㉓
朝から一歩も外に出ずに過ごしたせいか、少し外出しようかな、という気になって、響子は夕方近くになってようやく部屋着から着替えた。
一番気に入っている服を着ることにした。もちろん、勤め先のブランドのものではない。今年の春、給料日の後に思い切って買った、ミナ ペルホネンのワンピース。鮮やかで少し派手な色使いだがとても気に入っていて、休みの日や遠出する時に、大切に着ていた。
窓を開けて外の気温を確認し、ワンピースの上にカーディガンを羽織る。
カーディガンは西武新宿の駅ビルで買ったものだ。安物だけれど可愛くて、気に入っている。
ドアを開けて外に出て、鍵を閉める。マンションの階段を降りて建物の玄関を出ると、真夏なのに秋のような心地良い風が吹いた。
響子の住むマンションの最寄り駅には、比較的新しく出来た小振りのショッピングモールがある。
「グリーンモール・トーキョー・ベイ」のような郊外型の巨大なモールではなく、店舗数はその十分の一ほどだが、郊外型の巨大なモールとは違い、少し都会的な雰囲気がある。何より響子がこのモールで一番気に入っているところは、勤め先の衣料品店が入っていないことだ。
小気味良い造りの外階段の隣にあるエスカレーターを昇って、屋上に上がる。屋上と言っても四階で、そこは庭園のあるテラスになっている。
駅前なので、テラスから眼下に線路や電車が見える。いつも花壇が手入れされていて、整然とした空間になっている為か、ここはとても居心地が良い。
若い家族が多い街なので、週末になるとこの屋上はいつも、小さな子供とその親たちで賑わっている。平日の今日は、もう日が暮れかかっていることもあり、子供たちの声は聞こえてこない。
響子はテラスの白い椅子に腰掛けた。テーブルの上にバッグを置いて夕暮れの空を見ようとしたら、庭園の中に二人組の小さな子供が居るのが見えた。兄妹だろうか。五歳ぐらいの女の子が泣いているのを、七歳ぐらいの兄とおぼしき男の子が、必死に慰めている。
あの日、誠の妻の後ろに居た男の子のことを思い出して、胸が苦しくなった。
女の子はずっと泣き止まない。どんどん、泣き声と嗚咽の声が大きくなってくる。周りには、母親や父親らしき人の姿は見えない。
「どうしたの?お母さんとはぐれちゃったのかな?」
気付いたら、子供達に歩み寄り、屈んで同じぐらい高さの目線になって、声を掛けていた。いつもの響子なら間違いなく躊躇していたはずだが、その時は何故だが迷いなく、自然と言葉が口から出てきた。
「お母さんが、お仕事が終わる時間なのに、まだ来ないんだ」
男の子の方が、はっきりした口調で答えた。妹らしき女の子の方は、涙で頬を濡らしたまま、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「お母さんは、どこでお仕事してるの?」
そう訊くと、男の子が、
「ここの下の、美容院」
と言った。
響子は、このモールの三階に小さな美容室が入っていたことを思い出した。
女の子が、さっきより少しだけ落ち着いた様子で
「おねえちゃん、美容院の人?」
と、聞いてきた。
「ちがうよ。でも、一緒にお母さんの美容院まで、
見に行ってみようか」
そう答えて、響子は女の子の手を握った。
柔らかくて小さい、すべすべした手だった。
エスカレーターは使わず、三人で美容室の前まで手を繋いで歩く。なんだか、不思議な気分になった。
ガラス貼りの美容室の前に着き、店内を覗き込む。
子供たちの背丈ではカットやパーマの値段が書かれたガラスしか見えず、二人とも不安そうに響子の方を見ている。
美容院の奥には二人の美容師が、それぞれ担当している客の後ろに立ち、髪を切っている。
一人は五十代前半ぐらいの女性で、ベリーショートのいかにも美容師らしい容貌だ。
もう一人は、響子とさほど年齢が変わらなさそうに見える、利発そうな女性だった。
「お母さん、いた?」
妹の方の子が、居てもたってもいられず、という様子で聞いてきた。
「お母さんさあ、髪の毛が茶色で、ふわふわしてる?」
「うん!」
二人とも同時に大きな声を上げた。
少しだけ待っててね、と二人に伝えて、美容院の入り口にある自動ドアのボタンを押す。
