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 ふと気になったことについての感想。
 本と音楽についての話題が多いです。

 去年のクリスマスには、御茶ノ水駅前にある、ニコライ堂にでかけてきた。時期が時期なので、もちろん、クリスマスの集会に参加するためです。

 いままでキリスト教のクリスマス・ミサには、何度かお邪魔したことがあった。関口教会が家の近くだったこともあって、丹下健三さんの設計になる大聖堂のなかの、あの独特の荘厳な雰囲気のなかでパイプオルガンの音を聞いて、自分も見よう見まねで賛美歌を歌ったりすると、「クリスマスなんだな」という気分に浸れたからだ。「信徒でなくてもウェルカム」な雰囲気も助かった。少なくとも、イルミネーションや、ショッピングを通して感じるクリスマスより、個人的にはずっと「クリスマスっぽい感じ」がする。だから、誰に告げるでもなく年に一度のひそやかな楽しみになっていた。

 そんな自分が、こともあろうに正教会のミサも見てみたい、と思って実際にニコライ堂に顔を出したのは、好奇心や興味があってのことだけれど、「誰でもどうぞ」というメッセージがあったからに他ならない。さすがに一見さんお断りの宗教空間にずかずかと踏み込むほどの勇気はまだない。

 そもそも正教会への興味は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだことに端を発している。あの小説で、とても重要ななにかとして、正教会と正教への信仰が描かれていて、それを読んだときから、できるなら雰囲気だけでも、身近に感じられる場所がないものかと思っていたのだった。あれから何年もたってしまったけれど。

 ニコライ堂のミサは夕方にはじまる。このニコライ堂というのは、関東大震災で大部分が倒壊したのちに、復興されたものだ。独特なビザンチン様式のドームをもつ。もともとは19世紀にロシアからやってきた聖ニコライという聖者が立てたということです。

 日本での正教の伝道は、初代となる聖ニコライの働きにより一定の形をなしたものの、正教の母体であるロシアで革命が起きたことや、日本での関東大震災、さらには後年の第二次世界大戦を経るうち、その勢いは弱まってしまう。しかし戦後になってその後ふたたび活動は活発化し、晴れて公式に正教会としての承認を得ることとなったそうだ。

 地図で見ると、丘の上に立つこと建物は、門から入ると正面が東側で、背が西側になる。これは大きな正教の教会ではどこでもそのようになっているそうだ。西側(背側)に死があって、東側にいるキリストから生命をいただくという構図があり、来た人は自然にそうした格好になるということらしい。

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 建物に入ると、ろうそくを購入する。200円。建物のなかは人であふれ、そこかしこに燭台があり火がともされている。白壁の聖堂は見渡すと、大きなシャンデリアがかかっていて、柱はアーチ状になっている。大きく見るとこの教会内部は十字の形をとっていて、これも、参加者が十字のなかで救いを見いだせるようにとのはからいによるらしい。そして僕も今は、ひょっこりこの十字架のなかに紛れ込み、降誕祭(の前晩祷)のはじまりを待っているひとりの参列者というわけです。

 降誕祭がはじまると、司祭が祈祷を行い、右手に集まったコーラスの人たちが歌声を響かせる。不思議なにおいがする。

正面には、僕らがいる場所と、奥の場所(至聖所ということを後で知った)とを隔てる美しいしきりがある。そこには、マリアやイエスと思しきイコンが描かれる。ある司祭はそこを出入りすることができるだしく、イコンの描かれた右側の扉を開けて出入りする。

 半分ほど経過したあと、キャンドル・サービスが始まる。勝手知ったるという感じの年配の女性の参列者が、親切に周りのひとのろうそくに火をつけ、それを順に回すようにアドバイスする。やがて説教がはじまる。ろうそくの火を、近くの人にあてないように気をつけながら、じっと音や声に聞き入る。細かいところはさすがにわからない。執り行われているものごとの音や響き、香りなどから、その雰囲気にだけでもふれているという形だ。そしてたぶん、僕のような立場であれば、それはそれでよいのだろうと思う。

 これはあくまで個人的な印象なので間違っているのかもしれないが、ニコライ堂という建物については、教会の構造そのものが、ひとつの教義の表現となっているような印象を受けた。あとで調べたところでは、正教会では、このような年を通じて行われる行事(奉神礼という)をとても大事にしているという。なぜなら、行事を執り行うことそのものが、信仰生活と不即不離だから。動作にも祈祷にも祭服にも、そして教会という空間にも、意味がある。そうして定められた空間で、儀礼を執り行うこと、それ自体が信仰の心構えの表現となる。年間を通じて奉神礼に参加するというプロセスを通じて、ひとびとは自らの信仰を少しずつ形成し、高めていった。それはロシアだけでなく、もちろん日本でもそうなんだろう。どこか遠いところの話ではなく。

