PTA

2010年02月26日

PTAの任意加入問題3

e7528033.JPG 前記事に、『朝日もPTA任意加入を支持!?』を掲載したところ、猫紫紺さん、しれとこままさん、やまびこままさんより、コメントをいただいた

 それらコメントを拝読して、あらためて、賛否両論、多様な考え方があることを確認させていただいた。

 ありがとうございました。


 かねてより、『教育は、ある意味、地方分権が徹底しているため、よその地域の事情は分かりにくい。』と書かせていただいているが、このPTAの問題については、地方分権というよりも、その地域、地域ごとに、それぞれの歴史、風土といったものがあり、よそからはうかがい知ることのできない部分が多い。

 でも、こうやって、ブログをやらせていただき、それぞれの実情が分かるのは、多様な見方ができるという意味で、大変ありがたく思う。


 まず、最初にお断りしておきたいことがある。繰り返しのリンクで大変恐縮してしまうが、

 わたしは、『PTA任意加入問題』については、すでに、何回か記事にさせていただいた。そして、その考え方や、どうしてそのように考えるのかは明らかにしている。

 それに再度リンクさせていただこうと思う。まだご覧になっていらっしゃらない方は、ぜひどうぞ、ご覧ください。よろしくお願いします。

 ただし、『toshiの言いたいことは、もう分かっている。』と思われる方は、※印のところまでは読み飛ばしていただいてけっこうである。


○まず、

    『PTA任意加入』論についてのtoshi的考察

がある。むかしはむかし。PTA自動加入に意義があったことは認めるものの、その後の、時代の推移によって、『PTA任意加入』の必然性がましてきたと考えている。


○次に、『PTA任意加入』は時代の趨勢としたうえで、それを前提としたPTAの未来像も述べている。なお、これは、PTAとのかかわり方という意味では、学校の未来像でもある。

    PTAと学校(11) PTAの未来像は、

 やはり、個性重視、一人ひとりの思いを大切にする、これからの時代におけるPTAのあるべき姿について、考察している。


○そして、『任意加入』とまではいかないが、実質、それと同じと思われる、『任意活動』をとり入れた学校に、校長として勤務した経験をもっているので、それにもリンクさせていただこう。

    ひらかれたPTA

 『任意活動』の学校に着任した時のとまどい。しかし、その活動の様子を理解するにつれて引き込まれていった、わたし自身の思いを述べている。




 さあ。それでは、前回記事『朝日もPTA任意加入を支持!?』にいただいたコメントを紹介させていただきながら、わたし自身の思いを述べさせていただこう。



○初めに、猫紫紺さんからである。

 なんと、前記事に掲載させていただいたシンポジュームに出席されていらしたとのこと。驚いた。

 そして、シンポジュームでの寺脇氏の発言について、朝日新聞記事がふれていないことまでコメントにしてくださった。ありがとうございました。

 同コメントによると、

 『寺脇研氏は、従来ないまぜになっているPTAの「社会教育団体として機能」と「保護者会機能」を分離すると良い、とお話しされていました。』

とのこと。

 たぶん、これは、分離したうえで、前者の『社会教育団体としての機能』には任意加入で、『保護者会機能』には事実上自動加入でとおっしゃっているのだと思う。


 そうかもしれない。

 まあ、分離した場合、『保護者会機能』にまで、任意を求める声はないだろうからね。


 しかし、そうだとしても、どうだろうか。

 ここで、川端氏のブログ記事にリンクさせていただくが、

    『第18回 カワバタ私案を発表します』

 同氏記事にあるように、PTA活動にトラウマを感じていらっしゃる方にとっては、分離したからと言って、即、トラウマがなくなるとは言えないのではないか。

 そういう意味では、同氏の考えは、折衷案としての意義は認めるものの、問題解決に役立つかと考えると、それは疑問と思った。 


 猫紫紺さんは、さらに続けて、

 『わたしはさらに、「後援会機能」をも分離するとよいかと思っています。』
  
とおっしゃる。


 これには、驚かされた。そうか。いまだに、『後援会機能』をもつPTAもあるのか。

 まあ、『後援会機能』については、『PTA任意加入』の問題とはずれるが、せっかくふれていただいたので、ちょっと考えさせていただこう。


 なお、『後援会機能』については、同氏のブログ、『草履で歩きながら考える (旧:幼稚園弁当)』のなかの、『PTA、学校への金品の寄付という問題』なる記事が、参考になるのではないかと思う。


 わたしが校長として勤務した学校においても、『後援会機能』を有する学校はあった。もう15年ほど前の話だけれどね。

 まあ。これまでのわたしの論調からすれば、『PTA総会で、皆さんが承認されるなら、後援会機能もあっていい。』となるかな。


 参考までに、15年ほど前は、我が勤務校においても、こういう話があった。ある保護者の声だ。

「校長先生は、『公教育にかかる費用は公費負担が原則だから、後援会機能はなくしたい。』とおっしゃいます。それは分かります。公教育は税金で賄うのが筋というのも、よく分かります。

 しかし、公費負担は無制限というわけにはいきません。仮に、一般的な意味で、公費負担により満足のいく教育が保障されたとしても、親ならば、『これでいい。これで十分。』とは思わないのではないでしょうか。親としては、常に、公費プラスなにがしかを求めるのだと思います。」

 たとえば、図書室におかれる本。

 公費で、新たに100冊、置くことができたとする。

 しかし、それならそれで、『120冊、150冊にしてほしい。』と思うのが親心ではないかというわけだ。

 そう。その気持ちはよく分かる。親心としてなら、よく分かる。

 
 しかし、やっぱり、それはよくない。『総会で、皆さんの総意としてまとまるのならオーケー』とは言えない。

 なぜなら、

・現実、会員には多様な考え方があるから、そうした考えに納得しない方もいらっしゃるだろう。そんな使われ方をしてほしくないと思う方もいらっしゃるのではないか。

・もっと根本的な理由。

 それは、使うお金の『性格』にかかわる。やっぱり、私的なお金を公的なものに使うのは間違いなのだ。これを許容すると、公金の概念がくずれてしまう。

 さらに、現在では、家庭の貧困の問題ものしかかってくる。
 
 だから、親心は、別なところで満たしてもらうしかない。


 我が地域においては、たぶん、今、『後援会機能』を有するPTAはないと思う。

 ただし、PTA予算の中で、『学校援助費』なるものは計上されている学校が多いのではないか。そして、それらは、卒業記念品、お祝いの品など、児童一人ひとりに還元されるものに使っているのだと思う。


○次、しれとこままさんは、任意加入にしたくてもできない事情にある(?)小規模校の問題について、コメントをくださった。

 小規模校の状況を知るにつれ、任意加入問題のむずかしさを、具体的に理解することができた。ありがとうございました。


 『冬季のスケートリンク作り』などは、ほんとうにご苦労の多いことだろうと思う。

 だって、小規模校であろうと大規模校であろうと、これにかかる苦労は変わらないものね。それなのに、小規模校なるがゆえに、個人にかかってくる負担は、大規模校とは比べものにならない。

 それは、『当番活動』であっても同じだね。

 ほんとうに頭の下がる思いがする。


 この、しれとこままさんのお子さんが通われる学校。今は、『できるだけの協力は惜しまない。』というのが暗黙の了解とのこと。

 しかし、小規模校においても、やがては、こうした活動に対する苦悩が表面化するのではないか。

 その兆候は、しれとこままさんのコメントからも感じられる。

 つまり、

 『したくない。』もしくは、『無理に子供にさせたくない。』という方もいらっしゃるとのこと。

 今は、そういう方も、『子どものため』『みんなやっていることだから。』ということで、協力は惜しまない姿勢になっていられるのだろう。思いは複雑だと思う。


 しかし、人々の意識は、時代とともに変わるものだ。

 やがて、『公教育なのだから、こういうことは、行政が人を雇ってやるべきではないか。』という主張になっていくことも考えられる。


 驚いたのは、『子供がいなくても、自治会に入っている家は、PTA準会員となっていて、会費を(半額かな?)納めている次第です。』とのこと。


 これは判断のむずかしいところだ。

・労力だけではなく、金銭的にも支えないと、PTA活動は成り立たないということか。

・しかし、他方、『自治会に入っている家は、PTA準会員となっていて、』のコメントから、『そうか。小規模校の地域でも、自治会に入っていない家庭もある。』のか。

 まあ、各家庭の自発的意志によるのか、地縁社会のお付き合いによるのか、その辺は判断がむずかしい。

 もし、各家庭の自発的意志によるのなら、寺脇氏やわたしが言うところの、『PTAは〜、保護者だけでなく、OBや地域の大人を入れ〜、』を、まさに地でいっているようにもみえ、これはこれでありがたいしうれしいことなのだが・・・、


 実際はその中間あたりかな。

 つまり、『やらずに済めばそれにこしたことはないが、小規模校であるがゆえに、金銭的な協力をせざるをえない。』といったところか。


 いずれにしても、小規模校であっても、やがては、『PTA任意加入』問題は、喫緊の課題となるのではないかと思う。


○最後に、やまびこままさんからのコメントをとり上げさせていただきたい。

 
 お気持ちはよく分かる。

 わたしとて、現職にあるときは、やまびこままさんと共感し合えるものをもっていた。つまり、『親が子供に教育を受けさせるのが義務なのですから、せめて義務教育のうちはPTA活動として、親と職員みんなが参加するべきでしょう。』は、かつてのわたし自身の思いでもあった。


 しかし、今は・・・、

 ごめんなさい。このことは後に譲らせていただいて、


 やまびこままさんのお嬢さんが通われる学校の姿についてだが、これは、過去記事の『ひらかれたPTA』で紹介させていただいたわたしのかつての勤務校とよく似ているなと思った。


 そういう学校はいい。

 少なくとも、皆さん、意欲的に活動なさっているのだから、任意加入であろうと、自動加入であろうと、大した問題は起きないと思われる。はっきり申して、任意加入にしたところで、それぞれの自由意思で、100%近くが加入するだろう。


 ところで、

 わたしは、上記、『ひらかれたPTA』でとり上げたかつての勤務校へ、一昨年、川端氏とともに訪れた。それは、過去記事でふれている。下記リンク先記事の末尾、『実は、今回、同校へ取材にうかがって、わたし自身も感動したことは、・・・、』からがそれに当たる。

    PTAと学校(6)

 今、任意加入の是非を論じるにあたって、この過去記事の補足をさせていただきたいと思う。


 このときお会いしたPTA役員さんが、一様におっしゃっていたことは、

・PTA活動が楽しいということ。それは、やりたいことをやりたい人がやっているからではないか。

・会員が主体的に取り組んでいるからやりがいがあり、したがって、役員の成り手が多い。それにより、一人一人にかかる仕事量はそれほど多くなく、役員になったからといって、特に負担に感じることもない。



 しかし、この学校は、わたしが着任する前、PTAと学校との関係が、ちょっとふつうではなかった。


 ちょうど、やまびこままさんのコメントに、『任意加入で校長が脱退したらどうなりますか?』というのがあり、それで思い出したのだが、


・まず、過去記事の『PTAと学校(7) PTAは任意加入か!?』で述べているのだが、

 この学校では、前校長からの引き継ぎにあたって、次のような言葉があった。

「この学校のPTAは、かわっているのですよ。『学校教育に対してPTAとしては、一切協力することはできません。』と宣言されてしまっているのです。だから、ふつうはあるPTAの学校援助費はまったくありませんし、行事などの折も、PTAの支援を期待することはできませんから、よろしくお願いします。」


・そして、最初のPTA役員会で驚くべき話を聞くことになる。もちろん、前年までの話だ。


 この学校は、わたしが着任する前、事実上、校長が脱退したと同じことが起きていたのだ。

 というのは、校長には脱退の意志などなかったが、PTA役員が、学校(校長をはじめとした教職員)をPTAから締め出していたのだ。

 ただ学校援助費がないだけではなかった。学校とPTAは、完全に分離していたのである。

 PTAとは言いながら、PAになってしまっていた。


 そう。そのことにあまり深入りしたくはない。

 ここでは、そういう異常事態であっても、それはそれ、学校は学校として、PAはPAとして、それぞれ機能していたことを指摘するにとどめよう。


 そして、わたしが着任した後は学校もPTAも陣容が一新され、同リンク記事の続きにあるように、新PTA役員さんから、『校長先生。わたしたちにも、(学校の教育活動について、支援)できることはやらせてくださいよ。』
と、言われるようになった。


 やまびこままさんが書かれたような、『校長が脱退』という事態は、およそ考えられない。しかし、それとよく似た事態を経験したものだから、ちょっとふれさせていただいた。


 さて、やまびこままさんのコメントについての続きだが、

 『PTAは保護者会ではありません。』は、『PTAは保護者会という性格のみではありません。』ということではないかな。それなら、先の寺脇氏のお考えとピッタリで、よく理解できる。

 次の、『保護者と学校職員が協力して家庭と学校と社会における児童の健全な成長を図ることを目的とする。』もまったくその通りで、異存はない。

 しかし、それは、即、自動加入を意味することにはならないだろう。

 『協力』を真の協力たらしめ、『児童の健全な成長を図る。』とうたうならば、形式的・慣習的、また、惰性に流れた活動にならないよう、活動を真に豊かなものにするよう配慮すべきは当然で、やはり、やりたい人がやるという最低限の保障をもたせながら、そのなかで、やりたい人を増やしていく努力をすべきなのだと考える。

 それには、『楽しいPTA』『誰もがやりたくなるPTA』を目指すのが一番いい。

 やまびこままさんのお嬢さんの通う学校は、全員が自動加入だから、そうなっているのであろうか。

 わたしは、全員加入であるにもかかわらず、学校、PTA、お互いの努力、協力体制がとれているからではないかと考える。


 ただ、もしかしたら、やまびこままさんは、『楽しいPTA』の楽しさを、『趣味に生きる』とか、『享楽的な楽しさを求める』とかいうようにとらえられているかもしれない。


 わたしの思いはまた違う。確かに、それも含むが、

 真の楽しさの意味は、『充実した楽しさ、』『やりがいを感じられる楽しさ、』なのだととらえたい。



 ここまで書き終えて、ブログに戻ったら、猫紫紺さんから、新しいコメントが入っていた。

 ここに、病気をかくしてPTA活動に参加し、そのために命を落とされたという話があった。痛ましいことである。

 ここまでいかなくても、『PTA役員にさせられたがためのトラウマに襲われ、』という話を、川端氏からもうかがった。川端氏は、自動加入ならぬ、強制加入という言葉を使われていた。


 それでは、最後に、

 ちょっと突飛なようだが、これは、わたしの授業論と似ている。


 わたしは、子ども主体の、子どもがいきいきとした授業を目指している。

 子どもが授業で発言することは、大事な自己表現の手段だから、わたしは、話し合いで価値を追求し、話し合いで価値を深める授業においては、常に、全員発表を目指した。

 目指したが、それは指導者たるわたしの気持ちである。

 子どもには子どもの思いがある。たとえば、

・分かっているけれど言いたくない。

・分からないから言えない。

・多分分かっているのだと思うけれど、自信がないから言えない。など。など。


 いくら全員発表を目指すといっても、そうした子どもの思いを無視し、強権発動して、全員の子どもに言わそうとするのは、いかに、指導者とは言え、僭越である。

 だから、全員発表を目指しながらも、それはおくびにも出さないように努めた。

 そうではなく、『誰もが意見を言いたくなる学級の雰囲気づくり』。子どもの気分がそのようになるよう努力したのだ。


 その結果、全員発表の授業は・・・、

 結果としてはあった。年間、わずか、4・5回にすぎなかったけれどね。

 でも、発表しない子、発表したくても時間の関係でできなかった子は、どの授業でもだいたい4・5人だった。その4・5人も固定した4・5人ではない。常に流動していたのである。


 わたしは、PTAの任意加入も同じではないかととらえたい。

 任意加入ではあるけれど、結果としての全員加入。

 校長なら、また、PTA会長(役員)なら、それを目指す学校経営、PTA運営、いや、ごめんなさい。何も全員加入を目指さなくてもいいですね。

 こちらは、『限りなく多くの方が、楽しく、充実した思いをもてるPTA』を目指そうではありませんか。


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 先ほど、保留にさせていただいた、『親が子供に教育を受けさせるのが義務なのですから、せめて義務教育のうちはPTA活動として、親と職員みんなが参加するべきでしょう。』については、その後いただいた、猫紫紺さんのコメントが、お返事になっているように思いました。わたしもまったく同感です。

 少なくとも、PTAの役を受けることが、負担になったりトラウマになったりしないようにしたいもの。

 逆に、PTA役員さん、委員さんを決める際、かつての我が勤務校のように、なり手が多くてこまるような、そんな雰囲気になったらいいなと思うのです。

 

rve83253 at 22:58|PermalinkComments(28)TrackBack(0)

2010年02月22日

朝日もPTA任意加入を支持!?4

2798de60.JPG 昨日の朝日新聞に、『PTA実は入退会自由』なる見出しがおどった。なんか、とてもうれしい気持ちになった。

 というのは、同任意加入論については、過去記事に書かせていただいたことがある。

    PTAと学校(7) PTAは任意加入か!?


