No Nukes 原発ゼロ

初代「No Nukes 原発ゼロ」 の後続版です。 政治・原発問題などを中心に、世の中の「気になる動き」をメモします。

戦争

核兵器保有論 首相自ら明確に否定を
朝日新聞 2025年12月23日 5時00分
スクリーンショット 2025-12-23 160652---111
臨時国会閉会にあたって記者会見する高市首相
=2025年12月17日、首相官邸、代表撮影

 首相官邸の幹部が先週、記者団に対し、政権内で実際に議論しているわけではなく、実現は難しいとしながらも、「日本は核兵器を保有すべきだ」との考えを示した。

 個人の見解と断ってはいるが、安保政策について高市首相に助言する立場にある。日本が将来的な核武装の意図を秘めているのではないかと、内外で受け取られかねない。首相自らが明確に核保有を否定する発信をすべきだ。

 日本は、核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずという非核三原則を「国是」としている。自らは核を持たないというのは、広島、長崎の原爆の惨禍を知る国としての倫理的要請だけではない。

 日本も加盟する核不拡散条約(NPT)は、米ロ中英仏の5カ国以外の核保有を禁じている。日本が脱退して核開発に乗り出せば、米国を含む国際社会の強い反発は必至で、他国の核武装を誘発し、NPT体制崩壊の引き金を引くことになりかねない。

 米国務省の報道官が声明で「日本は核不拡散と核軍備管理の推進において世界的なリーダーだ」と述べたのも、従来の姿勢を堅持するようくぎをさす狙いからではないか。核保有はむしろ、日本の安保上のリスクを高め、外交の足場を弱めることは明白だ。

 木原稔官房長官は記者会見で、「政府としては非核三原則を政策上の方針として堅持している」と述べる一方、官邸幹部の発言についての論評は避けた。三原則堅持と言うなら、それと相いれないと、なぜ明確に述べないのか。

 高市政権は公式には三原則堅持と言うが、与党で議論の始まった安保3文書の改定では、三原則見直しが俎上(そじょう)にのぼると言われている。三原則のうち、「持ち込ませず」は、米国の「核の傘」に頼る以上、現実的ではないというのが首相の持論だからだ。

 自民党の小野寺五典安全保障調査会長もNHKの討論番組で核の傘に触れ、「核の議論から何も考えずにいることは、政治として無責任だ」と述べた。核兵器に対する高市政権全体の姿勢が問われているといっていい。

 官邸幹部の発言に対しては、昨年のノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会が抗議の談話を発表。自民の防衛相経験者からも批判の声があがり、野党からは更迭や罷免(ひめん)を求める意見が相次いだ。中国外務省の報道官が「危険なたくらみが露呈した」と述べるなど、対日批判の口実を与えてもいる。

 内外に広がる疑念を払拭(ふっしょく)するには、首相がきっぱりと核保有論を否定するしかない。

戦後80年と12・8
歴史が教える存立危機の危険
しんぶん赤旗主張  2025年12月8日

 「台湾有事は存立危機事態になりうる」。高市早苗首相の国会答弁が大きな問題になるなかで戦後80年の「12・8」―1941年12月8日、日本がアメリカ、イギリスを奇襲攻撃し、侵略戦争をアジア・太平洋地域に拡大した―を迎えました。

 「12・8」は突然、起きたものではありません。いまその歴史の教訓と向き合うことが求められています。

 日本が太平洋戦争に突入したのは、泥沼化する中国への侵略戦争を打開するためでした。アメリカなどは中国を支援し、日本軍の撤退を求め、対日制裁を強めていました。そのため戦争を継続する資源を東南アジアに求めて、ハワイの真珠湾と同時にマレー半島などを攻撃しました。「12・8」は、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争と積み重ねてきた日本の領土拡張主義、権益の確保―侵略戦争の行き着いた結果でした。