いらっしゃいませ、という声が店の奥から聞こえた。
㉔
母親である美容師の女性が、担当してる客に声を掛けて、入り口のドアへ小走りで向かう。自動ドアが開いた瞬間、子供たちは揃って歓喜の声を上げた。
子供たち二人を待合スペースのソファに座らせ、いい子にしててね、と母親が伝える。
踵を返すと、女性は響子に深々とお辞儀をして、お礼の言葉を述べた。響子は恐縮して、はにかむことしか出来ずに美容院を出た。
女の子がガラス越しに、バイバイ、と口を動かして手を振っている。手を振り返しながら、響子は少し早足で、美容院から逃げるように歩き去った。
歩きながら、涙が出てきた。
止まらない。体が熱くなってくるのが分かる。泣いている自分が可笑しくなって、泣きながら少し笑った。きっと、周りの人から見たらますますおかしく見えるだろう。そう思うとさらに可笑しくなった。
明日は、仕事に行ってみよう。
何食わぬ顔で、いつも通りやってみよう。
何があっても、大丈夫。
響子はそう思った。
㉕
昭和四十年代になる頃には、キヨミは千葉の海沿いの町での生活にすっかり馴染んでいた。
売春宿に移り住んだときからずっと、歓楽街の人々は、キヨミのこれまでの生き方、出身、家族のことには一切触れなかった。
この町では人の出入りが激しく、昨日まで一緒だった同僚が、朝目覚めたら全ての荷物と一緒に消えていた、ということも日常茶飯事だった。そんな町だから、人の過去にまでいちいち深入りしてもしょうがない、という理由もあるのだろうが、それは日陰を歩いてきた者同士の心遣いでもあった。
そんな町で、一年、二年、と住み込みで勤め続けるうちに、宿の女将や近くの食堂の大将はキヨミに愛着を持ち、可愛がってくれた。
タチの悪い酔客から殴られて、乱暴に襲われそうになったとき、宿の女将は血相を変えて飛んできて、命懸けで酔客を追い出してくれた。
キヨミが三十歳をとうに過ぎ、歓楽街での生活も長くなったある日。
女将から、キヨちゃん、話がある。と呼ばれた。
「あんたももう、いい年だ。商売を変えた方がいいよ。あんたはそこそこ美人だし、気立てもいいけれど、これはいつまでもやる仕事じゃあないんだ。大将に話、つけといたからさ。あんたはいずれは、小料理屋の女将だよ」
そう言ってくれたとき、キヨミは飛び上がるほど嬉しかった。体を売る以外の仕事ができるなんて。
涙が止まらなかった。
小料理屋での仕事も段々と板についてきた頃、キヨミを見初めて、結婚を申し込んでくれた男性が現れた。
勝という名の腕の良い料理人で、優しい男だった。
結婚して二年後に、息子が生まれた。
四十歳近くの自分に子供が出来ると思っていなかったキヨミにとって、息子の誕生は本当に嬉しい出来事だった。
勝と息子の裕太との三人で、勝の実家の近くの長野県の小さな町に引っ越して、家を建てた。
つつましくも、温かい家庭だった。
キヨミは今までの人生の中で、一番の幸せを感じながら毎日を過ごしていた。
あの事件が起きるまでは。
㉖
手紙を投函してもうすぐ一週間が経つが、母からは電話も手紙もない。
勇気を出して投函した手紙に対して、慌てて母から連絡が来るだろう、と身構えていたのだが、こう連絡がないと、逆に気になってくる。
今まで母に恋愛の相談なんて、一度もしたことはなかった。むしろ母から
「クラスに好きな女の子とか、いるの」
などと聞かれると、体中から嫌悪感が湧いてきて、たちまち僕は不機嫌になった。第一、人に話すほどの恋愛なんて、北海道に居た時は一度もしてこなかった。
母もそんな息子が突然打ち明けた大恋愛について、色々考えているのかもしれない。
とにかく、何も言わないでいてくれることが、今の僕にとっては有難かった。
サツキに会いたい。
滋賀に居るという、サツキと遠距離恋愛中の―恋人。
その存在を思うと胸が苦しくなり、暴れ出しそうな気持ちになる。それでもその男について、かさぶたを剥がす様に痛みを感じながらも考えずにはいられない。
恐らく年齢は、サツキと同じ四十歳前後―やはり、僕の倍の歳だ。人生経験や、収入や、社会性や、包容力はとても敵わないだろう。
セックスは、どうだろう。
