世界が円盤だった時

 ふと気になったことについての感想。
 本と音楽についての話題が多いです。

 連休の最終日。ひたすら寝ころんでいた。日々の疲れがぐぐっと溜まっているみたいだ。「ああこんなに疲れて、そのせいか老けてきた気もする。最近読んでるジョジョに不死身の吸血鬼が出てくるけど、あいつは一切疲れなさそうだしなんか羨ましい・・・」とか考える。

 当たり前だけど僕は吸血鬼ではない。漫画では、吸血鬼は石仮面という不気味な道具の力によって超常的な力を得るのだった。強くなるだけでなく、体の一部が破壊されてもすぐに再生することができる。年も取らないらしい。もし死なない体なら、いくら働いても疲れとかはたまらないだろう。うらやましい。だが吸血鬼は太陽の光を浴びると消滅してしまうという。そうならないように光を避けながら、人の生き血を吸って生きるという。

 うーん、それはそれで面倒くさそうだ。やはり俺はまっとうに生きるしかないのではないか。

 とかなんとか。本当にしょうもないことばかりが頭に浮かんでくる。

 漫画のことを思い出したついでに、このあいだ遊びに行った、角川武蔵野ミュージアムのことも連想にあがってきた。東所沢駅から少し歩いたところにある、最近オープンした施設。

 東所沢駅周辺は、埼玉県の一般的な国道沿いを思わせる風景が広がっていて、特別変わったところもないのだが、駅から徒歩15分ほどのところにある公園に隣接したミュージアムの建築は、こう言ってはなんだけど周囲の街並みからすると場違いに感じるほどの現代的な真新しさと大きさがあり、視界に入ると圧倒される。

 そこで荒俣博さんの監修した妖怪展を見て、そのあとで、同じ建物内にあるマンガ・ラノベ図書館を見てきたのだった。

 妖怪展では日本全国津々浦々の妖怪が紹介される。あれも妖怪、これも妖怪、圧巻だ。一反木綿は空が飛べる(うらやましい)。足が長いだけのやつもいる(うらやましくない)。室外機だって付喪神だそうだ。すごい。そういえば吸血鬼は妖怪ではないのだろう、今回の展示には出てこなかった。

 展示を見て思ったこと。妖怪とか、妖怪を思わせるヒュードロドロ的なものって、時に汚らしくて時にグロくて、さらに時に密集しているものなんだな。それは嫌悪されるものかもしれないが、同時に懐かしい感じを呼び覚ますものでもあった。郷愁かもしれない。僕たちはいま不可避的に、ますます清潔でなくてはならない世の中を生きている。そこはここにいる妖怪たちにしたら、きわめて住みにくいところではないか。だが、日本人の不安な精神はヒュードロドロを忘れておらず、アマビエみたいなものを召還してくる。アマビエがウィルスを退散させたら、また密々とした世界が戻ってくるんだろうか。

 眠い頭でそこまで考えると、急にのどが渇いたのでコーヒーを入れることにした。こうして徒然、何日かゆっくりすると、芯のところにこびりつくような疲れが溶け出してくるような感じがある。今日はずっとこのままだらだらすごすのだ、と思いながらコーヒーを飲んだ。

 我が家の三毛猫さくらはすくすくと大きくなり現在1歳と7か月。その間食欲のちょっとした浮き沈みくらいはあったものの大きな病気もなく、これまでのところ身体的な成長は順調そのものといった感じだ。精神面に関してみても、多少不安になることはあっても、基本的には毎日を楽しんでいるように見える。

 ところで最近なにかで知ったのだが、猫は前頭葉が小さいそうです。前頭葉というのは人や動物がなにか判断を下すときにはたらく司令部のような場所で、こいつがうまく働かないと、なにかで多少じらされたりしたときに、こらえが利かなくなってしまう。人間でいうと世の中の肉食系の人たちは「いますぐお持ち帰りしたいけど、がっつくと嫌われるかもしれないから今回は余韻を残して次回のデートで」とか計算していそうだけど・・・そのような場合に前頭葉をフル活用しているというわけです。

