*

 

 

 

 夕方の新大久保はかなり肌寒く、まもなく訪れる冬の匂いを感じた。

僕の家は、大久保駅と新大久保駅の、どちらから歩いてもほとんど距離の変わらない位置にある。

 しかし、総武線の大久保駅よりも、山手線の新大久保駅の方が、駅前に遥かに人が多い。

改札から出ると、年齢も性別も国籍も多種多様な人々が、混沌とした風景の中で、それぞれの目的地に向かって早足に歩いていた。

二人の娘を連れた僕は、そんな混沌の中を抜け出すように自宅方面に向かう。

 

「ルナ、晩ごはん何食べたい?」

 

 長女に訊ねてみる。彼女はまだ眠そうな様子で欠伸をしながら、少し間を置いて、

 

 「プリキュアのカレー」

 

 と、答えた。

 

小さな女の子に人気のアニメがパッケージに大きく印刷された、そのレトルトカレーを買いに「マルヤ」へと向かう。

 もちろんそのカレーは甘口で、アニメに登場するキャラクターのシールが一箱に一枚、ランダムに入っている。

 

 

「マルヤ」に入り、いつものように僕が惣菜コーナーを見ていると、

 

「ツムちゃんのお父さん、ですか?」

 

と、後ろから独特の訛りのある声がした。

振り向くと、保育園へのお迎えのときによく見かける、ツムギと同じクラスの外国人の女の子、リズちゃんのお母さんが笑顔でこちらを見ている。

 

 「あ、こんばんは!」

 

 慌てて挨拶をする。

ツムギの所属する未満児クラスは子供の人数が少なく、このお母さんともよく顔を合わせるのだが、会っても会釈をするだけで、きちんと言葉を交わしたことは一度もない。

お母さんの隣には笑顔のリズちゃんが居て、寝ているツムギに向かって、つむちゃん、つむちゃん、と、喜んでくれている。

 

リズちゃんのお母さんが、

「リズがどうしてもアンパンマンのカレーが食べたい、って言って」

 

と、笑う。

 ツムギが寝たまま乗っている買い物カートのカゴの中から、プリキュアのレトルトカレーを手に取って箱を見せ、

 

 「うちも、そうなんです」

 

 と言うと、リズちゃんのお母さんが笑った。

 

 おそらくアラビア系、と思われる整った顔立ちで、日本語も、イントネーションは日本人とは少し違うが、片言というわけではなく、流暢に話す。

 

 「リズはツムちゃんが大好きで、家でもよくツムちゃん、ツムちゃん、って言ってます」

 

 お母さんがそう言った。

 確かにリズちゃんは保育園でよくツムギと遊んでいると、保育士の先生も言ってくれていた。

 

 ルナが退屈そうにしていることに、ふと気づく。

 

 「じゃあ、リズちゃん、明日、保育園でね。ツムちゃんが寝ちゃっててごめんね」

 

 と、言って僕はもう一度頭を下げ、その場を離れた。

 

 

 「ごめん、ごめん。保育園のリズちゃんのこと、知ってる?」

 

 「知ってるよ」

 

 ルナが言った。

 

 自分も子供の頃は、母親が誰かと立ち話をしてるのを待っているあの時間が、退屈で嫌だったなあ、と思い出す。

 子育てには子供時代を振り返る、という面もあるようで、子供たちの機嫌が悪くなるとき、よく自分の昔のことを思い出す。

 

 小さな子供はまるで、天気のように気分が変わる。突然、夕立のように泣き出す。そんな時はいつも、ああ、自分もこうだったよなあ、と、幼かった頃のことを思い出す。

 

 家に来客があったとき、母親が電話でよそゆきの声で話しているとき、子供の頃の僕はいつもなんだか落ち着かなくて、不機嫌になった。母がいつもと違うことが、なんだか不安なのだ。

 

 ルナも、ツムギも、わがままな時は沢山あるけれど、それでも随分いい子にしてくれているなあ、とよく思う。

 

 妻が居なくなった当初は不安が大きすぎて、独りで子供たちを育てていける自信が持てなかったが、この一年弱、いわゆるシングルファザーの生活をしてみて、その不安は半減された。

 

 自分の中で芽生えたのは、なんとかならないことはない、という気持ちと、この先、母親が居ない、ということは、ルナとツムギにとってはいつまでも抱える寂しさなのだろう、というやり切れなさで、その比重は本当に半々だ。

 

 

 「パパ、これ、好きなやつ、安くなってるよ」

 