■台湾の歴史と日本

 日本は明治以後多数の戦争を重ねましたが、海外から武力侵攻されて戦ったものは一つもありません。

 日清戦争で得た台湾の植民地化を手はじめに、韓国を併合しました。1931年、満州事変で中国への侵略を拡大しましたが、スローガンは「満蒙(まんもう)は日本の生命線」でした。対米英戦の「宣戦の詔書」は「帝国の存立また正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり」とし「自存自衛の為」戦争するとしています。

 すべて日本の領土拡張と、権益拡大を「生命線」「存立危殆」「自衛」と正当化し、侵略していったというのが歴史の事実です。

 高市首相はこの歴史と真摯(しんし)に向き合っていません。

 首相の「台湾発言」は従来の政府説明を踏み越えて中国と名指しして戦争することがありうると公言するもので、それ自体が危険な外交的失態でした。

 日本はポツダム宣言を受諾し、中国から奪い植民地にしてきた台湾を中国に返還しました。日本は72年の日中共同声明で「台湾は中国の領土の不可分の一部」とする中国政府の立場を「十分理解し、尊重する」としています。

 この歴史からも日本は共同声明の見地を誰よりも尊重すべき立場です。それだけに共同声明を踏みにじる高市首相の言明は重大です。

■真の危険を直視し

 同時に高市発言は、「存立危機事態」を規定した安保法制の危険性を浮き彫りにしました。台湾有事に介入する米軍と中国軍が交戦すると日本が攻撃されていなくても米軍のために中国を先制攻撃し、戦争するということです。

 存立危機事態は、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由…が根底から覆される」事態を要件とします。あたかも“自衛”のためであるかのように思わせて参戦するのです。“自衛”の名で国民の危機感をあおってはなりません。戦前を彷彿(ほうふつ)とさせます。

 台湾有事で日本の安全が脅かされる危険があるのは、日米軍事同盟と安保法制によって米国の戦争に組み込まれるためです。この真の危険を直視すべきです。

 歴史は高市発言のもたらすものが愚かで危険な道であることを強く警告しています。

開戦の日に考える 「反軍演説」抹殺の先に
東京新聞 2025年12月8日 07時32分
東京新聞2023-07-28 085056
 84年前の1941(昭和16)年12月8日、日本は米英両国との戦闘に突入しました。太平洋戦争の開戦です。日本は1937(昭和12)年から中国との戦争を始めており、戦線は西太平洋にも広がります。

 緒戦は破竹の勢いだったものの開戦の翌1942(昭和17)年のミッドウェー海戦を境に戦況は一変。国土は焦土と化し、日本国民に310万人という多大な犠牲を強いた末に戦争はようやく終結します。

 昭和の初頭は「大正デモクラシー」の余韻の中にありましたが、社会から自由が徐々に奪われ、国民は戦争に駆り立てられます。なぜ破滅的な戦争に突入したのか。その要因を考えることは二度と戦争を起こさない、起こさせないための大切な教訓となるはずです。

◆政治が軍部抑えられず

 最大の要因は軍部の暴走を政治が抑えられなかったことです。

 1918(大正7)年の第1次世界大戦終結以降、国際社会は一時期、軍縮に向かいます。1922(大正11)年に日本を含む列強の戦艦保有を制限するワシントン海軍軍縮条約、1930(昭和5)年には補助艦保有を制限するロンドン海軍軍縮条約が締結されました。戦争放棄の憲法9条の基となったパリ不戦条約が結ばれたのも1928(昭和3)年です。

 1929(昭和4)年に発足した浜口雄幸内閣は列強との協調維持と、軍縮による軍事費削減に積極的でしたが、ロンドン海軍軍縮条約に不満を持つ海軍内の勢力は、浜口内閣が天皇の統帥権を侵したと批判し、政治家の一部も同調します。統帥権干犯問題です。

 条約は批准されますが、浜口首相は暴漢に襲われ、翌1931(昭和6)年に亡くなります。その約3週間後、満州事変が勃発。軍部の暴走を許すテロ時代の始まりです。

 海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺した五・一五事件が起きたのは
1932(昭和7)年、陸軍青年将校が高橋是清蔵相らを暗殺した二・二六事件は1936(昭和11)年です。