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 終了後は、2時間弱も立ち尽くして疲れたけれど、とても静かな気持ちになって堂内をあとにした。もう日が落ちて、帰路につく背広姿の人たちがとても多い。僕も帰り、酒を飲んでクリスマス・イブを過ごすのだ。とかなんとか思いながら、中央線に乗り込んでいくのだった。

 旅の初日、斎場御嶽の入り口近くの売店で、スターフルーツを買っていたのだけれど、そういえばナイフ持ってきてないし、どうしようと困ってしまった。

 仕方がなく、ホテルのフロントに、事情を説明してみる。すると、快く「お部屋で少々お待ちください」と受け取ってくれた。

 ややあって係りの人が部屋にきて、きれいに切り分け、白い皿に盛りつけられたスターフルーツを出してくれた。食べやすいように楊枝までつけてくれている。素敵な心配りだ。

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 礼をいい、おいしくフルーツをいただき、時にはホテルをぶらつきながら、次の日の予定に気持ちをめぐらせる。なかなか快適な旅だな、と思った。

marathon 939

そもそも、どうして沖縄まで来ようと思ったんだっけ?

 小説家の村上春樹はある旅行記のなかで、「人々はそれぞれの幻想を求めてどこかに行き、それを手に入れるのだ」と書いている。

 それでいうなら、僕や、妻が沖縄に求めた幻想とはなんだったのか。

 妻に聞いてみると、妻は「そのとき沖縄料理に凝っていたから、現物をみてみたかった」と言っていた。立派なゴーヤーチャンプルーや、本格的なソーキそばの幻想。僕自身はというと、なにか漠然と、沖縄の歴史性みたいなものに触れることを求めていたのかも。テレビで報道される沖縄のある局面に、少し近づいてみたいという気持ちもあったかもしれない。

 ただ、それ以前に、夫婦は日常生活にとても疲れており、単に手近なリゾート地でくつろぐ時間がほしかった、という、幻想もへったくれもない欲求に支配されていただけなのかもしれない、とも思う。そちらのほうが、より真実に近かったりして。

 まあ、なにはともあれ、旅行者は幻想を求めて、旅はそれに応えたり、応えなかったりする。それでいまのところ僕の求める幻想は、さほど苦労なくつかみ取ることができている。それはまだ経験が未熟な、若輩者だからかもしれない。でも、受け取ることができるものは、受け取れるうちに受け取っておくほうがいいんじゃないか。人生の時間は限られているから。

 『スターウォーズ 最後のジェダイ』をみてきました。それでいろいろな意味で問題作だと感じたけれど、最後にはきっちり満足して帰ってきた。よくできた作品だと思いました。

 今回のお話しは、前作『フォースの覚醒』で最後にちらっと登場したルーク・スカイウォーカーが主役級で出てくるということでとても楽しみにしていた。もちろん、フォースやライトセイバーの激突を。でも「伝説のジェダイ」というわりには動きはもっさりしているし、そんなにルークがフォース使って戦うシーンも出てこないんだよね。ともかく、ああマーク・ハミルも老けたな、と感じてしまう。

 でもそれでもルークが存在感を失ってしまうわけではない。というのは、今回、彼の役割は、激しいライト・セーバーで切ったはったをするところにはないからだった。すでに観てきた人なら知っての通りだと思うけれど、本作のルークは、まさにこれまで『スター・ウォーズ』が表現してきたさまざまな要素を否定してみせる、禅寺のへんくつ和尚のような役割を果たす。ライト・セーバーを「光る剣」と言い捨て、あろうことかフォースから自らを閉ざしている・・・。血気さかんだったルークは、いつのまにそんな人になってしまったのか?

 というか、エピソード7でエイブラムス監督がうまーく流れを作ってたのに、つまり、今回の作品でいかにもライトサイド対ダークサイド、という派手な激突がありそう、という流れを作っていたのに、ライアン監督がいきなりちゃぶ台を返したという構図にも見えますね。そうじゃないんだ、光と闇の対立とか、ヒロイズム賛美とかではなく、大事なことはほかにある・・・。というメッセージが聴こえてきそうなストーリー。それで最終エピソードもまたエイブラムス監督が引き継ぐという話なので、どんな幕引きになるのか、いまから気になって仕方ないです。

 マークハミルが老けた、ということでいうと、長い月日が流れて、キャリー・フィッシャーもついに帰らぬ人となってしまった。映画では姫の最後の雄姿というか、印象に残る場面がたくさん用意されている。が、これまた予想の斜め上をいく演出だった。

