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 ふと気になったことについての感想。
 本と音楽についての話題が多いです。

 ぼくがピアノの手習いをする時には、まあ当然のように5線譜を使う。ト音記号とか、八分音符とかが書かれた、あのふつうの五線譜。でも大昔の楽譜はそうではなかったという。ちょっと気になったので調べてみた。

 キリスト教の教会で昔歌われていたのはグレゴリオ聖歌というもので、いつ成立したものかは定かではないけれど、すくなくとも8世紀や9世紀頃に、聖歌の楽譜が見つかっている。この楽譜のことをネウマ譜という。昔々の楽譜は、こんなすがたをしていた。


wikipediaより

 正直に言うと、初めて見た時にはこれ、楽譜に見えなかった。見えないですよね?

 現代の5線譜とは、さまざまな面で違いすぎていて、どう解読したらいいのかもよくわからないくらいだ。

 でもとにかく、眺めてみると、ラテン語で書かれた歌詞と、その上下にひっかき傷みたいな印(!)がたくさんついているのが分かる。

 それで、この印が、聖歌を歌ううえでとても重要、ということになる。

 ネウマ譜でわかるのは、音楽の抑揚やイントネーションについてだ。歌い始めからだんだん高くなり、この歌詞の部分では少し低くなり、次にまた少し高くなってここで止まる、というような情報。

 だから、正確な音程とか、音の高さは分からない。これで難しい聖歌を再現できるのか?とつい疑問に思ってしまう。

 ここまでネウマ譜のことを知って、ふと頭をよぎったのは、踊りとかダンスとかについてだ。ダンスを習うとき、振り付けは体で覚えていく部分が多い。昔の聖歌も、みんな現場で体をつかって覚えていたのではないか。ポイントポイントで振りつけの注釈が入る、ダンスのように。(教会などで)集団で演じる、ということも、なんかダンスと似ているし。

 ネウマという言葉は、ギリシャ語では「合図・身振り」という意味で、例のひっかき傷も、音楽を演奏する際の、指揮者の身振りや手の動きである、とする説もある。ネウマ譜というおおまかな指示書でポイントを押さえながら、あとはダンスのように、身体に覚え込ませた旋律を再現していく。そのような歌い方をしていたのではないか。

 ネウマ譜を眺めていて推察されるのは、当時の音楽が、集団のなかで営まれる社会的な出来事として考えられていたということだ。みんなで、さん、はい、でシンクロするための約束書、それがネウマだったのかも。

 そんな妄想はともかく、でもやっぱり、もう少し音程が正しくわかるように・・・ということで、10世紀ごろになって導入されはじめ、13世紀ごろ一般的になったのが、以下のネウマ譜になる。グイド・ダレッツォという人が考えたとも、言われている。


wikipediaより

 はじめのものより、かなりアップグレードされ、現代の五線譜に近い姿になっているのがわかる。音の高さが、四本線のなかに記載されている。CやFの調整を示す記号もある。これなら、後世のぼくらでも、かなり正確に、音楽の再現ができそうだ。

 と思いきや、このネウマ譜では、音の正確な長さとか、リズムとかはわからないそうだ。そのため、曲の姿をどのように捉えるかは、諸説あるらしい・・・。

 それはともあれ、ネウマ譜がどんどん機能性を高めていくと、いまの五線譜に近付いていくのだということは、なんとなく納得のいくことだった。楽譜にも歴史がある、ということで。

 囲碁のAlpha碁が世界ランキングでとうとう1位になって、囲碁界においてほんとうに「無敵」になってしまった。2016年のイ・セドル戦は、ちょっと忘れられない衝撃があったけれど、あれからまた膨大な学習を積み重ね、進歩しているという。つまり、たぶん人間にはもう勝ち目がほとんどなくなってしまった。

 新幹線の早さに、短距離の選手が勝つことはできない、というのは誰がみても明らかだけれど、囲碁や将棋で人間が勝ち目がない、ということは、よくわからない。ほんとうは、似たような類比であるはずなのに。

