林の朝
2009年07月09日
子どもとともに創る音楽の授業
すばらしい音楽の授業を見せていただいた。
いつも校内研究会に招かれているA小学校の4年生だ。この日は、社会科の講師だったが、社会科の授業のない時間に音楽が設定されていた。
よく澄んで、よくひびく歌声だった。特に高音がきれいだった。
ああ。そうは言っても、歌声のことを、こうして文章に記し、イメージをもっていただくのはむずかしいのではないか。やはり、なまで子どもの歌声を聴くその感動は、ほんとうは、なまで聴いていただくしかない。
したがって、限界はあるが、できるだけ文章で、その感動を再現してみたいと思う。
ところで、
すばらしい音楽の授業って、どのような授業だろう。
かつて、ある指導主事は、『教師と子どもが一体となって、ともに創る音楽』を強調されていた。
そうなのだ。どんなにすばらしい歌声でも、『〜しなさい。』といった教員主導や反復訓練では、授業としての価値はない。
なぜか。
そうした授業でも、一般的に子どもたちのすばらしい音楽に接することはある。
しかし、そうした授業における子どもの意識は、
『すばらしい先生の指導のもと、先生のおっしゃるとおりにやれば、絶対うまくなれる。』
そのようなものではないか。つまり、そこでは、子どもの創造性は限定されるし、『子どもとともに創る音楽』という姿はない。
わたしは、この授業を見せていただいたあと、ともにみていらした音楽を専門とする教員に、思わず、
「音楽でも、ちゃんと問題解決学習は成立するのだなと、思いました。」
と言った。
そう。この授業において、子どもたちは、いい音楽にするために、
・どう歌っているのか、
・歌ったらいいのか、
・息つぎは、
・そして、歌い終わりはと、
自分たちで考えながら、創造的に授業に臨んでいた。
その姿勢に感動させられた。
さあ。それでは、授業の様子にふれさせていただこう。
初め、歌いなれた曲を3曲歌った。
そのうちの1曲。圧倒される思いがした。
音楽専科のBさんは、伴奏のピアノを、半音ずつ上げていく。
子どもたちの歌声は、どこまでいっても(?)安定している。苦しそうな感じがしない。余裕がある。
Bさんは、伴奏しながら、『お手本の子』と称し、名前を読んでいく。呼ばれた子は、うれしそうに、あるいは自然体で、歌いながら前に出て、みんなの方を向く。
そのとき、そのときで、いきいきと歌っている子、表情の豊かな子を指名しているが、結果的には、どの子もお手本になるとのことだった。
先生は、その、演奏の合間に、
「〇〇さん、がんばっているね。」
「はい。ありがとう。お手本さん。」
「次は、〜で、歌いましょう。」
「はい。ありがとう。〜。よかったあ。」
「△△ちゃん。よっかからずに歌っている。いいね。」
「はい。友達の頭の上まで声がとんでいってるよ。とてもいい。」
などと、声をかけている。
2曲歌ったときだったかな。
子どもから、
「先生。もう、いっちょう。」
と声がかかる。
それで、3曲目となった。
「はい。よかったあ。今の元気でいきましょう。」
その言葉かけのせいだったかな。あるいは、参観の先生が何人かいたからかな。
3曲目となると、ちょっと声が出すぎて、美しいという感じでない声も混ざるようになってしまった。突出した声も聞こえてきた。
張り切りすぎたとみえる。
思わず、笑ってしまうことが起きた。
この授業は、昼下がりの5校時に行われた。
昼休み、めいっぱい遊んだ子ではないだろうか。初めから汗をかいていた。
その子が、歌いながら、上着をたくし上げ、それで顔をかすかにあおいでいる。しかし、その子も含め、みんな、口の開け方、表情はすばらしく、それは、もう、合唱団そのものだ。
そのアンバランスが何ともいえず、おかしかった。
いよいよ、本日メーンの、『林の朝』という曲に入る。
初めは斉唱だ。1番、2番と続けて歌う。やはり、とてもきれいな歌声だ。
