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日々の泡沫 浮かんでは消えるものの記録です。

 なにかちょっと疲れたのか、今日は一日家でじっとしていた。午前中からよく晴れていたが、夕方くらいから小雨がぱらついた。つい手は動かしてしまう性分なので、なにか書きものをしたり、ぐりぐりストレッチをしたり、本を読んだり・・・でも、一歩も家から出なかった。ぼくにしては珍しいことだ。

 今日読んでいたのは中沢新一さんの「人類最古の哲学」という本で、これは連続紙上講義「カイエ・ソバージュ」シリーズの第1巻にあたる。

 この本は読めば読むほど面白い。

 どんなところが面白かったか。この本で扱っているのは神話なのだが、神話というのは、長い時間をかけて世界中に散らばって、土地にあわせて少しずつ変形してきた。だから、たとえば「シンデレラ」ひとつとっても、さまざまなバリエーションがある。

 本の中では、世界各地のシンデレラ伝説を詳しく比較していくことになる。なにか紙上で世界旅行をしているような気持ちになるのだ。わくわくする体験だ。

 そのうち、南方熊楠が、それまでだれも見つけていなかった「中国のシンデレラ」を見つけたなんていう話も出てくる。もちろん、本の中で筋をしっかり追うこともできる。

 人によっては、シンデレラがいくつもあるなんてナンセンスとか、たかがシンデレラ物語、とか感じることもあるのかもしれないが、ぼくにとってはこの上なく好奇心が刺激される体験だといえた。

 ぜんぶで5巻もあるそうなので先を読むのが楽しみだけど、じっさい読むペースはひどくゆっくりである。いつになったら読破成るのか、それは不明。

 家から一歩も出なくても、心楽しく本が読めたからいいか。

 ぼくは昔から猫背がひどかった。骨盤は後ろに倒れ、背中はやや丸まり、顎は前につきでていた。これは典型的な、猫背姿勢。

 おもえば、本を読むとき、勉強するとき、ゲームする時、つねにその姿勢で過ごした。頭痛や肩こりに悩まされたし、何よりあまりはかどらなかった。

 坐っているだけでしんどくなる。そんなのは嫌だ。

 と思い、生来のなまけ症なのか、楽して座る方法を調べたり、考えたり、人と話し合ったりするようになった。

 坐り方ひとつでも、変えると違うんだなと気づいたのは何年か前のこと。

 いろいろ調べてわかったのは、坐っているときは体重をかけるポイントを気をつけなくてはいけないということ。

 おしりにグイッと突き出ている、坐骨に体重を乗せよう、という説もあれば、いやどちらかというと、会陰部にかけるといい、という説もある。

 姿勢の悪い人は、どちらかというと骨盤が後ろに倒れて、いわゆる「殿さま坐り」になっていることが多いかと思うので、ぼく個人としては会陰部に体重を落とすくらいの気持ちの方が、うまく姿勢を切り替えられるのではないかと思うのだ。

 骨盤をこうするようになってから、骨盤はまっすぐ立ち、背中は以前ほど丸まらなくなり、顎はすこし弾けるようになった。そして、首の後ろにかかっていた嫌なひきつりが消えた。最初は違和感があったけれど、上半身全体をつかって、それまでより深い息をつけるようになってきたと思う。

 あるポイントに集中していた力を、体全体でうまく分散して使えるようになることは、けっこう大事なのではあるまいかと思います。

 メビウスFFのマルチプレイ、けっこう楽しいです。

 多人数プレイにつきものの通信障害は、自分を含めてままあるのだけれど、安定してできているときはとても楽しい。

 というか、このゲームはアプリ自体が不安定なところがあり、たびたび落ちてしまうので、自分がホストになった時とか、猛攻をかけないといけない場面とかでふと落ちてしまわないか、別の意味でスリリングである(これは改善希望)。

 やっていて思うのは、当たり前だけどプレイヤーそれぞれにスタイルや、読みの精度が違っているということ。

 キャラクターの能力以上に、チームワークが大事なので、展開に即した行動を取れずに空回りしてしまった時などは、勝ち負けにかかわらずちょっと落ち込むし、反対にうまく立ち回れた時は嬉しい。