 わたし自身、現職中は、PTA任意加入論など、まったく考えたこともなかった。

 しかし、上記リンク先記事にも書かせていただいたように、作家の川端裕人氏にお会いしてお話をうかがう機会があり、それを契機に、わたしは、任意加入を支持する気持ちになった。

 というのは、

 わたし自身、『加入こそ任意でなかったものの、活動そのものは任意である。』という、そういう学校に校長として身をおいた経験があったからである。

 今、その学校のPTA活動を紹介させていただいた記事にもリンクさせていただこう。

    ひらかれたPTA


 そう。

 『会員がやりたいとする活動をする。やりたい人がいない活動はしない。』

 そうであれば、その延長線上には、『会員になりたい人が会員となる。』があって当然だろう。

 だから、川端氏の主張は、わたしにとって理解しやすかったのである。


 そう。そう。

 川端氏の主張は、同氏のブログに書かれている。それも併せて紹介させていただこう。

    第2回 ?任意加入?が前提ってホント?



 それでは、朝日新聞の同記事をめぐって、論評、考察してみよう。


1.本来、会員になるかどうかは、保護者の自由

 これは、かつて校長であったわたしにとっても、目からうろこが落ちる思いだった。

 川端氏にお会いし、お話をうかがうまで、わたしは、このことを知っていたのだろうか。
 
 35年間の教員生活があったのに、

 今となっては、知っていたか、知っていなかったか、はっきりしない。

 知っていたような気もする。でも、分からない。


 ここに、日本特有の本音と建て前の使い分けを感じる。

 つまり知っていたとしても、それは、あくまで建て前としてなのだ。

 だから、『気にする必要はない。どうせ、全員加入するに決まっている。』そう思っていたに違いない。そのように、軽い軽い受け止め方だったから、その結果として、知っていたかどうかの認識がほとんどないのだ。

 学校長であるわたしがこのようであったことは、今となっては申し訳なかったと思う。


 同新聞記事には、『全保護者を自動的に加入させている学校も少なくない。』とあるが、これはちょっと誤解を招くのではないか。学校が意図的に全員加入させているかのように受け取られかねない。
 
 もう、読者の方にはご理解いただけたと思うが、別に意図的なわけではない。

 まずは、学校が、建て前としてですら認識していないことが考えられる。また、認識していたとしても、長年の慣行の中で、『それは、あくまで建て前でしょう。』とばかり、無自覚でいるとも考えられる。そういうことではないか。 

 また、この場合の『学校』は、教職員だけではなくPTA組織も含めての学校だと思う。


2.「入退会は自由」と知らない保護者が半数

 これは意外。もっともっといると思った。

 学校長が先ほど述べたような認識なのだから、保護者が知らないのは当然。そう思っていた。でも、半数は知っているということか。知っているうえで、自動加入に応じているということか。とすると、保護者も、本音と建て前を使い分けているということか。

 
 「入会時に(任意加入の)説明があった。」とする者は17%とのこと。

 そうか。あらためて、自分の現職当時、このような説明はしなかったなと、今になって、またまた、申し訳ない気持ちになった。


3.活動内容は変わる。

 「これからのPTAのあり方」シンポジュームでは、

 川端氏の『PTAはボランティア組織と知らないと、PTA活動は義務になり、役員はすり減ってしまう。入退会は任意と文科省が広報してほしい。』との発言に対して、次のような意見が出たという。

「任意にすると、地域の子ども会と同じように参加者が減り、活動が衰退する恐れがある。」
「PTA会費を新入生の名札購入などにあてている。入会しない保護者の子どもの分をどうしたらいいのか。」

 これはもう、文字通り任意加入となった場合、活動内容は大きく変わるものと認識した方がいい。

 このあたりの細かいことも、過去記事に書いている。再度リンクさせていただこう。わたしが勤務した学校において、『任意加入』ではないが、『任意活動』といっていい状況があったので、それを記事にしている。ご参照願いたい。

    ひらかれたPTA


 名札などをどうするか。これについては、PTA総会の予算案審議の時に、みんなで決定すればいいのではないか。

 もし、『会員でない子どもにまで配布する必要がない。』と決まれば、この予算執行はやめることになるだろう。

 それに、我が地域では、実質、自動加入になっているが、ほとんどの学校で、このような使い方はしていない。どうしているかというと、入学式当日、保護者より入学時納入金を納めてもらっている。名札代も当然その中に含まれている。


 なお、同じく再度のリンクで恐縮してしまうが、また、下記リンク記事では、末尾近く、『第四点目』が、上記反対意見に関係していると思う。

    PTAと学校(7) PTAは任意加入か!?


 この記事に出てくるPTA配布物についてだが、


 まず、記念品などに類するものは、上記名札の扱いに準じればいい。


 次に、プリント類については、基本的に配ることにしたらいいと思う。

 なぜかというと、『任意の入退会』ということは、加入もいつでもいいということだろう。それなら、日ごろから広く活動内容をPRしておきたい。そうして、活動への魅力を感じてもらえるようにしたい。

 そんなわけで、活動そのものの周知は図っておいた方がいいと思うのだ。


 でも、これも、最終的には、各学校、PTA総会で確認し合えばいいことだろうと思う。


 なお、実質任意加入に際しては、学校も大きく認識を変える必要がある。そのあたりのことは、下記リンク先記事にくわしく書いたつもりだ。

    PTAと学校(11) PTAの未来像は、


4.元文部官僚の寺脇 研氏は語る。

 寺脇氏は、『ゆとり教育』で有名な方だが、PTA活動についても語る。同新聞記事によれば、

「PTAは任意加入を徹底したうえで、保護者だけでなく、OBや地域の大人を入れ、子どもを支援するNPOのような活動を心がけると幅が広がる。」
「名札や卒業記念品の費用をPTA会費から出すのはおかしい。子ども手当を財源とすることも考えては。」


 NPO云々は、わたしも賛成である。

 そして、上に3本の拙ブログ過去記事を紹介させていただいたが、『保護者に限定せず』は、わたしも主張させていただいたし、現に、わたしの勤務校では、そうした姿がみられた。


 ただ、名札、卒業記念品については、異論がある。

 わたしは、同氏の主張のように、『おかしい。』とまでは思わない。みなさんが、『記念品として、大事にしてほしい。』と願ってやるのなら、大変けっこうではないか。

 だから、これも、PTA総会で予算の議決を行う際、決めればいいのだと思う。先に紹介したように、執行をやめてもいいのだし、会員でない方の分は徴収してもいいのだし、方法はいくらもあるだろう。

 ただし、子ども手当というのは変ではないか。一括徴収なら、分かるけれど。


5.『任意』へのアレルギー

 『一人一役制度、あいさつ当番など、活動を保護者に平等になるよう義務づけているところでは、任意へのアレルギーが強い。』とある。

 これは、『3.活動内容は変わる。』で書かせていただいたように、PTA活動そのものの意識改革を図ってもらうことが大切だ。

 原点は、やりたい活動をやるということ。やりたくない活動はやらないということ。

 わたしのかつての勤務校の活動を振り返ってみると、『一人一役制度』など、初めから、会員の意識にはなかったことが分かる。だって、やりたい人がやっているのだからね。

 現に、先の寺脇氏の主張のように、PTA広報紙作成など、お子さんが卒業してもやり続けている方もいらした。

 『あいさつ当番』などにしても、会員の自由意思によって決定しているのなら、やる人、やらない人がいても、『だから、不平等』などと思う人はいなくなるのではないか。


6.学校の意識改革も必要

 文科省社会教育課の神代浩課長は、「教育委員会や校長には、任意であるという意識を広めたい。」と述べたとある。

 そうなのだ。わたし自身も、本記事の冒頭で述べたように、あやふやな意識しかなった。


 そうか。教育委員会も同じなのだ。

 そうだろうね。教育委員会と校長とで、認識が大きく異なるなどということはないよね。


 なお、この辺の意識改革の必要性と、どう改革する必要があるのかは、下記リンク先記事でくわしくふれているので、ご参照いただきたい。

    PTAと学校(11) PTAの未来像は、


 最後に、ぜひふれたいこと。

○これは、PTA改革にとどまる話ではないね。

 『本音と建て前』という日本文化全体が崩壊していくのではないか。実質重視、個性重視の社会へ向けての改革につながると思う。

 日本は、どうしても、『右へならえ』主義が横行している。

 その意識改革と同時進行になるのではないか。

○その意識改革を子どもへも適用してほしい。

 これは、リンク先記事でもふれている。大人だけの個性重視、個性尊重とならないように。子どもの生活、子どもの学習へもぜひ適用してほしい。

 その場合、子どもの周りにいる大人は、子どもの内面への洞察力をもたなければならない。大人の思いこみ、独りよがりによる、『子ども尊重』では、子どもの幸せにつながらない。

○PTA活動を魅力あるものにしていく努力が大切だ。

 いくら『やりたい人がやる。』といっても、やりたい人がちっともふえないとすれば、それはいかにも残念だ。魅力ある活動にしていく努力が大切となるだろう。


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 自由にすると、活動が衰退するという危機感が、反対論者にはあるようです。

 でも、『ふつうは大丈夫。』というのが、わたしの見方です。

 
 しかし、PTA活動が義務だったり、その義務に、トラウマが生じている人が多かったりすれば、その反動で、衰退してしまうこともあり得ると思います。


 それはそれ。覚悟を決める必要がありそうです。リンク先記事にもあるように、PTA活動がなくても、学校は機能していきます。


 結局は、『子どものために、がんばっていこうではないか。』『魅力ある活動をしたい。』という原点に、どれだけ立ち戻れるか、また、そう考える人がどれだけいるかということになるのだと思います。    
    

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2008年05月27日

PTAと学校(11) PTAの未来像は、4

880dab8c.JPG わたしの考える未来のPTAを一口で言えば、『楽しくなければPTAではない。』


 むかし、いわゆる『ゆとり教育』がスタートしたころ、文科省の寺脇研氏は言った。


「今、全国各地で、PTAがもえています。情熱的で、活動することが楽しくて仕方ないというPTAがふえています。」


 それを聞いていたわたしは、『ああ。これは、我が勤務校のことを言っているのだな。そうか。そういうPTAが全国にふえているのか。』そう思った。とてもうれしかった。

 これは、『ひらかれたPTA』にくわしい。


 時代が多様性を求めている。

 一人ひとりが、自分らしく生きる。充実した生き方を求めている。

 そのようなときに、PTAだって、その生き方を認める方向で改革していかないと、いずれつっとってしまうことは目に見えている。


 
 そこで、上記、『ひらかれたPTA』なる記事を振り返りながら、新たな視点も加えて、未来のPTA像を考えてみたいと思う。


〇やりたい人が、やりたい活動をやる。やりたいという人がいない活動はしない。
 これは、PTA活動の自主性、任意性、多様性を認めるということである。

 学校としては、『PTAをあてにした学校経営は古い。』と認識すべきである。任意性が高いから、今年行われた活動が来年も継続するとは限らない。そう腹をくくるべきである。


〇やりたい人の集まりだから、活動は活発になる。楽しく活動できる。アイデアもわく。意欲的でよくまとまる。犬山市教育長が言っていたように、自発的にやる活動には、多忙感がない。
 また、一部の人だけが忙しいという事態は、かなり解消される。仕事が幅広く分担される。
 活動の楽しさが広く伝わっていくから、やりたい人の輪は広がっていく。


〇旧来のPTAが存続するなかで、『いやなことをやらされた。』ということでトラウマになったり、PTA内部に派閥のようなものがあって、いやな経験を何度もしたと思ったりする人が多ければ、やりたい人がいなくなることもありうる。その場合は、PTAは廃止である。

 PTAがなくても、学校は動く。わたし自身、PTAを廃止したということは、経験したことも聞いたこともないが、新設校で、何年もなかなかPTAができなかったという話は聞いたことがある。

 その学校の校長が言っていたっけ。
「いやあ。初めっからないのだから、別にこまることはありません。ただ、授業参観と学級懇談会があるだけです。もっと幅広く連携を図ろうとする動きもないわけではないですが、その必要はないという考えの方もいらして、今のところはまとまっていません。」
 これも、親校でいやな思いをしたということが尾を引いていたようだ。
 まあ、なくてもやっていけるということだ。
 

〇任意性が高い、多様性を認めるということは、活動は保護者に限定しなくてもいいということだ。学校に在籍する子どもたち(その保護者を含む。)のための活動であることは確かだが、希望すれば、お子さんが卒業した後も活動できるようにしてかまわない。

 また、こうした考えは、地域に向けての門戸開放にもつながる。その場合は、人的にも、組織的にも、オープンになっていく。
 たとえば、放課後児童クラブ、学童保育など、さらには、町内会には子ども会などがあると思うが、そういう組織との連携が図れるようになっていく。同一人物がそれら複数にかかわっているなどということもあって、『やりたい。参加したい。』という人たちの輪は広がっていく。
 それが、PTA、子ども会、学童保育等の共同事業などを生み出す力にもなっていく。
 町内会、保護者、趣味に生きる人、学生などが、『子どもとかかわりたい。子どもにしてやりたい。』などという思いでつながっていく。

 こうして、やりたい人がやりたいことをやるという気運が培われるようになると、そういう意欲に支えられて新たな組織が生まれることもある。

 我が地域で、今、急速に広がりつつあるのは、『おやじの会』だ。お父さんが子育てに参加するなかで、PTAにもかかわろうとする気運が醸成されている。防犯、警備、学校への協力など、幅広く活動してくださる。

 学校としては、PTAなどをあてにするわけではないが、『やりたい。』『学校教育に参画したい。』という声には、大いに応えていきたいものである。本の読み聞かせ教室などに代表されるだろうが、授業時間も活用していただく。幸い、総合的な学習の時間などがあるので、活用する時間は容易に確保できる。 


〇新たな時代の信頼関係が生まれる。

 もともと活動が定例化、義務化していないので、学校とPTAのあいだには、『なくて当然。やってくれれば感謝』という関係が生まれる。
 同じ、やるにしても、『昨年やっていたのだから今年もやらなければならない。』ではなくて、『昨年やっていたようだけれど、今年はどうしましょうか。』から始まる継続なので、そこには、常に、意義、目的、内容などの検討がある。当然、『やらされる。』という意識ではなく、『やる。』という思いでの活動が始まる。

 学校としては、常に感謝の思いを忘れない。その思いをストレートに活動している方々に伝えることはもちろん、教職員にも伝える。そして、子どもにかかわる活動ならば、全校朝会などで子どもにも話す。

 そう。最後に書いたことは、そうした信頼関係構築の営みが、そのまま教育力につながるということでもある。

 これは、学校とPTAの関係においてだけではない。PTA内部においても、そういうつながりがこくなっていくだろう。また、他の機関とも、同様の関係でつながっていく。

 
 ちょっとわき道にそれるが、わたしには、これにかかわって、大きな反省事項がある。

 わたしは、上記、『ひらかれたPTA』なる学校に着任したとき、同記事では、『ショックだった。』とし、その理由の一つとして、『広報紙などはなくなってしまうのではないか。』と書いた。

 しかし、それは逆だった。広報紙を出したいという人は少なからずいらしたし、活動は大いに盛り上がり、地域のPTA広報紙コンクールで賞をいただくまでになったのである。

 『自由にすれば、人は活動しない。』

 そう思っていた。

 わたしは、基本的に、人間というものが分かっていなかった。人間、やりたいことには、ものすごい情熱を発揮するのだね。

 わたしは、『人への信頼』という、教職にあるものにとっては不可欠な人間観なるものを学ばせていただいた。

 でも、前述の通り、トラウマに襲われたり、いやでいやでたまらないというような思いがすでに多くの人にあるのなら、話は別。

 こういう場合は、別な努力が必要になってくるだろう。


〇活動が盛り上がるには、もう一つ、カギがある。

 それは、いくらやりたい人がやると言っても、それが、固定してしまってはならないということだ。『やりたい人』『やりたくない人』が、あたかも別人種であるかのように、二層として固定してしまった場合は、全体としての盛り上がりは期待できない。

 常に門戸は開いておく必要がある。

 それだけではダメで、門戸を開いていることが周知徹底されなければならない。

 『楽しそうだなあ。わたしも参加してみようかなあ。』と思ってもらえるような広報活動が大切である。


 活動によっては、『年度途中における加入、離脱は迷惑。』ということがあるかもしれない。しかし、それを口にしたり表情に出したりしてはダメだ。いつでも参入者を歓迎するというムードがないと、長続きしない。もちろん、抜ける自由も同様である。

 ただ活動する以上、責任を伴うことは当然だ。やりたいとしてやる以上、途中での放棄などはあってはならない。
 もっとも、現実的にはこのような心配は不要だろう。

 学校としても、先ほど書いたように、活動への感謝の思いを忘れない。教育にかかわる内容なら、学校だよりなどで、どんどん思いを伝えるようにしたい。


〇対外的な関係においては、必ずしも、うまくいくとは限らない。連携しようとしても、その組織がないという事態が起こりうるからだ。

 この辺は、創意工夫が望まれる。

 たとえば、学校保健委員会なるものがある。教員・児童・PTA代表、及び、校医などで組織される。
 これは、学校保健法という法律によって実施されるものだから、やらないわけにはいかない。
 しかし、PTAに保健委員会なるものがないということは起こりうる。