すかさず子どもからかけ声。
「先生。ちょきちょき、いこう。」
これは意味不明だが、すぐ分かった。
黒板には、同曲の譜面と歌詞が、一本のピンクのテープのようになって貼られている。
そして、それとまったく同じ譜面と歌詞でグリーンのテープが、先ほどのとはずれて貼られている。
つまり、『二部輪唱でいこう。』と言っているのだ。その、後の方の歌い出しに、チョキのマークがあった。
「このまえ、二つのグループに分かれて歌ったのね。それでは、輪唱しましょう。お互いにもう一つのグループの歌声をしっかり聴いて歌ってね。」
それで、前後を取り替えて、2度歌った。よく声もとけ合っていた。
それでだろうか。次は、無伴奏で歌うことになった。
そうなると、やはり、とび出す声や外れた声も少しあるようだった。
感心したのは、一人の女子が隣りの男子の肩に手を置いて、指でリズムをとりながら歌っていたこと。する方もされる方も、リズムを確認しながら、歌っているようにみえた。
それを見てか、見ずしてか、専科のAさん。
「じゃあ、ちょっと、鉄琴で伴奏を入れてみるね。」
ああ。いいなあ。
また、ピアノとは違った味わいだ。先ほどの女子の肩の手も、一つの楽器を演奏しながら歌っている気分なのかななどと思ったりした。
先ほどからのBさんの笑顔、そして、子どもをほめている姿がすてきだ。ここでも、
「とっても上手になった。なめらかになったね。
それでは、お手本CDを聴いてみましょう。みんなと歌い方はおんなじ。でも、協力の仕方がちょっと違うの。どこが違うのかな。」
1番は斉唱だった。そして、2番が輪唱。しかし・・・、
聴き終わってどこが違うのかの話し合い。
冒頭の子どもの発言に、思わずほほえむ。
「違うね。確かに違うのだけれど、言葉には直せない。」
言葉で言い表すことはできないということなのだろう。思わず共感してしまう。
そうだよね。そもそも音楽って、そんなに分析的に聴くものではないものね。
続いて、
「2番のどこかで追いかけっこをしている。」
「1番は一緒で、2番輪唱で、なんか・・・、」
「2番の小鳥のところで、ピーチュッピー、追いかけっこで・・・、」
「追いかけっこしているのだけれど、あとからきているけれど、かさなって、やっぱり一人みたい。」
うううん。
ただ言葉で表すのがむずかしいだけではないね。感覚的に二部輪唱と違うことは分かるのだけれど、具体的にどう違うか、まだ的確にはつかめていないようだ。
ここで、
「B先生。もう一回聴かせて。」
の声。
それで、Bさんは、待ってました(?)とばかり、かけることにした。
そう。子ども主体の学習は、こういうことにもこだわる。『必ず』というわけではないが、できるだけ、子どもが学習をつくるように仕向ける。あくまで、子どもの主体性を養うためだ。
「分かったぁ。・・・。分かったような気がする。あとから、林の小鳥の声がもう一回している。ピーチュッピーが、(わたしたちの歌より)もう一回多い。」
T「そうか。ピーチュッピーが何回なの。」
C「3回。」
C「ふえた。」
C「3人というか、林の下にもう一段ある。」
ここで、Bさん、
「そうかぁ。3つ目があるのだ。」
そう言って、すでに2本ある楽譜のテープの下に、3本目の黄色のテープを付け足した。
もう、子どもたちから、『歌いたあい。』『歌いたい。』の声。
でも、一人、『無理です。』の声もあり、みんなで大笑い。
今度は、3グループにわかれなければならない。
ここでも、子どもたちの主体的な取組が見られた。
「こっちは男子が多いよ。〇〇さん、あっちへ行って。」
そして、Bさんが聞いている。
「ちょっと、どこが境目が教えて。」
T「じゃあ、いってみるかな。」
C「いってみよう。」
T「はい。じゃあ、合唱団の気分と姿勢でね。」
そうして、歌いだす。
子どもたち、気分よさそうだ。
