教科書論争
2007年08月19日
教科書問題を考える。
姪からのメールは前回で終わりにするはずだった。しかし、先の(1)(2)を読んだ後届いたメールが、また示唆に富んだものだった。それで、続けて記事にしたくなった。
Aちゃん。ありがとう。
一つは、教科書問題。もう一つは、フランスでは、小学校から飛び級、落第が当たり前のこととして行われているという問題だ。(いや。フランスでは、多分問題などとは思っていないだろうね。)
そこで、今回は、『姪から届いたメール』と題するのではなく、テーマ別に記事を起こすことにした。その第一回目は、教科書問題である。
いきなり、話は脇道にそれるが、わたしは、『教育なら、何でも外国がいい。』という立場をとるものではない。よくブログなどで、そんな感じのご意見を拝見するが、それなら、『何で外国はあんなに犯罪が多いのか。』と言いたくなる。
ただし、外国の教育事情に、まったく関知せず、参考にもしないというのでは、これもまた、おかしいだろう。今の日本の学校事情、教育環境、政府の政策など、個別に見ていって、参考にすべきはするという態度も必要なのではないか。
このことは本日の本論ではないので、このくらいにしておくが、しかし、姪からのメールを見ると、教科書の問題などは、指導法にも関係するし、どんな教育観をもてばいいかということにもかかわり、大いにとり入れたいと思った。
それでは、この件に関する部分で、姪から届いたメールを紹介しよう。
『先日、戦争学習についておもしろい記事を読みました。
これは、確か、高校生向けの歴史教科書の1つだと思うのですが、ドイツとフランスの歴史家たち(両国から同数、十数人ずつ)が、第二次大戦でのさまざまな出来事について、ドイツ側とフランス側の双方の意見を用いて教科書を作成したそうです。ドイツ側とフランス側の意見がどうしても食い違う部分については、両方の意見をそのまま掲載し、生徒たちにそれを議論してもらうというものだそうです。
こうすることにより、少しでも相手側の状況や意見を学ぶことができ、戦争において、自国は被害国というだけでなく、加害者であるということも学べる。とてもおもしろい興味深い試みだと思います。
ま、でも、日本の場合、韓国や中国の歴史家たちと合同で教科書を作成するなんて、文科省が許さないでしょうが。』
以上である。
日本でも、歴史研究について、日・韓で、共同研究しようではないかという話は聞いたことがある。しかし、高校用教科書について、そういう動きはだぶんないと思う。
これについて、わたしは、2つ、言いたいことがある。
一つ目。 『教科書で教える。』のか、『教科書を教えるのか。』という問題だ。わたしたち学校現場のものにとっては、むかしから言われていることである。
教員でない読者の皆さんは、この両者から、どういう教育を想像されるだろうか。『明らかに教育観が違うな。』と、想像されるだろうか。
そう。前者にとっての教科書は、学ぶための手段である。それに対し、後者は、目的だよね。また、こうも言えよう。前者が多面的な見方を養うことが可能なのに対し、後者は、教科書こそが獲得すべき学習内容といった感じになるだろう。画一化にもつながる。
わたしが、これまでも主張してきた、子ども主体の学習、子どもの思いに根ざした学習にふさわしいのは、おのずと前者ということになるだろう。
これは、教科書採択の観点にもつながる。
前者だと、
○子どもがいろいろ考えるきっかけを与えてくれる教科書は。
○考えるために有効な資料がいっぱい掲載されている教科書は。
○多様な見解を紹介している教科書は。
それに対し、後者は、
○学習内容が豊富に記載されている教科書は。
○覚えやすくする工夫がなされている教科書は。
○自分の歴史観にマッチする教科書は。
となるだろう。きわめてパターン化してしまったのは申し訳ないが、論点を明確にしたいがためであり、ご了解いただきたい。
さて、Aちゃんご指摘の、隣国との共同執筆、両論併記の前に、今の日本では、それが国内でもありはしないか。
教科書論争と言われる。『正しい歴史観をどう記述するか。』それこそが大切とばかり、やり合っている。どちらも自分の歴史観が正しいと主張し、対立する歴史観を攻撃する。これはイデオロギーの対立と同じであり、決して分かり合うことはできない。
しかし、どうだろう。先ほどのわたしの分類によれば、こうした論争の当事者は、どちらも、後者に属するのではないか。わたしに言わせれば、学ぶ主体である子どもがどっかへいってしまっている。子ども不在の論争なのである。不毛の論争だ。
わたしはどちらにも言いたい。
