p a r a d e 0 . 5

 ふと気になったことについての感想。
 本と音楽についての話題が多いです。

 漫画版のカフカ短編集(というものがある)から、『ジャッカルとアラビア人』を読む。

 カフカにいろいろ奇妙なモチーフの作品はあるけれど、この作品のような夜の砂漠、というのは珍しい。

 砂漠で眠れぬ夜を過ごす主人公のかたわらをアラビア人が通り過ぎ、そのまわりををジャッカルが取り囲む。

 ジャッカルは、主人公に、憎いアラビア人の殺害を依頼する。そこに現れたアラビア人は、鞭でジャッカルを脅し、かれらに死んだラクダを差し出す。ジャッカルたちは、誘惑に耐えきれずラクダの屍肉を貪ってしまう。

 この話、なんの寓意だろう。

 調べてみると、この作品はユダヤ人の悪徳?みたいなものを、ジャッカルのハイエナぶりに託して描いたもの、という意見があった。

 ユダヤ人の悪徳、金にがめつい、などというのは、ステレオタイプなイメージだ。

 もしジャッカルがユダヤ人、という重ね合わせがあるのであれば、カフカ自身がユダヤ系の家柄である、ということも、たぶんこの短編でのジャッカルの描き方に影響してるのではないかと思う。

 たんに、ユダヤ人と、アラビア人、ということで世相を描いたということなのかもしれない。

 しかし、それだけではなく、カフカ自身が、自身のユダヤ人気質というか、背負っている血脈というか、そういうものと対面させられる一種の悪夢なのかもしれない。

 などと書いてはいるけれど、もしかしたら、ユダヤ人ということではなく、組織に不満を持ちながら飼いならされている、というようなイメージが念頭にあったのかも。カフカは勤め人でもあったから。

 いろいろな感想が浮かんでくる。

 この『ジャッカルとアラビア人』は、読んでいるとなかなかにクエスチョンマークがよく出てくる。

 ジャッカルが、主人公の上下衣に噛み付くシーンがある。がっちりしていて簡単には離れないという。

 それから、主人公はジャッカルの群れからとつぜんご主人様と呼ばれる。

 なぜ?と思うが、なんとなく流れでそういうことになっている。

 物語の始めは、傍観者のようだった。それが、知らぬ間に、骨まで当事者になっていることに気づいた時の、困惑。

 読者を無理やり不安定な足場に引きずり込む、カフカ流の進行。

 ジャッカルが、屍肉をむさぼるシーンは、イラストがついているぶん、強いインパクトを残す。このシーンは、見開き1ページを使って大きく描かれている。主人公に見せつけるように。

 なんでこんなものを見なくてはいけなかったんだろう、という強烈な違和感とが読者の読後感として残るわけです。

 あくまで想像だけれど、たぶんこの短編は、カフカがもっていたなにかの心象風景であったのだろう、となんとなく思う。

 1996年くらいの、村上龍と浅田彰の対談を読んでいた。今思うとかなり豪華な顔ぶれがそろった本で、その当時の(何人かは今でも)トップランナーばっかりが登場している。

 出版から20年以上もたったいま読み返すと、どうなのかなあ、と思ってぱらぱら読んでた。

 その対談「映画とモダニズム」のなかで、村上と浅田は、小説や音楽など、表現する上でつきつめていった結果、とめどなくカオスに入り込んでいくことをよしとするスタンスについて、批判的に話しているところがある。

村上(・・・)アメリカの文化は、ジャズにしても、インプロヴィゼーション神話というか、うそみたいな、大嫌いですけれども、恍惚としてフレーズを吹くといったって、あれはただの繰り返し、コピーですからね。そうでなくて、クラシックの中にもっと自由な演奏もある。そういうアメリカ文化のうそが、ぼくもキューバを直接知って、やっとわかったというのもあるんです。「映画とモダニズム」『存在の耐えられないサルサ』所収

