報告  

 本日の記事にかかわる部分は、
『2、心と体 調和の取れた人間形成を目指す』
のなかの、
『提言1 全ての子供たちに高い規範意識を身につけさせる【徳育を教科化し、現在の「道徳の時間」よりも指導内容、教材を充実させる】』
に該当する。



 もとより、わたしは、現代という時代を考えたとき、道徳教育の重要性は、ますますましていると考える。ほんとうに子どもの心の琴線にふれる指導がなされなければいけないと思う。
 知識としての、『やさしさ、思いやり、心配りの必要性』だけではなく、『そうせずにはいられない。』といった心情まで深めて養いたいものだと思う。


 ところが、

 今回、教育再生会議(以下『同会議』と呼ぶ。)の提言(以下『同提言』と呼ぶ。)を読ませていただいて、まず、率直に感じたのは、同会議の委員の皆さんは、現行学習指導要領を読んでいるのかなといった疑問であった。

   文部省  小学校学習指導要領 道徳

1. 学校における道徳教育は、現行に限らず、かなり以前から、学校の全教育活動を通して行う道徳教育と、週一時間の道徳の時間との二本立てであり、後者は前者を、補充、深化、統合するものと位置づけているのである。つまり、児童が登校してから下校するまで、すべての教育活動において、道徳教育は行われているのである。

2. それにもかかわらず、同提言では、さも、目新しい提言であるかのように、『国語や社会科、音楽、美術、体育、総合的な学習の時間なども関連付けて、広く徳育を充実する。』と言う。

 おかしいのではないか。現行学習指導要領で、『全教育活動を通して〜』と言っているのであるから、同提言でわざわざ教科名まで出していても、これは現行より後退した印象を受ける。
 また、現行指導要領で、『補充、深化、統合』と言っているものを、『関連付けて』としか言っていない点でも、後退した印象を受ける。

3. また、現行学習指導要領では、道徳の時間における指導に当たっての配慮事項として、『校長や教頭の参加,他の教師との協力的な指導などについて工夫し指導体制を充実すること。』をあげている。
 つまり、『校長や教頭も、道徳の授業を行いなさい。』と言っているのである。これは、平成10年度の改訂で加えられた。それなのに、同提言では、担任が指導するとしか言っていない。(地域等の教育力の活用にはふれているが、これとて、現行学習指導要領でふれていないわけではない。)


 さて、ご承知のように、今回の提言では、教科にすることが強く打ち出された。

 わたしとしては、意味不明である。道徳教育の重要性を強調する姿勢と軽視する姿勢とが混在しているように見えるからだ。

 上記『後退現象』をふまえると、これは、道徳を教科とすることにより独立色を強め、全教育活動との関連を薄めることをねらっているのではないか。そこから感じるのは、教条主義的な指導、教授法による指導、そのような指導である。

 もしそうなら、児童の道徳的心情を育む上では、あきらかな後退現象となるだろう。子どもに限らずだが、今の時代の日本人が、言って聞かせれば、その通りになるなどと思っているとしたら、荒唐無稽な話である。

 しかし、まったく違う見方もできよう。
 校長、教頭による指導に一切ふれていないということから、想像できる。
 これは不可解としか言いようがない。やはり、前述の通り、委員の皆さんは、現行学習指導要領を読んでいないのではないか。

 
 評価の論述もお粗末だ。同提言では、『徳育は、点数での評価はしない。』としか言っていない。
 

 ここでは、わたしの主張を述べさせていただきたい。

 『評価と評定は違うよ。』ということはすでに述べたことがある。
 評定は、評価に含まれるが、評価そのものではない。
 同提言では、『評定はしない』とうたっているものと解釈できる。わたしは、この姿勢には賛成である。

 しかし、わたしは、評価は必要だし、大切なものと思っている。すなわち、明日の指導に役立たせるための評価は、しなければいけない。だが、そのことに同提言はふれていない。


 なお、教科書の問題にもふれたい。

 同提言では、『教材については、多様な教科書と副教材をその機能に応じて使う。その際、ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、芸術・文化・スポーツ活動を通じた感動などに十分配慮したものが使用されるようにする。』と述べる。

 これも、現在使用している副読本は、十分そういった内容を盛り込んでいる。

 ただし、現行の副読本は、お話のテーマと、掲げられた内容(徳目)とが、しっくり合っていない例が少なからずあると感じている。その辺の吟味は必要だろう。



 さて、以上述べたことをふまえ、具体論に入りたい。


1.『学校の全教育活動を通して行う道徳教育と、週一時間の道徳の時間』との関連、それは、『補充、深化、統合』という言葉で表されるが、それと評価との関連について述べたい。

 まず、道徳でねらうのは、『道徳的価値、および、人間としての生き方について自覚を深め、道徳的実践力を育成する。』となっている。
 そこで、気をつけたいのは、実践力アップそのものをねらってはいないということである。つまり、『けんかをした。』『そうじをなまけた。』から、道徳の評価が下がるというものではない。あくまで、自覚の問題、実践しようとする心を育むこと、つまり心根の問題なのである。

 心根の問題だから、評定しないとしているのだろう。これは賛成だ。


 しかし、評価となれば話は別。

 たとえば、道徳の時間に、『やさしいクマさん』のお話を扱ったとする。

 その授業の中で、『すごいよ。このクラスのみんなは、ふだんの生活のなかで、このクマさんのようなことを、いっぱいやっているよね。』と言ってあげたいなと思う。
 また、事後なら、『あっ。今、Aちゃんのやったことはすばらしい。わたしは、この前の道徳で学習した、クマさんのことを思い出したよ。』などと言う。