 声のする方を見ると、総菜コーナーでルナが半額のジャーマンポテトを手に取って、笑顔で僕に見せていた。

 

 「おー!買おう!ありがとう」

 

 僕も笑顔で答えた。

 

 ルナはこの一年で何故か、ぐんぐんと賢くなった。

 平仮名はすべて書けるようになり、カタカナも全部読める。

 

 「ハイボールにあうんでしょ?」

 

 五歳の娘は、笑顔でそう言った。

 

 

 二歳の娘はまだ、カートの中でぐっすりと眠っている。

 

 

 

 

      *

 

 

 

 その日は休日で、母が珍しく、

 

 「ルナちゃんとツムちゃん、見ててあげるから、たまにはゆっくり過ごしたら?」

 

 と、言ってくれた。

 

 僕はその好意に甘え、恵比寿にある映画館へ向かうことにした。前からずっと観に行きたかった映画が、そろそろ公開終了してしまうことが、ずっと気になっていた。

 

 映画館は、ガーデンプレイスの中にあるいわゆるミニシアターで、大きなシネコンとはまた違う、独自の基準で選んだ作品を上映している。劇場の雰囲気も、心地良い。

 

 映画は大好きな作品の、シリーズ第二作目だった。

 期待を上回る内容で、二時間あまりの上映時間は、全く長く感じなかった。

 

 上映が終わって、余韻を抱えたまま外に出る。

 快晴で、外の陽射しが眩しい。映画の後半は夜のシーンが続いていたので、少し不思議な気分になる。時計を見ると、午後二時頃だった。

 ガーデンプレイスの、西洋の城の庭のような造りの階段を降り、ベンチに腰掛けた。

 

 久し振りに一人きりで休日を過ごせる、という解放感が、

堪らなく嬉しい。

 母には、子供たちが夕飯を食べ終える頃までに実家に帰る、と言ってあるので、まだまだ時間はある。

 

 

 ガーデンプレイスは、元々サッポロビールの工場が有った場所だ。この土地の現在に至るまでの詳しい経緯は知らないけれど、ここに「エビスビール記念館」があることは知っていた。

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 ビール記念館の中は高級ホテルのような整った空間で、僕はエビスビールの歴史を見学しながら、いつ試飲コーナーに向かうかを考えていた。

 

 ビールの醸造工程についての説明や、エビスビール発売当時のレトロな宣伝ポスターや缶のデザインをしばらくの間は見ていたが、十分と経たないうちに、僕の足は試飲コーナーに向かった。

 

 

 豪華な造りのバーカウンターの中に、タキシードと蝶ネクタイで正装している女性バーテンダーが居る。試飲コーナーと言っても、街にあるバーよりもずっと本格的だ。

 

 まずは販売機で、この試飲コーナーで使えるコインを購入する。

 僕は三種類のエビスビールを飲み比べできるセットを選び、バーテンダーにコインを渡した。

 彼女は完璧な笑顔を見せてそれを受け取る。

 間もなく僕の前に、金色、琥珀色、黒の三色の魅力的なビールが並んだトレイが置かれた。

 

 正確にはテイスティングサロンという名前が付けられているこの空間は、開放的で明るい造りになっている。

 団体客もおり、それなりに賑わっていたが、テーブルごとの距離は少し離れており、落ち着いて座れそうな席はいくつか空いている。

 三色のビールが乗ったトレイを持った僕は、どこに座ろうか、と席を見渡した。

 

 

 

 今度は後ろ姿ではなかった。

 

 重厚な木材で造られたテーブルの一席に、夢にまで出てきた人が座っていた。

 

 非日常的な空間のせいか、あの日後ろ姿を見掛けたときのような、逃げ出したくなる緊張は起こらなかった。

 

 彼女の隣の席は空いている。

 

 あのとき一緒だった男性と来ているのかもしれない、と思ったが、それでも構わない、と覚悟を決めた。

 

 「楓・・かな?」

 

 そう訊ねると、栗色のショートカットの彼女がこちらを見た。

 一秒ほど、じっとこちらを見たあと、笑顔と驚きの混ざった表情になり、楓はゆっくりと口を開いた。

 

 「・・雄介?」

 

 何年か振りにこの声に呼ばれた平凡な名前が、とても価値のあるものに思えた。

 

 ずっと聞きたかった声だった。

 

 僕は笑いながら頷き、

 

 「久し振り」

 

 と、言った。

 

