2007年06月21日

『真実の道徳教育』とは?4

eaa3f4d8.JPG 前々記事で、道徳教育についてとり上げたところ、see21さんからコメントをいただいた。そして、同氏のすてきな記事も読ませてもらった。


 いきなりで恐縮だが、ちょっと目線を変えさせていただきたい。『おもしろいものだなあ。』と思ったことがある。

 教育再生会議では、道徳を教科にするにあたり、名称を徳育とすることも提言した。しかし、なぜ徳育なのか、どう道徳と違うのかについての文言はまったくないのだ。

 それに対し、・・・、

 see21さんの論調には『道徳に代わり、道理を教えるべきだ。』というのがあるが、その、『道徳と道理の違い』が、実に明確なのだ。

 一方は国の施策にかかわる提言。他方は単なる一ブログ記事。(see21さん。失礼な言い方でごめんなさい。)

 しかも、教育再生会議には、プロの教員が何人もいらっしゃる。

 それに対し、see21さんは、教育関係者ではないとおっしゃる。

 わたしも、一応、教育のプロであろうから、このことに関しては、なんともなさけなく、申し訳ない思いになった。

 教育再生会議に所属する『教育のプロ』が、説明責任を果たしていないのではないかと感じた。

 と、同時に、『このような調子で、教科化されたのでは、かなわないなあ。』とも思った。



 それでは、本論に入る前に、see21さんの記事を紹介しよう。まずは、お読みいただきたいと思う。


 
   道徳教育について

 
 わたしは、see21さんが主張される点の根幹については、大賛成だ。そして、わたしは、同氏のおっしゃる『道理』も大切にして実践してきたつもりだ。ただし、『道徳』の名の下に、・・・、だけどね。


 同氏の主張1

《真実は、どうか、と言えば、「嘘はついてはならないが、人というのは愚かな存在なので、縁次第では嘘をついてしまうものだ(だからって、嘘が許されるわけではない)」ということになります。》

 その通りだと思う。まずは、『うそをつくのはいけない。』という道徳的価値があると思う。それは押さえなければいけないし、子どももストンと胸に落ちるように納得するだろう。

 しかし、同時に、

1.それは分かっていても、人間の弱さとして、うそをついてしまう状況があることも、共感的に理解するはずだ。

 道徳的価値が必ずしも真理そのものでないことは、他にもある。

2.うそをつくことが、人間としての美徳となるケースだってあるはずだ。

3.また、一つの道徳的価値が、他の道徳的価値と相克関係にあり、双方が並び立たないケースもあるだろう。古くは平家物語の『忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず』の事例の通りだ。


 これらを、子どもの言葉で言えば、次のようになるだろうか。

1.「そんなこと言ったって無理だよ。みんながルールを守らなかったら、一人だけ守るなんて、できっこないよ。」
「でも、交通事故にあったら、損するのは結局自分でしょう。死んでしまうかもしれないのだよ。やっぱり守らなければダメだよ。」

2.「でも、うそをつかなければいけないときだってあるよ。たとえば、『ぼくのこと、嫌いなんでしょう。』って言われて、正直に、『うん。嫌いだよ。』なんて言ったら、その友達は傷つくでしょう。だから、そういうときは、うそをついて、『そんなことないよ。』って言ってあげた方がいい。」

3.2.であげた事例は、そのままで、『正直』と『友情』の相克関係と言えるだろう。

 言いたいことは、こういうことだ。これらは、決して例外的で特殊な事例ではない。子どもの世界でも、頻繁に起こりうる。


同氏の主張2
 
《道徳と真実の内容を比較すると、明らかに違いますが、子供達は、この違いを感覚的に実は理解しています。なぜ、道徳教育しても、人間として質の高い人間に育たないか、と言えば、矛盾ある内容の道徳教育を子供達に強要しているからです。》

 上記の事例で示したつもりだが、同氏がおっしゃるように、子どもたちは、この違いがあることを理解していると、わたしも思う。

 そして、同氏の論述と少し違ってくるのだが、『真実の道徳教育』というものは、あると思う。

 ただし、『道徳教育を子供達に強要』していたのではダメだ。すなわち、教える側が、子どもの思いを無視したり軽視したりして、一方的に発問し、子どもは答えるだけという、一問一答式の授業をやっていたのではダメだ。
 また、指導者の思い、押さえたいことが、プンプン子どもの前でにおって、子どもに感じ取られてしまうような授業でもダメだ。そういう雰囲気だと、子どもは指導者の思いに合わせる形でしか意見を言わなくなるであろう。つまり、きれいごとしか言わなくなる。

 反対に、子どもの思いを大切にし、何でも言い合える学級作りをしていれば、子どもは本音で語るようになる。本音を語る学級なら、上記事例のような意見がふんだんに出てくるはずだ。

 つまり、教員主導でない、子どもの思いを軸に進む授業形態をとって、初めて可能になるものだ。
 
 
 同氏の主張3

《子供に、いくら綺麗事を教えても、矛盾は必ず伴うわけで、最終的には受け付けてもらうことはできません。その為には、一にも二にも「己を知ること」であり、人間を知ることが大切です。人間を知れば、上記のような道理(真理)は、理解できるようになります。(時間はかかります)》

 現代の道徳の授業のために、多少弁護させていただきたいが、以上の点、今の道徳の副読本(現在のところは、教科書ではない。)は、けっこうよくできている。

 人間的な弱さにしても、価値観の葛藤にしても、けっこうそういった事例はとり入れられているのだ。あるときは、道徳的に見て、問題ある事例もとり上げられている。人間的な弱さに共感しながらも、『それではいけないのだよね。』という押さえになるよう工夫されている。