T「ちょっと、3つになったところで、音をのばしていい?・・・。はい。のばすよう。・・・。うわあ。きれい。・・・。遠くにのばそう。声もいいからね。」
歌い終わる。
T「すごい。すごかったよ。初めてだね。三つ。」
C「やったあ。」
T「もう一回やろう。うまくいったら、アカペラ劇場(無伴奏のこと)。授業をみてくださっている先生方にも聞いてもらおうよ。」
C「うん。」
張り切っている子どもたちのしぐさがあちらこちらで見られる。いい表情だ。
そして、いよいよ、アカペラ劇場へ。
子どもたちは、『コ』の字型に並んでいる。そのなかへ、わたしたち参観の教員が導かれる。
わたし、思わず声を上げてしまった。
「ええっ。こんなすばらしい席で聴かせてもらえるのですか。うれしいなあ。」
それはもう、たとえようもない感動だった。
三方から聞こえてくるのだものね。すてきな歌声が。
歌い終わると、
「どうでしたか。」
「よかったですか。」
わたしたちに感想を求める子どもたち。その口調からは、自信のほどが感じられた。期待感に満ちていた。
「よかったですよ。すばらしい声のとけあい、ひびきあいでした。」
「よく音が重なり合って、すてきなハーモニーをかなでていました。」
でも、音楽の講師は、きびしくもあった。絶賛したあとではあったが、
「やっぱりがんばりすぎてしまうお友達がいるようですよ。やさしい声を意識すると、もっとよくなるでしょう。それから、輪唱は、和音の重なりも大事だけれど、言葉の繰り返しのおもしろさも感じられるといいですね。」
これは、この場ではおっしゃらなかったけれど、あとの研究会では、
「輪唱は、各グループの協力で成り立つのですが、協力が競争になりがちです。その点、競争になっているとは言わないが、まだ少し、指導が必要ですね。
もう一つ。フレーズの終わりを大切にしましょう。ブレスが強すぎる子がいます。やさしく歌うということを心がけるといいですね。」
ここで、わたしは、音楽の講師でもないのに、声を出してしまった。
実は、こんなことがあったのだ。
授業の最後、子どもたちは、恒例となっているのであろう。1時間の授業の感想をカードに書いていた。
書き終わると、わざわざわたしたちにカードを見せに来る子もいた。
その中の一人、
「(自分はできたかな。また、もっとがんばりたいことがあるかな。)
みんなで歌っても、一人で歌っているように聞こえてきたからよかった。でも、ちょっと林の中でジョギングしていたかも。
(みんなでできたかな。どんな感じになったかな。)
みんなで歌ったとき、とてもよく声が重なって、よくひびいていて、とてもきれいだった。」
これには、自信の程も感じられるが、『ジョギング云々』は意味不明だった。
それで聞くと、
「ジョギングをして苦しくなったとき、息をするのが、『ハアッ、ハアッ』ってなっちゃうでしょう。そんな息つぎをしていたかなって思った。」
すごい。自分で自分のことを、しっかり認識している。
これにも感動した。まさに、息つぎについての講師の言葉と呼応する子どものカードだった。そこで、その感動を思わず話してしまったというわけだ。
音楽の問題解決学習。
めったにみるチャンスはない。
一日、充実感と満足感を持つことができ、Bさんと担任と子どもたちに感謝した。
子どもたちには歌いきった充実感、と満足感がありました。
そう。そう。もう一つ。心地よい疲労感もあったようでした。
そうでしょう。あれだけ歌ったのですもの。
よく中学の先生がおっしゃるそうです。
『あんな短い曲なのに、よく意欲的に1時間歌い続けることができますね。』
そうかもしれません。やっぱり、指導者に引き出しがたくさんあるからでしょう。
それと、これは指導主事の言葉。
音楽が問題解決学習になっているといっても、話し合う学習が中心になることはありません。あくまで中心となるのは歌う活動です。
