世界が円盤だった時

 ふと気になったことについての感想。
 本と音楽についての話題が多いです。

カテゴリ: 英絵

雨ニモマケズ Rain Won't

 この絵本は、宮沢賢治の有名な「雨ニモ負ケズ」を英訳したもので、絵は山村浩二さんの手になる。

 日本語の原文が添えられているけれど、基本的には英語で読む絵本なので、海外の読者に宮沢賢治を紹介するのにいいんじゃないかと。

 実際手にとってみるとわかるのだが、とてもセンスがいい本なのので、贈り物としても喜ばれるかもしれない。

 この絵本に出てくるのは、日本に住む人にとってなじみの深い、トンボや稲穂、萱ぶき屋根や田畑といった風景。

 きっとこれを手にとった、日本人以外の読者には、そうかこれが日本というものか、日本の景色なのか。と雰囲気が伝わるはずだ。

 しかし本当にこれ、日本の風景と言えるんだろうか。ふと首をかしげたくなる。英訳者アーサー・ビナードのあとがきにもあるのだが、この絵本に出てくる光景と比べ、「現代はまるで別の国」のように見えはしないか。

 この本に出てくる里山の風景は、たしかにかつて、日本固有のものだった。それはその通りだと思う。けれど国土の開発やテクノロジーの変化により、それは今は遠い昔となりつつある。つまり、この絵本で描かれる風景には、里山の雰囲気を的確に伝えるリアリティがあるが、同時に遠く探し求めなくてはならない、幻想的な風景にもなってしまった。

 だから現代の日本に住む人にとっても、この絵本を読むことで、きっと、はっとさせられるものがあると思う。よきにせよ悪しきにせよ、変わってしまったもの、失ってしまったものの姿を見出すことができるかもしれない。

 この絵本が示している文脈でもういちど「雨ニモ負ケズ」の詩を読んでみると、ふと感じることがある。

 ひょっとすると、雨にも負けず、風にも負けず、という力強い営みを示す言葉は、絵本で描かれているような、日本の里山の風景にこそ根付いていたのではないか?

 この詩は素直に読めば、「ある男が述懐した、人間のあるべき姿」を描いていると思う(そういうものに、私はなりたい、と言ってるし)。

 しかし本の中では、それと同時に、「あるべき社会の姿」も重ね合わせられているのだ。

 ただ、詩に出てくるような、「野原ノ松ノ林ノ蔭」や、「小サナ萓ブキノ小屋」でもう僕たちは生きているわけではないし、ふつうに考えても、失われてしまった里山や、かっぽう着のお母さんや、制帽をかぶった学生さんを昔の通りに回復することはもうできないだろう。

 だから賢治が記したような生き方は、個人レベルよりも少し大きな枠組み、つまり今とはまた違う社会の姿を模索する中で、もういちど辿りなおされる必要がある、宿題のようなものだ。というようなことを思ったのだった。

 Shaun Tanという人の書いた "Eric"という英語の絵本が素敵(日本語版も出ているそうです)。手のひらサイズのハードカバー。

 絵の色彩が、モノクロともセピアともつかない不思議なトーンで、謎のクリーチャー、ではなくて交換留学生のエリックと「私たち」との交流を描いている。

 エリックとのコミュニケーションは、「私たち」が期待したようなものにはならなくて、「奇妙」としか言いようのないものだった。それでも、「文化の違いなのだから」と心に言い聞かせ、エリックへのおもてなしを続けていく。すると・・・というような筋。

 外部の他者と接するときに、つい感じる違和感がある。ちょっとした癖、習慣、好きな食べ物・・・。こうした違和感が、エリックの存在に象徴されているようにも受け取れる。エリックの「私たち」に与えているだろう違和感は、コミュニケーションがとれているのかどうか、よく分からない。という、かなり根源的な部分にある。じっさい、交換留学生としても、こんな感じの子はめったに来ないだろう。個性的というにはいくぶん(というか)かなり自閉的な性格の持ち主である。

 しかし不思議と、「いやな奴だな」とはならない。読み手として僕が感じたのは、エリックのキャラクターとしてかわいさ。黒い葉っぱみたいな、悪魔のような生き物。つまり、キモかわいいような不思議な存在感で、エリックとの「通じなさ」によって引き起こされる困惑もそれによって和らげられるというか、「まあ、仕方ないか」という気分になる。

 モノクロ、セピアのちょっと寒々しいトーンは、「私たち」の感じる困惑、エリックとの「通じなさ」を色で表現しているようにも受け取れる。もしも、のちに彼らの関係性が変われば、トーンもまた、変わらざるを得ない。このへんの塩梅に、この作品の暖かさがあるような気がする。

Eric
Shaun Tan
Templar Publishing
2010-05-01

 「Edwardo:The Horriblest Boy in the Whole Wide World」(John Burningham)を図書館で読む。邦題は「せかいでいちばんおぞましいおとこのこ」。普通の男の子が、やんちゃをして叱られるうちに「世界で一番おぞましい男の子」になる。ある意味カフカ的な不条理さを持つ話で、どんどんたたみかけるように少年の扱いがひどくなる様子が面白かった。しかし、こんな話にたいていの子供はだまされないと思う。ハッピーエンド。

 「1 is One」(Tasha Tudor)も図書館で読む。邦題は「かぞえうた」。コルデコット・オナー賞。「Moja Means One」と同じく、一枚絵にひとつ数字が対応しているタイプの「数え絵本」であり、これは素朴な絵がすばらしい。毎回思うけど、絵本で数字の数え方を学ぶ児童っていないんじゃないだろうか。

Hans Christian Andersen(作) / Bernadette Watts(絵)

 久しぶりの洋書絵本です。じつはけっこうな量を読んでいるけれども、なかなかにエントリに反映ができないでいます。それよりも、一般書のほうを載せたくなるので。

The Ugly Duckling (1995)

粗筋:
 アヒルの家族に生まれた奇妙な姿のひな鳥は、やがて異種であることがわかると、厄介ものとなり追い払われる。
 自らの居場所が定まらず、「アヒルの子」はいつしか白鳥が空に飛ぶのを見つける。
 刺殺されるのを覚悟で、アヒルの子は白鳥の群れに近づいていくが。

 この話は、「ある共同体を追放された人間が、別の共同体で存在意義を見つける」話として読むこともできそう。

 どこへ行ってもシャットアウトされはみ出し者だった人間が、奇跡的に、すぽっとはまる居場所を見つけるとか、そういう話として読める。

 仮にその様な寓意があるとして、それを「あざとい」とする場合、絵本の世界は基本的にあざとさで出来上がっているのかも。だが、このようにすぐに寓意を読み込んでしまうのは物心ついた大人の悪癖だよなあ、とも思う。特に絵本なんか安易に図式化しやすいし。

 話は今読むと、大して面白いものでもないです。一見すれば、下位種が進化してハッピーエンド。ただ「みにくいアヒル」は実は、もともとが貴種であり、しかも白鳥に迎えられるまではふらふらしてただけなので、努力が実って幸福になりました、とかじゃない分嘘臭さは少ない。

 絵は素朴で大柄で、好感が持てるものだった。

青空文庫では 菊池寛による翻訳(テクストのみ) が読めます。

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