 ジャズのインプロヴィゼーションは、決め事を取り払って自由、と見えて、結局それは本当には自由ではないのではないか。

 それなら、クラシックのようなコントロール意識への自覚があって、そのなかで試行錯誤しているもののほうがいい、ということなのだと思う。

 あとは文脈としては、コントロールを手放して忘我の域に入った演奏が本当に優れたものなのか、という、厳しい批判も含まれているんじゃないか。

浅田 でも、逆にそういうことを知った上でもう一度ジャズを聴くと、一番いいジャズって、その意味でやっぱりクールだよ。最盛期のマイルス・デイヴィスとか、白人だけどビル・エヴァンズとか、あれは、率直に言ってコークをやってなかったらできなかっただろうと思うくらい、リズムから、ハーモニーから、すべてのレヴェルが明晰にコントロールされてて、完全にのってるんだけどもすごく醒めきってるって感じ。あれがジャズなんですよ。

 浅田彰は、それに対しては、ジャズにもコントロールへの自覚を持った音楽があるよ、ということでマイルズやビル・エヴァンズを出してくる。

 なるほどなあと思った。

 というのは、時々フリー・ジャズのことを考えるのだ。

 いままでに聴いてきたいくつかの、めっためたに煮詰めたようなフリー・ジャズ。

 めちゃめちゃに崩した中から、なおわずかにアンサンブルというものであったり、リズムや、メロディや、そもそも楽器で演奏している、などということが抽象的に浮きあがってくる、そんな不思議な表現形態。だと思っていた。つまり、メタ・ジャズ。

 たぶん、コントロールを手放したところに、ジャズという形式のもつ、ひとつ上のコントロール性を見出すというか、つまり倒錯したような感じのセンスを持っているということで、これはべつの意味で、のっているけど、さめている、という極北、とも言えるのかなあ。

 ただ、これは、あんまり好きには、なれなかったんだよな。いまではもう、ほとんどフリーは聴きません。

 上の会話の少し前で、いくつかの思考や運動のモダリティが、独立してばらばらに動いている状態が、のっている、でも醒めている、なんだと説明していた。

 これは、部分的には、狂気をはらんでいるというか、ぶっとんでいるのだが、トータルでみると、高度にコントロールされている、という不思議な状態だ。フリーとか、そういうことでなく、崩さない方向でそれをするのは、大変至難のわざだと思う。

 ビル・エヴァンズの、あのつっかかるようなリズムや、どこまでも沈潜するようなタッチというのは、やや病的なくらいの雰囲気を持っているけれど、ああいうのって、たしかにちょっと飛んでいないと、難しいものなのかも。

 とか思うのだった。


 そういえば、超久しぶりに、ブログのPC Viewのほうをいじってみました。背景にうっすら浮かんでいるのは、沖縄で撮ってきた海の写真です。海はいいです。

 川越市立美術館でやっている、「猫まみれ展」に行ってきました。けっこう面白かったので、「猫タグ」があるブログとしては、いちおう感想を書いておくべきだろうと。

nwko

 招き猫亭さんという人は、そんな人がいるということも知らなかったのだけれど、この人のコレクションになる、さまざまな猫アートを一堂に会したのが、今回の「猫まみれ展」ということになります。

 展示会場に足を踏み入れると、よくもまあこれだけ・・・という、怒涛の勢いで絵画や彫刻作品があらわれる。

 これは、個人コレクターとしてはちょっと常軌を逸したすごい規模だ。感服。猫好きは一回、見に行ったほうがいい。世界観ならぬ、猫観が変わる。

 猫は、あたりまえだけれど、世界中どこに行っても猫だ。人間と一緒にいる、気ままな伴侶。近いようで遠い。内面は、うかがい知れないところがある。

 時代や作風、モチーフによって、猫はさまざまな肢体を見せるけれども、どことなくミステリアスなところは、ほぼ共通しているように思えた。

 はじまってすぐのところにかかっている、ビアズリーの挿絵がなんか、ツボだった。ワイルドのサロメの挿絵を描いていた人だ・・・。

 それから、浮世絵もあるし、竹下夢二とか、果ては横尾忠則とか、もちろん萩原朔太郎も。お腹一杯。

 ここには並んでいないけれど、アートならざるちょっとした小物とか、写真集とか、そういうものもきっと沢山持っている人なんだろうな・・・と、、まだ見ぬ招き猫亭氏のことをふと想像しながら、会場を後にしたのだった。