 二・二六事件は軍部の影響が著しく拡大する契機になりました。陸相、海相を現役軍人から起用する軍部大臣現役武官制が復活し、軍部は不満を抱く内閣に大臣を出さないことで、首相人事をも左右できるようになったからです。

 帝国軍人は軍人勅諭(ちょくゆ)で政治への関与が禁じられていましたが、この制度で政治から軍部の影響を排除することが難しくなりました。

 軍部の台頭に抗(あらが)った政治家もいました。その代表が衆院議員の斎藤隆夫です。二・二六事件後、衆院で行った「粛軍演説」では軍部に綱紀粛正を求めると同時に、議会を軽視し、政治への介入を強める軍部を批判しました。

 しかし、軍部の暴走を政治が止めることはできず、翌1937年には日中戦争が始まります。

 斎藤は日中の開戦から2年半後の1940(昭和15)年、再び国会の演壇に立ちます。「反軍演説」と呼ばれる演説です。
スクリーンショット 2025-12-08 143420
本社が発行する東京新聞の前身の一つ、国民新聞の紙面(1940年2月3日)

 「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を摑(つか)むような文字を列(なら)べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない」

 しかし、演説に激しく反発した軍部は政党に圧力をかけます。当時の衆院議長、小山松寿は職権で演説のうち約1万字を会議録から削除。議員も軍部に同調し、斎藤を衆院除名に追い込みます。

 斎藤の除名から半年もたたず、全政党が解党に至ります。政治家は「バスに乗り遅れるな」という合言葉の下、同年10月に結成された大政翼賛会に糾合され、軍部に抗う力を完全に失いました。

◆免れぬメディアの責任

 反軍演説を抹殺した先にあったのは、無謀な太平洋戦争への突入であり、主要都市や軍需施設が狙われた大規模な空襲、特攻隊をはじめとする無謀な軍事作戦、沖縄での住民を巻き込んだ地上戦、広島、長崎への原爆投下です。

 もちろん軍部や政治家だけの責任ではありません。言論統制が強化されていったとはいえ、戦争支持へと態度を豹変(ひょうへん)させ、国民を煽(あお)る側に回った私たちの新聞など言論機関の責任も免れません。

 世界では今、勇ましい言論がはびこります。好戦的な政府や権力を監視し、戦争を起こさない、起こさせないことが言論機関の責任を果たすことになると考えます。

桐生悠々を偲んで 反戦・反軍貫いた後半生
東京新聞 2025年9月10日 08時08分
東京新聞2023-07-28 085056
 世界中で軍事力優先の権威主義が広がり、日本周辺の安全保障環境も緊張が高まる国際情勢と無縁ではありえません。

 戦争放棄と戦力不保持の平和憲法を有しながらも、防衛力増強や防衛費膨張が進む状況は「新しい戦前」とも指摘されています。

 かつて破滅的な戦争へと突き進む時代、反戦・反軍の立場から警鐘を鳴らし続けた記者がいます。
スクリーンショット 2025-09-10 202027---111
 <桐生悠々(きりゅうゆうゆう)>=写真。

 本紙読者にはおなじみですが、悠々の紹介を少しだけします。

 1873(明治6)年、金沢市で生まれた悠々は明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けた言論人です。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知」新聞や長野県の「信濃毎日新聞」などでは、編集、論説の総責任者である主筆を務めました。

 1912(大正元)年、明治天皇死去に伴う陸軍大将、乃木希典(のぎまれすけ)の殉死では、信毎主筆として社説「陋習(ろうしゅう)打破論-乃木将軍の殉死」を書き、殉死を「封建の遺習」「野蛮の遺風」として「一刻も早く之(これ)を打破せねばならぬ」と主張しました。殉死をたたえる新聞が多い中、異例の内容です。

 新愛知時代の1918(同7)年に起きた米騒動では、米価暴騰という政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を厳しく批判。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立って寺内内閣を総辞職に追い込みました。