 楓は子供のような、曇りの無い百点満点の笑顔を見せて、

 

 「久し振り!」

 

 と、少し場違いな大きめの声で、

 嬉しそうに言ってくれた。

 

 

 

 

      *

 

 

 

 試飲コーナーの販売機でコインを五千円分も買って、顔を赤くしながら二時間以上話している僕らに、きっとバーテンダーは呆れていただろう。

 

 幸運なことに楓も、一人でこのビール記念館に来ていた。

 僕らは五回も六回も、ビールをカウンターまで頼みに行きながら、色んなことを話した。

 

 奇跡みたいな時間だった。

 

 いつか死ぬのなら、今ここで死にたい、と心から思った。そのぐらい幸せな二時間だった。

 

 ――僕も、転職した楓も、仕事は大変だけれど、概ね順調であること。

 

 ――共通の知り合い達の近況。

 

 ――僕がこの間、勤務する都市型遊園地で、楓の後ろ姿を見掛けたこと。

 

 ――旦那さん?と訊くと、楓は笑いながら、

 

 ―ちがうよ。

 

 と、首を横に振った。

 それ以上、詳しくは訊かなかった。

 

 本当はまだ、聞きたくなかった。

 

 ――雄介は、結婚したんでしょ?

 

 知ってたんだ、と言うと、

 聞いたよ、とだけ、楓は言った。

 

 ――今更だけど、おめでとう!

 

 と言って、楓は僕のグラスに向かって、自分のグラスを向けて乾杯しようとする。

 

 僕はグラスを合わせて、とびっきり美味しい注ぎ方のエビスビールを飲み干し、笑いながら、

 

 ――別れたんだ。

 

 と、言った。

 

 ――うそ?本当?・・・ごめん、ごめん!

 

 そう言って、楓は僕の肩を触って謝った。

 表情に彼女の人の良さが滲み出ていて、僕は、ああ、本物の楓だ、と思った。

 僕も彼女の肩をぽん、と叩いて、

 

 ――ぜんぜん大丈夫。人生、何ごとも経験だから。

 

 と、笑いながら言った。

 僕も楓も、その頃には顔が真っ赤に染まっていた。

 

 

 ――楓は、結婚しないの? この間の彼とは。

 

 酔いも手伝って、訊いてみる。

 

 ――しないんじゃないかな。どっちでも、いいんだけど。

 

 そう言って、少し沈黙した後、

 

 ――雄くんは、結婚して、よかった?

 

 と、楓が訊いた。

 

 

 ――良かったと思ってるよ。子供たちは、本当に可愛い。

 ・・・うん。自分の子供は、世界一可愛い。

 

 僕はそう言ったあと、

 

 ――まあ、奥さん逃げちゃいましたけど。

 

 と、笑いながら言った。

 

 楓は、昔と変わらないあの笑顔を見せて、優しい声で、そっか、そっか、と言った。

 

 ――お子さんたちと住んでるの?

 

 ――うん。娘ふたりと、三人で住んでる。

 

 楓は赤い顔のまま、少し真剣な表情になって、

 

 ――かっこいいじゃん。

 

 と言った。

 それから彼女は、黒ビールをぐっ、と飲み干して、

 

 ――じゃあ、女、連れ込めないね。

 

 と、笑いながら言った。

 

 僕は楓の栗色の髪の毛を優しく触って、叩く真似をした。

 何年振りに髪の毛、触ったかな、と、アルコールの回り切った頭の中で思った。

 

 嬉しかった。

 

 

 

 

 

 試飲コーナーには他に客が居なくなり、僕らのビールグラスはちょうど空になった。とりあえず行こうか、と言うと、楓は頷いて、僕らは席を立った。

 

 ビール記念館を出ると、外は暗くなりかけていた。

 

 寒いね、と言って、僕は楓の手を握った。

 楓は笑いながら、僕の肩を叩いて、手を離す。

 僕も笑いながら、もう一度手を握る。

 

 今度は、離されなかった。

 

 

 

 

         *

 

 

 

 

 ガーデンプレイスから恵比寿駅の改札までは、ほとんど歩かなくても着いてしまう。

 

 ここには長い長い動く歩道があって、この大きなベルトコンベアは、沢山の人々をガーデンプレイスから駅へ運んでいく。

 

 ベルトコンベアの速度は、ありがたいことにかなり遅い。

 駅へと向かう多くの人々が、ベルトの右側を、早足で歩いていく。

 楓と僕は、ベルトの上で決して歩くことはなかった。

 

