幕末
2012年09月11日
高瀬川
龍マッキーファミリー 京都の旅
幕末の事変を示す石碑が多くあるこの高瀬川
よく通るのですが、
高瀬川について、
高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に私財を投じて開削された運河です。
元 立誠小の玄関脇に 高瀬川開削375年記念があります。
幕末の事変を示す石碑が多くあるこの高瀬川
よく通るのですが、
高瀬川について、
高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に私財を投じて開削された運河です。
元 立誠小の玄関脇に 高瀬川開削375年記念があります。
一之船入手前の高瀬川には高瀬舟が再現されて浮かんでいます。
二之船入・三之船入等の船入が設けられていましたが、現存するのはこの一之船入だけです。
角倉了以邸跡 邸宅跡の碑がありました。
さすが、別宅もありました!!
高瀬川の工事中に角倉了以が偶然荒廃した塚を発見した。豊臣秀吉の後継者とされた関白秀次は、淀の方に秀頼が生まれた為、邪魔な存在になり文禄4年に高野山で自害させられた。そして妻妾子供39人も三条大橋西南の河原で白昼に無残にも次々と斬殺された。死骸はその場に埋めて塚とし、その上に秀次の首を石櫃(いしびつ)に納めて置いたそうです。
高瀬川の開削責任者だった京都の豪商、角倉了以の実弟・吉田宗恂は、秀次に仕えていた事もあり哀れみ寺を建立し手厚く弔った。これが今の浄土宗西山禅林寺派瑞泉寺です。境内には秀次公御一族の墓所もあります。
三条大橋西側には、弥次さんと喜多さんの像が建っています。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」の主人公です。
龍マッキーは道中安全祈願して石をなでました。
これが、刀傷か~
わかりづらいので近寄ってみますね
はい、これです。
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2012年06月19日
神戸海軍操練所・海軍営之碑
大阪の旅~
町を歩いていると
ん!?あの看板の絵、あれは、もしかして・・・・・
ちょっと、微妙な龍さん
大阪の町では、結構珍しいので記念写真。
次の日は、神戸に向かいました。
神戸に行ったらここへ行きたかったんだよな~
見えてきた、見えてきた
「神戸海軍操練所」の跡地です。
碑の左側にある本には、何故神戸村が選ばれたのか、何故海軍操練所が閉鎖されたのかが綴られています。
この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
(一文です。)
さらに歩いて数分の所に2つの石碑が建っています。神戸海軍操練所、海軍塾の塾生であった陸奥宗光(第4代兵庫県知事のち外務大臣)の功績を記念して顕彰碑。左側のもう一つは諏訪山にある「海軍営之碑」の複製です。
時間の都合上諏訪山に行けなかったので
次回は、諏訪山にある本物を見に行きたいと思っています。
そして、勝海舟が神戸海軍操練所建設時に住んでいたといわれる家もあるようでそこには龍さんも何度も訪れていたとか。
龍マッキーも訪れてみたい!!
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町を歩いていると
ん!?あの看板の絵、あれは、もしかして・・・・・
ちょっと、微妙な龍さん
大阪の町では、結構珍しいので記念写真。
次の日は、神戸に向かいました。
神戸に行ったらここへ行きたかったんだよな~
見えてきた、見えてきた
「神戸海軍操練所」の跡地です。
碑の左側にある本には、何故神戸村が選ばれたのか、何故海軍操練所が閉鎖されたのかが綴られています。
この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
(一文です。)
さらに歩いて数分の所に2つの石碑が建っています。神戸海軍操練所、海軍塾の塾生であった陸奥宗光(第4代兵庫県知事のち外務大臣)の功績を記念して顕彰碑。左側のもう一つは諏訪山にある「海軍営之碑」の複製です。
時間の都合上諏訪山に行けなかったので
次回は、諏訪山にある本物を見に行きたいと思っています。
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2012年06月08日
2012年06月05日
高知の旅
久々のアップです。
先週、大阪・京都・奈良・神戸に行ってきました。
また、今回の旅行もアップしていきますのでお付き合いください。
今回は、前回の続きです。
高知の旅もまだまだ続きます。
中城家は龍馬さんが脱藩の身でライフル銃千挺とともに、最後に帰郷したときに潜伏した家です。
次に向ったのは、
一領具足とは、長宗我部元親が兵力増強のため募った、半農半士の下級武士団。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回る、ということで「一領具足」と呼ばれた。
関ヶ原の戦で西軍についた長宗我部氏の改易が決まると、「一領具足」たちは長宗我部氏に一郡でも残すよう要求し、浦戸城明け渡しを拒み、籠城した。
彼らの抵抗は長宗我部の重臣・久武親直らによって鎮圧され、籠城した「一領具足」273名の首は塩漬けにされ大坂の井伊直政のもとへ送られた。これが「浦戸一揆」です。
首をとられた「一領具足」らの胴体はこの地に石丸塚として葬られた。
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次に向ったのは、
一領具足とは、長宗我部元親が兵力増強のため募った、半農半士の下級武士団。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回る、ということで「一領具足」と呼ばれた。
関ヶ原の戦で西軍についた長宗我部氏の改易が決まると、「一領具足」たちは長宗我部氏に一郡でも残すよう要求し、浦戸城明け渡しを拒み、籠城した。
彼らの抵抗は長宗我部の重臣・久武親直らによって鎮圧され、籠城した「一領具足」273名の首は塩漬けにされ大坂の井伊直政のもとへ送られた。これが「浦戸一揆」です。
首をとられた「一領具足」らの胴体はこの地に石丸塚として葬られた。
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2012年05月23日
高知護国神社
龍マッキーファミリー・高知の旅
ここは、高知護国神社です。
高知護国神社には龍馬さん、中岡慎太郎、武市半平太、吉村虎太郎、岡田以蔵など日本の歴史を知る上ではかかせない土佐の偉人がお祀りされています。また龍馬さんが若年期に愛用していたといわれる木刀が安置されています。
本殿前
龍馬魂 心願成就守 ・ 龍馬 桔梗守
たくさんの石碑が建っています。
中でも龍マッキーの関心の石碑は、南海忠烈碑銘 碑文
裏には、志士85名の名が刻まれている
もちろん龍馬さんの名前も刻まれています。
吉村虎太郎や中岡慎太郎、那須信吾、池蔵太などの名前もありました。
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高知護国神社には龍馬さん、中岡慎太郎、武市半平太、吉村虎太郎、岡田以蔵など日本の歴史を知る上ではかかせない土佐の偉人がお祀りされています。また龍馬さんが若年期に愛用していたといわれる木刀が安置されています。
本殿前
龍馬魂 心願成就守 ・ 龍馬 桔梗守
たくさんの石碑が建っています。
中でも龍マッキーの関心の石碑は、南海忠烈碑銘 碑文
裏には、志士85名の名が刻まれている
もちろん龍馬さんの名前も刻まれています。
吉村虎太郎や中岡慎太郎、那須信吾、池蔵太などの名前もありました。
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