 この場合は、PTA役員、あるいは、学級委員が任務を代行することになるだろう。


 地域PTA(市P連など)への参加体制でも同様だ。

 地域PTAにも、〇〇委員会(部)というものはあるだろう。ところが、本校PTAでは、『その活動はしていない。』ということも起こりうる。

 その場合は、所属しない自由、提案しないで済む自由が与えられなければならないだろう。
 その延長線上には、当然、抜ける自由も必要となる。


 ただ、逆に、地域PTAに対して、学校のPTA同様、任意性を求めていく方向性もあっていいだろう。いや。望ましいPTA活動を求めていくのであれば、脱退よりも、こちらの方がベターだね。


 自然発生的な連携も起こりうる。

 現に、わたしにメールを送ってくださったあるPTA会長さんは、次のようなことをおっしゃっていた。

「我が校のPTAが、一つの行事をやる場合、近隣校のPTAが、お手伝いに来てくださいます。
 自校の会員は、皆、行事に参加したいわけですから、そういうとき、会開催中の警備、幼児の見守り、世話などで、他校からお手伝いに来てくださると、ほんとうに助かります。当然、逆の場合は、うちの方からお手伝いにうかがいます。」

 すごい。こういう営みが、新たな活動意欲を盛り上げることになる。


 また、学校独自では大変な、名士を招いての講演会なども、近隣校と連携なら、やりやすくなるだろう。


〇最後になるが、前記事に書かせていただいたことにふれる。

 こうした活動の楽しさ、充実感、そういったものは、子どもたちにも伝わる。先にも述べたが、それは、有形・無形の教育力となっていく。

『いろいろあっていいのだ。』
『人生は多様なのだ。』
『みんな同じでなければならないというのは間違いだ。』
『人間は、自分のやりたいことは、大変な情熱を傾けてやるものだ。』
 
 そういったことが、言葉にならないメッセージとして伝わっていくだろう。

 
 
 これからのPTAは、自分たちの多様性、主体性を求めれば求めるほど、そして、それが実現すればするほど、子どものそれも求めていかなければいけない。いや。必然として、そうなっていくであろう。

 矛盾した言い方になるが、『多様性、主体性を求める方向で、子どもの教育に対しては、一つにまとまる。』ということだ。


 自分たちは主体的に生きる。任意性を求める。生き方は多様であっていいと考える。

 そうであれば、

 画一的な教育、子どもを受身におく教育、ランキング等で競わせる教育、

 かわいい我が子がそういうめにあわされることについて、無関心であっていいわけはない。

 当然、ある場合は学校へ、ある場合は行政へ、ある場合は国へ、異議を申し立てていいはずだ。いや。それが必然であろう。


 かつて、PTAは、地域と連携して、学校施設の充実に努めた。

 次には、義務教育の公費負担を行政に求めた。

 そして、今、活動の自主性、主体性、任意性を求めている。あるいは、求めようとしている。ひらかれたPTA、多様性を認めるPTAを求めている。

 それなら、民主主義教育とは何か、子どもが主体的に生きる教育とは何か、そうした声を結集して、要求していこうではないか。

 子どもの学習だって、楽しくなければ始まらないのだもの。


 幸いと言ってはなんだが、

 今は、PTAが、異議申し立てをすることも比較的容易にできるようになっている。それは、

  学校民営化?なる記事にくわしい。

 
 わたしは未来のPTAには、それをお願いしたい。

 


 以上、るる述べてきたが、どうだろう。

 こうした、活動の自由、任意性、多様性を認めるということは、

 このブログ等、ネット社会と共通していないだろうか。
 

 ブログは誰からも強制されているわけではない。やりたいからやっている。やめたくなったらやめる。

 コメントをくださる方にしても同様だ。コメントしたくなるからする。したくなくなったらやめる。それだけのこと。

 ネットは、参入する自由、抜ける自由が、明確である。誰でも、自明のこととして理解し、参入している。

 
 でもねえ。PTAのようなリアル社会においては、いろいろなしがらみがあるだろうから簡単ではないだろうが、これからは、ネット社会のような自由さ、気軽さを認めることが、組織発展のもとになると考えるべきだろう。

逆に言えば、ネットの気軽さが、自主性、多様性を求める気分を醸成し、それがリアル社会(PTA等)に影響を与えていくということにもなるのではないか。


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 活動の自主性、任意性は、今、行政にも及んでいます。かつて、福島県矢祭町の『もったいない図書館』を中心とした記事を書いたことがあります。これなども、町の行政が、人への信頼を基にしたものになっているあかしでしょう。

『自由にすれば、活動しない。』ではなく、『自由にすれば、やりたい人がやり、その輪は広がり、充実していく。』のです。

 これはなにやら、『子どもは自ら学ぶ存在である。』と似ていますね。

 どちらも、人への信頼が、それを可能にするのです。

なお、ブログで懇意にしていただいている作家の川端裕人氏も、PTAの未来像を書かれています。ご紹介します。

   『みんなのPTAを探して』ブログ版 第18回 カワバタ私案を発表します

rve83253 at 18:06|PermalinkComments(18)TrackBack(0)

2008年05月24日

『PTA任意加入』論についてのtoshi的考察3

721a900e.JPG つい先日、『わたしにも、だんだん、PTAの未来像が見えてきた。近いうちに記事にさせていただこうと思う。』と書かせてもらった。

 しかし、その前に、一つ、ふれさせていただきたいことがある。


 それは、『PTAは任意加入であるべきか。』という問題。今日は、そのことについて述べてみたい。

 今のわたしは、これに賛成する気持ちが強い。『任意加入であるべき』と思う。しかし、初めてこれを聞いたときは、正直、驚いた。それは、ほんの数ヶ月前のことだ。

 拙ブログを通し、お世話になっている、作家の川端裕人氏の

 『みんなのPTAを探して』ブログ版 ?任意加入?が前提ってホント?

を拝読してからだった。


 ただし、『任意加入』の対語として、『強制加入』という言葉が使われていることについては、違和感をもった。

『自動加入だろう。』

 わたしにとっては、35年間の教員生活を通して、強制という感覚を抱いたことはなかったし、PTAに入りたくないという声を聞いたこともないし、みんな、『子どもが入学すれば、当然PTA会員になる。』と、自然に受け止めていると思っていたからである。


 川端氏のブログを読ませてもらって、納得できた。

『そうか。役員や委員の就任をめぐっては、いやなのにやらされるという状況のなかで、トラウマになっている方もいらっしゃる。』

 そううかがえば、かつて自分が勤務した学校に、そういう方はいなかったと思うが、そう言い切る自信はない。

 
 そのようなわけで、わたしとしては、自動加入の方がしっくりくるが、しかし、強制加入という状況があることも理解できた。



 それでは、いよいよ本論だが、まずは、長い教員生活のなかで、この自動加入の問題になんら違和感を抱かないで来た、その理由を述べてみたい。

 そして、その次に、それなら、今なぜ、任意加入に賛成するのかも述べたい。



1.自動加入に違和感を抱かなかったことについて


 話は、高校生のころにさかのぼる。昭和34、5年のころだ。

 社会科で、労働組合の学習をしていたとき、ユニオン(クローズド)ショップとオープンショップを知った。組合員になるには、自動加入と任意加入の二方式があるということだった。それは、そのまま、組合と雇用主との関係を示すものでもあった。つまり、ユニオンショップにおいては、解雇と組合離脱は同義であった。

 当然、ユニオンショップの方が、組合としては強力である。


 かつて、日本が発展途上にあったとき、組合はユニオンショップが大勢だったのではあるまいか。思想、信条、行動の自由(つまり、この場合は、組合に入る入らないということ。)を言う前に、待遇改善、賃上げ要求が、雇用される側にとっては重大、切実な問題だったからである。

 組合としてまとまることに必然性があった。


 ごめんなさい。ちょっとPTAからはなれてしまっていますが、もう少しおつき合いください。



 わたしには、民間歴があることはすでに何度か記事に書かせていただいたが、その会社には、組合がなかった。会社が組合設立を認めなかった。だから、給料こそ、大企業並みを約束されていたが、それ以外の待遇にはひどいものがあった。たとえば、朝、出勤すると、突然、そのまま、一週間会社に泊り込みの仕事を命ぜられるなどということもあった。

 教員として採用されたとき、辞令交付式で、ものすごく驚いたことがあった。組合の執行委員長も来賓として壇上にいらしたのだ。そして、挨拶も述べた。

 忘れもしない。

「教員として、辞令をいただいたその瞬間から、皆さんは、組合員にもなられました。おめでとう。」
「よき教員は、よき組合員でもあります。」

挨拶のなかには、そのような言葉もあった。


 今は違いますよ。わたしの勤務した学校にも、非組合員はいましたから。


 わたしは、執行委員長が壇上にいることには驚いたけれど、挨拶の内容に対しては、上記、会社での経験もあったし、高校のころ学んだ知識もあったから、自然に受け止められた。これこそ、まさに、強制加入だが、当然そうあるべきという認識だったのである。

 ちょっと、ごめんなさい。わき道にそれ過ぎですが、誤解のないようにふれておきたいことがあります。今、日教組が目の敵にされる風潮がありますが、わたしが所属した学校はすべて卒業式で国旗(日の丸)を掲げ、国歌(君が代)を歌っていましたよ。他方、教員のストがはなやかだったときは、ストにも参加していました。そういう意味では、ごくふつうの組合だったと思います。



 さあ。お待たせしました。PTAの話に戻します。


 PTAに、『ユニオンショップだ。いや。オープンショップだ。』そのような概念はない。第一、雇用関係にあるわけでもない。

 ないが、上記のような経験をし、思いをもっていたわたしとしては、組合とPTAは、似た存在のように思われた。

〇日本が貧しかったころ、そして、発展途上にあったころ、組合の、待遇改善、賃上げ要求は切実であり、まとまることへの欲求は強かった。

 それは、PTAに関しても言えたのではないか。PTAにとっては、『児童・生徒の教育環境を少しでも改善するため』行政に物申すためには、まとまっていた方がよかった。
 その思いは切実なものがあったと思われる。


 当時、わたしは子どもだったから、よく分かる部分もある。

 ほんとうに劣悪だった。

 学校には図書室もない。プールもない。校舎は雨漏りがする。二部授業が行われる。・・・。そのほかにもたくさん。

 
 もう一つ。まとまっていた方がいい理由。

 自分たちで、教育環境を改善してしまおうとする動きも強かった。わたしが通学した小学校も、地域・PTAの尽力により、図書室ができたのだものね。


 そのあたりのことは、冒頭に紹介させていただいた川端氏のブログにくわしい。

   『みんなのPTAを探して』ブログ版 エキサイティングなPTA史

 

〇それがいつのころからか、PTAに関しては、市民から、『学校施設の改善が、寄付金やPTAのお金によってなされるのはおかしいのではないか。義務教育は無償であるべきだ。当然公費でなされるべきであろう。』と言われるようになる。

 行政側も余裕が出てきたからであろう。その声に応えるようになっていく。


 組合も同様だ。賃上げ要求が実り、生活がある程度改善されるようになると、それまでかくされていた、思想・信条の自由や行動の自由を求める声が強まっていく。

 市民も、労働争議に対して、同情の思いをもつのではなく、批判するようになっていく。


 以上、まとめると、

 わたしが教員として採用されたころも、

 PTAの役員や委員のなり手が少なくて、選出に苦労はしていたが、

 PTAが自動(強制)加入であるのは必然で、そのこと自体に疑問を抱くPTA会員はほとんどいなかったのではないだろうか。

 わたしの認識としても、組合への意識と相まって、PTA自動加入はきわめて自然に受け止められたのである。



2.今、任意加入に賛成することについて


 成熟社会と言われる今の日本。

 人間として、最低限の生存にかかわる要求は一応なくなった。今や、飢餓や住宅難、子どもの劣悪な教育環境などにあえぐ時代ではない。

 そうなると、利害の共通性も薄まるし、まとまる必然性は弱まる。多様性を認めてもやっていけるからである。

 そうしたなかで、人間が、より人間らしく生きようとする欲求(多様性を求める欲求)が強まっていく。


 さあ。そうすると、PTAのマイナス的な部分がやたら気になるのは、当然と言えよう。

 やりたくないのに、無理やりやらされる。
 多忙でとてもできないのに、やらされる。
 活動がマンネリ化していて、果たして子どものためになっているのか。
 学校からの注文がやたら多い。やって当然という姿勢には、まいってしまう。
 組織上部の言っていることは、わたしの思いとは違う。

 やる意味が見いだせないから、こういう声は強まる。


 この声に、行政、学校は、どう応えるべきか。

 答えは見えている。

 かつて、義務教育の公費負担を求める声に応えたように、

 今は、多様性を求める声にも応えなければいけない。

 そう、思う。



 最後に、

 もう、本日の結論は述べさせていただいたから、これで終わりにしてもいいのだが、一つ、新たな問題提起をしたい。


 まず、労働組合サイドの話だ。

 今、契約社員、ニート、パート雇用、名目だけの管理職などが問題となっている。格差社会と言われるなかで、劣悪な雇用環境が復活してしまったかのようだ。

 こうした時代に、組合に所属するしないの自由を認めっぱなしにしていいのか。団結する必要はないのか。正規雇用されている者は、自分たちのことだけを考えていていいのか。

 思想・信条の自由とどう兼ね合いを見つけるか。我々雇われる側も、考えなければいけないのではないか。


 他方、こうした思いをもって、PTAサイドを語るとどうなるか。任意加入でいいか。

 きわめて、わたし的な話に、おつき合いいただけたらありがたい。


 わたしは、拙ブログにおいて、『教育のあるべき姿』を語り続けている。それは、『子どもの幸せとは何か。』『より人間らしく生きるための人間づくりはどうあったらよいか。』

 『子どもが主人公の学校づくり』『子どもが自ら学ぼうとする授業のあり方』などを通して、子どもの幸せを見つめている。

 つい最近、記事にさせていただいた、『壮大な実験!?』で言わせてもらえれば、細部において異存はあるものの、大筋においては、犬山的教育行政を求めている。


 さて、きわめて夢のような話だが、わたしには、こういうことについて、PTAが一致団結して、国、行政に、物申してくれたらいいなという思いがある。

 かわいい子どものためだもの。

 子どもを受身にしていい訳はない。お客さんにしていい訳はない。

 受験がすべてのような風潮があるが、そんな社会の打破を訴えてほしい。人間が人間らしく生きていかれない世が続いていいわけはないではないか。



 いかがでしょう。唐突に思われましたか。

 そのようなことは、教育の専門家であるtoshiたちがやればいいではないかと思われましたか。

 でもね。

 わたしは、受益者主権論者なのです。教育の受益者である子ども。ならば、その保護者(国民と言ってもいい。)が、教育について主体的に語るのは大事と思っているのです。わたしたち、教育のプロはそのために奉仕する(わたし的に言わせてもらえれば、ブログで広く訴える。)。

 それが大切と思っているのです。


 今のところは夢だけれど、でも、夢が少しでも正夢に近づくべく、これからも、がんばっていきたいと思う。

 PTAが教育改革を訴える主体者となるのを夢見て。


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 最後は、『PTAの任意加入を認めないかのような論調になったではないか。』と受け止められる向きもあるかもしれません。

 でも、それは違います。

 簡単に言えば、一人ひとりの大人が主体的に生きてこそ、子どもの主体性を求めるようになるのだと、そう理解しています。(ずっと、組合と共通するとして書いてきましたが、ここにきて、組合とPTAの違いが浮き彫りになってきたと思います。)

 くわしくは、未来のPTAを語るなかでふれさせていただきます。

 それでは、皆様の主体的な1クリックをよろしくお願いできればと思います。

    『PTAと学校(11) PTAの未来像は、』に続く。  

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2008年05月19日

PTAと学校(10) うれしい話2題4

a654972d.JPG 先に、アンケートの問題点なる記事を掲載したところ、この記事に掲載させていただいたPTA役員(ごめんなさい。ほんとうは、会長さんです。)さんから、再度、メールをいただいた。

 とてもうれしくなる内容だった。


 一つ目は、先に引き続いてのアンケートの話題。

 二つ目は、これはもう、驚いた。わたしも経験がない。新しい時代の幕開けを感じさせた。

 

その1


 まずは、いただいたメールからご紹介させていただこう。


 ブログ拝見しております。ありがとうございます。

 まだ、原案の段階ですが、校長先生と協議の上、『戦略的アンケート』なるものを実施することになりました。これが、toshi先生のおっしゃる、『切実な思いをもっている方の声を引き出すアンケート』にあたるのではないかと思います。

 つまり、行事開催の是非を問うのではなく、いかに一人でも多くの保護者に意識をもってもらうか。意見を出してもらうかのアンケートを行うこととなりました。

 たとえば、

 今回はこのような行事内容でしたが、ご意見がありますか?
 また、どのような行事内容であれば参加したいと思いますか?