 
 そうか。そういった点でも、道徳が教科になり、徳育と名を変えたら、どうなるのだろう。もし、価値観の押し付けになるようなら、同氏の懸念されるようになりかねない。
 

 ここで、同氏の主張1.につけ足しをしたい。

 前々回も述べたように、今の、学校の道徳教育は、学校の全教育活動における道徳教育と、週一時間の道徳の時間とから成り立っている。

 つまり、子どもの学校における生活は、すべて、道徳教育の対象である。そこには、なかよく協力し合う場面も、自分の利、欲に支配されて、けんかする場面もあるだろう。

 そのなまなましい場で、指導者が、どう子どもに対応するかは、実に大きなものがある。

 機械的にけんか両成敗を適用したり、強引にあやまらせたり、道徳的価値をおし付けたりするのか、

 子どもの思いをよく聞いてやり、人間的な弱さに共感したり、寄り添ったりするのか。

 そのあたりが、道徳教育を成果のあるものにするかしないかの境目となるように思う。



 それにしても、see21さんの記事からは、多くの示唆をいただいた。大変ありがたかった。

 どうも、ありがとうございました。


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 ここに、一つの記事をリンクさせてください。

 道徳の授業でないのは申し訳ありません。校長時代の朝会での話です。
 朝会での話ですが、『あんな子、いなければいいのに、などと思うことはありませんか。思うのは仕方ないけれど、〜。』というように、人間的弱さにもふれた言葉かけをしています。
 よろしければ、ご覧ください。

   平成18年5月5日  平和教育(1) 朝会の話


 ああ。教育三法が成立してしまいました。あまりにも、道徳的でない成立の仕方でしたね。
 相次ぐ強行採決。そして、会期延長にもなりそう。参院選も延期に。・・・。今の政治を見ていると、こちらの方がよほど、危機的状況のように思います。

 それでは、今日も、1クリックを、どうぞよろしくお願いします。

rve83253 at 01:55│Comments(5)TrackBack(0)道徳指導 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2007年06月21日 22:30
自民党の強行採決、本当にこわいですね。安易な小泉ブームに流された、私達国民のせいなんですけどね…

さて、道徳と徳育の話、本来の意味からすれば、道徳は「社会や共同体の中からた規範、習慣や礼儀・作法も含む、自然発生的な教え」です。対して、徳育とは「徳」を育むこと。

あくまでも私見ですが、規範を教える道徳よりも、徳を育てる徳育の方が、より「心を育む」という視点からも、相応しいのではないか?と思っています。道徳のほうが「教え込み」の要素が高い。

でも、ここに大きな懸念事項・落とし穴があります。
2. Posted by Hideki   2007年06月21日 22:45
それは、知育・体育・徳育・志育・情育という所謂五育が、戦前の国粋教育のカモフラージュとして使われ、その最たるものが「徳育」という点なんですよね。

徳とは何か?キリスト教では信仰を指すようですが、儒教では、人間性から発せられた、人のため尽くすこと…それが転じて「共」に尽くすこと。自分を犠牲にしてでも社会につくす。この気持ちはとても神々しいと思う。

でも、それを逆手にとって自分を犠牲にしてでも「御国」に尽くすこととした戦前教育の代名詞の遺伝子を持つのが、この徳育です(徳育でググってみれば分かります)。

その意味で、一歩間違うと、戦前の国粋教育に逆戻りする危険性をはらむ。

右傾の著しいの安倍首相が、殊更に推す項目なだけに、非常に心配な点ですね。

「徳」とはなにか?

この点を、過去の過ちを繰り返さないためにも、深く深く考える必要があると思います。
3. Posted by toshi   2007年06月22日 13:37
Hidekiさん
 なるほど。よく分かりました。ありがとうございました。
 そうなると、わたしたちのように、子どもの内面を見つめ、子ども自らが自分の内面を鍛えようとするはたらきを支援する立場からすれば、ほんとうは何か別な言葉を見つけないといけないですね。むずかしいことですけれど。
 話は変わりますが、わたしは、今の日本が戦前に回帰するという心配はあまりしていないのです。
 それよりも、日本人の心の二極化といいますか、その一極にある心の貧しさ、荒廃ぶり。それがこれからの日本にどのような影響をもたらすか。それは政治家も含みますが、これまでの日本にはなかった、新たな心配事と思っています。
4. Posted by see21   2007年06月22日 15:58
toshiさん

コメントありがとうございます。多大な気づきを得て、さらに熟考に励んでいます。

道理というのは、確固たるものがなく、私自身も断定調には言い切れない部分を孕んでおります。しかし、だからと言って、今の世の中がこのまま規範もなく、混沌としていいわけもなく、足りない智恵を振り絞って考えている次第です。

「道徳に関して」
「道理とは何か?」

というタイトルでアップしましたので、ご参照下さい。かなり難解な内容であり、場合によっては、理解不能になるかもしれませんが、ご容赦頂きたい。
5. Posted by toshi   2007年06月23日 15:30
see21さん
 《今の世の中がこのまま規範もなく、混沌としていいわけもなく、》
 その通りだと思います。わたしは、思いやり、心配り、やさしささえあれば、人間性豊かな子どもを育むことになると思います。
 see21さんがおっしゃる道理もそのはんちゅうで考えることができると思います。
 see21さんの新たな記事も読ませていただきました。ううん。確かにむずかしい。正直、そこまで考えなければいけないかとも思いました。
 でも、一生懸命考えてみますね。それに関しては、貴ブログにコメントさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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