 人工知能の話。

 人工知能が進化して進化して、いつか人間の知能を完全に超える、というシンギュラリティ仮説は、時間がたてば、ああそんなことも言っていたね、ということになるのかもしれない。

 そもそもあれは、西欧的な発想で、一神教の神様とその不在が、AI設計者たちを開発に駆り立てている動因になっているという。人間の論理的機能を極度に鍛えてゆくことで、超知性を生み出し、神様の座に近付くことができる。そのような、強い信念があるらしい。

 このあいだまで読んでいた『ビッグデータと人工知能』(中公新書)には、そんなことが書いてあった。

 まあ実際、研究者たちの日々に、宗教的な要素がどのくらい影響しているのかはよくわからないが、人工知能の未来のビジョンというのを考えた時に、西欧の研究者であれば一神教の世界感がベースになってくるというのは、なんかありそうな気がする。

 この本を読んでいくと、シンギュラリティが、いかにおめでたい話で、人間の本質を見誤った暴論か、という気がしてくる。手塚治虫の『メトロポリス』で描かれているディストピアは、シンギュラリティがもたらす、おかしな終末的風景によく似ているな、とふと思い出したりした。

 さてさて、シンギュラリティを迎えた人工知能は、自己フィードバックを繰り返し、勝手にバージョンアップしていく。本当は、人工知能は、外側から人間が入力して、結果が外部に出力されていくものだが、複雑化しすぎた自律型の人工知能は、外部からのアクセスを受け付けなくなる。人間では命令も検証もできないのだ。

 やがて人間の手を完全に離れた人工知能は、一神教の聖典にある、「はじめに言葉ありき」という言葉を浅薄に解釈したことから、人間を機械と捉えて、世の中を良くするためにさまざまな解決案を実行していく。人間の生命的な価値を統計的な情報に還元し、正確だが冷酷と思える決定をびしびしと下していく。経済がまずいのでリストラ、兵隊が足りないので懲役、そんなこともあるかもしれない。

 たまるかー。という感じだ。

 そして、個人的に心配なのは、そこまで自律してしまった人工知能はちゃんと自分でバグを潰せるのかということだ。プログラム上のバグばかりではなく、twitter上で偏向したフレーズを学習して、アカウントが停止してしまった哀れなBOTのように、バグではないけれど、偏った刺激を内面化させられてしまうというケースもある。

 感じるのは、ギーク的な追求力は素晴らしいものだけれど、シンギュラリティを無心に奉じる西欧の技術者たちの一部の人間理解は、簡単で底の浅いものになっているのではないか、という疑問だった。根っこの、そこをなんとかしないと、実現しないにしろやばいのではないか。

 もう遅いが、むしろバイブルをこっそりと書き換えてしまったほうがよかったりして・・・。というのはもちろん冗談だけど。

 でも、矛盾するようだけれど、広大なゲーム空間のようなところで、「ルーラー」としての人工知能の実験をやってみるのは、面白いのではないかと思う。極力人間の運営スタッフの介入を減らして、簡単なコンセプトやルールを人工知能が決めていく。アプリの価格とか、サービス終了時期も決めてもらう・・・とか。なにができるかできないか、けっこうわかるのではないか。

 そしてこれまた矛盾するようだけれど、機械がどこまで発展するのかということ自体には、かなり興味があります。たとえば音楽を、どこまで人工知能が書けるのか。バッハそっくり、というのではなくて、新しいジャンルの音楽を。

 本来的には、超知性に支配を託すというのではなくて、人間の生命的な価値を残したまま、人工知能の機械的知性とうまく連携を図る、ということができたら良いという、この本の主張には賛成できる。
 いまは、人工知能の演算能力の向上ばかりがトピックに上がってくる。そうなってくると、人工知能のガイド役を、はやく人間もできるようにならないといけない、と思う。


↑このページのトップヘ