 それは、知性というものが人間にとって具体的に手に取れるものではなくて、抽象的な観念のようなものだからではないか。うーむ。

 将棋の羽生善治は、『人工知能の核心』という本のなかで、人間の脳が持つ、「思考」という機能のもつハード的なスペックには、限界があるのではないか、と示唆している。

 人間の体が、200キロの剛速球を投げることができないように、たぶんある程度の有限な「思考」(能力)にまでしか、人間は到達できないようにできているのではないか。おおむね、そういうことを言いたいのではないかと思う。

 こういうことは、あまり世間では一般的に言われることではないと思うけれど、文章を読んでいて、本当にそうだと僕も思った。

 人間の思考能力に関しては、無制限に進歩していくという考え方は、なかなか捨てさることが難しい。

 天才という言葉にも、いまだに不思議なオーラがある。神様のように、不可能を可能にする、といった雰囲気が漂っている。人間の知性が有限かもしれない、ということはあまり語られない。

 神様は「死んだ」ということに、思想の世界などではなっているはずだし、またポストモダン社会を人々びとはくぐりぬけてきたはずなのに、なぜか知性に関しては神様を捨て切っていない、という感じが(個人的には)する。

 そして、そんな天才たちにもかなわないのが、人工知能、ということになりつつある。

 それで、人工知能を「本当に」神に迫るもの(人類の抱えた諸問題を解決してしまう)としたり、逆に映画『ターミネーター』のように生みの親である人間に仇なす悪魔的なもの、という観念が根強く残っている(らしい。特に西欧の研究者や科学者たちのあいだで)。

 それは、人間が「知性」というものの正体をいまだにつかみきれていないからではないか、と感じる。

 人工知能が神に迫る知性を持つかどうかは疑わしいと思う。人工知能にはできることもあればできないこともある。そこらへんを時々刻々と進歩するなかで整理していくことも、たいへん重要だ。『核心』のなかには、たとえば「美意識」を例にあげて、今のところ人工知能が苦手であると説明している。

 それに人工知能はあくまで人間が作り出し、人間のために使われなければ意味がないはずなので、自然と「人間の知性のサイズ」に合わせたAIが求められることになる(接待ができる人工知能)。

 そのための付き合い方というか、「ロボット三原則」をアップデートしたような規則や、倫理による線引きを、これから人類はがんばる必要があるし、そもそも知性とは何かを、もっと詳しく手儀できるようにならないといけないのではないか。というようなことを思った。

 前回から2カ月ほども空いてしまったのだが、まだ生きてます。

 いまは、メビウスFFが始まってから2周年のアニバーサリー期間ということで、ゲームの運営からのさまざまな大盤振る舞いがあり、ユーザーも運営も「かきいれ時」みたいな様相を呈している(はず)。

 やはり自分も、ここぞとばかりに進めている。といってもほとんど、AIにおまかせの、フルオート戦闘機能で「周回」しているわけだけれど。

 さて、2か月前の更新から、カードはどのくらい手に入っているのかというと、まずジョブが、スーパーモンク、忍者、賢者、剣聖などと、わりとほしかったところが続けて入ってきた。アルティメットカードや、ウェポンカードは、まったく出てこない・・・。そのかわり、2周年記念のカードや、FF14とのコラボ・カードはけっこう欲しいところが手に入っている。わりにさいきん無課金で続けているので、このくらいの引きなら、いいのかな・・・と、つい課金のことを気にしてしまう。スマホゲームだから。このアニバーサリー期間はカードが育てやすくなっているので、いままで温存してきたできるだけ強化しておこうと思う次第です。

 ストーリーのほうはいま、2周年記念ということで特設されたステージの前篇をクリアして後編にさしかかり、本筋のストーリーのほうは、7章を攻略しおえて8章に入ったばかり。