 ゆっくりと運ばれて、ベルトの間を歩かなければならない時も、ゆっくりと、手を離さずに歩いた。

 そして、ビール記念館の中に居た時とは対照的に、僕らの間に会話は無かった。

 

 ――このまま、改札に着いて、じゃあね、と言って別れて、それから――

 もしかしたら、もう永遠に会えないかもしれない。

 

 そう思うと、なかなか言葉が出てこなかった。

 何か話しかけようか、と何度も考えた。

 

 考えたけれど、やはり言葉は要らないような気がした。

 

 最後のベルトに乗った。

 

 ベルトの奥に、券売機や自動改札が少し見えた。

 息が苦しくなる。

 

 栗色の髪を撫でた。

 

 楓が、どん、と僕の方にぶつかって、体を預けてきた。

 それから、はにかんだような、恥ずかしそうな笑顔でこちらを見た。

 まだ、頬が少し赤い。

 

 小さな体を抱き締めた。

 涙が出そうになって、慌てて堪える。

 

 ――もう、三十四なのに。

 

 そう思って、苦笑いする。

 苦笑いをしながら、ずっと、堪えている。

 

 楓は動かなかった。

 最後のベルトの半分ぐらいの所まで来たとき、小さな栗色の頭が、僕の肩にもたれてきた。

 

 

 ベルトが僕たちを、最終地点の改札前まで運び終えた。

 僕らは体を離して少し歩き、改札と券売機の前で、立ち尽くした。

 

 夕方の恵比寿駅東口。

 沢山の人々が急ぎ足でそれぞれの目的地へ向かっている。

 僕らはその人波のなかで、何も言葉を交わすことなく、ただ、体を寄せ合って立っていた。

 

 

 十年前の失敗を、過ちを、取り返すチャンスがあるとしたら、今この場所、この時間だけだろう。

 

 実家では、そろそろ娘たちが夕飯を食べ終える頃だ。

 

 十年前の僕がもしも、未来のこんな自分の姿を見たら――笑うかな。

 

 ――笑いたければ笑えばいいさ。

 

 最後のチャンスなんだ。

 

 

 

 「あのさ」

 

 僕の肩に頭を乗せていた楓に向かって、話し掛けた。

 楓が少し笑みを浮かべて、こちらを見る。

 

 「すごいダサいこと、言ってもいい?」

 

 僕がそう言うと、楓はさらに笑って、

 

 「いいよ」

 

 と言った。

 

 

 

 二秒だったのか、五秒だったのか、もっと経っていたのかは分からない。

 

 なんとか僕の口から言葉が出てくるまでの間、楓は笑みを浮かべたまま、何も言わずに待っていてくれた。

 まるで中学生に戻ったようなみっともない僕は、それでも勇気を振り絞って、楓の顔を見つめて、口を開いた。

 

 「また会いたいんだ」

 

 楓が笑う。

 可笑しい、という風にも、困ったな、という様子にもとれるその笑顔は、やはり優しくて、明るかった。

 

 次の言葉を口にしないと、と思ったその時、楓が少しかすれた声で、

 

 「おチビたちの写真って、ある?」

 

 と、訊いてきた。

 意外な言葉だった。

 

 「あるよ」

 

 「見たいな」

 

 僕は頷いて、スマートフォンの写真フォルダを開き、娘たち二人が、リビングで笑いながらクッキーを齧っている写真を見せた。

 楓はその写真を見たあと、満面の笑みになって、

 

 「超かわいいね。雄くんに似てる」

 

 と言った。

 ありがとう、と小さな声で僕が答えると、

 

 「いまは、誰かに預けてるの?」

 

 と、楓が言った。

 僕は頷き、うちの親にね、と言うと、

 

 「お母さん・・・ユウコさん、元気?」

 

 と、楓が言った。

 よく覚えてるね、と僕が言うと楓は無言で頷き、

 

 「雄くん、メアド変わってない?」

 

 と、言った。

 うん、と僕が答えると、

 ――じゃあ、またあとで連絡する。ライン、やってる?

 

 と言い、

 

 ――ほら、そろそろ行かないと、でしょ?