 すでに著名な言論人だった悠々がより注目されるようになったのは、2度目の信毎主筆時代に筆を執った33(昭和8)年の評論「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」でしょう。

 敵機を東京上空で迎え撃つ想定の無意味さを指摘した内容は日本全国が焦土と化した歴史を振り返れば正鵠(せいこく)を射たものでしたが、在郷軍人会の抵抗に新聞社が抗しきれず、信州を離れます。

◆満州事変は社説で支持

 新聞社の主筆を務めていた悠々の言論姿勢は、海外にも視野を広げた豊富な知識に基づき、過去の習慣や時流に流されない開明的なものでしたが、愛国的、帝国主義的な傾向もうかがわれ、当初から反戦・反軍を貫いていたわけではないようです。

 例えば、31(同6)年、日本軍が満州(中国東北部)での権益拡大を狙い、中国軍との衝突を起こした満州事変です。

 悠々が主筆を務めていた信毎は事変勃発8日後の社説「撤兵などは以(もっ)ての外」で「防御戦が、ケロッグ不戦条約(パリ不戦条約)から除外されていることは、今更(あらた)めて言うの必要を見ず」と、日本軍の行動を支持し、撤兵を求める当時の国際連盟を批判しました。

 32(同7)年12月には本社の前身である新愛知、名古屋新聞、国民新聞、都新聞を含む新聞・通信132社が「満州国の独立と其(その)健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である」とする「共同宣言」を掲載しました。満州国建国を支持し、これを認めない国際社会を非難する宣言に、悠々の信毎も加わっています。

 満州事変は、後に日本軍による謀略だと分かりますが、いくら真相を知らされていなかったとはいえ、他国領域での軍事力行使や権益拡大を是認する姿勢は、反戦・反軍とは相いれません。

 悠々が信毎を追われるきっかけになった評論「関東防空大演習を嗤ふ」も、決して軍事力を否定しているわけではなく、軍事的合理性の欠如を批判したものです。

◆「永遠の戦後」築くため

 悠々が反戦・反軍の報道姿勢を貫いたのは信毎を辞した後、新愛知時代に住んでいた今の名古屋市守山区に戻った以降と言えます。34(同9)年から亡くなる41(同16)年まで、発刊した個人誌「他山の石」で言論活動を続けた、いわば「後半生」です。

 36(同11)年に陸軍青年将校らが首相官邸などを襲撃した二・二六事件に対し、悠々は「軍部よ、今目ざめたる国民の声を聞け。今度こそ、国民は断じて彼等(ら)の罪を看過しないであろう」と断罪するなど軍部批判を強めます。

 在郷軍人に職を奪われた経験に加え、軍部の台頭や政治介入に対する危機感が、反戦・反軍の記者魂を呼び起こしたのでしょう。

 悠々は84年前のきょう10日に亡くなりました。破滅的な結末に至る太平洋戦争が始まったのは、その3カ月後です。当時、戦争をあおる側に立っていた私たち新聞にとって、悠々を偲(しの)び、その言論姿勢から学ぶべきことは少なくありません。同じ過ちを繰り返さず、「永遠の戦後」を築くために。

長射程ミサイル配備  米軍の指揮で他国攻撃の恐れ
しんぶん赤旗主張 2025年9月5日(金)

 防衛省が、他国領土を直接たたく敵基地攻撃能力の保有に向け、国産長射程ミサイルの配備計画を公表しました。

 敵基地攻撃能力は、政府が2022年末に決定した安保3文書の中で「反撃能力」として初めて保有を打ち出しました。政府は今も「憲法の下、専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国にならない」という「基本方針」は不変だとしています。