そういう意味では、今日の授業はよくバランスがとれていたと思いました。
いつも校内研究会に招かれているA小学校の4年生だ。この日は、社会科の講師だったが、社会科の授業のない時間に音楽が設定されていた。
よく澄んで、よくひびく歌声だった。特に高音がきれいだった。
ああ。そうは言っても、歌声のことを、こうして文章に記し、イメージをもっていただくのはむずかしいのではないか。やはり、なまで子どもの歌声を聴くその感動は、ほんとうは、なまで聴いていただくしかない。
したがって、限界はあるが、できるだけ文章で、その感動を再現してみたいと思う。
ところで、
すばらしい音楽の授業って、どのような授業だろう。
かつて、ある指導主事は、『教師と子どもが一体となって、ともに創る音楽』を強調されていた。
そうなのだ。どんなにすばらしい歌声でも、『〜しなさい。』といった教員主導や反復訓練では、授業としての価値はない。
なぜか。
そうした授業でも、一般的に子どもたちのすばらしい音楽に接することはある。
しかし、そうした授業における子どもの意識は、
『すばらしい先生の指導のもと、先生のおっしゃるとおりにやれば、絶対うまくなれる。』
そのようなものではないか。つまり、そこでは、子どもの創造性は限定されるし、『子どもとともに創る音楽』という姿はない。
わたしは、この授業を見せていただいたあと、ともにみていらした音楽を専門とする教員に、思わず、
「音楽でも、ちゃんと問題解決学習は成立するのだなと、思いました。」
と言った。
そう。この授業において、子どもたちは、いい音楽にするために、
・どう歌っているのか、
・歌ったらいいのか、
・息つぎは、
・そして、歌い終わりはと、
自分たちで考えながら、創造的に授業に臨んでいた。
その姿勢に感動させられた。
さあ。それでは、授業の様子にふれさせていただこう。
初め、歌いなれた曲を3曲歌った。
そのうちの1曲。圧倒される思いがした。
音楽専科のBさんは、伴奏のピアノを、半音ずつ上げていく。
子どもたちの歌声は、どこまでいっても(?)安定している。苦しそうな感じがしない。余裕がある。
Bさんは、伴奏しながら、『お手本の子』と称し、名前を読んでいく。呼ばれた子は、うれしそうに、あるいは自然体で、歌いながら前に出て、みんなの方を向く。
そのとき、そのときで、いきいきと歌っている子、表情の豊かな子を指名しているが、結果的には、どの子もお手本になるとのことだった。
先生は、その、演奏の合間に、
「〇〇さん、がんばっているね。」
「はい。ありがとう。お手本さん。」
「次は、〜で、歌いましょう。」
「はい。ありがとう。〜。よかったあ。」
「△△ちゃん。よっかからずに歌っている。いいね。」
「はい。友達の頭の上まで声がとんでいってるよ。とてもいい。」
などと、声をかけている。
2曲歌ったときだったかな。
子どもから、
「先生。もう、いっちょう。」
と声がかかる。
それで、3曲目となった。
「はい。よかったあ。今の元気でいきましょう。」
その言葉かけのせいだったかな。あるいは、参観の先生が何人かいたからかな。
3曲目となると、ちょっと声が出すぎて、美しいという感じでない声も混ざるようになってしまった。突出した声も聞こえてきた。
張り切りすぎたとみえる。
思わず、笑ってしまうことが起きた。
この授業は、昼下がりの5校時に行われた。
昼休み、めいっぱい遊んだ子ではないだろうか。初めから汗をかいていた。
その子が、歌いながら、上着をたくし上げ、それで顔をかすかにあおいでいる。しかし、その子も含め、みんな、口の開け方、表情はすばらしく、それは、もう、合唱団そのものだ。
そのアンバランスが何ともいえず、おかしかった。
いよいよ、本日メーンの、『林の朝』という曲に入る。
初めは斉唱だ。1番、2番と続けて歌う。やはり、とてもきれいな歌声だ。
すかさず子どもからかけ声。