二週間前にその男の存在を知って、ひとり部屋にこもるようになり、様々な哀しい妄想をした。深く自分を傷つけるその妄想の世界で、サツキはその男に抱かれていた。
―ミツルくん、とその男の名前を呼びながら、一糸纏わぬ姿で、恍惚の表情を浮かべて男にしがみついている―
そんな妄想をしている自分を恥じて、サツキへの想いを捨てられない自分を恥じて、そして認めたくない言葉だが、―二股をかけられていた自分を、恥じた。
恥の感覚を壊したくて堪らなくなった。
僕にとって初めての相手で、唯一交わった女性であるサツキを、もの凄く抱きたくなった。めちゃくちゃに、気持ち良くさせてやりたくなった。愛情と、嫉妬と、性欲と、心の奥に有る暴力性のようなものが爆発しそうで、堪えられない。
携帯電話を手に取った。
「少し話したいことがあって。サツキの家に、今から行ってもいいかな?」
そうメールを送って、十五分ほど経っただろうか。
机の上の携帯電話が震えた。
「久し振り。連絡ありがとう。今、部屋が散らかってるから・・夕方以降なら、大丈夫だよ」
突然の連絡にも関わらず受け入れてくれたことで、気持ちが明るくなると同時に、体が、下半身が、異常なまでに熱くなった。興奮で呼吸が浅くなる。ほんの二、三週間前まで、恋人としてのサツキに抱いていた温かく優しい性欲とは全く違う、激しい欲求を抑えきれない。
「ありがとう。じゃあ、ちょうど夕方頃に着くように家を出るよ。また、近くなったら連絡するね」
そう返信して、時計を見ると午後三時を少し過ぎている。
興奮する体を抑え込むように、ベッドに仰向けになった。千葉のこの部屋から、世田谷のサツキのマンションまでは、一時間半近くかかる。
ベッドの上に体を横たえて、目を瞑る。
サツキを、めちゃくちゃにいやらしく抱きたい。
拒否されるだろうな。そう思った。その時、どんなに惨めな気持ちになるのだろう。でも、もしサツキが僕の衝動を受け入れてくれたら―
行ったり来たりする煩悩の塊を振り払うように、僕はゆっくりと体を起こし、少し考えてから鞄の奥に、一日分の着替えを、下着だけ詰めた。
もしまた、サツキと抱き合って眠れたら―
そんなことを考えながら。
㉗
最寄駅から総武線に乗って、新宿方面へ向かう。
千葉に住んでいると、東京のどこに行くのにも、電車での時間が長い。だからいつも、必ず文庫本を鞄に入れて出て読みながら過ごすのだが、今日に限って本を持ってくるのを忘れてしまった。
時折、ぐらりと揺れる電車の中で、サツキのことを思う。
ついさっきまで、あれほど抱きたいと思っていた感情は、不安に変わっていた。久し振りの再会で、サツキはどんな表情で僕のことを迎えてくれるだろうか。
体を求めて、拒否されたら―いや、本来いまの状況では、拒否されて当然だ。そうなったら、もう、二度と会えないのではないかー
頭の中で、悪い考えがぐるぐると回り始める。
それとも、会った瞬間、僕はもしかしたら泣き出してしまうのではないだろうか。そんなことを考えながら、電車の窓から外を見た。空はオレンジ色で、夕日が見え始めていた。
電車に乗っている時間が、いつもよりずっと長く感じた。
サツキの最寄り駅に着いた時には、空はもう暗くなっていた。駅の近くにある、小振りだがまだ新しいショッピングモールに、季節外れのイルミネーションが灯っている。
「グリーンモール・トーキョー・ベイ」よりも、ずっと小さくて、ずっと洗練されて見えるそのモールの灯りを感じながら、サツキの部屋へ向かって、緊張と不安を引き連れて歩く。
携帯電話を取り出すと、最寄り駅に着いた旨を伝えたメールの返信が届いていた。
「わざわざ来てくれてありがとう。待ってるね」
メールの文字を見て、安堵の気持ちが少し湧いてきた。見慣れた道を久し振りに歩く。商店街の灯りが綺麗に光っている。
マンションの入り口に着いた。
前回ここに来たのは、忘れもしないあの日だ。反射的にあのメールのことを思い出してしまい気持ちが暗くなるが、振り払うように顔を上げて、足を前に進める。
オートロックの部屋番号のボタンを押した。
指先が緊張している。
呼び出し音が鳴った。サツキの声が聞こえるまでの間に、指先から体中に緊張が伝染していく。