 これらはすなわち、評価である。

 そう。繰り返し言うが、道徳だって、明日の指導に役立たせるための評価は、絶対必要である。学習指導要領で言う『補充、深化、統合』とは、そういうことだと思う。『やったからよし、やらないからダメ』ではなくて、あくまで心根を養うことをねらう。

 どうだろう。道徳って、やっぱり、・・・、教科かなあ。


2.すでに記事にしたことがあるので、お読みいただければと思うが、

    平成18年4月2日  子ども一人ひとりの基礎・基本(1)

 この記事の後半で、道徳の授業にふれている。言いたいことは、『とらえさせたい心情は、一人ひとり違ってもいいよ。お話のテーマ、授業のねらいは、不撓不屈だが、ある子は、それを、勇気ととらえたとしても、その子が精一杯がんばってとらえたとしたなら、それでいいではないか。』であった。

 これも、道徳を教科としたくない理由とならないか。

 もちろんわたしは、教科だって、一人ひとりの基礎・基本という考え方は大切にしたいと思っている。
 しかし、わざわざ教科とするとうたっている点、その背景には、前述のごとく、『教条主義的な指導にしたい。教授法をとり入れた指導にしたい。』という考えがあるように思えてならない。


3. 現行学習指導要領でうたわれている、校長、教頭による道徳の授業というものは、どのくらい行われているのだろう。我が地域でその話を他校教員にしたら、『ええっ。そうなのですか。』と驚いているものが少なくなかった。
 そんな毎週やる必要はない。しかし、年数回はやったらいいのにと思う。まあ、無理なら、朝会の話を、道徳色を強めたものにするという手はあるかな。


4.他のブログを読ませていただくと、道徳の授業を満足に行っていない地域もあるらしい。

 ああ。教科にすると言っているのは、そのことに関係があるかな。

 もしそういうことなら、残念でならない。子どもの心を鍛えるうえで、大切にしたい時間なのにと思う。


5.本ブログ、および、ホームページでも、道徳の授業は何回かとり上げている。

平成18年4月6日  障害のある人への想い  きいちゃん   5年生
平成19年3月16日 六十年ぶりの母校    卒業記念の授業 4・6年生

 いずれも、初任者指導の一環として、わたしが行った授業だ。なお、後者は、校長時代に、卒業を記念して6年生を対象に行った授業も掲載している。

 これらの授業を通して言いたいこと。
 それは、道徳だって、子ども主体の授業、子どもの思いを軸にする授業をおし進めることが大切ということだ。
 また、師弟同行。指導する側と学ぶ側が、ともに成長しようとする姿勢も大切だ。

 やはり、教科にはしたくないなあ。


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 わたしは、校長時代、教員に言ったことがあります。

「通知表には、道徳について記述する欄がありません。これは、評定と評価をごっちゃにしているからだと思います。

 評定はしない。これに異論はありません。
 しかし、評価は積極的にしてあげようではありませんか。『道徳の授業における、Aさんの〜という発言は、心打つものでした。』などと書いてあげられれば、道徳的心情を育む上で大変有効と思います。
 しかし、記入欄がありませんので、どうぞ、保護者への連絡欄などを使っていただければと思います。」

 こうした点からも、道徳的心情を養うことを大切にしたいと思いました。

 それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 00:03│Comments(5)TrackBack(0)教育観 | 評価観

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この記事へのコメント

1. Posted by hirarin   2007年06月18日 22:14
道徳を教科にすることで、教科書にとらわれて新聞記事や学級のタイムリーな事例を扱うことが難しくなることをまず考えました。
次に村井実さんの著書にもありましたが「道徳は教科という枠で教えられるか」ということです。
すべての活動で行わなくてはいけないことを、教科にすることで、「こなす」道徳になる恐れがあります。
まあ私は、決められた枠の中で、子どもたちになる教育をしていくことしか考えていませんけど。
2. Posted by see21   2007年06月19日 00:28
私は、教育関係者ではないので、偉そうな事は言えませんが、今いじめについて考えている者です。

道徳自体に問題を抱えていて、この道徳ではなく、道理を教えるべき、と考えています。

URLに詳細を述べましたので、参照下さい。
3. Posted by toshi   2007年06月19日 01:19
hirarinさん
 教科であっても、教材を他から選択したり、自作したりするのは可能だとは思います。これまでの教科でもそうでした。
 しかし、わざわざ教科にする意図は、そういうことを考えてはいないと思います。
《すべての活動で行わなくてはいけないことを、教科にすることで、「こなす」道徳になる恐れがあります。》
 日本人は、画一化の教育にならされています。教える側もそういう教育を受けてきたので、画一化を無意識におし進めています。
 これがこわいなと思います。
 今こそ、個性豊かな人間を育む教育が重要視されるべきなのですがね。
4. Posted by hirarin   2007年06月19日 04:40
同感です。
≪今こそ、個性豊かな人間を育む教育が重要視されるべき≫
私も心して取り組んでいきたいと思いました。

5. Posted by toshi   2007年06月19日 15:55
see21さん
 コメント、ありがとうございました。教育関係者でないなどと、どうして、どうして、すばらしい論理の展開に、ただただ、敬服しました。
 刺激も受けましたし、新たな論理を展開したくもなりました。近日中に、それを記事にさせていただきます。その折は、また、よろしくお願いします。

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