「先生。ちょきちょき、いこう。」
これは意味不明だが、すぐ分かった。
黒板には、同曲の譜面と歌詞が、一本のピンクのテープのようになって貼られている。
そして、それとまったく同じ譜面と歌詞でグリーンのテープが、先ほどのとはずれて貼られている。
つまり、『二部輪唱でいこう。』と言っているのだ。その、後の方の歌い出しに、チョキのマークがあった。
「このまえ、二つのグループに分かれて歌ったのね。それでは、輪唱しましょう。お互いにもう一つのグループの歌声をしっかり聴いて歌ってね。」
それで、前後を取り替えて、2度歌った。よく声もとけ合っていた。
それでだろうか。次は、無伴奏で歌うことになった。
そうなると、やはり、とび出す声や外れた声も少しあるようだった。
感心したのは、一人の女子が隣りの男子の肩に手を置いて、指でリズムをとりながら歌っていたこと。する方もされる方も、リズムを確認しながら、歌っているようにみえた。
それを見てか、見ずしてか、専科のAさん。
「じゃあ、ちょっと、鉄琴で伴奏を入れてみるね。」
ああ。いいなあ。
また、ピアノとは違った味わいだ。先ほどの女子の肩の手も、一つの楽器を演奏しながら歌っている気分なのかななどと思ったりした。
先ほどからのBさんの笑顔、そして、子どもをほめている姿がすてきだ。ここでも、
「とっても上手になった。なめらかになったね。
それでは、お手本CDを聴いてみましょう。みんなと歌い方はおんなじ。でも、協力の仕方がちょっと違うの。どこが違うのかな。」
1番は斉唱だった。そして、2番が輪唱。しかし・・・、
聴き終わってどこが違うのかの話し合い。
冒頭の子どもの発言に、思わずほほえむ。
「違うね。確かに違うのだけれど、言葉には直せない。」
言葉で言い表すことはできないということなのだろう。思わず共感してしまう。
そうだよね。そもそも音楽って、そんなに分析的に聴くものではないものね。
続いて、
「2番のどこかで追いかけっこをしている。」
「1番は一緒で、2番輪唱で、なんか・・・、」
「2番の小鳥のところで、ピーチュッピー、追いかけっこで・・・、」
「追いかけっこしているのだけれど、あとからきているけれど、かさなって、やっぱり一人みたい。」
うううん。
ただ言葉で表すのがむずかしいだけではないね。感覚的に二部輪唱と違うことは分かるのだけれど、具体的にどう違うか、まだ的確にはつかめていないようだ。
ここで、
「B先生。もう一回聴かせて。」
の声。
それで、Bさんは、待ってました(?)とばかり、かけることにした。
そう。子ども主体の学習は、こういうことにもこだわる。『必ず』というわけではないが、できるだけ、子どもが学習をつくるように仕向ける。あくまで、子どもの主体性を養うためだ。
「分かったぁ。・・・。分かったような気がする。あとから、林の小鳥の声がもう一回している。ピーチュッピーが、(わたしたちの歌より)もう一回多い。」
T「そうか。ピーチュッピーが何回なの。」
C「3回。」
C「ふえた。」
C「3人というか、林の下にもう一段ある。」
ここで、Bさん、
「そうかぁ。3つ目があるのだ。」
そう言って、すでに2本ある楽譜のテープの下に、3本目の黄色のテープを付け足した。
もう、子どもたちから、『歌いたあい。』『歌いたい。』の声。
でも、一人、『無理です。』の声もあり、みんなで大笑い。
今度は、3グループにわかれなければならない。
ここでも、子どもたちの主体的な取組が見られた。
「こっちは男子が多いよ。〇〇さん、あっちへ行って。」
そして、Bさんが聞いている。
「ちょっと、どこが境目が教えて。」
T「じゃあ、いってみるかな。」
C「いってみよう。」
T「はい。じゃあ、合唱団の気分と姿勢でね。」
そうして、歌いだす。
子どもたち、気分よさそうだ。