 誰がどんな能力をもっていて、どのタイミングで使用するかはターンを重ねると読めるようになっているので、その気になれば、上手に計算ずくで動くことも可能みたいだ。

 今までのストーリーモードとは、また違った面白さがあると思った。今後の展開に期待。

「落語の世界は、演ずる方も、観る方も、気むずかしくなければならない。
 時代とともにハシャぐことによって盛り上がる漫才とちがって、落語は、かなり、時代を超えていなければならない部分がある」『名人 志ん生、そして志ん朝』(文春文庫)より

 うまく言えないのだが、落語は、ある時代、ある地域の言葉や文化や情緒といったものを、かなり純粋に保存している芸能だ。だから、演ずるものは、たとえば生粋の東京弁(下町言葉)が分からないといけないし、そうした言葉の息遣いが自分の体にしみ込んでいなければならない(と言われる)。つまり、東京言葉のネイティブ・スピーカーか、それに近い存在であることが資質のひとつとして必要とされるという。

 客のほうも、(たぶん)そうした言葉がツーカーで伝わるように訓練された耳を持っていないといけないし、ちょっとした表現のニュアンスを解しないといけない。ということなのだろう。

 厳しいことである。落語家は、そうして子どものころから自然に喋ってきた言葉を駆使して、芸をやる。落語の世界では、落語家の生きた足跡が、そのまま芸に転化するようなところがある。

 だから、病を得て倒れた志ん生が、ろれつが回らない状態で高座に復帰しても、客は文句をいうどころか、それで構わないと感じる。

 志ん生は、全盛期にはその闊達な芸の凄さが人を引き付けたけれど、同時に、存在じたいが落語的な何かだったのだろう。

 それで、だから逆に、それだけの濃密な資質を要求する落語は、安易な模倣や伝承をはじめから拒絶するようなところがある。だから、「この人こそ」というような名人が死んでしまうと、あとが絶えたような心持になってしまうのだろう。

 いまでは志ん生も志ん朝もなくなったため、話芸に触れるのは録音を介してになる。そこには(ある人々からすれば)理想的な時代が封印されているわけだ。

 ぼくのように生半可な聴き手からすれば、それは、ちょっとした憧れであって、手の届かない世界のようにも思われる。

マレフィセント (吹替版)

 映画「マレフィセント」。最近立て続けに映画を観ています。

 映像がものすごくきれいだった。ムーア国の光景や魔法の、CGによる演出はとにかく見応えがあった。しかし、物語はそれなりに暗く、ドロドロとした大人の世界であった。観終わってから、この映画はなんだったんだろうとちょっと考えた。誰に観てもらうために作ったのだろうか?

 そして結局、特には子育て中のお母さん、それもシングルマザーが観て共感できそうな映画なんじゃないかと思った。

 観てみるとわかるのだが、主人公のマレフィセントの境遇が、養子をもらいうけたシングルマザーそのものだ。彼女のオーロラ姫を守り育てようとする奮闘には、ほろっとくるものがあった。実の親より、育ての親、といった言葉がなんだか実感をもって迫ってくる。

 マレフィセントは、従来の「ねむり姫」ではおっかない魔女として描かれていたが、今回は、気品があってチャーミングで、と魅力的な女性に描かれている。

 そして、王様や王子様は、あまりぱっとしない。というか、王様は悪の親玉のように描かれているし。白馬に乗った王子様がお姫様を幸福にする・・といったいままでの王道パターンから、逸れるような物語が最近のディズニーでは(アナと雪の女王を代表として)描かれているけれど、これはけっこうすごいことだと思う。

 最後は大団円という感じで、おさまるべきところに物語はおさまっていく。しかし、オーロラ姫は本当にあれでよかったのだろうか?彼女の人間的な内面は、実際あまり描かれていない(そのことで、一層マレフィセントの人物像が引き立つのだろうけれど)。もっと、いろいろあったけど成長して、親から和やかに自立します、的な展開を予想していたので、あのラストシーンはちょっと不思議な感じがしたな。彼女は幸せにやってゆけるのだろうか。

 とかなんとか。アンジェリーナ・ジョリーはとにかくいつでも、びっくりするくらい美人だった。

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