 

 そう言って、僕の腕を引っ張り、自動改札を抜けた。

 お互いの乗る電車が、逆方向であることを確認する。

 

 ――また、会えるだろうか。

 

 エビスビールのマークが目立つ山手線のホームで、そう思っていると、新宿方面行きのエメラルドグリーンの電車が先に、こちらに向かって走ってきた。

 

 

 

 楓を抱き締めた。

 

 彼女の小さな手も僕の背中に回り、抱き締め返してくれた。

 猛スピードの山手線が、僕らの前に滑り込んでくる。

 

 栗色の髪と、形の良い耳を左手で軽く押さえて、顔を近づける。

 彼女は笑顔で僕の胸を叩いて、

 「外だから!」

 と言い、僕は照れ笑いをして、ごめん、と言った。

 

 ゆっくりと山手線が停車していくのが見える。

 

 「ねえ」

 

 楓が言った。

 

 「約束、覚えてる?」

 

 突然の言葉に慌てて記憶を遡るが、とっさに頭が回らず、思い出せない。

 

 ――約束?

 

 山手線のドアが開いた。

 

 ――思い出した。

 

 「閉まっちゃうよ!」

 

 そう言って、楓は僕の手を引っ張り、山手線に押し込んだ。

 すぐにドアが閉まる。

 

 ――またね。

 

 と、大袈裟に口を動かして楓に伝える。

 彼女が笑顔で頷いた。

 

 電車が動き出す。

 僕は精一杯の笑顔で、小さく楓に向かって手を振る。

 楓も手を振り返してくれているのが見え、彼女の姿がどんどん遠ざかっていく。

 山手線が加速を続ける。

 あっという間に楓の姿は見えなくなった。

 

 

 

 

      *

 

 

 

 きょうは早めに仕事を上がることが出来た。

 職場から保育園へと急ぎ足で向かう。

 

 大久保駅から早歩きで保育園へと向かう途中、僕と同じように反対側から急いで歩いてくる、背の高い女性が居た。

 リズちゃんのお母さんだ。

 彼女と目が合って、どちらからともなく、

 「こんにちは」

 と、笑顔で声を掛け合う。

 

 寒くなりましたね、と僕が言うと、本当ですね、とリズちゃんのお母さんが答える。

 彼女は頭に赤いバンダナのようなものを巻いているが、薄い生地で、あまり防寒効果は無さそうだ。

 母国での慣習か、宗教上の理由かもしれない。

 

 揃って保育園に行き、門扉を開き、子供の手が届かない高さに取り付けられている鍵を閉める。

 狭い園庭を抜けて教室に入ると、保育士の先生が「お帰りなさーい」とこちらに声を掛けてくれた。

 

 「ツムちゃん、ルナちゃん、リズちゃん。パパとママ、来たよ」

 

 先生の声を聞くとすぐ、子供たちの顔がこちらを向き、笑顔になった。

 

 

 

 さまざまな飲食店の看板が派手に光る大久保の道を、大人と子供、合わせて五人で歩く。

 ガードレール内は狭いので、子供の手を握りながらも邪魔にならないように、なるべく道の端に寄って進む。

 交差点に差し掛かったところで、

 

 「じゃあ、また明日、保育園でね」

 

 と、僕はリズちゃんとお母さんに向けて声を掛けた。

 リズちゃんは、こちらに向かってバイバイ、と手を振る。

 

 その時お母さんが、遠慮がちに名刺のようなものを差し出した。

 

 「あの・・実はうち、インドカレーのお店をやっていて」

 

 「そうなんですね、ありがとうございます」

 

 僕は黒を基調としたデザインのショップカードを受け取った。

 

 「味は美味しいと思うので、もし良かったら今度ぜひ来てみて下さい」

 

 「はい、ぜひ」

 

 リズちゃんのおうち、カレー屋さんなんだって。今度、行こうね、と二人に言うと、

 

 「行きたい!きょう行く!」

 

 と、大きな声でルナが言った。

 僕は笑いながら、今度、本当に行こうね、と、ルナに向かって言った。

 

 「でも、子連れでも大丈夫ですか?

  相当うるさくしちゃうかもしれないですけど・・」

 

 「ぜんぜん大丈夫です。意外と広いし・・空いてる時が多いから」

 

 と、笑いながらリズちゃんのお母さんが言う。

 

 「辛くない、子供向けのカレーもあるので」

 

 はい、と僕は答え、再び手を振って彼女たちと別れた。

 

 

 

 

 

       *

 

 

 

 新宿駅東口の地上に出る。

 綺麗なクリスマスツリーと、混沌とした人混みと、アルタのビルが視界に飛び込んできた。

 人の多い新宿で、待ち合わせ場所はどこが良いだろう、と考えた結果、東口の地上に出てすぐ脇にある金色のライオン像の前に決めた。

 