 しかし、長射程ミサイルは、その性能からも、想定される運用からも「専守防衛」と相いれません。日本が「他国に脅威を与える軍事大国」になることは明らかです。

■中国大陸が圏内に

 防衛省が開発を進めている国産の長射程ミサイルは、
(1)射程1000キロの「12式地対艦誘導弾能力向上型」
(2)高速で変則軌道を描いて飛び、将来的には射程を2000~3000キロに伸ばす「島しょ防衛用高速滑空弾」
(3)音速の5倍以上で飛行する射程3000キロの「極超音速誘導弾」―などです(射程は推定)。

 中国大陸や朝鮮半島が射程圏内に入ります。配備が進めば、東アジアの軍事緊張をますます高めることになるのは避けられません。

 防衛省が8月29日に発表した配備計画では、
(1)12式地対艦誘導弾能力向上型については
▽地上から発射する「地発型」を25年度から陸上自衛隊健軍駐屯地(熊本県)のミサイル連隊に、27年度からは陸自富士駐屯地(静岡県)の特科教導隊(教育・研究部隊)に配備
▽艦船から発射する「艦発型」は海上自衛隊横須賀基地(神奈川県)を母港にする護衛艦「てるづき」で、航空機から発射する「空発型」は航空自衛隊百里基地(茨城県)に配備予定のF2戦闘機能力向上型で、いずれも27年度から運用します。

 (2)島しょ防衛用高速滑空弾は25年度に富士駐屯地の特科教導隊に配備し、26年度には陸自の上富良野駐屯地(北海道)とえびの駐屯地(宮崎県)に運用部隊を新たに編成するとしています。

 (3)極超音速誘導弾については、別の防衛省資料によると、場所は明らかにしていないものの29年度に配備する予定です。

■報復避けられない

 外国製の長射程ミサイルも次々配備されようとしています。
空自のF35A戦闘機に搭載するJSM(射程500キロ)と、海自佐世保基地(長崎県)を母港にするイージス艦「ちょうかい」などで運用する巡航ミサイル・トマホーク(同1600キロ)は25年度から、
空自のF15戦闘機能力向上型に装備するJASSM(同900キロ)は27年度から納入が始まります。

 政府は、安保法制に基づき集団的自衛権を発動し、自衛隊が敵基地攻撃を行うことを否定していません。しかし、自衛隊に他国領内にある攻撃目標の情報を独自に収集する能力はなく、米軍頼みです。
米軍が海外で始めた戦争に自衛隊が参戦し、米軍の指揮で他国にミサイルを撃ち込むことになりかねません。その結果は、日本に対する他国からの報復攻撃です。

 長射程ミサイル配備反対の運動と世論を大きくしていかなければなりません。

きょうの潮流 不戦の碑
しんぶん赤旗 きょうの潮流 2025年8月29日(金)
スクリーンショット 2025-08-29 164409--111
 広島の平和公園から程近い河岸緑地に、不戦と大書された碑があります。風変わりな形は、ピース、プレス、ペンの頭文字「P」をデザインしたものです

▼原爆投下から40年の1985年8月に、中国新聞の労働組合が建立。背面には原爆で命を落とした新聞・通信7社133人の名が刻まれています。碑は、かつて国民義勇隊として動員された新聞労働者たちが建物疎開の作業中に被爆死した場所に

▼報道機関も原爆で甚大な被害を受けました。中国新聞は本社が全焼、従業員の3分の1にあたる114人を失いました。広島中央放送局(現NHK広島)ではアナウンサーが敵機情報を読み上げようとした瞬間に爆風と熱線に襲われ、職員260人中34人を6日のうちに亡くしています

毎年8月6日には碑前祭を行い、誓いを新たにします。「戦争のためにペンを、カメラをとらない、輪転機を回さない」と。その志はどこまで

▼この時期に戦争報道を集中させるメディアは、皮肉を込め「8月ジャーナリズム」と呼ばれてきました。しかし近年は様相が変わり、民放テレビではその数が激減していると、メディア文化評論家の碓井広義さんが本紙で語っています

日本の加害責任についても新聞を含めメディアの意識は低い。なにより、大軍拡を推し進める今の政権を正面から批判し、反対する市民や団体の動きを伝える報道がほとんどないのはどういうわけか。世界が戦争か平和かの岐路にたつ戦後の節目。あの夏の原点に立ち返るときです。

