教育日記

私学と公立の教壇を経験した元小学校教諭が教育現場について日々思ったことをつらつらと綴ります。学校は、「行きたければ行ったほうがいい」というスタンスです。お子さんが小学校でお悩みがあれば、ご連絡をいただければ、ご相談にのります。

いつもお世話になっている水野和夫先生の新著。『資本主義の終焉と歴史の危機』よりも、深みを増している。
経済成長だけを目指すと、高い代償を払わなければならない時代に突入したというのは、最近の世界情勢を見ると、非常に説得力がある気がする。そもそも中東やアフリカでテロ組織が幅を利かせるようになったのは、先進国やグローバル企業の強欲な資本主義のせいではないか、というよう気もしないでもない。
一六世紀以来、世界を規定してきた資本主義というシステムが終焉に向かいつつある現代。この危機を乗り越え、生き残るのは、「閉じた経済圏」を確立した「帝国」だけというのが、斬新な見取り図ではないだろうか。世界経済だけでなく、国民国家をも解体させる大転換期に我々は立っていることを水野先生は指摘している。
「資本主義が終焉を迎えつつある」という話は、その後あちこちで聞かれるようになっているが、この本を読むと、今後の世界を考えるヒントとして非常にいいと思う。
 

いじめ自殺の波紋が広がっている。同じ教員として、とても痛ましく、残念な事件である。学校はなぜこのような稚拙な対応を繰り返してしまうのか、自問自答である。

同調圧力がなせる業
尾木ママは例によって「学校の体をなしていない」と激怒しているようだが、いじめ自殺は逆に学校の本質が表れた事件だと思う。憶測にすぎないが、担任目線でひも解いてみようと思う。

昨今は、以前ほど学級崩壊とは言われなくなったが、それでも担任も管理職もいちばんの恐怖は学級崩壊だろう。いじめ自殺のほうがはるかに深刻だが、頻度は学級崩壊のほうが圧倒的に多いので、皆「明日は我が身」なのである。
とはいうものの、昔のように無条件で担任を立ててくれる時代でもなく、そこに現代の学級経営の難しさがある。

どうするかというと、「同調圧力」を極限まで高めるのだ。「君たちはかげかえのない友達だ」「みんななかよく」「○年△組は最高にキラキラしたクラスだ」というように言葉巧みに誘導していかなくてはならない。2分の1成人式なんかもこの流れから来たものと思われる。とにかく、こうやってなんとか学級崩壊に見えないよう学級を繕うものなのだ。はた目には、いい。
だが、同調圧力になじめない子どもも少なからずいるのだ。今回被害にあった中学2年生もそういうお子さんだったのではないだろうか。

場違いな発言をしてしまう→みんなでせっかく作り上げた空気をぶち壊す→アイツは迷惑だ→だからいじめてもいいんだ

子どもたちからこんな理屈はすぐにでてくる。担任も(無意識ではあるが)自分が作り出している秩序を乱す子どもということで、このいじめに微妙に対応しづらくなる。
しかし、いじめは被害者の言動の可否は問われてはならない。いかなる原因があってもいじめは悪いものなのだ、と担任は立ち向かわなくてはならないのだ。たとえ、保護者会でいじめた側の子どもの保護者から非難の集中砲火を浴びようとも・・・(難儀な仕事である)

そして、クラスの同調圧力はかつてなく高まっている気がする。(それしかクラスをまとめるすべがないから)
ちょっとでも異質なものを排除する。異質なものがないみんなが同じ方向を見てキラキラしているのが素晴らしい教室だ。こんなふうに考えている教師や保護者はほんとうに多いと思う。(口では、多様性とかインクルージョンとか言う)

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学校は、やたらと儀式や集団活動が多く、教員や保護者の負担はたいへんなものである。入学式にはじまり、終業式、お節句の行事、遠足、運動会、水泳大会、林間学校、文化祭、芋ほり、社会科見学、巣k-合宿などなど、ほぼ毎月のように行事がある。
こうした行事は幼いころの思い出として心に残る大切なものもある。けれども、たくさんの行事をやることは、子どもたちに「ウチ」の構成員としての意識を醸成させるのに何より欠かせないことになる。様々な行事をつみかさねることで、同じクラス、同じ部活のメンバーと疑似家族的な関係が形成されていく。
子どものころから行事を通じて同じ「場」を共有することで、「ウチ」の意識を形成する慣習は、大人になっても引き継がれる。学校で体験したことを会社や町内会、ママ友の集まりでも同じように繰り返すのだろう。
これらも「ウチ」の仲間であることを確認するための大切な「儀式」なので、自主的意志で参加しない人は、裏切り者として村八分のような状態になってしまう。 

2021年春からの大学入試改革によって、センター試験が廃止される。それはそうとして、東大をふくめたすべての大学がAO入試になる。
これはよろこぶべきことなのだろうか。
大学入試にまでだけでなく、教師からの意欲・態度が評価されて、それが大学に報告されてしまうからだ。常識をもちあわせていない教師を恐れながら、中高6年間をすごさなくてはならなくなる。
ちなみに、中高アメリカのAOでは教授ではないプロの面接官が面接にあたるという。日本では素人の教授があたることになる。
文科省の「答申」のように「従来型の学力」を切って捨ててしまえば、面接や作文ばかりの上手な受験生を生み、「基礎学力」を低下させて、教師の顔色ばかりうかがう中高6年間になると思うと、とても憂鬱になるのだ。

本業多忙のため更新が滞っています。申し訳ございません。

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20160404
 

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