 ここなら分かり易いかな、と思って決めたものの、実際に来てみると周りには待ち合わせ風の人々が沢山居て、苦笑する。腕時計を見ると、針は待ち合わせ時間の五分前を指していた。

 

 金のライオンを正面から見ると、百獣の王の斜め後ろ辺りに、赤いダッフルコートのフードをすっぽり被って、ガードレールにもたれかかっている小柄な人を見付けた。

 不安な気持ちを抱えたまま少し近づいて、雰囲気から、すぐにあの人だと確信する。

 昔から、思い切ったファッションが似合うセンスの良い人だった。

 

 赤いフードの左肩をとん、と叩く。

 びくっ、と小さく動いて、見たかった顔がこちらを見上げて、笑う。

 

 「なんで、フード被ってんの」

 

 「なんかキュートかな、と思って」

 

 笑いながら、楓が言った。

 似合ってるけども、と言いながら、僕は彼女と二人で歩き始めた。

 

 イルミネーション凄いね、と言いながら、人波の中をかき分けるように歩く。

 

 「相変わらず、歩くの速いね」

 

 そう言われて、慌てて歩く速度を落とした。

 

 「あ、ごめん、ごめん」

 

 「全然大丈夫だよ。雄くんだなあ、って思っただけ」

 

 楓が笑いながら、そう言った。

 

 

 ついさっき、同じチェーン店に一人で入ったとは決して言わずに、地下にある英国風パブのドアを開いた。

 心配していたほど店内は混んでおらず、少し安堵して昔と同じように並んでカウンター席に座った。

 

 このパブはいわゆるキャッシュオンのシステムで、バーカウンターへ行って注文し、その都度料金を払う。

 その為、ほとんど接客されることはなく、それが僕には心地良かった。

 

 「とりあえず、飲み物買ってくるよ。ビールでいいかな?」

 

 「いいの?ありがとう。うん。ビールで」

 

 「普通の、日本のやつでいいのかな?」

 

 「うん。あ!ちょっと待って」

 

 楓が、笑顔で壁に立ててある小さなメニューを見る。

 

 「えっとね・・これ。バス・ペールエール」

 

 「了解。それ、美味しいよね」

 

 

 少し赤みがかったビールがたっぷり入ったグラスを持って、カウンター席に戻る。

 楓はありがとう、と言い、笑顔でそれを受け取った。

 

 「じゃあ、八年振りの約束に乾杯」

 

 そう言って僕が琥珀色のビールグラスを持つと、楓は微笑みながら、グラスを合わせてくれた。

 

 「覚えてたんだ」

 

 「忘れないよ。あんな、変な約束」

 

 そう言って僕が笑うと、嬉しい、と楓は呟くように言った。

 

 

 「ムール貝のワイン蒸し」

 

 僕がそう言うと、彼女は笑みを浮かべて大きく頷いた。

 

 「妙に美味しかったんだよね」

 

 「そう。昔、二人して、テンション上がっちゃって」

 

 そう言いながら、二人で笑う。

 

 

 

      *

 

 

 ――いつか、またあのムール貝を食べながら、一緒に色んな話をしよう。

 

 そんな冗談みたいな約束だった。

 

 

 僕らの関係がどうにもならなくなった八年前のあの夜、会社の近くのオフィスビルのテラスで、泣き笑いしながら、僕はそう言った。

 

 楓はそれを聞いて、やっぱり泣きながら、

 

 「うん。あれ、美味しいよね」

 

 と言って、笑った。

 

 ――約束。

 

 ――うん、約束。

 

 そう言って、僕らは抱き合ったまま、子供みたいにお互いの小指を絡めて、笑って、泣いた。

 

 

 

      *

 

 

 

 こうやって約束を果たせる夜が来るなんて、思ってなかったな。

 そう思いながら、立てかけてあるメニューを眺めた。

 メニューに目を通す。

 

 しばらくメニューを眺めて、裏返す。

 

 僕は笑いを堪えながら、小さく彼女に声を掛けた。

 

 「楓ちゃん」

 

 きょとん、とした顔で楓はこちらを見て、

 

 「はい。どうしましたか?」

 

 と、僕に合わせて、かしこまった口調で言った。

 

 「なくなってます」

 

 

 二秒ほどの沈黙の後、言葉の意味を理解した楓は大笑いしながら、

 

 「嘘ー! 本当に?」

 

 と言った。

 メニューを渡すと、彼女はその小冊子のようなメニューを隅から隅まで、じっと見た。

 