T「ちょっと、3つになったところで、音をのばしていい?・・・。はい。のばすよう。・・・。うわあ。きれい。・・・。遠くにのばそう。声もいいからね。」
歌い終わる。
T「すごい。すごかったよ。初めてだね。三つ。」
C「やったあ。」
T「もう一回やろう。うまくいったら、アカペラ劇場(無伴奏のこと)。授業をみてくださっている先生方にも聞いてもらおうよ。」
C「うん。」
張り切っている子どもたちのしぐさがあちらこちらで見られる。いい表情だ。
そして、いよいよ、アカペラ劇場へ。
子どもたちは、『コ』の字型に並んでいる。そのなかへ、わたしたち参観の教員が導かれる。
わたし、思わず声を上げてしまった。
「ええっ。こんなすばらしい席で聴かせてもらえるのですか。うれしいなあ。」
それはもう、たとえようもない感動だった。
三方から聞こえてくるのだものね。すてきな歌声が。
歌い終わると、
「どうでしたか。」
「よかったですか。」
わたしたちに感想を求める子どもたち。その口調からは、自信のほどが感じられた。期待感に満ちていた。
「よかったですよ。すばらしい声のとけあい、ひびきあいでした。」
「よく音が重なり合って、すてきなハーモニーをかなでていました。」
でも、音楽の講師は、きびしくもあった。絶賛したあとではあったが、
「やっぱりがんばりすぎてしまうお友達がいるようですよ。やさしい声を意識すると、もっとよくなるでしょう。それから、輪唱は、和音の重なりも大事だけれど、言葉の繰り返しのおもしろさも感じられるといいですね。」
これは、この場ではおっしゃらなかったけれど、あとの研究会では、
「輪唱は、各グループの協力で成り立つのですが、協力が競争になりがちです。その点、競争になっているとは言わないが、まだ少し、指導が必要ですね。
もう一つ。フレーズの終わりを大切にしましょう。ブレスが強すぎる子がいます。やさしく歌うということを心がけるといいですね。」
ここで、わたしは、音楽の講師でもないのに、声を出してしまった。
実は、こんなことがあったのだ。
授業の最後、子どもたちは、恒例となっているのであろう。1時間の授業の感想をカードに書いていた。
書き終わると、わざわざわたしたちにカードを見せに来る子もいた。
その中の一人、
「(自分はできたかな。また、もっとがんばりたいことがあるかな。)
みんなで歌っても、一人で歌っているように聞こえてきたからよかった。でも、ちょっと林の中でジョギングしていたかも。
(みんなでできたかな。どんな感じになったかな。)
みんなで歌ったとき、とてもよく声が重なって、よくひびいていて、とてもきれいだった。」
これには、自信の程も感じられるが、『ジョギング云々』は意味不明だった。
それで聞くと、
「ジョギングをして苦しくなったとき、息をするのが、『ハアッ、ハアッ』ってなっちゃうでしょう。そんな息つぎをしていたかなって思った。」
すごい。自分で自分のことを、しっかり認識している。
これにも感動した。まさに、息つぎについての講師の言葉と呼応する子どものカードだった。そこで、その感動を思わず話してしまったというわけだ。
音楽の問題解決学習。
めったにみるチャンスはない。
一日、充実感と満足感を持つことができ、Bさんと担任と子どもたちに感謝した。
子どもたちには歌いきった充実感、と満足感がありました。
そう。そう。もう一つ。心地よい疲労感もあったようでした。
そうでしょう。あれだけ歌ったのですもの。
よく中学の先生がおっしゃるそうです。
『あんな短い曲なのに、よく意欲的に1時間歌い続けることができますね。』
そうかもしれません。やっぱり、指導者に引き出しがたくさんあるからでしょう。
それと、これは指導主事の言葉。
音楽が問題解決学習になっているといっても、話し合う学習が中心になることはありません。あくまで中心となるのは歌う活動です。
そういう意味では、今日の授業はよくバランスがとれていたと思いました。