 たとえば敵の戦闘機に砲撃されて宇宙空間に投げ出されたレイア姫が、自らに宿るフォースの力を発揮して、宇宙遊泳でクルーザーに帰還してみせるところ。これ、ありなのか?設定では彼女はフォース使いの血統ということになっているし、これくらいのことができてもおかしくはない、と言われればそうかもと思わなくもないのだが。ただ、その神秘的な力をまざまざと見せつけることで、反乱軍にとってのシンボルがどうして彼女だったのか、自然に納得がいくような演出にはなっていたと思う。

 先週くらいに草月ホールで開催した、グレングールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering)に出かけてきました。

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 といっても、インスタレーションも見なかったし、トークショーは買えなかったしで、なんとかライブは金曜日の当日券がとれて見に行けたと、そんな格好だった。

 ほんとは日曜日のぶんのチケットをきっちり事前入手してはいたのだけど、痛恨のスケジューリングミスにより、どう頑張っても観に行けない、オワタ、ダフ屋が回るイベントではなかろうし・・・と思っていたら当日券が僅少で売り出してたので、それをゲット、そして知人が日曜日ぶんを引き取ってくれるラッキーが発生し、なんとか損害も少なくライブを見れたというわけでした。

 ライブのほうは、わりと実験音楽ふうで、忍耐が必要な場面もあったけれど、トータルとしては楽しめた。

 ラップトップ・コンピュータから流れる茫漠とした電子音のなかに、断片として浮遊するグレン・グールドのピアノのフレーズは、遠景から近景、浅いところから深いところ、と微妙にうつりかわりながら、聴き手の記憶を刺激してくる(ような気がする)。教授の『async』をぼんやりとしか聴いてないのではっきりとはいえないけど、前半はあの世界にフェネスさんのギター、そしてグールドのゴルトベルクの断片が混ぜ合わさった不思議な雰囲気だったと思う。

 ゴルドベルクの第一変奏がモチーフで、分解されているぶん、そこからオリジナル?のグールドの演奏を想起してしまい、ぐっとくる場面も。

 フランチェスコ・トリスターノのソロ・ピアノに移り、遠目には、ついに祈りが通じてグールドが復活したのではないかとつい勘違いしてしまう(姿勢も猫背だったような?)冴えたクラシック・パフォーマンスがあり、最後はみんな戻ってきて、クライマックス。

 思うに、聴いている人たちのなかの記憶や思い出が、あの場では集合的に、あるいは個人的に投影されて、それぞれがそれぞれのグールドを偲ぶことができたのではないかと。そんなパフォーマンスだった。映像作品にもするそうなので、もう一度追体験したいな。あとトリスターノさんは腕利きで、素晴らしかったです。

 朝起きた時でも、夜寝る前でも、最近は『ムービング・アート』シリーズ(Netflixオリジナル作品)をつけることがかなり多い。

 このシリーズは、世界中の絶景を次々と映し出していく映像美が売りで、ぼんやり見ても真面目にみても飽きることはない。よくもまあ、これだけ撮ったものだ、と、エピソードを連続で見ていくにつれ、そのボリュームに圧倒される。世界の秘境、森や海、星空、どれもこれもちゃんとした構図でフレームにおさまっている。自然がこんな表情を見せるのか、と、若干自然にたいする見方が更新されるくらいきれいだ。

 ただ、ぼくは、つい「ながら」で観たりみなかったりしているのだけど。好きな音楽をかけて、『ムービング・アート』は、その音楽の「あて」にしていることが多い。

 そんなの邪道じゃないか、と思われるかもしれない。しかし、この映像作品はは環境音まで採取しているわけではないので、BGMの音楽を取ったら無音になる。そのBGMも個人的な印象としては、あくまで添え物にすぎないクオリティであると思う。

 すばらしい映像美を見るともなく見る。かけながし温泉のように、贅沢に。映像はふんだんにある。その間、好きなようにくつろぐ。この映像がその邪魔をすることはない。こう書くといかにも邪道な見かたをしているのではないかと思われそうだけど、このシリーズの楽しみ方はこれでいいのだと思う。ちゃんと、字幕で、木々がざわめいている、とか、教えてくれたりもするのだ。

 つまり、このシリーズは喫茶店とか料理店とかで流すのにとても向いている。映像の切り替わりもテンポがよく、たとえばポップソングを流すと絶妙にフィットする。むしろそのために作られたのではないかとすら思える。

 いつかもし、本当にお店をやるようなことがあったなら、その時はバックグラウンドでこれを流してもいいと思う。

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