 ストーリーのほうは(以下ネタばれしながら進む)、完全にウォルくん(主人公)が、皆の希望(=世界)をしょっている状態に。皆の胸に、「希望の光」がきらきらと輝くさまは、なんだかかわいくもあり、そして少し滑稽にも見える(ように演出されている、はず)。古典的とも思える、ヒーローにまつりあげられた主人公の今後の一挙一動で、みながパラミティア・システムに束縛されない、可能性としての自由を得るか、またはいぜんとして予言とか、セーラや光の戦士的なものに依存するばかりの、薄暗い存在のままかが決まってしまう・・・ということになってきているのではないか。

 ところで、メビウスのストーリーの面白いところは、いちおうソーシャルゲーム的な要素をもつこのゲームが、つねに他のユーザーを意識したような、メタ的な表現をよく発するところだと思う。

 7章のラストで「リボンの墓場」というステージがあるのだが、ここでは、かつて討ち死にしたブランク(光の戦士候補)たちの墓場に、光の戦士の妻になると予言されたセーラの、黄色いリボンがひとつひとつくくられている。墓場は見渡す限り、数限りない。

 つまり、いく千のブランクたちが、それぞれにセーラと出会い、黄色いリボンを受け取ってきた(そして死んでいった)・・・というひやっとする歴史がここで明らかになるのだが、同時に、昔はメビウスをやっていたけれど、やめてしまったユーザー(死にアカウント)の葬式のようにも見えてしまって、思わず笑ってしまった。この演出を見てしまうと、なんかもう、先へ行くしかない!(=葬られたくない)という気になってきますね。

 (ちなみに、いま久しぶりに自分のフレンド欄を1年ぶりかに確認してみたのだけれど、長期間ログインしていない、と表示されたユーザーは1割くらいしかいなかった)

 こうした例以外にも、ユーザーにむけて、メタ的に他のユーザーの存在をほのめかすような台詞がちらほらあって面白いなと思う。

 ファイナルファンタジー15は、規模の大きなゲームで、たくさん売れた。全世界で600万本だっけ。それだけに毀誉褒貶が多いけれど、個人的には、かなり面白かったし、いまも追加要素が出るとしっかり遊んでしまう。つぎの「16」まで、ときどきでいいから、何らかの形で楽しめるといいなと思う。

 この記事では、FF15の本編を一通りクリアしてみて、思ったことを書いてみようと思う(ネタばれ沢山あります)。

 『15』はコンセプトがわりに明確な硬派なゲームだった。そこに各チャプターの小さなエピソードが部分部分で、伏線を取りこぼしつつも縒りあわさって、ひとつの流れを形作る。

 開発力が追いつかずにたまたまこうなったのか、それともあえて狙ったのか、ちょっと悪い夢をみているような展開が続く。それでもストーリーは、コンセプトの成就のため、予定された終点に向かって確固としてひたすら進んでいく。絶妙なさじ加減だと自分は感じたけれど、説明不足に感じる人もいるかもしれない。

 アーデンというキャラはとてもよかった。彼は主人公のノクティス(が代表するルシス王家)の鏡像のような悪役で、ノクティスが国レベルの王(ルシス王)を目指す際は、敵国の宰相として現れるし、もう一段上の、世界を救う段階(真の王)を目指す際には、彼もそれに対応して、世界全体を闇に包みこむ悪役として現れる。はじめは狂言回しのように見えた彼の存在が、実質物語をひっぱるでかいキャラだった、ということになる。ほかの敵キャラはみんなチンケなものだ。『15』の物語は、アーデンがなにをしたかったのか、に注目するとけっこうクリアに見えてきやすいのかもしれない。