そのようなアンケートの内容にしたいと思います。また、ご報告させていただきます。



 いただいたメールは以上である。


 拝見して、うれしくなってしまった。

 第一、言葉がいい。『戦略的アンケート』

 心打たれてしまった。



〇アンケート自体が、ある一つの方向性をもっている。『このPTA行事をどう盛り上げていったらよいか。』そこに、焦点を定めている。だから、アンケートをとることが、単なる意向調査、意識調査ではなくて、アイデア募集というか、建設的、前向きな意見を募ることになる。

〇このようにすると、アンケートがアンケートの目的を越えて、PTA行事への参加意欲を盛り上げる役割ももつことになるだろう。一人ひとりが主体的に参加することも期待できる。もしかしたら、『どちらでもいいのだけれど、しいて言えば、こっちかな。』という意識だった者の参加意欲を盛り上げるという、そのような役割を果たすかもしれない。

 『戦略的』と言えるのは、まさにその点にあるのではないか。



 ただし、留意点はある。

 この会長さんのメールを読ませていただくと、PTA行事に参加した方々の声はおおむね良好だった。
 役員さんの期待通り、父親の参加が多かった。そして、参加した皆さんがこの行事を大変喜んでくださった。

 だから、このアンケートを通して、次年度の更なる盛り上がりが期待できる。

 そう思えることが、この種のアンケートを可能にする。


 もしだ。もし、行事への参加に負担感をもたれたり、行事の意義を疑問視する方が一定数いると思われたら、問題視されてしまうだろう。

 別な言い方をすれば、

 この行事開催前に、少数ながら、反対する方がいらしたという。その方が、このアンケートを見たとき、『どうして、行事開催の是非を問わないで、開催を前提としたアンケートをとるの。』とばかり、違和感なり、不快感をもたれたとしたら、やはり、このアンケートの是非が問われてしまうのではないかと思われる。

 
 この戦略的アンケートが、会員の皆さんの参加意欲をますます盛り上げるものとなるよう、祈念している。



その2


 再度、いただいたメールを紹介させていただこう。わたしが驚いた内容だ。


 今日は、男性2名が委員長・副委員長を務める委員会の第1回目の集まりでした。PTAが何たるかも知らなかった男性2名が、短期間に勉強して、保護者へ説明するのですから、大変なことだったと思います。

 でも、一所懸命がんばっていました!

 〜。

 昼過ぎに、仕事を休んで参加した副委員長とランチをしましたが、残業月120
時間の中、PTAを口実に仕事を休んでいるけれども、学校の様子、平日の地域の様子がわかって、はじめて自分の中でバランスとれていると実感している。また、職場でも、『PTA委員をやってみればと言っているんだよ。』ということでした。

 確かに、仕事人間は、学校も、平日の地域の状況も知ることは難しいことですの
で、ある意味、新鮮なのかもしれません。


 メールは以上である。

 

 時代は変わりつつあるなあと、もう、驚いてしまった。ほんとうはこういうことに驚いてはいけないのだけれどね。

 でも、やはり、驚いてしまう。

 少なくとも、男性2名がPTA委員会の正副委員長というのは、わたしは、そういう学校に勤めた経験がない。それどころか、聞いたこともない。

 次、

 自営業の方ならともかく、猛烈サラリーマンが会社を休んでPTAの会合に参加するという、こういうことも、わたしの頭のなかでは考えられなかった。

 しかも、『自分のなかで、バランスがとれている。』と実感するという、この言葉には感動すら覚えてしまった。

 客観的にみれば、この方の仕事量(この場合PTAの活動も含めて)は、大変なことになるだろう。

 わたしは、先の、『壮大な実験!?』の記事の犬山市教育長の言葉、『自発的に行う仕事に多忙感はないはずだ。』を思い出してしまった。

 しかし、そうは言っても、やはり、この方の、物理的仕事量を思い、『無理のないように。』と、祈らずにはいられなかった。


 もう一つ。

 このケースの場合、『会社の理解も進んでいるな。』と感じた。

 そう。

 これは、大きい。これが、日本の会社の意識改革につながっているのなら、『これからの日本は明るい。』と感じさせてもらった。

 少子高齢化解消にも、つながるのではないか。



 今、全国のPTAは、会員の方々の参加意識という意味で、変革期を迎えている。

 一口で言えば、PTAが参加を強制されるものであったり、マンネリ感ただようものであったりすれば、地域差、時期の差はあるものの、拒否反応がだんだん強くなっていくであろう。



 振り返ってみれば、、本シリーズを始めたきっかけは、

 PTAというものに大きな問題性を感じながら、PTA役員を務められているという、作家の川端裕人氏(拙ブログにリンクさせていただいています。『リヴァイアさん、日々のわざ』がそれです。そして、同氏ブログの左上サイドバーに、『みんなのPTAを探して』という別ブログがリンクされています。)からいただいたメールだった。

 同氏の『みんなのPTAを探して』を愛読させていただいたり、今回、一PTA会長さんとメールのやり取りをさせていただいたりするなかで、

 わたしにも、だんだん、PTAの未来像が見えてきた。

 近いうちに記事にさせていただこうと思う。


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ninki



 わたしが勤務した学校の教員から、今も年賀状をいただきます。

 今年の年賀状には、驚き、感動した一枚がありました。これも、先ほど同様、本来は、驚いたり、感動したりしてはいけないのですよね。それが、ふつうでなければなりません。


 何かと言うと、ある男性の教員です。

 この教員の結婚式には、わたしも出席させていただきました。大変幸せそうだったその晴れ姿が、今もよみがえってきます。

 奥様も教員です。

 この教員にお子さんが生まれたことは、わたしも風のたよりで承知していました。


 今年の年賀状。

「今、育児休業をもらっています。我が子の子育てを通し、新たな目でこれからの教員生活を考えることができそうです。」


 わたしたち、シニア世代からみると、時代は確実に変化、進化していると思わせるに十分でした。


 それでは、記事のなかの、猛烈サラリーマンに、また、育児休業中の男性職員にエールを贈る意味もこめて、上記バナーに1クリックいただければ幸いです。

『PTA任意加入』論についてのtoshi的考察 に続く。

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2008年01月28日

PTAと学校(9) 新しい時代のPTA4

6b496b1f.JPG 久しぶりの本シリーズである。

 このシリーズ(8)掲載以降も、何人かの方からメールをいただいた。いろいろ考えさせられた。

 メールをお寄せいただいた方、ありがとうございました。

 そして、思ったことは、

 PTAに対し、学校に対し、ほんとうにいろいろな方が、いろいろなご意見をおもちになっているということであった。その多様さに、驚かされたし、『これは、大変だろうなあ。』と思うことも多々あった。

 協調できない学校(校長)に対する不満、意欲のない会員への不満、逆に、強圧的な体制への不満などが挙げられていた。

 
 もし、こうした多様な考え方が、一つの学校で表明されたとしたら、・・・、

 たとえば、

 一方は、『やる気のない会員に意識改革を迫り、やらせよう。』とするし、他方は、『任意加入でいいではないか。』というわけだから、これは、もう、PTAは、内部から分裂現象を起こすであろうと、勝手なことを思ったりもした。


 でも、こうした事態は、あんがいあるのかもしれない。

 と言うのは、こうした多様な考え方が出てくるのが、新しい時代なのかもしれないと思うからだ。

 そうした今という時代、PTAは、どうあらねばならないか。それを考えざるを得なかった。



 これまでは、わたしは、校長という立場から考察していたことが多かったと思う。

 しかし、今回は、もと校長であったわたしだが、保護者の立場を慮りながら、『PTAをたばねる立場にある人は、どう動かなければいけないか。』を考えてみたいと思う。


 
〇自分が『こうあるべき、〜。』と思うことを、会員の思いを無視して、強く表明してはならない。

 自分と違った多様な考え方があることを許容する姿勢がほしい。そうでないと、多くが異なった意見を表明する可能性のある今の時代は、うまくいかないだろう。

 そして、逆に、広く会員の声を聞こうとする姿勢が大切だろう。

 

〇その上で、広くサービスすることに徹する。会員のために骨を折る姿勢が大切だ。もちろん、できる範囲でだ。無理なら、『声を聞き、やれる人に指示する。』だけだって、かまわない。


 
 一例を上げよう。

 学区の大部分が住宅地であるようなところでは、父親の参加はどうしても少ないのではないか。逆に、商業地域では、かなりの父親の参加が期待できる。

 これは、致し方ないことだ。

 まずはそれを是認する。そのうえで、どういうかたちが、より望ましいかを考える。多くの方が、会議等、休日や夜間の開催を望むのであれば、その方向で努力する。(その場合、学校も配慮する姿勢が大切だね。)


 
〇前例主義はやめた方がいい。あくまで、今のPTA会員の意識を重視すべきだ。

 そうか。会員の多くが、『前例主義でいこう。』というのであれば、それもまた、けっこう。



〇多数を尊重し、多数の意向で動く場合と、たとえ少数であっても、それを尊重していかなければいけない場合とがあることを認識すべきだろう。

 上記のようにいつ開催するかという点に関しては、多数の考え方でいくしかない。しかし、『任意加入であるべき、』という意見に対しては、たとえ少数意見であっても、尊重しなければならないだろう。


 『任意加入のようなことをしたら、活動が活発でなくなる。』『そのような勝手な意見は認められない。』という声も聞こえてきそうだ。

 しかし、それは、逆も言える。

・PTAに加入していたい人たちだけで活動した方が、うまくPTA活動が機能するのではないか。

・たとえ、加入者が少数になったとしても、いや、なったとしたら(そのようにはならないと思っているが。)、その規模での活動を考えればいいのではないか。それが自然というものだろう。

・それに第一、このことは、基本的に、人間としての生存権と言ったらいいかな。基本的人権にもかかわることだ。

・子どもに還元する活動なら、もちろん、どの子に対しても還元すべきであることは、言うまでもない。



 結論だが、

 個人的に、『今のうちのPTAは困った事態だ。』と認識したとしても、多くの方がそう思っていないのであれば、改革は望まない方がいい。

 単なる自分の思いの表明にとどめておいた方がいい。

 そうして、繰り返しになるが、淡々とした自分の思いの表明と、サービス的行動に徹する。

 そうか。もう一つある。

 日ごろの会員の活動への感謝の言葉だ。それもどう感謝するのか具体的であればいい。



 そして、ここが重要なのだが、


 そうした方が、結果的に、改革につながりやすいというものだ。もちろん、これは、『期待』であって、そうならなかったら、それもまたよしとして、淡々と行動することが大切である。


 対学校、対P連などの上部団体。これは正直のところ、むずかしい。

 特に、前者などは、わたし自身が、『PTAから要望を受けたとき、学校はどう動くべき〜。』ということは言えても、PTAを取りまとめていく方々に、こうすべきと言うのは、無理なことが多いだろうからね。

 どうしても言いたいなら、・・・、いや。これは書くのをやめさせていただこう。すみません。


 ただ、上部団体への対応などについては、上記のように、多数意見に従っていいのではないか。



 最後に、

 これは、メールでほとんどうかがっていないのだが、実は、地域との関係もあるのだ。


 地域のリーダーに協調的な姿勢があると、PTA活動もうまく機能する。この確率は大きい。


 地域のリーダーがほとんど力をもたないところもある。そういうところでは、住民は、個々、かなり意見を主張する。また、勝手な行動をとる者もいる。

 逆に、地域のリーダーがボス的に振舞うところもある。そういうところでは、住民は、言っても損とばかり、長いものには巻かれろという行動をとることが多い。

 どちらにしても、それは、そういう確率が大きいということだが、そういう地域のPTAは、うまく機能しないことが多いと思われる。


 おもしろいのは、いや、おもしろがっては失礼だね。ごめんなさい。

 PTAを束ねる立場にある方が、自分の居住地の町内会長さんをまったく知らないというところもあれば、『よく知っていますよ。いつもお世話になっています。』というところもあるのだ。

 

 『地域とのかかわりも大きい。』が、現実的にどれだけ交流が行われているだろう。

 わたしは、会長と、地域の町内会などには、できる範囲で、積極的に参加した。

 学校としての要望をお伝えしたことも多々ある。PTAからも、少しはあった。

 こうしたことも、配慮いただけたらありがたい。スクールゾーン対策協議会などでは、お世話になるのだものね。



 最後の結論。わたしは、自分がいた学校を推奨するようで大変恐縮なのだが、かつて記事にしたものをあらためて紹介させていただきたい。

    開かれたPTA

 やはり、学校、地域も含め、お互いに協調的な姿勢を大切にしたいと思うのだ。

 そして、どのように時代は変わろうとも、やはり、PTAは、究極のところ、『よりよい子どもの成長のため』にあるのだものね。

 PTAが分裂していれば、それは、子どもにも伝わるであろう。大人のそうした姿を見て成長していくという事態は、やはり、避けたいと思う。


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ninki



 ほんとうに、PTAというものは、学校それぞれです。それぞれが個性的です。

 校長としてのわたしの願いは、『会員同士、親和的雰囲気に満ちたものにしたい。』ということでした。

 常に、『今は〜の状況だけれども、それより一歩向上すればよい。無理はしない。』を念頭においていました。

 上記、引用させていただいた記事、『開かれたPTA』のように、そういう姿勢を貫いた方が、『いざ、動き出すと、すごい力を発揮する。』という経験もしました。

 『自分は淡々とした意見表明とサービスを心がけているだけなのに、まわりがわたしの思う方向に勝手にもっていってくれる。』

 そのような感じでした。


 それでは、皆様からいただく、この1クリックも、すごい力を発揮することがあります。どうぞ、よろしくお願いします。

   (10)へ続く。

rve83253 at 06:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年11月12日

PTAと学校(8) 引継ぎをめぐって4

8fc93597.JPG わたしは、『PTAと学校(6)』の記事で、『人は変わっても、PTA風土は、変わらないのだね。』と書いた。

多くはその通りだろう。4月当初、新役員は、『前の人がやっていた通りにやっていくのが無難。』と思うのではないか。

 しかし、そうはいかないこともある。

 PTA役員(会員)それぞれの考え方、お互いの人間関係などにより、人が変わると、がらりと雰囲気が変わってしまうこともある。

 ああ。そうか。

 それは、何もPTAだけではないね。人間社会、どこもそうかもしれない。



 今回いただいたメールのなかに、こういうのがあった。
 特に引継ぎのことを意識して書かれたわけではないが、わたしは、そのことに目が向いた。

『〜。運動会では、PTA役員の仕事もうまくまわり、我が子の出番を見ることもできました。今年の役員さんは皆協力的で、気持ちよく活動ができるとそれぞれが言っています。(去年は違ったようです。)
 当日、地域のボランティアの方もお手伝いして下さいました。熱心なので、申し訳ないというかありがたいというか、そんな思いでそばに行っていろいろお話をしました。9月、10月の休みは、いろいろなところに呼ばれるそうです。

 そんな話をしたのはいいのですが、一つ大失敗をしてしまいました。
 お孫さんが、小学生でいらしたのです。それなのに、お孫さんの出番を見ずに、ずっとお手伝いをしてくださっていたのです。そんなこととは露知らず・・・、わたしは我が子の出番を見に行っていました。お昼休憩をとっていただこうと話をしていて初めて分かったのです。
 昼からはリレーだけだったのですが、見に行っていただきました。ちょっと照れて、『孫の運動会を見るのは初めてだ。』と言ってくださいました。

 連携のむずかしさをあらためて思いました。PTA役員、地域のボランティアの方個々には連携がとれても、相互の連携がうまくとれないのです。何しろ運動会当日だけの繋がりでもあるので。

 PTA役員も毎年メンバーが変わりますしね。教頭先生も今年赴任された先生なので、要領がわからずばたばたしていてちょっとかわいそうでした。』

以上である。


 読者の皆様は、どう、お考えであろうか。いろいろな考えがあるだろう。

 わたしが、想像するに、

〇PTAは、学校とだけ連携がとれても、それだけではダメね。地域のボランティアの方がいらっしゃるのなら、そういう方とも連携がとれなければいけないわ。そのためには、年度初めの引継ぎをしっかりやらないとね。

〇PTAって、そこまで気を遣わなければいけないの。それって、学校の仕事ではないかしら。PTAの会員には、いろいろな考えの人がいるのだし、毎年、そのようなことまで気を遣わされたら、なりてがいなくなりそう。

 そして、両者のあいだには、いろいろな考えが位置づくであろう。


 『toshiはどういう考えなのだ。』と言われそうだね。

 わたしは、学校側として、次のように考える。

 これは、やはり、本来、学校が気を遣わなければいけないことだろう。まさに、教頭の仕事なのではないか。

 そして、学校としては、あるがままのPTAを尊重する。

 やっていただけるのなら、それこそ、自主的、主体的にやっていただく。そして、感謝の思いを忘れない。当日は、じゃまにならないように、そっと見守る。

 そうした活動に違和感をおもちなら、無理にお願いはしない。学校には教頭をはじめ、教務主任、それに、調理員、用務員などもいるのだから、そういう職員を動員してやれるだけやる。

 そういうことになるのではないか。


 今、PTAが、毎年、主体的、意欲的に、こういうことに取り組んでくださる学校だったとしよう。

 その場合は、引継ぎが重要になってくる。しかし、それでも、問題はある。

 上記、メールをくださった方は、こんなこともおっしゃっていた。

 『引継ぎもなかなかむずかしいですね。
 あまり詳細にわたってノートに書き残しておくと、次年度の人がそれを快く思わず破棄したなんてことも聞いたことがあります。わたしは、残すべきだと思いますけれどね。
 運動会のときも分からないことだらけでした。『去年はどうだったのかなぁ』と疑問にあがったところは、皆で参考データとして記録を残すことにしました。来年の人が同じことで悩まないように。』