 暗く冷たい海の底から
長周新聞 コラム狙撃兵2025年8月27日
スクリーンショット 2022-08-31 220328
 83年の時を経て、ついに暗い海底に眠っていた長生炭鉱水没事故の犠牲者たちの遺骨の一部が発見された。昨年の坑口の発見からおよそ11カ月、昨年10月末から断続的におこなわれてきたダイバーたちによる潜水調査によって徐々に坑道内の様子はつかめていたものの、崩れて水没した炭鉱内という極めて危険な現場で障害物を地道に取り除き、ダイバーたちの安全を確保しながら格闘は続いていた。

なにもないところから手探りで真っ暗な海底を進んでいくまさに命がけの潜水であり、伊左治氏をはじめとしたプロダイバーたちの執念、必ず遺骨を持ち帰るという熱意にまず敬意を表したい。

彼らの専門的な知識や経験なしには為し得ない遺骨送還事業であり、今後とも亡くなった183人の犠牲者(うち136人が朝鮮人労働者)の遺骨の一片一片を拾い集め、遺族のもとへと送り届けていく作業は危険と隣り合わせである。

 遺骨はしっかりとした形状で海底に眠っている。今回、そのことがはっきりと証明された。これらの遺骨は日本人も含まれているとはいえ、その大部分が朝鮮半島(半数近くが大邱出身者)から強制的に連れてこられ、日本の戦時産業に動員された人々であり、「合宿所」なる施設に牛馬のように押し込められ、そこにはピストルを持った監視までつき、食料もろくに与えられず、過酷をきわめた非人間的な扱いのなかで炭鉱労働に従事させられて生き埋めにされた犠牲者である。

10代から30代が大半を占め、彼らは祖国を見ることもなく、家族にも知られることなく、83年もの年月にわたって異国の海底深くにそのまま眠っているのである。そこにあることがわかっている肉親の遺骨をひきとりたいと思うのは、誰でもかわらない人情であり、戦時動員をした国の為政者たちは痛切な反省とともに特別にその責任を負わなければならないことはいうまでもない。

 こうした遺骨の存在をわかっていながら放置する、あるいは見て見ぬふりをするということは人道的な立場からもできるものではない。歴史の真実を掘り起こして明らかにし、死者に礼を尽くして、朝鮮半島で暮らしている遺族たちのもとへ送り届けることが人道にかなったやり方であり、そのことは昨今ようやく正常化に向けて歩み始めた日韓の友好関係を深めることにもなる。

 2005年の日韓協議では、朝鮮半島出身の旧軍人・軍属及び旧民間徴用者の遺骨について、「人道主義、現実主義、未来志向」の三つの原則でとりくんでいくことを合意している。あれから20年、日韓国交正常化60周年の年に、日本政府をして、あるいは日韓共同プロジェクトとして海底に眠る183体の遺骨を引き上げ、厳粛な態度でもって遺骨送還することの意義はとてつもなく大きい。

こうした事業はあくまで人道的なものであり、日韓友好を促進するためのものであり、政治的な色彩をもったものではない。こうして本来であればかつての大戦で日本を無謀な侵略戦争に駆り立てたものが負うべき責任についてきっちりとけじめをつけることこそ、現代を生きる日本人としての誇りある態度であるし、礼節を重んじるならなおさらである。

 遺骨の発見までたどり着いたのは、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会をはじめとした人々の地道な運動の賜であり、志を持って参集したダイバーたちの決死の潜水の賜であり、それを全国からクラウドファンディングで応援してきた人々の熱意の賜でもある。

 遺骨は暗く冷たい海の底から次々とみつかりはじめた。ここからは日本政府が前面に乗り出して遺骨送還事業を国家プロジェクトとして動かすべきで、そのことを通じて揺るがぬ日韓友好の深い関係を築いていくべきである。

吉田充春                

↑このページのトップヘ