「あなた方は、『自分の教科書を採択してくれれば、自分の歴史観にそった未来の日本人ができ上がる。』そう思っているでしょう。でも、残念ながら、子どもには子どもの思いがあり、そのようにはとてもいきません。子どもはもっとしたたかですよ。特に、『これが正しい歴史だ。』と教え込んでも、受験のことしか頭にない現体制では、〜。」
そう。そう。上記、教科書採択の観点、後者には、もう一つ、付け加えなければいけないね。
○大学受験に有利な教科書は。
この一つ目『子どものしたたかさ』の例示として、かつての拙ブログ記事を紹介したい。もっともわたしは小学校教員だったので、小学校の事例だけれどね。
人権教育(9) 両性の違いは? 前半にある、『せっちゃん』の事例
二つ目 フランスやドイツに学びたい。
フランスとドイツは、二度の大戦で戦っただけではない。ずっとむかしから戦い合ったなかである。かつて、6年生の国語に、『最後の授業』と言う文学教材がのっていたが、ここでは、戦前、日本が韓国に対し行ったのと同じようなことが行われていた。
今回、検索にかけていろいろ調べてみたが、長年にわたって教科書の共同執筆作業を進めてきたのだとのことだった。『意見がどうしても食い違う部分については、両方の意見をそのまま掲載し、〜』までは確認できなかったが、もし事実なら、すばらしいことではないか。
まさにわたしが主張する、考える学習、多様性を認める学習が成立しそうだ。もう一つ。議論も活発に行われよう。まさに、子どもが学習の主人公であることを認め、楽しくいきいきとした学習を保障する教科書になるだろう。
まずは、国内で対立しあうもの同士、やってみたらどうだろう。無理かな。
最後に、言いたいことがある。
子ども主体の学習。子どもの思いを大切にした学習は、ほぼ、人類融和と平等の精神に満ち、平和愛好の精神をもった大人への成長を保障していくだろう。
まず、指導者が子どもを大切にしています。未分化かもしれないけれど、子どもを一人の人格をもった人として尊重しています。
子どもの側にしてみれば、自由な意見表明が保障されています。抑圧されていません。授業のなかで、のびのびと自分らしさを発揮できます。
繰り返しになり恐縮してしまいますが、どうも日本の学校、また、それを取り巻く環境としては、画一化、教え込みの文化から抜け出せないですね。
教科書論争について、違った角度から、言及してみました。
それでは、今日も、1クリックをぜひお願いします。
Aちゃん。ありがとう。
一つは、教科書問題。もう一つは、フランスでは、小学校から飛び級、落第が当たり前のこととして行われているという問題だ。(いや。フランスでは、多分問題などとは思っていないだろうね。)
そこで、今回は、『姪から届いたメール』と題するのではなく、テーマ別に記事を起こすことにした。その第一回目は、教科書問題である。
いきなり、話は脇道にそれるが、わたしは、『教育なら、何でも外国がいい。』という立場をとるものではない。よくブログなどで、そんな感じのご意見を拝見するが、それなら、『何で外国はあんなに犯罪が多いのか。』と言いたくなる。
ただし、外国の教育事情に、まったく関知せず、参考にもしないというのでは、これもまた、おかしいだろう。今の日本の学校事情、教育環境、政府の政策など、個別に見ていって、参考にすべきはするという態度も必要なのではないか。
このことは本日の本論ではないので、このくらいにしておくが、しかし、姪からのメールを見ると、教科書の問題などは、指導法にも関係するし、どんな教育観をもてばいいかということにもかかわり、大いにとり入れたいと思った。
それでは、この件に関する部分で、姪から届いたメールを紹介しよう。
『先日、戦争学習についておもしろい記事を読みました。
これは、確か、高校生向けの歴史教科書の1つだと思うのですが、ドイツとフランスの歴史家たち(両国から同数、十数人ずつ)が、第二次大戦でのさまざまな出来事について、ドイツ側とフランス側の双方の意見を用いて教科書を作成したそうです。ドイツ側とフランス側の意見がどうしても食い違う部分については、両方の意見をそのまま掲載し、生徒たちにそれを議論してもらうというものだそうです。
こうすることにより、少しでも相手側の状況や意見を学ぶことができ、戦争において、自国は被害国というだけでなく、加害者であるということも学べる。とてもおもしろい興味深い試みだと思います。
ま、でも、日本の場合、韓国や中国の歴史家たちと合同で教科書を作成するなんて、文科省が許さないでしょうが。』
以上である。
日本でも、歴史研究について、日・韓で、共同研究しようではないかという話は聞いたことがある。しかし、高校用教科書について、そういう動きはだぶんないと思う。