 いくら、PTAは主体的にと言っても、破棄というのは穏当ではないね。まあ、いろいろな事情、感情があったのだとは思うけれど。

 だから、学校管理職は、日ごろから、『無理なく、できる範囲で、〜。』と、よく言っておく必要がある。そして、あくまで自然体で、どこまでやってもらえるのかの確認をしておかなければいけない。

 『去年はこうだったから、今年も、〜。』とお願いするのは禁句だ。『去年までは去年までのこと。今年は今年の皆さんができる範囲で、〜。』を、態度にも行動にも示しておくこと。それが大切だろう。

 なお、引継ぎは引継ぎ。これはどういう事情があろうとやっていただく。そうでないと、学校は当然PTAがやってくださると思っていることを、PTAの方はまったく認識しないまま、抜け落ちるなどということも起きてしまいそうだ。


 ここで話をまったく変えるが、

 どうも、従来、学校は、いろいろとPTAがやるのは当たり前。学校に協力するのは当然。そういう意識が強くあったのではないか。
 また、多くのPTAは、そういうものだとし、『やらなければいけない。』あるいは、『やらされている。』という意識になってしまったのではないか。
 それは、どうも、一部、今も引き継がれてしまっている意識なのかもしれない。

 しかし、それは違うのではないか。

 以前から拙ブログでも言っているように、『個性の尊重』が叫ばれる時代となった。一人ひとりの意識、考え方は尊重されなければいけない。いろいろあるのが当たり前なのだという認識になる必要がある。
 そうでないと、今後、学校とPTAとの齟齬は、ますます拡大するように思えてならない。

 学校管理職は、どうしても、自分が若かったときからの意識が抜けないようだ。しかし、保護者のものの考え方は時代とともに変わる。それを受け入れる姿勢がないといけないだろう。


 あと一つ。

 多くの場合、PTAの会員お一人お一人は、組織として動くことの素人、議決することに関しての素人、記録をとることの素人、・・・、そういう方々の集まりだということに気づいていなければいけない。感情的になることもあるだろうし、話し合いが這い回ることもあるだろうし、行き違いが起きることもあるだろう。

 あっ。そうか。失礼しました。それは、教職員集団だってあるよね。

 学校は、『それは、PTA内部のこと。』として、PTAの主体性を尊重することも大事だが、臨機応変、話し合いの進行役、調整役をかってでたり、PTAが受け入れてくださる土壌があれば、あるべき姿を示すことも必要になる場合があるだろう。

 それとは逆に、PTA会員のなかには、その道のエキスパート、専門家がいらっしゃる場合もある。その場合は、その方から学ぶ姿勢も大切だ。
 わたしも、教頭時代、帳簿のつけ方など教わったことがあり、それは大変、ありがたかった。


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 むかし、わたしの勤務した学校のPTA会長さんが、しみじみとおっしゃっていたことがあります。

「わたしは、これまで、個人事業主としての仕事しかやってきませんでしたので、組織として動くことが、初めての経験なのですね。
 それはすごく新鮮です。
 そして、みんなで考え合うとか、そのうえで、よい方向を目指していくなどということに、すごく魅力を感じています。
 PTAをやらせていただいて、とてもいい、人生勉強になっています。」

 その謙虚な姿勢に、心打たれたものでした。


 今、思います。

 このわたしは、逆かもしれません。個人事業主と言っては大げさなのですが、このブログはまさに個人事業。とても新鮮です。いまだにそうですね。

 こうして毎日、1クリックをお願いするのも、現職時代にはなかった気分の高揚があります。今日も、お願い、・・・、できますか。

   (9)へ続く。


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2007年11月05日

PTAと学校(7) PTAは任意加入か!?4

15e23f6a.JPG 川端氏とお会いするまで、わたしは、PTAの任意加入など、考えたこともなかった。問題意識すらなかったと言えよう。

 
 今、ここで、川端氏がこのことで主張されているブログにリンクさせていただきます。

  みんなのPTAを探して 第2回 任意加入が前提ってホント?


 強制(自動)加入についてのお話をうかがうと、・・・、

「我が子が入学したからといって、保護者は申し込み手続きもせず、自動的にPTA会員になるというのは、民主的ではないですよね。」
とのことだった。
 そう言われれば、わたしの日ごろの考え方からして、『当然、任意加入だよな。』とならざるを得ない。

 そして、なぜこれまで、こんな大事なことを考えもしなかったのだろうと、忸怩たる思いになった。


 しかし、申し上げたい。

 もしわたしの勤務した学校で、『任意加入』の問題が浮上していたなら、当然そのときは真剣に考えただろう。そして、わたしは、自分の考えを押し付けようとはしなかったに違いない。


 さて、ここまで述べて、しばらくは、『任意加入』の問題と離れてしまうのだが、・・・、すみません。

○ ある学校に着任したとき、『PTAは機構改革しました。今年度からは、学年学級委員会と校外委員会しかありません。あとは、やりたい人がいたらやるということです。』との話をうかがった。

 わたしは、、『ああ。やりたい人がやるというのなら、この学校のPTAでは、広報紙は発行されなくなるのだな。』と覚悟した。やるもやらないも自由としたのだから、それなら、やりたい人などいないだろうと、勝手にそう思い込んだ。

○ また、その記事には書いていないが、その学校に着任したとき、前校長からの引継ぎで、
「この学校のPTAは、かわっているのですよ。『学校教育に対してPTAとしては、一切協力することはできません。』と宣言されてしまっているのです。だから、ふつうはあるPTAの学校援助費はまったくありませんし、行事などの折も、PTAの支援を期待することはできませんから、よろしくお願いします。」

 そりゃあ、驚いたのなんの。そんなPTAは初めてだ。しかし、そう言われてしまえば、覚悟するしかない。

 そのつもりで学校経営をスタートさせた。

 そう。そして、いったん決断してしまえば、それなりに、特にこまることもなく、学校教育は円滑にすすんだ。


 でも、半年もたたないうちに、新PTA役員さんから、
「校長先生。わたしたちにもやれることはやらせてくださいよ。」
と、言われるようになった。
「えっ。いいのですか。前校長から、〜のように言われていたものですから、PTAの皆さんにお願いするわけにはいかないと思っていたのです。」
「それは、昨年度の話ですよ。今年は、もう、皆さん、何とか、学校のために、そして、子どもたちのために、やれることはやらせていただきたいと、みんな、張り切っているのでから。」
「・・・・。それは、それは、どうもありがとうございます。それでは、教頭先生と相談の上、お返事しましょう。ほんとうにありがとうございます。」
 

 そう。『活動なし』が当たり前と思っていたから、もう、感謝の言葉は自然に出た。


 今回、川端氏と、久しぶりに同校を訪ねた。

 とても、印象的なことがあった。

 これはわたしの時代に、PTAの方から申し出があったのだった。
校長先生。フェンスの下が殺風景ですよね。それで、『あそこに草花を植えたいわね。』っていうことになりましてね。・・・。やらせていただけますか。」
「ええっ。それは、それは。・・・。ありがとうございます。・・・。でも、無理なさらないでくださいね。やれる範囲でけっこうですから。」
 しかし、土がよくないせいか、多くは、根付かないで枯れてしまった。そんななか、土を入れたり、育ちやすいものを選んだりして試行錯誤しながら、やり続けた。

 今回、学校のフェンスの下を見ると、ささやかではあるが、草花が見事に咲き連なっていた。ああ。あの取組は、ますます持続、発展しているのだなと思い、とてもうれしく思った。

 そう。我がPTAは衰退するどころか、水を得た魚のように、いきいきと発展しだしたのである。


○PTA活動って、基本的には、楽しいから、やりたいから、やるものだろう。強制されて、いやいややるものではない。
 別にいやいややっているわけではないが、給料をもらっているわたしたち教職員の仕事とは、基本的に異なるのだ。

○先に、わたしは、『PTA風土って持続するのだね。』と書いた。しかし、そのときどきの、学校教育(校長)への信頼度、あるいは、一人ひとりのPTA役員の個性などによって、劇的に変わることもありうる。それは、あっていいし、それ以前に、あるのが当たり前だろう。

○多くのPTAでは、引継ぎのとき、『うちのPTAは、毎年、これこれを行うことになっています。だから、よろしくお願いしますね。』そういう話が出るだろう。それはかまわないが、でも、メンバーが替われば、新メンバーお互いの納得の上で行われるべきであって、納得できないなら、やめるのもよし、逆にさらにやりたければやってもよし。
 
 そのような、自由な雰囲気が大切になってくる。



 さて、話を、任意加入の話に戻そう。


 第一点目。

 どうだろう。るる述べてきた上記記事と、『ひらかれたPTA』の話は、実質的に、任意加入同然と言えないか。

 やりたい人が、やりたいことをやるのだから、無理やりということはない。
 やりたい人が集まらない活動は、当然やらないことになる。あくまでやれる範囲でやりましょうということだ。

 公然と語り合ったことはないが、その延長線上には、『やりたい人が皆無なら、PTA活動はなくなります。』も視野のうちにあると思う。

 でも、まあ、それはそれとして、一般論に移ろう。

 第二点目。

 お子さんの入学時、『わたしは、PTAには加入しません。』と宣言されてしまったとしよう。それは、もう、学校としては認めざるを得ないのではないか。説得することはあっていいだろうが、事実上、加入してもらう手段は、学校にはない。
 これは、上記、『学校教育に対してPTAとしては、一切協力することはできません。』と宣言されてしまったのと、軌を一にしていると言っていいだろう。

 学校としては、それを受け止めた上で、『PTAって、楽しそうだな。』『加入するといいことがありそうだな。』と思ってもらえるよう、学校としてできることをがんばる以外にはないだろう。

 こういうことを書くと、『PTA未加入の方がいると、学校としてはこまりますか。』という質問をいただきそうだ。

 これだけでは何とも言えない。PTAがあったって、PTA内部で、派閥というか対立関係があれば、これは、学校としてはかなりこまる。公平に対応しているつもりでも、相手方は、公平とは見てくれない。『やれ。学校は、A派に味方するのか。』とか、『B派に肩入ればかりする。』とか言われ、非常に苦労する。

 PTA未加入の方がいようと、皆さんが和気藹々としているなかなら、別段、学校がこまることはないのではないか。

 第三点目。

 第一点とかかわるが、『任意加入としたら、多くのPTAはなくなってしまうのではないか。』については、

 わたしは、基本的には、この心配は要らないのだと思う。現に、わたしが赴任していた学校では、任意加入ではなかったものの、いわば、任意な活動ではあったわけで、
 そうなると、かえって、PTA活動は活発になった。

 第四点目。 

『PTAの配布物などは、未加入の子どもには配らないのか。そうしたら、子どもがいじめられることにもならないか。』

 これはもう、未加入であろうと、配布物は配る。そういう了解が、双方から得られれば、格別の問題ということもないだろう。
 そうか。得られないかもしれないね。その場合は、・・・、まあ、方法はいろいろあるだろう。

 第五点目。

 ただ、お子さんの入学時、学校、または、PTAは、『加入は任意ですよ。』と言った方がいいと思う。『任意ですが、皆様が積極的に入ろうというお気持ちになるように、努力しております。』そういうことではないか。



 いろいろ述べてきたが、最後に、・・・、

 川端さん。ごめんなさい。
 
 わたしは、川端氏がおっしゃる『強制加入』という言葉は使いたくない。これまで、自分の勤務校において強制した覚えはないし、また、それを問う声もなかった。だから、わたしの認識で言わせてもらえれば、それは、『自動加入』というのがふさわしいのではないか。

 でも、全国的に見れば、強制加入もあるのかなあ。


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 読者の皆様には、違和感をもたれること覚悟で申しますが、わたしは長い間、わたしたちの組合など、『利害を共有するものは団結する。団結してこそ、その力をフルに発揮できる。』と考えていました。そして、PTAも、そういう組織と同列に見ていたのです。

 この考えは、日本が発展途上のときには、ある一定の説得力を持っていたと思います。人間、豊かになりたいですからね。

 しかし、物質的に、『もうほしいものは特にない。』などと言われる時代になると、個性の尊重が叫ばれるようになりました。もう、団結する必要性は弱くなったのです。

 これからのPTAは、任意加入が前提になっていく予感がします。そして、『それこそが、楽しく、やりがいのあるPTAへの近道なのだ。』という意識になっていくのではないでしょうか。

 それでは、今日も、強制クリックではありません。任意のクリックではありますが、それだけ、情熱のあふれたクリックを、よろしくお願いします。

   (8)へ続く。 

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2007年10月29日

PTAと学校(6)4

70012139.JPG 本シリーズも6回目を迎えることになった。

 ここで、一つ、お詫びをしなければならない。このタイミングでは、ちょっと遅きに失した感もあり、申し訳なく思うことがある。
 

 まずは、言い訳をお許しください。

 わたし宛に寄せられたメールを拙ブログの記事に使わせていただくとき、そのご了解をいただくことはもちろんだが、その方のお名前などについては、基本的に守秘義務があると思い、すべて、匿名扱いさせていただいてきた。

 また、自分のブログも匿名で運営させていただいていることから、お相手のことも配慮する必要性を感じてきた。


 ところが、

 ご自分がすでに、お名前を公表され、雑誌等に記事を連載されている場合はどうか。わたしは、このことについて深く考えなかった。

 わたしは、この方が雑誌にPTAにかかわる記事を連載されていることは、当初から分かっていた。

 その方が、わたしにメールをくださった。

 深く考えず、こういう方まで匿名にしてしまったのは、かえってそちらの方が失礼だったのではないか。そういう思いになった。

 今、あらためて、その方、及び、読者の皆様にお詫びを申し上げたい。

 どうも、申し訳ありませんでした。


 そこで、ご紹介させていただきたいと思うが、

 
 その方は、作家の川端裕人さんだ。同氏は、今、婦人公論に、『みんなのPTAを探して』を連載されている。
 


 同氏から寄せられたメールで、これまで記事にさせていただいたのは、

 第一回の、『学校の本音としては、PTA活動など、ない方がいいと思っているということはありませんか。』
 第五回の、『保護者は、PTAの存在意義を、保護者の意見を学校に伝えることに見いだすようです。会員歴の浅い人ほどそう信じているように思います。』
の二点だ。

 ただし、第五回については、同氏お一人の思いということではない。まだ、他にも似た質問、感想をお寄せいただいた方はいらっしゃった。


 同氏は、『リヴァイアさん、日々のわざ』なるブログも運営なさっている。今回、本記事でのご紹介を機会に、『婦人公論』ともども、リンクさせていただいた。


 このブログでは、ご自身のPTA体験、取材を通して分かったことやそれについての思いなども記事にされている。


 そして、実は、このわたしも、取材を受けた一人だ。

 同氏が、わたしにメールをくださったのは、拙ブログの『ひらかれたPTA』をご覧になったのが、きっかけだったらしい。

 『こんなPTAもあるのか。』と、驚きとともに、感動の思いを伝えてくださった。

 それで、実際にお会いしたり、メールをやり取りしたりするなかで、同校へ取材に行くことになった。その日は、わたしも同行させてもらった。

 いずれ、この日のことも、同誌の記事になるだろう。楽しみにしている。


 実は、今回、同校へ取材にうかがって、わたし自身も感動したことは、・・・、

 上記拙ブログ記事は、もう、10年前のことである。
 いくらなんでも、もう、校長も、わたし以後、2度変わっている。PTA役員は毎年のように変わっているだろう。もしかしたら、PTAの機構だってわたし以前に戻っているかもしれない。そんな思いでいた。

 しかし、そうではなかった。

 機構は、そのまま続いていた。
 わたしのころの方がお一人、今も、広報の仕事をなさっていた。再会がとてもうれしかった。

 わたしのいたころ同様に、あるいは、それ以上に、PTAはなごやかだった。よくまとまっていた。楽しくて仕方ないといったふうだった。

 わたしは、それをとてもうれしく思った。人は変わっても、PTA風土は、変わらないのだね。持続発展するのだね。


 さて、最後に一言。

 わたしのブログと同じテーマがいくつか、同氏によって、婦人公論にも書かれると思う。
 しかし、一方は学校の側から、もう一方はPTAの側から書かれるわけだ。双方を読み比べていただければ、おもしろいのではないか。

 同じ点や違う点が明確になるだろう。そんな感じでお読みいただければ幸いである。


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 今回は、川端氏の紹介が中心で、PTAと学校における問題点等は、とり上げませんでした。

 しかし、次回は、川端氏ご指摘の、『PTAは、任意加入なのではないの。』をとり上げたいと思います。

 川端氏からのご指摘をいただく前は、わたし自身考えもしなかったテーマです。

 それでは、上記バナーのクリックも任意ではありますが、どうか、よろしく、お願いします。

  (7)へ続く。


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2007年10月22日

PTAと学校(5)3

bf203fe4.JPG いただいたメールをもとにしての、PTAシリーズである。

 このシリーズを始めて気づいたことだが、保護者、PTAの方々の本音を知ることが何回もあり、おもしろいなあと思ったり驚いたりしている。

 退職してわかっても、もう遅いよね。あとの祭り。苦笑いだ。

 ただ、こういうことは、地域性があるなあと、つくづく思うしだい。

 たとえば、すでに、記事にしたことだが、

 『学校は行政の出先機関』などとは、考えたこともなかったからね。



 今日は、
『保護者は、PTAの存在意義を、保護者の意見を学校に伝えることに見いだすようです。会員歴の浅い人ほどそう信じているように思います。』
をとり上げたい。


 これも、地域性を感じる。我が地域の保護者、PTAの方で、こういう思いをもつ人はほとんどいないだろうと思う。

 PTAが、学校に物申してはいけないとは言わない。そういうことはあっていい。あっていいが、それが、最大の意義かと言われれば、わたしは首をかしげる。

 やはり、PTAと学校(1)で書いたように、PTAの存在意義の一番は、
『保護者同士、また、保護者と教職員が連携することによって、よりよい子育てのために、情報交換をしたり、学び合ったりするもの。』
となるだろう。