 「雄介先生」

 

 「はい」

 

 「確かにムール貝のワイン蒸しは無くなっていますが、

  これを」

 

 そう言って、楓が見せてくれたページには「ムール貝とフレッシュトマトのパスタ」の文字があった。

 八年前には無かったメニューだ。

 

 「これは・・」

 

 そう言って、楓の方を見る。

 彼女もこちらを見て、無言で頷き合う。

 僕が席を立とうとしたその時、楓が僕の肩に手を置き、

 

 「いや、ここは私が」

 

 と、真剣な面持ちで言ったあと、

 

 「そろそろやめよっか、この喋り方」

 

 と笑いながら言った。わたしが買ってくるね、と、楓がバーカウンターへ向かう。

 

 

 

      *

 

 

 

 「ムール貝とトマトのパスタ、美味しかったね」

 

 「いやあ・・あんなに美味いと思わなかったから、感動したよ」

 

 興奮気味にそう答える僕を見て、楓は可笑しそうに笑った。

 

 僕らは顔を赤くして、手を繋いでふらふらと歩きながら、アルコールの力を借りて、人生に酔っていた。

 

 「隣町にだね」

 

 「うん」

 

 「行ってみたい店があるのだが」

 

 「おっ」

 

 「付き合ってくれるかい?」

 

 「勿論です。お供します」

 

 何を演じているのか分からない僕の口調に、楓は阿吽の呼吸で合わせて、笑った。

 

 「ありがとう。ちょっと歩くけど、いい?」

 

 「うん。歩くの好きだし」

 

 

 新宿駅東口の方へ戻るように歩き、歌舞伎町方面へと向かう。大きな交差点を渡るとドン・キホーテがあり、そこから街は急激にいかがわしさを増す。

 この街は雑多で、賑やかで、汚くて、あやしい人たちばかりで、でも、好きだ。

 

 

 「楓、いまどこに住んでるの?」

 

 再会してから、なんとなく訊けなかったことを、訊いてみた。

 

 「今は、三鷹だよ」

 

 ――ひとりで?

 

 とは、訊かなかった。

 聞きたくなかった。

 

 「三鷹かあ。昔、吉祥寺でよく会ったよね」

 

 「うん。

  あ、佐世保バーガー、無くなっちゃったんだよ」

 

 「そっか。美味しかったのに」

 

 

 歌舞伎町を大久保方面に向かって歩いていく。

 

   

         *

 

 

 

 その店は大久保の小さな雑居ビルの三階の、外からは全く目立たない場所にあった。 

 

 ビルの前に学習塾のような地味な看板が一つあるだけ。   

 この店に、ふらっと入れるお客さんはなかなか居ないだろうな、と思いながら、少し勇気を出して「エル・ソル」と書かれたその店のドアを開けた。

 

 ドアノブの向こう側には、いかにも東南アジア風のベルがくくりつけられていて、軽やかな鈴の音が鳴った。

 綺麗な音だった。

 

 「いらっしゃいませー!」

 

 聞き覚えのある、外国訛りの声が耳に入り、店員の女性がこちらに歩いてくる。

 

 「あー!ありがとうございます!」

 

 リズちゃんのお母さんが口に手を当てて、驚いた顔で僕を見て、笑った。

 

 こんばんは、と笑顔で僕は言って楓の方を振り返り、

 

 「きょうは子供たちは親に見てもらってて。

  連れと来ました」

 

 と、紹介した。

 楓はぺこりと頭を下げた。

 

 ――連れと、来ました。

 

 我ながら、ちょうどいい言葉が咄嗟に出てくるもんだ。

 そう思いながら、案内された席に着く。

 楓は興味深そうに、店内にあるインド風の調度品を眺めている。

 

 「子供たちと同じ保育園の、友達のお母さんなんだ」

 

 「うん。なんか、いい感じのお店だね」

 

 テーブルに立ててあるメニューを見て、キングフィッシャーというインドビールを二つと、チキンティッカと、空心菜炒めを注文する。

 

 オーダーを確認したリズちゃんのお母さんは微笑みを浮かべて頷き、店の奥へ戻っていく。

 

 時計に目をやると、夜の十時になる頃だった。

 おそらく今頃は、母が娘たちを寝かしつけて居る頃だろう。もう、眠れているかな。

 

 リズちゃんのお母さんがこちらに来て、ビールの小瓶とグラスを二つずつ、テーブルの上に静かに置いた。

 