「はーい」
サツキの明るい声が聞こえた。優しい声だ。
「着いたよ」
サツキの声に反応して明るさを咄嗟に取り戻す自分を、少し滑稽に思った。
「はーい」
サツキもそんな僕の返事を聞いて、インターフォン越しの声が、少し笑っているように聞こえた。
ガラス扉の、オートロックのドアが開いた。
エレベーターのボタンを押して待つ。つい数十秒前の暗い気持ちは、一体どこへ行ったのだろう。人間の気分なんて、本当にいい加減なものだ。
僕を乗せた鉄の箱が、三階までゆっくりと上がっていった。扉が開き、サツキの部屋に向かって歩く。マンションの入り口に入った時とは裏腹に、足がスムーズに動いた。
303号室の前に着いて、ドアの左上にサツキの名字が見えたとき、突然鼓動が早くなるのを感じた。
ここまで来て、急に緊張してくる。
意を決してチャイムを押そうとしたとき、ドアの向こう側で鍵の開く音がした。
ドアがゆっくり開いて、ずっと見たかった顔が見えた。
「やあっ」
おどけたような、一点の曇りもない表情のサツキがそこに居た。
「ありがとう」
僕は嬉しくて、何に対してか分からない感謝の言葉を口に出して、玄関の中に入った。
靴を脱ごうとしたとき、柔らかい感触に包まれた。
気付くと、サツキの両腕で強く抱き締められていた。
豊かな胸の感触を感じる。
この間、僕の部屋に来た時の慈愛に満ちた抱擁とは違い、涙や悲しみの影は全く無かった。
どうしようもなく、下半身が熱くなるのを感じる。大きく膨れ上がった僕を、サツキは優しくていやらしい手つきで触り、そっと先端を滑らすように握った。耳元でサツキの息遣いが荒く、激しくなっているのが分かる。
サツキの唇に唇を重ねると、僕自身を触るサツキの手が、更にいやらしく動いた。
こんなサツキは初めてだ。僕らは荒い息遣いのまま、舌先でお互いの口内を刺激する。
サツキの手が僕のベルトを外し、ジーンズのボタンを外す。僕は我慢できずに、自分で下着ごとジーンズを下ろした。サツキの唇が、僕の唇から首筋へと移り、しゃがみ込んで僕自身の先端に舌先を這わせた。
気持ち良さのあまり、深い溜息が漏れた。這っていた舌先を追いかけるように、サツキのあたたかい口の中が、僕自身を深く包み込んだ。
思わず射精しそうになる。慌ててサツキの頭を抑えると、サツキは吸い付いた口をそのまま外して、すぽん、といやらしい音を立てた。
僕のそれは大きく揺れて、サツキはいやらしい恍惚の表情をこちらに向けた。
僕は堪らなくなって、靴を脱ぎ捨てて部屋に入った。もう一度サツキに唇を押し当てて、ブラウスのボタンを外していく。
㉘
「グリーン・モール・トーキョー・ベイ」の開店は朝十時。響子たち社員は、早番の日はいつも九時までには出勤する。
欠勤した昨日の夜に「明日は誰よりも早く出勤しよう」と決めていた。六時に目覚まし時計のアラームをセットしたのに、五時過ぎには目が覚めた。
カーテンを開くと、もう明るくなってきていて、夏らしさを感じた。
開店前の従業員通用口は薄暗い。社員証を首に掛けて、警備員に会釈をし、中に入る。
この季節になってくると、モールの従業員用通路は少し暑い。しかし今日の響子は、暑さを感じても不思議と晴れやかな気分だった。
十時の開店時間が近づくと、各テナントの前に従業員たちが、うやうやしく一列に並ぶ。開店と同時に入ってきた客が通る度に、深々とお辞儀をする。
百貨店などでの、この「開店時のお辞儀」の習慣についての由来を響子は知らないが、モール内に来店を感謝するアナウンスと音楽が流れる十分ほどの間、こうして深々とお辞儀をするこの時間が、響子は不思議と好きだった。
深々とお辞儀をした後に体を起こすと、見覚えのある年配の女性が、響子の前に居た。
お婆さんは、人懐っこい笑顔で、
「暑くなってきたねえ」
と、響子に声を掛けた。
この年配の女性のことは、前から時折見かけていたが、声を掛けられたのは初めてだ。
なんとなく嬉しい気分で、
「そうですね、もう夏も本番ですかね」
と答えた。
「ここの中は、夏でも涼しいし、冬は暖かいし・・いいよねえ、雨でも濡れないし。あたりまえだけど」
老婦人は、はにかみながら言った。