 『物申す』ということに関して言わせてもらえれば、本来、どういう立場であれ、学校に物申してかまわないはずだ。一保護者だって、地域だって、市民という立場だって、もちろん、PTAだって、学校はその意見を受け止め、これも何度も言うようだが、『できることはとり入れ、できないことはなぜできないかの説明をさせていただく。』必要がある。


 学校(校長)のなかには、古い体質を引き継ぎ、

○ 係りに直接言ってください。
○ 正式な機関を通した考えですか。

などという場合もあるらしい。

 しかし、これも変だ。

 係りなどというものは、あくまで校内の組織であり、それは、外部のものまでしばるものではなかろう。
 第一、係りは、学級担任である場合が多いから、だいたいは授業中だよね。
 まず、教頭がうかがって、それを、教頭が、係りに伝えるということでいいはずだ。もちろん、校長が承ったってかまわない。

 また、この場合、正式な機関とは、PTAを指すのだろうが、・・・、

 そうか。学校がこういうことを言うから、
『保護者は、PTAの存在意義を、保護者の意見を学校に伝えることに見いだすようです。』
となってしまうのだね。

 『うちの学校の校長は頑迷で、とても個人の意見を聞こうとしません。』などという声も、複数、いただいている。

 こういう学校の場合、校長は、『PTAは、学校の教育活動への協力機関』と思っているようだ。

 ああ。かたや、学校への協力機関。かたや、学校へ物申す機関。これでは水と油だね。


 しかし、もう今、事実上、たとえ個人の意見であっても、受け止めていかざるを得ない時代になっていると思うのだが・・・。違うかなあ。

 
 一つ目、

 学校評議員制については、これまで、何回もとり上げてきた。

 地域・PTA(保護者)・学校が一体となり、協力し合って、学校の教育活動について話し合い、『おらが学校』を盛り上げていこうとするものだ。

 もっとも、次のようなメールもいただいている。

「学校評議員制について調べてみましたが、わたしたちの地域では、今、まだ、モデル校を設置して取り組んでいる段階のようです。うちの子どもが通う学校にはまだありませんでした。」

 そうか。まだ、過渡期にある地域もあるのだね。でも、だから、物申せないということでもなかろう。


 二つ目、

 外部による学校評価制度も始まっている。これは、それこそ、もれなく全地域で行われているだろう。年数回、学校の教育活動について、アンケートが配られているのではないか。

 これには、自由記述欄もあると思う。そこに日ごろ感じている提言などを書いていただければよい。それこそ、これなどは、一保護者の立場でしかないよね。

 もっとも、わたしは、これに反対の立場だ。
 何でも数値に置き換えても、効果は期待できないと思う。
 切実な声も、どちらかと言えばこうというくらいの声も、同等に扱われるからだ。

 日ごろ、保護者、地域の声に謙虚に耳を傾けていればよい。そう考える。


 三つ目、

 これは制度化されてはいないので、ない学校もあるとは思うが、ほとんどの学校がホームページを開設しているのではないか。このなかには、メール受付欄もあるだろう。それを通して、日ごろ感じている声を送ることができる。

 

 以上、るる述べてきたが、どうも、一つ目に書いた学校評議員制に象徴されるように、今という時代は混沌としていて、過渡期なのかもしれない。だから、遠慮して物申さずといった傾向がある一方で、逆に、何でもありという感じもする。

 早く、一定の常識、節度というものが生まれるといいなと思う。



 繰り返しになるが、PTA活動の原点は、やはり、子どもの幸せのためだろう。そのためには、PTA会員の相互理解、融和とともに、学校との協調関係が望まれる。


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 本記事は、PTAと学校(3)と、かなり記述が重なったように思います。

 しかし、切り口が異なるのだとご理解いただければ幸いです。

 『そうは言ってもねえ。』『なかなか言えないわよね。』という声も聞こえてきそう。

 でも、言わないと始まらないというのもほんとうですよね。

 各地域の実情に合わせ、がんばっていただければと思います。

 何か煮え切らない結論のようですが、すみません。どうぞ、1クリックいただければ、うれしく思います。

   (6)へ続く。

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2007年10月06日

PTAと学校(4)4

e350d74d.JPG PTAと学校シリーズ。いただいたメールをもとにしての第4弾である。

 これまでとり上げてきたものは、

 (1)は、『校長先生にとってのPTAとは、どういう存在でしょう。』
 そして、(2)は、『校長の目が、子どもではなく、地域・PTAの方を向いてしまっているということはないか。』
 さらに、(3)は、『校長の権限強化と学校経営』


 今日は、引き続き、『学校は、行政の出先機関か。』という質問をとり上げたい。


 質問の要旨は、

「うちの子が通う学校の校長先生も、何かと、PTA活動に干渉してきます。そして、二言目には、『学校は行政の出先機関という側面をもつのだから、PTA活動も、その制約を受ける。何をやってもいいというものではない。』とおっしゃいます。これについて、toshi先生はどう思われますか。」

 この質問には驚かされた。

 と言うのは、わたし自身、『学校は行政の出先機関』などと思ったことは、一度もないからだ。


 出先機関と言ったら、○○出張所とか、○○支所とか、そういうものを思い浮かべる。住民の利便性、住民へのサービスを考え、本庁の仕事の一部を出先にゆだねるといった、そんな感じだ。


 学校もそうか。

 とんでもないと思う。

 学校は、『子どもの教育』という、大事な仕事にかかわっている。そちらの方で、頭はいっぱいだ。
 だから、『行政』などと思ったことは、・・・、まず、ない。

 そうか。学校も行政の一翼を担っているのか。退職した身で言うのもおかしいが、今になって初めて知った。

 そんな感覚である。


 ああ。ごめんなさい。このタイトルは、『PTAと学校』だったね。

 その方のメールでは、『だから、校長先生は、PTAが、校長の意向に沿わない活動をするのを、恐れているようです。』ともある。

 わたしは、意向に沿うも沿わないも、PTAが活動を計画、実行している段階で、意向を示したことはない。・・・。ないと思う。
 PTAには、自由に活動していただいた。その活動を見ながら、お礼や感謝の言葉を述べた。そこに、『校長としての思い』を示したことはある。

 だから、わたしには、『恐れる』という感覚が分からない。よそでの、『行政』って、一体何なのだろう。


 行政の要請を、学校が受け止めたり、場合によっては、PTAに伝えたりすることは、ふつうにあっていいだろう。それはそう思う。

 今、『行政の要請』と書いた。しかし、これは、法的な根拠をもっていれば、『指示・告知』となるだろう。それも同様でいい。

 わたしの現職時代にしても、行政からの、『要請・指示・告知』などは、何度もあった。たとえば、PTA活動では、『家庭教育学級』。地域の活動では、『土曜塾』。そうした要請はあった。そして、すすんで協力してきた。


 しかし、そうであるなら、学校とPTAが一体となり、行政に要望することも、ふつうにあっていいことだと思う。

 現に、このわたしは、スクールゾーン対策協議会の意向を受け、PTA会長とともに、行政に陳情に出向いたこともある。

 でも、よそで、『恐れる』というからには、こうしたことはありえないこと、あってはいけないことなのかな。でも、それでは、子どもを守れないこともあるのではないかな。


 いろいろ思うが、よそでは、教育委員会と学校の関係が、上意下達のみとなっているのかな。学校や、地域や、PTAが何かをいうということは、あってはいけないことなのかな。

 もしそうなら、これは、その地域の教育委員会の体質なのに違いない。

 教育委員会が、『学校は行政の出先』と言っているのではないか。もしそうなら、校長は、子ども、保護者、地域ではなく、行政の方へ顔を向けてしまうことにもなりかねない。

 ことによったら、今、教育現場で起きているさまざまな問題も、こうしたことに起因しているのかもしれない。

 だったら、分かる。分かるが、とても、賛成はできない。



 我が地域の教育委員会は、そのようなことは言わない。聞いたことがない。


 現職の校長に会う機会があったので、聞いてみた。

「そうですねえ。わたしにしても、出先などと思ったことは、ないですねえ。」
「わたしもそう思う。そんなこと、教育委員会も言わないよなあ。」
「ええ。・・・。そうですね。・・・、でも、他部局から教委にきた人のなかには、言う人もいますね。」
「ああ。そうか。他部局ね。」
「でも、そんなことを言う人に対しては、校長たちはしらけますよね。冷たい反応を示すでしょう。『何、言っているのだ。』ということで、雰囲気がとたんに悪くなります。」



 話は変わるが、教育再生会議は、教育委員会の改革を打ち出した。そのなかには、国の権限強化もうたわれていて、これは法制化された。

 しかし、わたしは思う。国までそんなことをしたら、ますます上意下達になるのではないか。そうすれば、校長はますます恐れるようになる。でも、それではいけないね。


 以前も記事に書いたが、再度書こう。

 教育委員会の制度、教育の地方分権に問題があるのではない。問題がある地域があるとすれば、その地域の教育委員会の体質にこそ、問題があるのだ。

 
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 すみません。『教育委員会の制度、教育の地方分権』に、問題はないと書きました。しかし、それは、今日書いた意味においてです。

 教育委員の公選制など、改革の必要性はかつて記事にしたことがありますし、教育の地方分権を確立する方向での改革の必要性は強く感じています。

 それでは、今日も、上記バナーの1クリックをよろしくお願いします。

  (5)へ続く。


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2007年10月02日

記事の見直し4

08f6aba2.JPG いろいろメールをいただいています。感謝しています。ほんとうにありがとうございます。


 最近、次のようなメールをいただいた。

『〜。先生のブログは、更新が頻繁なのに、間違いがなく、分かりやすく、この点でも、読む人のことを考えていらっしゃるのだなあと感じています。〜。』

 このようにおっしゃっていただき、またまた感謝している。


 でも、どうして、どうして。やはり間違いはあるのだ。見直しはしているのだが、気づかないのだね。そういうときは、ほんとうに申し訳なく思うし、恥ずかしくなる。



 話はえらく変わるが、中学生のときだった。もう、50年近くむかしのことになってしまった。でも、強烈に覚えている。

 漢字テストがあった。100点間違いなし。自信があった。ところが、返ってきたテストは、98点。
 どうしてだ。バッテンを見ても、『これ合っているのに。』と、納得できない。だから、先生に言いに行った。

 話を聞いて、『あっ。』と思った。


 恥ずかしかった。冷や汗がどっと出た。
 でも、そうした経験をしたからだろう。これはもう、その後間違えることはない。


 それはね。

 建物の『はかい』を、『破戒』と書いてしまったのだった。正解は、『破壊』だよね。



 教員になってからも、穴があったら入りたい気分になったことがあった。間違いが間違いだけに、参ってしまったのである。


 学級だよりだった。

 もっともこれは、校長提出後ではあったものの、配布前に自分で気づいたから、その点はよかった。出してしまった後だったらと思うと、『ほんとうに気をつけなければ。』と思ったしだいである。


 それは、学級のみんなの心持ちを書いていたのだった。『ほうようりょくがある』と言いたかったのだが、何と、『抱擁力』と書いていたのである。正解は、もちろん、『包容力』。

 もっとも、これ。手書きの時代だからこその間違いだね。パソコンでは、こんな変な熟語は出てこない。


 逆もある。パソコンを使っているからこその間違いだ。

 もともと日本語には同音異義語が多いと言われるが、同音似義語(ごめんなさい。こんな言葉はありません。)だと、つい見逃してしまいがちになる。最近使った言葉で言えば、『移動』と『異動』などだね。
 パソコンは自分で書いていないだけに、ほんとうに気をつけなければ。



 またまた、話は変わるが、今、『PTAと学校』シリーズを載せている。

 これも、いただいたメールをもとに記事にしているが、案外あるのが、『PTA広報紙など、PTAが出す文書に対して、校長の事前のチェックがきびしい。』というものだ。
 これなど、わたしには不思議でならない。


 PTA会長名で出す文書である。責任を負うのは会長であり、校長ではないはずだ。

 『事前に見せてもらうこと』が必要ないとは言わない。学校運営にかかわる部分もあるからだ。

 でも、そういう場合でも、修正を申し入れるくらいのことではないか。『学校運営上こまる』事情を説明し、理解を求めるということだ。少なくとも、文章を直したり、誤字脱字を点検したりすることは、PTA内部でやることだと思う。

 わたしの場合は、『配布前に見せてください。』とお願いはしたし、そうしてもらったが、誤字脱字のたぐいは、発見したときに、『これは、こうではないですか。』と指摘した程度だった。
 だから、まるで校長の職権であるかのように振舞うのはよくないと、わたしは思う。


 もっとも、わたしも、一回だけ、強く出たことがあった。それは、職業差別につながりかねない記事があったときだった。これは、もう、『人間』という立場で削除をお願いした。

 
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 校長以前は、校長に提出し、見てもらいましたから、ゆったりとした気分でいられました。しかし、自分が校長になってしまうと、これはもう、誰も自分の文をチェックしてくれません。

 『校長先生。これは、こうではないですか。』と言ってくれるケースもありましたが、その場合、相手は、申し訳なさそうに言ってくるものですから、『ああ。迷惑をかけてしまったな。』と思います。

 それだけ、自分で自分にきびしくしなければいけないと思うようになりました。

 でも、申し訳ないことに、このブログでは、そこまでの緊張感はないようです。もし、誤字、脱字のたぐいを発見されたら、よろしくお願いしますね。


 では、今日も、自分の記事が少し心配なわたしに、『愛』のクリックをよろしくお願いします。


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2007年09月24日

PTAと学校(3)4

21c01313.JPG これまでいただいたメールをもとに、PTAと学校との問題について考えているが、今日はその第3弾である。


 今日の質問は、

 「現校長になってから、学校との距離が開いてしまったように思います。子ども、保護者から信頼を集めていた先生が転勤させられたり退職に追い込まれたりして、逆な先生が、どんどん出世していきます。toshi先生は、こういう状況について、どう思われますか。」

 ほんとうはもっと具体的に書かれているのだが、ここであまり具体的に書くのもね。
 

 この問題は、むずかしい。人事のことは、ほんとうにむずかしい。

 この方のメールを読ませていただくと、かなり具体的なので、『ああ。学校(校長)に問題があるなあ。』と思えるのだが、一般的には、主観的で、事実はどうなのかという思いになることが多く、論評のしようがないことが多い。

 

 そこで、ここでは、心底、学校に問題がある場合として、書いていきたいと思う。


 かつては、『希望と承諾の原則』と言って、一校在職期間ぎりぎりでない限り、本人の了解なく転勤させられることはなかった。多くの地域でそうだったと思う。

 しかし、近年、『校長の権限強化』が叫ばれ、教員本人の了解がなくても、校長の方針によって、異動させることができるようになった。これも、多くの地域でそうなっていると思う。

 そうなのだが、現状はどうかというと、一方では、旧来の、『希望と承諾の原則』を重視する校長もいれば、『権限強化』だとばかり、ワンマン的に振舞う校長もいるということだと思う。
 ただし、この次元の話だと、地域差はかなりあるのではないかな。


 わたしは、『どちらも違う。』と思う。

 基本的には、学校運営の全責任は校長が負うのだから、校長の権限強化そのものには賛成だ。少なくとも、校長の人事権が多分に形式的だったという旧来のかたちは、おかしなものだったと思う。(『学校民営化?(2)』という記事を参照してください。)

 これは、異動の話ではないが、かつて、どなたかのブログに載っていた。
『学級担任等、学校組織の決定のほとんどが教職員の手ににぎられている結果、威勢のいい教員がいつもいい思いをし、おとなしい教員がいつも損な役回りとなる。』
全国的に見れば、そのようなケースもあるようだった。

 他方、いただいたメールにあるように、校長がワンマン的に振舞うというのも、問題だ。恣意的、好悪による人事が行われるのはよくない。

 権限強化の時代とは言っても、勝手気ままでいい訳ではない。校長がそういう学校運営をすれば、間違いなく学校は危うくなる。そうなったときの責任は、これまでになく大きなものと言えるだろう。



 そのためのチェック機能がある。地域・PTAは、この機能をうまく生かしてほしい。(とは言っても、今の時期言えるのは、たぶんに原則論です。)
 
○校長の恣意的な学校運営を正す(?)仕組みはある。学校評議員制外部による学校評価などである。

○また、これも校長の権限強化の具現化だが、校長が行う人事考課・査定がある。これも、恣意的、主観的にならないようなシステムが開発されている。

○これらの仕組みは、いずれも法制化されているのだが、国のPR不足か、まだ多くの市民、保護者は、知らないままでいるようだ。

○そして、わたしも、これまでブログ記事で、評価したり、批判したりしてきたのだが、これらの仕組み自体が、いまも、発展途上にある。まだまだ改良の手を加えていかなければいけない。