 猫の前頭葉は小さい、ということは、このへんの我慢が比較的苦手、ということを意味している。さくらをみていると、とても欲求に忠実というか、遊びたいときも眠たい時も待つことを知らない。このあいだは、僕が『モンスターハンターワールド』というゲームで、凶悪な竜を「ひと狩り」してる最中に、さくらにとつぜん腕にかみつかれた。さくらはそれまで5分ほどは遊びたい気持ちをこらえていたのだが、ゲームばかりでなかなか構ってもらえないので早々に我慢の限界がきたのだった。ちょうど僕と僕の操作するハンターは、追い詰めた氷牙竜ベリオロスの特殊個体にタル爆弾をしかけ、首尾よく爆破攻撃に成功したところだった。

 爆風にまかれたモンスターは怒りの咆哮をあげ、僕はといえばさくらに食らいつかれ情けない声で叫んでいた(かまってやらないのが悪いが)。それでもコントローラーを離さなかったのは前頭葉の働きによるもの・・・とか考えている間もなくベリオロスは反撃に出てくるし、一度振り払われたさくらも再びコントローラを持つ手に狙いをつけ、とびかかる体勢にシフトしている。

 追撃。僕は体幹をひねって大げさに体をずらし、猫の鋭いとびかかりをすんででかわした。ベリオロスのほうは運よくハンターの棍による連撃が入り沈黙した。狩り、終了。ふと、さくらはベリオロスより強いのではないかと思い、警戒を強めることにした。

 僕がコントローラーを置いたことで、さくらはようやく遊びの本番が来たと腰をもみはじめ、爪も牙もむきだしにして大ジャンプ。再びかわした。そして僕は手近にあった折りたたみ傘(折りたたみ済み)を構え、猫をけんせいした。

 なんの話か。猫の前頭葉について書いていたんだった。本題に戻ろう。そんなさくらではあるが、日々を重ねるなかで彼女なりに少しずつ分別を備え、飼い主からある程度の声掛けや位置の移動をうけたときには、執着していたものからいったん離れる、ということを覚えてくれるようになった。それが前頭葉が発達したからなのかはわからないけれど、成長を感じてなかなかうれしいものである。

 (その後。折りたたみ傘をかまえてもお構いなしのさくらであったため、彼女のさらなるとびかかりをいなし「なにやってんの」と抗議。加えて実力行使しかあるまいと、手ぬぐいを広げて彼女の頭にぶっかけると、さくらは「ちっ。勝負はおあずけだ」とばかりに鼻息を吹いて、さーっと別室に逃げて行ったのだった)

 いつのまにか梅雨になりました。
 去年はたしか、梅雨らしい梅雨がなくて気がついたら夏!だった気がするんだけどどうだったっけ。とにかく今年は梅雨がキリッとした顔で、おっす、梅雨っす、よろしくっす!と来たのだった。

 新型コロナウイルスに関して出ていた緊急事態宣言が解除されることになった。自分とその周囲では幸いにも日常生活はかわりなく、ウイルスに気をつけつつも、できる範囲で健康的で文化的な暮らしをしていこう、という雰囲気になっている。地震や津波と違ってウイルスはいまでも存在しているわけだから、「喉元を過ぎたら」で忘れるのが得意な人でも今回ばかりはマスクをつけて生活している。日常生活のなかに「ウイルス対策」というレイヤーが一層生成されて、薄ぼんやりとしたベールみたいにみんなに覆いかぶさっている。

 とにかくいざというときには国はあてにならない、というのが今回のステイホーム期間に得た感想だった。政策を動かしている人たちがあまりにも国民の思いを汲めておらず、あさっての方向に向かって的外れな政策を(数えるのも面倒なくらい)連発したおかげで、そのことが浮き彫りになってしまった。

 ウイルスは日本では他の国と比べて流行らなかった。でもそれは結果論で、たまたまうまくいったからよかったけれど、それは政策がよかったからではない。このことは忘れてはいけないだろう。

 本来ならば、人々が家にいる生活を送れるようにきちんと補償をするべきだったし、今でもその必要はあるけれど(10万円でどうこうできる生活があるんだろうか)、いまはなんとなく「あとは皆さんでがんばって」という流れになってきている(つい、なにかの詐術のように感じる)。

 ここで気にかかるのは、ウイルスはまだ過ぎ去っていないけれど、国(安倍内閣)の不誠実さやその数々の失策についてはなんとなく過ぎ去っていき、人々が忘れかけているように感じることだ。

 最近では、SNS上での誹謗中傷問題や、芸能人の不倫問題(報道にとってのひさびさの獲物だ)がいまは話題で、ぼくの身の回りの人たちはすでに政策の話をしなくなっているなあと感じる。