響子は、どことなく品があるこの老婦人に好感を抱いて、二言、三言、談笑をした。
「体調を崩さないようにね、頑張り過ぎないようにしてね」
そう言って、老婦人は右手を差し出し、握手を求めてきた。思いもよらない行為に少し驚いたが、響子はすぐに右手を差し出し、老女の手を握った。
老婦人は顔をくしゃくしゃにして微笑み、
「嬉しいわ、ありがとうね」
と言って、手押し車を押して歩いて去っていった。
響子の胸の中には老婦人の手の感触と、わざわざ自分に握手まで求めてきたことの不思議さが残ったが、それより一日の仕事を温かい気持ちで始められたことが、嬉しかった。
㉙
昭和も五十年代に入っていた。
キヨミと、勝と、裕太の三人が、勝の実家の近くにある長野県の小さな町で生活を始めてから、五年が経っていた。キヨミは、自身の過去について思い出すことも少なくなっていた。
伯父に犯され続けた日々。目の前で起こった伯父夫婦の殺し合い。淫売呼ばわりされた日々。千葉の売春宿での生活。すべてが遠い過去の出来事のように思えた。
ひとり息子の裕太は小学校では人気者のようで、学校帰りにいつも、友達と暗くなるまで遊んでいた。
キヨミも、裕太の同級生の母親たちより年上であることに最初は不安もあったが、この土地での人間関係は良好であり、子育てに大変さを感じる気持ちよりも、一人息子の可愛らしさの方がずっと大きかった。
夫の勝は町で一番繁盛している居酒屋の料理長を任され、
独立して自分の店を持つ夢に向かって働いていた。
すべてが順調のように思えていたある日、キヨミが買い物から帰宅すると、郵便受けに差出人の名前が無い手紙があった。
封を開けると、そこには古い新聞の切り抜きが入っていた。一瞥した瞬間、キヨミは恐怖で凍りついた。
新聞の日付は昭和二十五年九月―一面には、
「新宿で怪奇心中」
「近親相姦の末の大惨劇」
の文字が、大きく見出しに並んでいる。
眠らせていた記憶が、生々しく蘇ってくる。体中から、血の気が引いていくのを感じる。封筒の中には、
「どこに逃げても、汚れた血は消えません」
とだけ、書いてある便箋が一枚、入っていた。
キヨミは恐怖と怒りで震える手で、新聞も手紙もすべて破り、ビニール袋の中に何重にもして、外のなるべく遠くのゴミ箱に捨てた。
―一体、誰がこんな事を―
不安と恐怖が増すばかりで、その日は学校帰りの裕太に会っても、仕事から帰宅した勝に会っても、いつも通りの表情を作ることで精一杯だった。
その晩、キヨミは寝付けなかった。
勝には、千葉の小料理屋で出逢うまでのことを全て隠していた。伯父夫婦の事件はもちろん、売春宿での仕事のことも、話していない。もし自分の過去を知ったら、結婚生活は確実に破綻するだろう。離婚されるかもしれない。
そうなったら、裕太の人生はどうなるのだろう。
忘れかけていた過去の苦い記憶たちに対して、怒りと情けなさと不安で、涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
㉚
嫌がらせは、それで終わりではなかった。
その日以来一ヶ月に一度ほど、興味本位で書かれた、当時の新聞や雑誌の古めかしい記事が封入された手紙が、ポストに入るようになった。切手は貼られていないから、誰かが直接このポストに入れているということになる。
夫を、息子を、やっと掴んだこの平穏な生活を―絶対に失うわけにはいかない。キヨミはそう強く願い、手紙は絶対に家族の目に触れぬようにし、必死に嫌がらせの犯人を探した。
犯人は、あっけなく見つかった。
近くに住む、義理の母ー勝の母が自宅のポストに手紙を差し入れているのを見たときは、愕然とした。
義母は、勝とキヨミの結婚を、そして裕太の誕生を、誰よりも喜んでくれていた人だった。
それなのに・・。
義母はこの田舎の小さな町で生まれて、殆ど外の世界に出たことのない人だった。
その義母が、どうしてか私の過去を知ってしまった。
勝と裕太には、まだ知られていない。今のうちに、義母に会ってとにかく話さなくては―。
キヨミは、義母と会う約束をして、小さな町の中でも、ひと際ひっそりとした場所にある喫茶店に向かった。
鞄の中には、包丁とロープを入れて。