○また、後述するが、これらは、100%実施されているというわけではなさそうだ。

○さらに言えば、PTAが単独で、学校に意見具申してよいというわけではない。あくまで、校長が任命する学校評議員としての立場で意見具申するのである。この場合、まさか、PTA会長がメンバーに選出されないなどということはなかろうとわたしが考えて論述していることは、お断りしておきたい。

○でも、何より、PTAは学校と定例的な会議の場をもっているのであるから、事実上は、学校運営に対し物申すことが定例化してよいのではないかと、これも、わたしがそう考えるということである。


 
 従来、『PTAは、学校運営には協力はするが、口を出すことはしない。』が鉄則だった。

 しかし、以上述べてきたように、現在ではもう、これは通用しない。

 いや。通用しないどころか、

 先に、『人事のことは、口をはさみにくいテーマ』と書いた。

 しかし、上記、リンクした学校評議員制についての国のホームページを見ると、さらにすすんだ組織においては、『当該学校の教職員の任用に関して意見を述べる権限を持っている。』としている。

 人事についても、意見を表明してよいのだね。




 国は以上の仕組みを法制化した。しかし、〜、

 学校評議員制について、毎年、国の現状報告がある。そのホームページを開いてみたが、全国的に見た場合、学校評議員会の設置率は、80パーセント弱だった。
 もっともっと、これが設置されなければならないだろう。


 繰り返しになるが、

 ○学校運営について、積極的に意見具申しよう。

 ○制度の未熟な点についても、同様だ。

 ○校長の学校経営について疑問を感じたときも同様だ。



 
 もっとも、冷静なご意見をぜひお願いしたい。感情的にならず、建設的で、前向きな意見表明であってほしい。そうでないと、この制度は、発展、充実しないだろう。



 最後に、こういう時代だからこそ、言えること。

 かつて記事にしたことがあるのだが、管理職の降格人事もスタートさせなければならないだろう。今は、とり入れたところがあったとしても、あくまで本人の希望降格だ。

 今のシステムの必然として、そういう問題も起きてくると思われる。

 そして、早く、いろいろなシステムを正しく機能させて、『校長が、不合理、不条理な学校運営をしたら、学校は傾く。その場合、子どもが最大の被害者だ。』ということが市民の常識となるようにしたい。

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 管理職の降格制度についての意見は、すでに、教員査定の問題(3)の末尾に、記事にしたことがあります。
 
  それでは、今日も、1クリックをぜひお願いできればと思います。

  (4)へ続く。


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2007年09月20日

PTAと学校(2)3

a63635b3.JPG PTAと学校との関係について、拙ブログを通して、メールをいただくことがある。
 そのメールをとり上げての記事は、すでに一回書かせていただいた。

      PTAと学校(1)



 今日は、本シリーズの2回目。

『校長の目が、子どもではなく、地域・PTAの方を向いてしまっているということはないか。』
というご指摘について、考えてみたい。


 この方のメールによれば、

 どうも、学校評議員制度がとり入れられてから、校長の目の方向がおかしくなったのだそうだ。

 それまでは、子どもの方を向いていた。学校も秩序だっていた。しかし、この制度がとり入れられてからというもの、だんだん、校長の目は、地域・PTAの方を向くようになり、子どもがなおざりにされる傾向になったという。



 どうしてそうなってしまったのだろう。

 わたしは、学校評議員制度を評価している。
 地域住民主権の象徴として、地域・保護者・学校の三者が一体となり、子どもを育むというように、積極的にとらえていたから、いささか、驚いた。


 ここで、これまで、学校評議員制についてふれたことのある記事をリンクさせていただきたい。

     平成18年9月28日  定見(4) 学校評議員制度
     平成18年11月4日  学校評議員制は機能しているか。
     平成17年12月8日  学校民営化?(1)


 わたしは、このメールの内容について、いろいろ考えをめぐらせてみた。そうすると、自分の経験で、やや心当たりのあることが思い出された。


 わたしの経験では、

 このPTA会長は、誰も、立候補、推薦者がいないなかで、『それなら、自分がやる。』と、自ら会長職をかってでた方だった。
 その方が、スクールゾーン対策協議会のとき、PTA校外委員会の皆さんから強く反対されたにもかかわらず、自説を主張し通したことがあった。強引だったし、叱りつけるような調子もあったため、会議に参加していた方々は、ややしらけムードになった。

 そのときのことを思い浮かべたのである。

 このPTA会長は、学校の教育活動そのものに対して、いちゃもん(?)をつけることはなかったが、もしそうであって、校長が説明責任をうまく果たせないのであれば、メールをくださった方の学校と同じようになってしまったのではないか。

 そう思ったのである。


 つまり、一方に自説を押し通そうとする方がいて、もう一方に、弱気で流されることが多い校長がいたときに、お説のようになってしまう可能性が生まれる。


 もう一歩、論を進めよう。


 この場合、校長の目が、しっかり子どもの方を向いていないことは確かなようだ。


 前述の通り、本来学校評議員会は、子どもを育むことを目的として話し合われるべきなのに、子どもと離れたところでの議論が活発になってしまうのではないか。

 発言力があり、ボスのように振舞う人がいて、その人の発言の方向に議論が引きづられてしまう。
 校長もその方向に引きづられる。そして、それ以外のことはなおざりにされる傾向になってしまう。

 そういうことではないか。



 どうしたらいいのだろう。

 それは、まず、校長以下、学校が、学校経営方針をしっかりもち、それがどう実践に生かされているか、どういう現状にあるかを把握し、説明責任を果たすことができなければなるまい。

 地域・PTAの方々が関心をもっていることにはしっかり応えなければいけないが、それに引きづられてしまうのはよくないだろう。



 この方のメールによれば、『学校評議員制がないときの方がよかった。』とおっしゃっているようにも受け取れる。

 現象的に見れば、そういうケースもありうるのだろう。

 しかし、学校評議員制が生まれたから、悪くなったのではないはずだ。『学校評議員制がスタートしたにもかかわらず、悪くなった。』と考えるべきだろう。

 本質的なところで考えれば、地域・保護者・学校が一体となって、協力し合い、子どものために、力を合わせることはいいことに決まっている。

 その基本線は押さえた上で、問題があるなら、その問題を克服するよう、お互いに努力すべきであろう。

 校長の力量が問われるのである。


 ちょっと、メールの趣旨から離れてしまうかもしれないが、こういうことも考えられるのではないか。

 地域・PTAにまとまりがなく、『ああでもない。こうでもない。』と、いたずらに議論を繰り返してばかりいることはないか。また、話があっちこっちへとび、会議に参加した方は、それぞれが自分の都合のいいように、話し合いの結果を受け止めているといったこともありそうだ。

 そういう場合は、やはり、校長が会議のとりまとめ役、進行役などをかってでるようにしなければならないだろう。『そんなことまで、校長がしなければいけないのか。』と言いたくなる校長もいるかもしれないが、ここは、そうしないと、けっきょく、学校が、困難をかかえてしまうことになる。

 まとまりのない結果は、学校経営にはねかえっていくからだ。 
 

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 今日の記事はちょっと具体的に書けない部分が多すぎて、やや、精神論に傾いてしまったかな。
 申し訳ありません。

 それでも、1クリックいただければ、大変ありがたく思います。どうぞ、よろしくお願いします。

   (3)へ続く。


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2007年09月11日

PTAと学校(1)4

aab11d87.JPG ここのところ、読者の皆さんからメールをいただくが、そのなかに、PTAの立場から、学校の体質を問う声が少なからずある。

 わたしが在籍した学校のPTA活動について、また、それに対し、わたしがどう対応したかを何度か書いたので、それに関連したかたちでくださるのだと思う。

 
 そこで、ここに、わたしがこれまで、PTA活動に関連して記事にしたものをリンクしてみる。

    7月7日  子どもの安全を守る(3)通学路 地下道編
    4月16日 保護者の声に応えて
    6月30日 ひらかれたPTA


 さて、上記、いただいたメールだが、それらに共通しているのは、『学校不信』、それも、『校長不信』の念が強いことだ。



 わたしは思いたい。

 多くの学校はそのようなことはなく、大いなる成果を上げているのだと。

 しかし、その一方で、まだまだ隠蔽体質だったり、何かとPTA活動に干渉したりする校長もいるようだ。
 自分の思い通りに学校経営しないと気がすまないような校長、PTAなどへの対応が不器用だとみなされてしまう校長、校長の目が子どもより、地域・PTAの方に向いてしまっているのではないかと思われている校長、そのような例が挙げられていた。

 いずれにしても、PTAと学校との不協和音が聞こえてくるような内容だ。


 以上をふまえ、いただいたメールのなかから、強く印象に残ったものを、これから、数回にわたり記事にしていきたと思う。



 一回目は、『学校の本音としては、PTA活動など、ない方がいいと思っているということはありませんか。』というご質問に答えてみたい。


 どうも校長の対応を見ていると、いろいろな対応がめんどうくさそうだったり、PTA役員と会うのをいやがっていたり、そんな態度が感じられるというのだ。

 


 さあ、それでは、わたしの回答をどうぞ。



 この質問をいただくにあたり、まったく心当たりがないなどとは思いませんでした。わたしのまわりでも、ご指摘の点以外でも、学校の立場について一方的に理解を求めようとしたり、PTAに対し、何でも高飛車に出たりする校長はいました。

 基本的には、双方の信頼関係の構築が大事なのですが、そのためには、まずは校長が、PTAへ手を差し伸べないといけないのではないかと思いました。
 一方は仕事としての組織の『長』ですからね。

 ですから、PTAの方々に、マイナスイメージをもたれてしまうような対応をしたのでは、けっきょくは、学校も重荷を背負うことになりはしないかと、それを恐れます。


 ただし、そういう校長も含めて、たとえ本音の部分であっても『PTAなどない方がいい。』と思っている校長はほとんどいないと思います。

 PTAのない姿を想像すると、

 学校は、保護者にいろいろなことを連絡したり、お願いしたりしたくても、組織がないわけですから、保護者間の連携も取れず、負担はかなり大きなものになると想像されます。ある意味、PTAとしてまとまってくれていた方が、学校としては対応しやすい面もあるのではないでしょうか。


 しかし、そのようなことより、わたしが、本心思うのは、PTAって、『よりよい子育てをするために、お互いに情報交換したり、学び合ったり、まとまったりしていくもの。そういう意味で、なくてはならないもの。』と考えます。
 わたしの経験からしても、よくまとまり、連携のとれたPTAは、いきいきしていますし、連携もとりやすく、教職員ともよく意思の疎通が図れていますから、教育効果も上がるのですね。けっきょく、その成果は子どもに返っていくのだと思います。
だから、そういう意味で、PTAがない姿など、想像もできません。


 わたしは、ご指摘の校長の場合は、『こうであってはならない。』とか、『こうあるべきだ。』とか、いろいろ自分の思いが先行し過ぎ、校長の思う方向でないと、学校経営は立ち行かなくなると、本気で思っているのだと思います。
 学級担任だったとき、きっと教え込みをしていたのでしょう。『自分の思う方向でしか、うまくいくわけがない。』という信念をもっている場合もありそうです。
 また、PTAの言うことを受け入れていたら、PTAはどんどん要求をつり上げるなどと思っているかもしれません。

 むずかしいのは、不信感でいっぱいの場合は、現実にそういうこともありそうだということですね。悪循環ですね。


 わたしの場合は、これまでも折々に記事にさせていただきましたが、

○ PTAの要望はできるだけ前向きに受け止める。そして、できることは受け入れる。
○ できないことは、なぜできないかの説明をさせていただく。


 あくまで、PTAと学校は、対等の立場。わたしはそういう意識で、やってきました。一方は家庭教育、もう一方は学校教育を担当。車の両輪と同じです。

 対等ですから、子どもの主体的な学びを大事にするのと同様、PTAの主体的な活動も大事にしていきたいと思います。
 言うまでもなく、PTAは大人の集団ですから、こちらが意欲的な活動にしようなどとは思わなくても、当然いろいろやってくださっています。校長は、その、やってくださっていることをしっかり観察し、それへの感謝、お礼の言葉を言っていればいいのだと思います。

 その感謝、お礼。

 何に、どう感謝、お礼するかで、校長の方針が、PTAの皆さんに伝わっていくと考えます。

 教員についても、校長がこういう姿勢で臨めば、多くの教員は、PTAに対しても協力的になるはずです。

 わたしの学校の場合、PTAと教員との仲がよく、物事を前向きに受け止め、ときには、管理職を通さず決めてしまうので、
「おい。おい。そんな大事なことは、管理職にもあらかじめ伝えてくれよ。管理職が知らないままで話を進められると、あとのPTA対応で、『えっ。校長先生はご存じなかったのですか。』などと言われてしまうではないか。」
と、苦言を呈したこともあったくらいです。

 そんな感じでしたから、教員にしても、『PTAなどないほうがいい。』などと思うものはいなかったはずですよ。


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 今でも、当時のPTA役員さんとは、お付き合いいただいています。
「toshi校長先生は、わたしたちのやりたいようにやらせてくださいましたから、みんなとても楽しく活動ができたのです。」
 あれ。これ、以前の記事にも書いたかな。
 一部重複してしまいました。すみません。

 それでは、これも重複。毎度のお願いですが、上記バナーへの1クリックをよろしくお願いします。

(2)へ続く。


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2007年07月07日

子どもの安全を守る(2) スクールゾーン3

f8088cb3.JPG  『スクールゾーンへ進入した車によって、子どもの死亡事故が起きた。』との報道がある。

 お子さんにはなんとも気の毒で、あってはならない事故だが、この報道にはたぶんに誤解を招く内容が含まれているので、今日はそのことにふれたい。

 予想される誤解を勝手に想像するのだが、
『あら。うちの子どもが通う学校にもスクールゾーンはあるけれど、車の進入禁止のところなど、ないわ。』
と思われる方もいらっしゃるのではないか。
 スクールゾーンと車の進入禁止とが、まったく同義であるかのような報道なので、その点が気になったのである。


 全国のほとんどの小学校には、スクールゾーン対策協議会なるものがあるだろう。PTA、地域、学校で構成し、それに、行政、警察、土木事務所などが種々要望を受け止める側として加わる。

 通学路を中心として、子どもの通学の安全を守るための組織である。

 だから、上記、車の進入禁止措置を実施するか否かは、この協議会で話し合い、決定するのである。

 子どもの通学の安全だけを話し合うのなら、車の進入を禁止した方がいいに決まっている。しかし、地域住民には、さまざまな生活がある。当然利害がからむ。
 利害と関連して、危険度のチェックもあるだろう。
 したがって、必ずしも、それが決まるとは限らない。『地域の実情に応じて、〜。』ということになる。

 わたしが勤務した学校においても、これが実施されていた学校は、一校だけだった。それも、学校に近接する一本の道路だけだったのである。
 いざ決定となると、なかなかむずかしいものだ。


 ほんとうに、せまい道しかないところでは、わたしたち教員が、道路に立った。わたしたちが立つことによって、ドライバーはスピードを落としてくれるという面もあった。
 今は、PTA、地域の方々が立ってくださっているようだ。教員は授業準備という本務に専念できるから、これはありがたいことだ。



 ここからは、車の進入禁止にかかわる話ではなくなる。わたしが勤務した学校において、どのような話し合いが行われ、何が決定し、何が決定されなかったか、例示するようなかたちで書いてみたい。


1.PTA内部で考えが異なり、まとまらないこともある。

 ある人は、『歩道に電柱が立っていて、雨の日など、人がすれちがうこともできない。すぐ近くにもう一本あるのだから、撤去していいのではないか。』と考えるし、別な人は、『あの電柱があるおかげで、自転車はスピードを落としてくれる。だから、あってもよい。』と考える。

 多くの学校では、事前の打ち合わせが行われると思うが、このようなケースは、スクールゾーン対策協議会の議題にはならない。

 
2.行政、警察、土木などは、けっこう迅速に行動してくれる。

 『ガードレールが道路の横断を妨げている。かなり迂回しないと渡れないようになっている。そのため、ガードレールの手前から、車道を歩き出す人が多い。これは、大人がそうしてしまっているので、子どももまねする。だから、ちょっと一箇所だけでもはずしてくれるとありがたい。』

 この要望に対しては善処を約束し、半月ほどで撤去してくださった。
 その後、学校もきちんと、道路の歩き方について、子どもたちに指導したことは言うまでもない。

 信号機や横断歩道の設置の要望、取締りの強化など、予算面、人的な面での裏づけを要するものについては、なかなか要望通りいかない部分もあるが、やれることはけっこう迅速にやってくれるという感じをもっている。


3.警察から不満を言われてしまうこともある。

 「歩道橋設置の要望は、ここのところ、毎年のように出ています。そして、我々はなぜそれができないのかを毎年のように説明しています。それなのに、今年もまた出てくるのは、どういうことなのでしょう。」

 なぜ、こう言われてしまうのだろう。

 多くのPTAでは、改善要望を、校外委員会といった組織がまとめていると思う。そして、この組織は、毎年、構成メンバーが変わる。引き継ぎはなされているものの、新しいメンバーにしてみれば、やはり、警察の話を直に聞いてみたいと思うのだろう。その結果ではないか。

