不祥事
2008年03月15日
あってはならないことがあるということは、
現職校長の、大変な不祥事があった。逮捕にまで至るとは、もう開いた口がふさがらない。
まったく信じられない。
わたしも、拙ブログを、『校長』と銘打って運営している以上、読者の皆様に、お詫びしなければいけないなと思った。
ニュースを見ると、その地域では、臨時の校長会を開催していた。部下の不祥事で招集をかけられるのは、まま、あることだが、校長自身が当事者ではね。何をかいわんやだ。
我が地域においても、わたしの現職中、校長の不祥事がないわけではなかった。まあ、逮捕されるというものではなかったけれどね。
そのときも、校長は全員集められた。そして、教育長より、綱紀粛正の話を聞くことになる。
それだけではなかった。『自ら身を正せ。』ということだろう。『不祥事について、どう思うか。』ということで、全員の校長が、反省文(?)を書かせられた。自分がやったわけではないけれどね。連帯責任ということだっただろうか。
教育委員会に対しても、少し腹が立った。『そういう人物を校長にしたのは、いったい誰なのだ。』と言いたかった。ちょっとぼかしたけれど、そういうことも書いた。
今度の事件について、具体的にどういうことが言えるのか、それは、報道範囲でしか分からない。だから、一般的な言い方になってしまうが、その点は、あらかじめお断りしておきたい。
その1
校長というからには、校長になるまでの長い間、教職にあったはずで、そうであれば、人間的な面を含め、ある程度、教育委員会は、その人物を把握できていたと思う。たぶんだ。
それなのに、校長にしてしまう、その責任は、教育委員会にもあるのではないか。
今回の不祥事を起こした校長は、学校内の生徒の評判はよかったようで、それだと、『把握困難だったのかなあ。』そういう可能性もないことはないと思うが、しかし、やっぱりわたしは、教育委員会の責任も問いたいと思う。
その2
冒頭に述べた、『何をかいわんや。』の中身なのだが、
教職という仕事は、他の仕事と際立って異なる点がある。それは、このような事件を起こせば、多感な時期の子どもの心に、多大な傷を与えてしまうということだ。永遠の傷と言ってもいいかもしれない。そう。心の問題だから、時効などはない。
指導の前提となる信頼関係を無にするどころか、はかり知れないほどのマイナスをもたらすだろう。
それまで信頼関係で結ばれていたとするなら、その絆が強ければ強いほど、受ける心の傷も大きいというものだ。
わたしは、『聖職』などと言う気はありません。いつかも書きましたが、師弟同行です。
『人間は弱い。』それはそうでしょう。
でも、
これもいつだったか書きましたが、その言葉は、まわりの人を受容するときに使いたいもの。自分自身に対しては、想像力を広げ、自らを律していきたいと思います。
ああ。前記事で、教職を目指す、高校生のやす吉さんにエールを贈らせてもらったつもりなのに、その次にこういう記事を書かなければならないとは。
ほんとうに、申し訳ありません。
まったく信じられない。
わたしも、拙ブログを、『校長』と銘打って運営している以上、読者の皆様に、お詫びしなければいけないなと思った。
ニュースを見ると、その地域では、臨時の校長会を開催していた。部下の不祥事で招集をかけられるのは、まま、あることだが、校長自身が当事者ではね。何をかいわんやだ。
我が地域においても、わたしの現職中、校長の不祥事がないわけではなかった。まあ、逮捕されるというものではなかったけれどね。
そのときも、校長は全員集められた。そして、教育長より、綱紀粛正の話を聞くことになる。
それだけではなかった。『自ら身を正せ。』ということだろう。『不祥事について、どう思うか。』ということで、全員の校長が、反省文(?)を書かせられた。自分がやったわけではないけれどね。連帯責任ということだっただろうか。
教育委員会に対しても、少し腹が立った。『そういう人物を校長にしたのは、いったい誰なのだ。』と言いたかった。ちょっとぼかしたけれど、そういうことも書いた。
今度の事件について、具体的にどういうことが言えるのか、それは、報道範囲でしか分からない。だから、一般的な言い方になってしまうが、その点は、あらかじめお断りしておきたい。
その1
校長というからには、校長になるまでの長い間、教職にあったはずで、そうであれば、人間的な面を含め、ある程度、教育委員会は、その人物を把握できていたと思う。たぶんだ。
それなのに、校長にしてしまう、その責任は、教育委員会にもあるのではないか。
今回の不祥事を起こした校長は、学校内の生徒の評判はよかったようで、それだと、『把握困難だったのかなあ。』そういう可能性もないことはないと思うが、しかし、やっぱりわたしは、教育委員会の責任も問いたいと思う。
その2
冒頭に述べた、『何をかいわんや。』の中身なのだが、
教職という仕事は、他の仕事と際立って異なる点がある。それは、このような事件を起こせば、多感な時期の子どもの心に、多大な傷を与えてしまうということだ。永遠の傷と言ってもいいかもしれない。そう。心の問題だから、時効などはない。
指導の前提となる信頼関係を無にするどころか、はかり知れないほどのマイナスをもたらすだろう。
それまで信頼関係で結ばれていたとするなら、その絆が強ければ強いほど、受ける心の傷も大きいというものだ。
わたしは、『聖職』などと言う気はありません。いつかも書きましたが、師弟同行です。
『人間は弱い。』それはそうでしょう。
でも、
これもいつだったか書きましたが、その言葉は、まわりの人を受容するときに使いたいもの。自分自身に対しては、想像力を広げ、自らを律していきたいと思います。
ああ。前記事で、教職を目指す、高校生のやす吉さんにエールを贈らせてもらったつもりなのに、その次にこういう記事を書かなければならないとは。
ほんとうに、申し訳ありません。