「心中」という行為、

というか文化、というか、

概念というものは、

どうやって、

いつから生まれたのだろうか。


そんな事をふと思った。




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WikipediaやGoogleに頼るのは無粋だ。

何も持たず、
考えてみよう。



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訳あって結ばれることが許されない者同士の、究極の愛の選択肢。

それは容易に想像できる。

「一緒に死ぬ」=永遠になる、

という概念なんだろうな。


「これで現世の苦労も終わり、
二人は永遠に結ばれるんだ・・」

というところ、だろうか。





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この令和の時代、
いや、平成の頃だって、

家族で無理心中、とかはあっても、

「純愛を貫かんが為の心中」

という事件は無かったように思う。




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良い時代になったんだと思う。

医学の進歩や文化の発展と似ているんだろう。

あるのか無いのか分からない「あの世」や「来世」を信じて命を捨ててしまうんだもの。

まあ、身も蓋も無い書き方をしてしまえば、

馬鹿だよね。



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でも個人的には、

そこまで追い詰められて心中を選ぶ、

というロマンチシズムはきらいじゃない。

本気で生きている人が好き、

ということもあるけれど。


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どうせ生きても離れ離れ、

そんな人生に、
価値はない。


分からなくは、ない。




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でも今の時代なら、

それだけの勇気があれば、

どんなに色眼鏡で見られようが、

罵声を浴びせられようが、

倫理に反していようが、

命まで取られることは、きっとない。




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心中が無くなったことは、

人間自体の情熱の烈しさ、
が弱まった訳ではない、

と思いたい。



そんな、
梅雨の明ける気配のない、
7月15日。



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