 こういう場合は、わたしのような立場のものが、とりなしの発言をする。
「昨年は地権者の問題があり、歩道橋設置は無理とのことでしたが、今年の要望には、それにくわえて、『なお、こういった点ではどうなのだろう。やはり無理なのだろうか。』といった点もあります。警察の方には、そうした面からもご検討、ご回答いただけると、ありがたいのです。」


4. すべて、行政、警察、土木などが対象になるとは限らない。

 あるお店のドライブスルーが危険であり、『登校時刻は、ドライブスルーだけでいいから、営業を停止してほしい。』という要望が出された。

「これは、わたしたちがお答えできることではないですねえ。スクールゾーン対策協議会がお店に申し入れたらいかがですか。」
と、行政の答え。

 そこで、スクールゾーン対策協議会会長とわたしとでお店に出向き、店長さんに申し入れを行った。
 店長さんは、『分かりました。わたしにも小学生の子どもがいます。できるだけ前向きに検討しましょう。ただし、営業時間の短縮は、店の一存で決められないことになっておりますので、本社の方に伝え、できるだけ早くご回答できるようにします。』

 そして、お客さんに周知してもらう期間を設けた上で、次々月より、実施してくれた。これなど、販売実績が落ちるわけだから、ほんとうにありがたかった。

 お店からの要望もあった。
『学校がこよみと違う休日を設けた場合は、それをお知らせいただけませんか。学校の休日は、ドライブスルーも営業する日としたいのです。』
 それで、毎月、学校だよりをお届けするようにした。



 以上、この、学校ごとに設置されるスクールゾーン対策協議会は、『けっこう権限がある。』というのが実感である。行政、警察、土木も、真剣に対応してくれる。そして、できないものについては、なぜできないのかを説明してくれる。



 最後に少し話を変える。

 今回、『スクールゾーン』を検索にかけて、いろいろ調べてみた。やはり、『これは、かなりあいまいな概念だな。』ということが確認できた。

 スクールゾーンを、歩行者用道路のこととしているものがある。これはまさに、冒頭の車の進入禁止措置のことだろう。これはすでに誤解であることを述べた。

 また、保育園、幼稚園、学校を中心に、おおむね半径500メートル以内としているものもある。
 わたしの解釈もほぼこれに近い。つまり、市街地では、ほとんどすべてがスクールゾーンなのだ。その範囲が、交通安全への取組についての検討可能な地域ということになる。

 また、わたしの勤務校の多くの保護者は、スクールゾーンは通学路のことととらえていた。『通学路を中心として』であって、通学路に限定してはいない。
 また、逆に、通学路であれば、500メートルを超えていても、検討可能な地域ということができる。
 なお、通学路ついては、今後もふれたい。

 以上、これらが混同され、いろいろな意味合いで使用されている状況がある。

 
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 わたしにはわからないことですが、

 今、全国各地で、学校選択制がとり入れられています。こうした地域では、遠距離通学がふえていることでしょう。
 今後、ますますそうなっていくとすると、通学の問題は、複雑さ、困難さをましていくのではないでしょうか。

 気がかりな点です。

 それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。


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2007年04月16日

保護者の声に応えて3

1ae163c2.jpg  今、『学校だよりへの想い』シリーズを掲載している。

 ここでは、学校だよりが、信頼関係構築のための一手段として、有力な役割を果たしていることを述べている。

 
 わたしは、これとは別に、ずっと前から、『信頼関係の構築』にかかわって書いてきたことがある。

 それは、・・・、

 『(保護者、地域からの要望は謙虚に受け止め、)できることはとり入れるが、できないことはなぜできないかの説明をさせていただく。』

 しかし、その具体的事例は、これまであまり書いてこなかったように思う。


 そこで、今日は、その、ほんの一例だが、上記の言葉に焦点を当てて記述してみたい。



 多くの学校は、防災訓練の一環として、保護者による子どもの引き取り訓練を実施しているのではなかろうか。

 我が地域において、この訓練のやり方は、幾多の変遷を経てきた。


 阪神淡路大震災以前は、ふつうに引き取り訓練を実施していた。

 しかし、この大震災を契機に、学校が避難所になることとなった。
 そうなると、保護者に引き取って下校してもらうのは、震災直後の危険な町、ライフラインが止まった町に家族を追いやることになってしまう。
 こうした考察の結果、児童を学校に留めおく方が、児童の安全上も大事ということになった。
 保護者には学校に来てもらい、子どもを引き取った後は、そのまま学校で過ごすという想定の方が実際的となった。

 だから、引き取り訓練は不要だ。むしろ、学校が避難所になることを想定した訓練の方が実際的である。
 避難所になる学校ごとに、地域主体の、『防災拠点運営委員会』なるものを組織し、その委員会が主体性を持って訓練を実施するようになった。(この訓練の詳細は、本記事の趣旨から外れるので、ここでは割愛する。)

 そのようなわけで、我が地域では、だんだん引き取り訓練を実施しない学校がふえた。わたしの学校も、実施しなかった。ただし、台風などの場合に備え、地区班ごとに教員が付き添って、保護者への引き取り場所まで集団下校する訓練は行っていた。



 そのような状況のとき、PTA役員さんから言われたのである。

「うちの学校は、保護者による引き取り訓練を実施していませんね。しなくていいのでしょうか。地震や台風のときの備えが必要に思うのですけれど。」

 それで、わたしは、説明責任を果たすべく、上記の内容を話した。さらに話したことは、

○ かつて、引き取り訓練を実施していたとき、訓練のある日は勤めを休み、自宅待機していた保護者が大勢いた。これは、学校行事に協力してくださるという意味ではありがたかったが、実際地震が起きたときを想定した場合は、意味がないと思った。地震はいつ起きるかわからないからだ。

○ 実際に地震が発生したときは、すべての保護者が引き取りに来るまで、学校は子どもを預かる覚悟である。その際、学童保育所とも連携する。

○ 実際に大地震があれば、電話は不通になる可能性が高い。とても連絡網など使えない。それに、その場合は、連絡などなしで、子どもを引き取りに来るはずである。だから、訓練をやる意味がない。

○ 実際に、この2ヶ月くらい前、台風が接近してきたので、緊急連絡を回し、引取りに来てもらったことがあった。そのときは、訓練はしていなかったにもかかわらず、保護者の皆さんの協力を得て、時間はかかったものの、まあまあ整然と引き取っていただくことができた。


 これで、引き取り訓練を行わない訳を納得してくれると思った。説明責任は果たしたと思ったのである。

 ところが、違っていた。PTA役員さんは、なおも食いついてきたのである。

 「校長先生がおっしゃることは、よく分かります。確かに、訓練は、意味あるものにするよう、反省を踏まえ、検討を重ねていかなければなりませんね。
 でも、今のように、訓練すらないのでは、親のなかには、『地震など、もしもの場合はどうするのかしらね。学校へ引き取りに行くのかしら。』と不審に思っている人もいるのです。
 学校は、『年度当初に文書を出している。』とおっしゃるかもしれませんが、そんなもの、読んでも忘れてしまいますし、なかには読まない親もいるのです。
 こういう場合は学校へ引き取りに行くこともあるのだと、身体で覚えてもらうためにも、地域の防災訓練とは別に、引き取り訓練をやる意味はあるのではないでしょうか。
 地震は突発的に起きるのだから、親がいないかもしれないのは仕方ないですけれど、訓練をしておけば、台風などある程度予測がつくものについては、出歩くのを控える親だってふえると思いますよ。」

 うううんと、うなってしまった。


 確かにその通りだ。思い出したことがある。

 わたしの養母は、阪神淡路大震災のとき、テレビ報道などで、実家の家族が心配になり、お茶を湯飲みに入れられなくなった。入れようとしても、手がふるえ、ほとんどをまわりにこぼしてしまうのだった。

 そのようなとき、『あっ。我が子を引き取りに学校へ行かなくっちゃ。』と思ってもらえるかどうかは大きい。
 そのようなとき、細かな手順が訓練と違うかどうかは、たいした問題ではないだろう。まさか電話がかかってくるのをじっと待っている親はいまい。

 役員さんが納得してくれるかどうかの次元ではなく、わたしが納得させられることとなった。


 すぐ、教職員に事情を話した。教職員も理解してくれた。そして、その年から、引き取り訓練を再開することにした。

 さて、ここで、本記事は終わりにしてもよいのだが、・・・、二つだけ。



 まず一つ目。上記の、台風接近時、集団下校訓練しかしていなかったにもかかわらず、引き取りをお願いしたときの事情にふれよう。

 各クラスのPTA学級委員さんに電話を入れた。
 しかし、多くの保護者は、まさか、引き取り依頼の電話が入るとは、思っていなかったのだろう。台風接近はわかっていながらも、多くの保護者が家にはいなかったのである。

 それは学級委員さんの家庭とて同じ。そのため、なかなかつながらなかった。次、次もいないからその次といった具合だった。

 おまけに、学校に電話は2回線しかないから、かけられる職員がいても、常時電話できるのは2台のみ。
 しばらくたってから、わたしはあることを思いついた。そうだ。わたしの携帯も使おう。

 ちょうどそのときだ。学校のそばにお住まいの方が、数人駆けつけてくれた。
「校長先生。わたしたちも電話をかけましょう。」
「3年生まではすんだのですね。じゃあ、わたし、6年生の方からかけます。」

 ああ。2回線が、4回線にも5回線にもなった。ありがたかった。涙が出るくらいうれしかった。保護者が、学校になり代わって、各クラスに電話を入れてくれるのだもの。


 電話を入れている最中、早い方の引き取りはもう開始された。その様子を見て、事務の先生がつぶやく。

「校長先生。今日は給食が大量にあまってしまいますね。」

 そうか。そうだな。でも、これはもう、子どもの安全のためには、仕方ないこと。

 引き取りは、かなりの長時間に及んだ。給食のさいちゅうに引き取りにきた保護者もいる。もうそのときは、暴風雨状態になりかかっていた。でも、保護者の判断で、親子で給食を食べてもらったケースもあった。

 最後の引き取りは、やはり、下校時刻のころになってしまった。それも致し方なかっただろう。

 すべての子どもの引き取りが終わったとき、ほっとして、疲れがどっと出た。
 と同時に、さまざまなご協力をいただいた保護者の皆さんに対し、ありがたい思いでいっぱいになった。
 給食にしても、給食前に帰った多くの家庭、それとは別に、親子で給食を食べた家庭、そのようにばらついたわけだが、それに対する不満、苦情などは、一件もなかった。そのこともありがたく思った。

 また、後でわかったのだが、在宅のPTA校外委員のお母さん方のなかには、自分の子どもを家に帰した後、暴風雨の中、長時間、要所要所に立ち、自分の担当する地区班の子どもがちゃんと下校をしたかどうか、見届けてくださった方もいらした。


 それやこれやで、翌日、わたしは、『お礼』と題した文書を保護者宛に配布したのだった。
 そうしたら、後日、
「校長先生。すごいですね。長い間小学校にお世話になっていますけれど、お礼だけの文書など、初めていただきました。」

 お礼状に、お礼を言われてしまった。


 二つ目。

 上記、PTA役員さんの提言に従い、引き取り訓練を実施してから、思ったこと。

 もとより、地震にしても台風にしても、その様態は一様ではないだろう。いろいろな場合が想定できる。だから、訓練は訓練としても、実際そのような緊急事態が起きたときは、その様態にあわせて、臨機応変に、対応を考える必要がある。

 現に、台風接近時の、『教員が付き添って集団下校をする。』訓練は、以前から実施していた。
 それなのに、いざ本番となると、それはできないことに気づかされた。

 家にいない保護者も多くいるのではないか。その場合は、鍵がかかっていて家に入れない子も出てくる。これから暴風雨になるというのに、それでは児童の安全が図れない。かわいそうだ。だから、保護者に迎えに来て、引き取ってもらうことにしよう。そう決断した。

 以上、いざというときは、臨機応変さが大切。しかし、だから、訓練が必要ないということはできない。

 当たり前のことが確認できたという、恥ずかしい結論を得た。

  
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rve83253 at 07:29|PermalinkComments(5)TrackBack(0)

2006年06月30日

ひらかれたPTA

fd3e185e.JPG  わたしがその学校に校長として着任したとき、もうすでにPTAの機構改革は決定していた。新しい組織でのスタート1年目の年だった。

 それまでは、4月、各学級でPTA委員の選出をする際は、なかなか選出が困難だったそうだ。

 そこで、各学級から選出するのは、学年学級委員3名のみ。他に地区ごとに選出する校外委員。それだけ。
 あとは、やりたい人がやりたいことをやると決定したとのこと。それをサークルと称するが、5名以上そろえば届けだけで発足することができる。(PTA役員選出は従来通り)

1. やりたい人がいなければ、その組織は当然ない。
2. やりたい人は、お子さんが卒業しても、引き続き、参加することができる。
3. PTA予算からの補助については、児童に還元できるものだけは、補助を出すこともあり得る。

 
 わたしは、このことを知ると、はっきり言って、ショックだった。

1. 保健委員会がない。学校保健委員会など、法律にもとづいて実施するものがあるが、それへの参加体制はどうなってしまうのだろう。
2. PTA広報紙などは、どこの学校でも発行しているけれど、これはなくなってしまうのだな。
3. 趣味の活動が中心となってしまうのではないか。

 しかし、そんなことはなかった。PTA広報紙作成の有志を募ったところ、20名くらいが集まってきた。ワープロ、パソコンに明るく、得意としている人もいた。最初から、お子さんはもう卒業してしまった方も入っていたようだ。

 これは、児童というか、各家庭に還元できるから、初めから、PTA予算によって、運営されることが決まった。

 すばらしいものができあがった。熱意を感じた。

 最初はどの学校も、教職員の紹介を載せると思うが、『せっかくの教職員の顔写真が白黒では残念だ。』ということで、どなたかお一人が、おうちのパソコン印刷機を使い、12時間以上かけてきれいにカラー印刷してくださった。

 イラストの得意な方がいた。PTA会長の顔写真、いや、イラストは、毎号載った。それ以外にも、紙面構成、記事の内容など、ユニークで、読み手を引きつけるものがたくさんあった。こうしたことのプロもいらっしゃるのではないかと思われた。

 できたばかりの第1号を手にして、わたしの、PTA会長へのお礼と感謝の言葉は尽きることがなかった。

 当初の、『ショック』は、感動と喜び、信頼感に変わった。


 趣味の活動は確かに多かった。陶芸、粘土細工、絵画などなど。校内作品展では、PTAコーナーも設けられ、皆さんの作品も一角を飾った。

 これらは、PTA予算ではなく、ほとんどは私費だったようだ。

 だんだん人気を呼び、人や開催回数が増えると、校内ではとても無理となり、地域の施設を借りても行うようになっていった。

 先のPTA広報紙は、地域のコンクールにも参加。表彰される団体の常連となった。


 問題点もあった。

 先にふれた学校保健委員会には、各学級から選ばれた学年学級委員が交代で出席してくださったから、問題点は簡単に克服された。

 また、地域の小中学校が集まって開催されるPTA連絡協議会には、従来から多くの学校にあると思われる『保健、給食、広報、・・・』の部会があるが、本校はそれがないから、どのように参加体制をとるかが、けっこう困難な点と思われた。
 しかし、いざ、その時期になると、これも、学年学級委員が適当に割り振られるかたちで、自然に決まっていった。

 問題を感じたのはわたしだけだったようだ。

 
 上記、PTA連絡協議会では、本校の機構について、委員が説明した。質疑は活発に行われた。
 そして、多くの委員からうらやましがられた。その後、本校同様に機構改革するPTAが数校現れた。

 驚くべき変化が現れた。役員、委員の選出に当たっては、なり手の希望が多くなった。さすが、役員を自ら希望する方はいなかったが、候補選出は、だいたい1週間から、10日くらいで決まった。
 委員については、ジャンケンで勝ち抜いて委員になるクラスがいくつも現れた。
 人気が出て、各クラスから選出する委員は、4名でもいいことになった。

 皆さんの声を拾うと、
「PTA活動が楽しいとおっしゃる方がふえて、『それなら、やってみたい。』と思うようになったのではないでしょうか。」
「校長先生が、わたしたちの思いをよくくんでくださって、自由に活動させてくださるので、皆さん、とても張り切っているのですよ。」
「本校の活動の楽しさは、近隣校にも鳴り響いていて、皆さんから、うらやましがられています。」

 わたしだって、まったく自由にして何も言わなかったわけではない。人権的な内容でチェックさせていただいたことはある。ただし、それ以外では、誤字、脱字のチェック程度にとどめた。

 PTA広報紙は学校が出すものではないし、表記について、学校的な立場から、クレームをつける必要はないと考えた。

 
 最後に三言。

1.PTA活動は子どものためにある。しかし、楽しいことが一番だ。その楽しさは子どもにもひびいていくに違いない。

2.これまで、制度としての規制緩和を、何回か書いてきた。

 それに対し、これは、内なる規制緩和と言おうか。やればできるのだ。

3.当時の文部省の役人の講演を思い出す。

 「今、全国のPTAが、燃えています。自由にやりたいことをやりたい人がやるという、そういうPTAがふえています。それらに共通していることは、情熱的だということです。」

 まさにうちのPTAのことだと思った。そして、同時に、『ああ。こういうPTAが、全国的にふえているのだな。』そう思った。



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    PTAと学校(11) PTAの未来像は、

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