 アーデンは最後の王ノクティスを完全な状態で潰すことで、ルシス王家そのものに復讐をしたかった。それには、ノクティスがルシスの歴史を知るというか、引き継ぐ必要があって、だから王墓をめぐって過去の王様の力(や、六神の力)を手に入れる儀式を手伝うのはいわば、アーデンにとって必然ということになる。ノクティスはルシス王家を代表して戦うわけだけれど、アーデンの存在はノクトに、自らの血筋が抱えた暗部、つまり歴史に対してきちんと責任をとることができるかどうか、という課題を突き付ける。そのためにノクティスはまずは、王子から王へと、立派にならないといけない。父王レギスには王としての限界があり、どうしても聖域に閉じこもってしまう。そして立場上?性格上?国に障壁を張り、外の世界は見て見ぬふりというフシがあるため、壁の外側の国に不信感を招いたり、あげくに「キングスグレイブ」では内乱を招いてしまった。この内乱は、アーデンのたたりみたいな事件であったけれど、彼のような闇の存在を生み出す遠因も、都合の悪いものをはじき出す(象徴的な意味での)「壁」にあったのだと推測される。つまりルシスという国は、現代に至るまで、自らの抱えた暗部をいまだに克服できていない困った国だ。そこでノクティスは王を目指す過程で、父王世代を含めたルシスをも乗り越えなくてはならない。そんな彼がどうやって王の資格を身につけたかというと、それは、単に昔の王さまから力をもらったり、神様の啓示を得たりするばかりではない。移民の子ともいうべきプロンプトや、障害を得たイグニス、彼らを対等な仲間として引き連れるという経験(ノクティスがそれぞれの仲間と経験する断絶と再会の儀式は、おそらく”すべて”アーデンが手引きしている。アーデンは、真の王がなんであるかを知り尽くしている。つまり彼も過去の悲劇がなければ、限りなく真の王に近くなりえた存在であったように思われる)を経ることで、ノクティスは象徴的に、父王ができなかった「壁のない国」を体現することができる。そうして真の王となる資格を得たノクティスは、ルシス史の闇である「偽の王」アーデンといよいよ戦うことになる。たいへん面倒くさいが、ここまでしないとアーデンには迫れない。最終対決では、アーデンを力で倒す(ノクト個人の器量を示す)だけでなく、象徴的にも倒す(王として仲間との絆のようなものを示す)ために、ノクティスはいちどめの決着のあと、死んで現世とは別の位相に移らなくてはならなかった・・・。ということではないかと推測する。

 最後の結末はなかなかに衝撃的だった。変な言い方だけど、なんだかうすら寒い終幕だった。なぜそう感じたかというと、やっぱあの青春の時間が長く、ノクティスたちへの感情移入が強まっていたので、なんか結末は「かわいそう」と感じてしまった。言ってしまえばハラキリだもんな・・・。クリスタルって偉そうだよな・・・。せっかく「過去のルシス」に戻ることもできるのだから、パラレルワールド的な別エンドも見てみたい気がする。うーん。よくわからないけれど、王子には幸せになってほしい、と思うのであります。。

 万座毛。沖縄本島に旅行する人は、ほぼ一度は寄るところ・・・そんなイメージがある。なんとなく。

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 ここは、断崖からのぞむ絶景がきれいだけれど、反面、沖縄戦のさなかで人びとが集団自決をはかった場所でもある。あまりにきれいな景色なので、ぱっと見た感じ、とてもそんな雰囲気はないのだけれど。

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 しかしまあ、ここに来る人びとは、基本的にはそんなことには頓着していないように見える。ふらっと訪れた僕らも、やはり景色の良さに魅了される。浸食がすすむ崖の上の突端まで、わざわざ柵を越えて乗りだし、ポーズをとって記念写真を撮っている人がいた。観光というのは、そういうものなんだな。と思った。いつかここで絶景を楽しんだ人が、あとでこの地の歴史を知ることもあるのかもしれない。またないのかもしれない。万座毛の入り口、駐車場の付近には土産物屋が集まっていた。そこで麦わら帽と、沖縄限定デザイン?の、缶のコーラを買って帰るのだった。

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