 ウィルスに対応するマナーとか外形を整える対応はすぐにやる。けれど、心の根っこには巌のように変わらない民族的と言ってもいい性質があり、それはコロナの前と後でなにか変わったというわけではなさそうだ。なんとなくわかっていたことではあるのだけれど。

 世間はいままさに世界史的なウイルス禍のなかにあって、広いネットのどこを見渡してもみな同じようにマスクを求め、政策に一喜一憂している。ニュースでも、遠く離れた地の人がやはりマスクで口をふさぎ、家の中で歌や踊りを踊っている。

 ぼくにとっての世界というのは、多様性の象徴のようなものだった。ネットに話を絞っても、日常的な情報源やら雑談の場所である(あった)日本のTwitter などのSNSが閉じた言説空間となって、均質な空間に変わって行ってからも、探せばその外部・・・もちろんネット空間内の外部ということだけれど・・・に出会えるのだ、見知らぬ土地の誰かが、思いもよらぬ生活を送り、ただならぬアクションを起こしているかもしれない、そんな可能性をいつも予期することで、なんとなく精神の安定を保っていけるようなところがあった。

 けれど残念なことに、新型コロナ・ウィルスのおかげをこうむりそのような幻想はぱりんと音を立てて崩れてしまった。世界のあらゆる場所で、あらゆる人がこの厄介なウィルスを警戒して閉じこもり、多くの場合在宅生活を余儀なくされている。世界中が閉じたSNSのようになってしまい、それ以外の在り方が想像しづらくなった。これこそがグローバリゼーションの帰結なんだ、ということになるのかもしれないけれど、それがこのような不吉で閉塞的な世界なのだ、というのは大変なことだ。BAD ENDかはわからないが、大きな趨勢はきっと変わらない。

 ぼく個人では、(しがない医療職として)いまは現場でがんばるほかに、それから「家で踊る」ほかにも、いまこんなことが起きていて、こんなことを思っている、ということはできるだけ共有したり、記録したり記憶したりしていく必要があると感じる。できるだけ二元論みたいなものにははまらずに、また制約にもつぶされずに、自分の頭でものを考えていきたい。もしも首脳が驚くほど頭からっぽだと思ったらそう言うようなことも前より必要かもしれない。自分の足元も忘れずに掘らないといけない。

 いまはさしあたってそんなことを思っている。

 『ポケットモンスター シールド』を遊んでいる。これがびっくりするほどポケモンで・・・って言ってもなんのことだかよくわからないと思うのだが、要するに、テレビのでかい画面ではじめて遊べるようになったにも関わらず、プレイ感覚はこれまで携帯型ゲーム機で遊んでいた時と変わらないのです。もちろん、画質がよくなり、演出まわりも強化されているのにも関わらず。

 なので、これまでニンテンドーDSとか3DSとかで遊んでいたならすっと違和感なく入り込めることは間違いない。一方で、若干のマンネリ気配も感じなくはない。基本は、ポケモンをボールでつかまえて、育ててチャンピオンを目指して・・・ということだから。そこは常に一緒。また、コイキングを釣ってつかまえて育ててギャラドスにして・・・って考えるの少し面倒くさいかも。と遊ぶ前は思っていた。

 しかしそれでも遊んでいくとのめりこんで、発売から1週間くらいたった現在でもう20時間は遊んでいる。そこまでがっつりゲームをすることはあまりないので、個人的には異例のハイペース。新しいポケモンは総じて愛らしくどこか奇妙で、ポケモンが巨大化するダイマックスという新しいシステムもどこかユーモラスで、触れていて楽しい。気が付いたらコイキングもギャラドスまで育ててしまった。

 結局すごく面白がって遊んでいる自分がいるわけです。なんでなんだろう?

 その理由はあまり自分では分析できていないのだけど、よく考えると仮面ライダーシリーズだって、長く続いていてなんとなく大きな展開は決まっているけれど根強い人気を博していて、そこらへんは似ているような気もするなあ。

 新しい環境で新しいポケモンや人々に会う・・・というのが基本的にすごく楽しくて、それが陳腐になっていかないような環境がよく考えられている、というありきたりな分析になってしまうけれど、そういうことなのかもしれない。

 というわけで相変わらずポケモンにはまっています。

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