 ビールを注ぎ合って、何も言わずに小さく乾杯をした。

 

 

 「人生は難しいね」

 

 僕の口から出てきたのは何故かそんな、雲を掴むような言葉だった。

 楓は小さく頷いて、

 

 「そうだね。でも、不思議なこともいっぱいあるね」

 

 「うん。良いことも起きる」

 

 彼女は魅力的に笑いながら、そうだね、と言った。

 少し、沈黙が訪れた。

 

 

 「ぜんぶ、これで良かった、っていうことにしない?」

 

 僕がそう言うと、楓は少し悲しそうな微笑みを浮かべた後に、間を置いて、

 

 「そうなればいいと、思ってるけど」

 

 と言った。

 僕は黙って、次の言葉を待つ。

 

 店内には、小さいボリュームでインド音楽のBGMが流れ続けている。

 

 「自信、ないな。私じゃあ・・」

 

 楓の言葉を聞いて、僕はゆっくり彼女の手を握った。

 

 「大丈夫だよ。絶対、大丈夫にする」

 

 楓の目から、涙が突然零れる。

 

 「楓じゃなきゃ、駄目なんだ」

 

 そう続けると、楓は目を覆うようにして、小さく何回か頷いた。

 

 

 店の奥から、リズちゃんのお母さんが料理を持って歩いてくるのが見えた。

 

 

 

 

 

      **

 

 

 

 

 

 真夏の暑さの中で、なんとかタクシーを捕まえて四人で乗り込んだ。

 車内は冷房がしっかりと効いていて、快適だ。

 

 いつもよりかしこまった格好のルナとツムギは、タクシーに乗ったことが珍しくて嬉しいみたいだ。後部座席ではしゃぎ、彼女が優しくなだめた。

 僕らは会場に着いてから着替えるので、全くの普段着だ。

 

 小さい会場で、お互いの親族しか招待していないけれど、やはり緊張する。

 二回目なのにな、と思うが、もちろん口には出さない。

 

 

 楓は妊娠六ヶ月に入った。

 

 式を挙げるならギリギリのタイミング、と思い、小さい規模で行うことを二人で決めた。

 安定期に入った頃から、何度か打ち合わせやドレスの試着をした。

 服の上からではまだ、楓の妊娠は殆ど分からない。

 

 

 不安なことは僕にも彼女にも沢山あって、それはこれからもゼロになることは無いのかもしれない。

 

 それでも「これで良かったんだ、っていう事にしよう」と、言い続けてきた。

 新しい家族は冬に産まれる予定で、この上なく楽しみだ。

 その瞬間を想像するだけで涙腺が危ういのは、歳を重ねたせいだろうか。

 

 タクシーが会場に着いた。

 

 

 

 

 式場の控室で着替え終わり、ヘアメイクを担当してくれる女性に髪型をセットしてもらう。

 少し照れくさい気分で、座って髪をいじられていると、楓がウエディングドレスに着替えて、部屋の奥から出てきた。

 

 

 凄く綺麗だった。

 

 はっきり言って、すごく、楓らしくないけれど。

 

 

        

       *

 

 

 もうすぐ新郎新婦の入場です、と係の女性が笑顔で僕たちに伝えて、待合室を後にした。

 

 ルナとツムギは緊張している様子もなく、隣で、ママ、きれい!とさっきからずっと言っている。

 

 そうなんだ。

 二人じゃなくて、四人で入場することに決めていた。

 いや、正確には五人で、ね。

 

 昨夜、YouTubeで何度も見た「新郎のスピーチ」の言葉を、頭の中で繰り返す。

 さらに緊張が高まってくる。

 

 「パパ、だいじょうぶ?」

 

 と、ルナがそんな僕の様子を見て、訊いてきた。

 僕は苦笑しながら、うん、大丈夫、と答えた。

 

 

 ドアがノックされて、係の女性が入ってくる。

 

 「では、ご入場です。お願いします」

 

 と、満面の笑みで僕らに言う。

 

 楓の方を見る。

 彼女は、僕よりずっと落ち着いた笑顔で、係の女性に向かって頷いた。

 

 僕はようやく覚悟を決めて、席を立ち、深呼吸をして、彼女のお腹を軽く撫で、楓に、

 

 「楽しもうね」

 

 と言った。

 

 彼女は、十年前からずっと変わらない魅力的な笑顔を浮かべてゆっくりと頷き、

 

 「おっけー!」

 

 と、小さな声で、言った。

 





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