これについて、わたしは、2つ、言いたいことがある。
一つ目。 『教科書で教える。』のか、『教科書を教えるのか。』という問題だ。わたしたち学校現場のものにとっては、むかしから言われていることである。
教員でない読者の皆さんは、この両者から、どういう教育を想像されるだろうか。『明らかに教育観が違うな。』と、想像されるだろうか。
そう。前者にとっての教科書は、学ぶための手段である。それに対し、後者は、目的だよね。また、こうも言えよう。前者が多面的な見方を養うことが可能なのに対し、後者は、教科書こそが獲得すべき学習内容といった感じになるだろう。画一化にもつながる。
わたしが、これまでも主張してきた、子ども主体の学習、子どもの思いに根ざした学習にふさわしいのは、おのずと前者ということになるだろう。
これは、教科書採択の観点にもつながる。
前者だと、
○子どもがいろいろ考えるきっかけを与えてくれる教科書は。
○考えるために有効な資料がいっぱい掲載されている教科書は。
○多様な見解を紹介している教科書は。
それに対し、後者は、
○学習内容が豊富に記載されている教科書は。
○覚えやすくする工夫がなされている教科書は。
○自分の歴史観にマッチする教科書は。
となるだろう。きわめてパターン化してしまったのは申し訳ないが、論点を明確にしたいがためであり、ご了解いただきたい。
さて、Aちゃんご指摘の、隣国との共同執筆、両論併記の前に、今の日本では、それが国内でもありはしないか。
教科書論争と言われる。『正しい歴史観をどう記述するか。』それこそが大切とばかり、やり合っている。どちらも自分の歴史観が正しいと主張し、対立する歴史観を攻撃する。これはイデオロギーの対立と同じであり、決して分かり合うことはできない。
しかし、どうだろう。先ほどのわたしの分類によれば、こうした論争の当事者は、どちらも、後者に属するのではないか。わたしに言わせれば、学ぶ主体である子どもがどっかへいってしまっている。子ども不在の論争なのである。不毛の論争だ。
わたしはどちらにも言いたい。
「あなた方は、『自分の教科書を採択してくれれば、自分の歴史観にそった未来の日本人ができ上がる。』そう思っているでしょう。でも、残念ながら、子どもには子どもの思いがあり、そのようにはとてもいきません。子どもはもっとしたたかですよ。特に、『これが正しい歴史だ。』と教え込んでも、受験のことしか頭にない現体制では、〜。」
そう。そう。上記、教科書採択の観点、後者には、もう一つ、付け加えなければいけないね。
○大学受験に有利な教科書は。
この一つ目『子どものしたたかさ』の例示として、かつての拙ブログ記事を紹介したい。もっともわたしは小学校教員だったので、小学校の事例だけれどね。
人権教育(9) 両性の違いは? 前半にある、『せっちゃん』の事例
二つ目 フランスやドイツに学びたい。
フランスとドイツは、二度の大戦で戦っただけではない。ずっとむかしから戦い合ったなかである。かつて、6年生の国語に、『最後の授業』と言う文学教材がのっていたが、ここでは、戦前、日本が韓国に対し行ったのと同じようなことが行われていた。
今回、検索にかけていろいろ調べてみたが、長年にわたって教科書の共同執筆作業を進めてきたのだとのことだった。『意見がどうしても食い違う部分については、両方の意見をそのまま掲載し、〜』までは確認できなかったが、もし事実なら、すばらしいことではないか。
まさにわたしが主張する、考える学習、多様性を認める学習が成立しそうだ。もう一つ。議論も活発に行われよう。まさに、子どもが学習の主人公であることを認め、楽しくいきいきとした学習を保障する教科書になるだろう。
まずは、国内で対立しあうもの同士、やってみたらどうだろう。無理かな。
最後に、言いたいことがある。
子ども主体の学習。子どもの思いを大切にした学習は、ほぼ、人類融和と平等の精神に満ち、平和愛好の精神をもった大人への成長を保障していくだろう。
まず、指導者が子どもを大切にしています。未分化かもしれないけれど、子どもを一人の人格をもった人として尊重しています。
子どもの側にしてみれば、自由な意見表明が保障されています。抑圧されていません。授業のなかで、のびのびと自分らしさを発揮できます。
繰り返しになり恐縮してしまいますが、どうも日本の学校、また、それを取り巻く環境としては、画一化、教え込みの文化から抜け出せないですね。
教科書論争について、違った角度から、言及してみました。
それでは、今日も、1クリックをぜひお願いします。