ペリー

2010年12月25日

ハリスの足湯

 メリークリスマス
龍マッキーもこれからケーキを食べます



ペリー通りを外れて、少し街を歩いていると
こんな絵に出くわしました。
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龍マッキー、もちろん顔を出してニコッ
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さらに歩くと、ハリスの足湯だ~~~
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もちろん入りましたよ。
でも、結構熱くて長くは入れませんでした~
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あ~ 気持ちよかった~
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2010年12月24日

下田のペリー像

 
下田湾をバックに建つ『ペリー艦隊来航記念碑』

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胸像は、1966年10月28日、「村田徳次郎」氏により造られました。

記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。

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2010年12月23日

ペリーロード

了仙寺を出るとペリーロードがあります。 

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ペリーロードとは、
黒船でやってきたペリー提督が了仙寺で日米下田条約締結の為に行進した道です。現在は、了仙寺から下田公園への約500mで.平滑川をはさむ石畳の小道沿いにはなまこ壁や伊豆石造りの風情ある家並みが続いています。
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この建物は、喫茶店と骨董品を扱うお店で、
明治42年に建てられたそうです。
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こんなお店もありました。
土佐屋!!思わずシャッターをきりましたね~(笑)
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当時の大砲が残っていました。
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2010年12月20日

下田開国博物館と了仙寺

静岡県下田市四丁目 8-13
伊豆急下田駅 より 徒歩8分
の所に 下田開国博物館があります。


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近くには、ペリーの似顔絵がありました。
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下田開国博物館を少し進むと了仙寺があります。
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幕末にペリーと幕府の間で日米下田条約が締結された日本開国の国指定史跡。
開国殿と呼ばれています。
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『安政元年(1854)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図』 。
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唐人お吉 領事館通い駕籠が本堂の天井に飾られていました。
唐人お吉とは、本名・斎藤 きちといい。
1858年、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で日米外交を行っている最中、体調を崩した。ハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を役人に依頼。しかし、当時の日本人には看護婦というものの概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのが17歳のお吉だった。
とても綺麗で、当時は結婚を約束した鶴松がいた。
侍妾を勤めたあと鶴松と一緒になるが上手くいかず離別。
その後も「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。
可哀想な人生を送った女性です。

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2010年12月16日

吉田松陰拘禁の跡

宝福寺を進むと下田屋旅館があります。

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下田に来た吉田松陰・金子重輔の二人がはじめに宿をとった旅館・岡村屋跡です。
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また、少し歩くと吉田松陰拘禁の跡があります。
吉田松陰と金子重輔はペリー艦隊での密航を企てたが失敗してしまい自首しました。下田奉行所によってこの場所(長命寺(廃寺))に拘禁されました。

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石碑の横にあった案内板より、
幕末の志士吉田松蔭は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来港したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず、翌嘉永7年(1854年)3月再航したペリー艦隊を追って弟子金子重輔と下田へ来た。機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所が、ここ長命寺(廃寺)であった。さらに平滑(ひらなめ)の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な1頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。

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ryomanatabi at 02:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)