年老いたキヨミは今、刑務所での日々を思い出すことは殆どない。家族を失った、全てを失った、という感慨のようなものも、最早なかった。

 

 何十年もかけて、伯父に犯され続けていた時の虚無感を再び取り戻した―これが自分に与えられた運命だったのか、と思うことはあっても、もう涙など出ない。

 

 出所後は、人目を避けるように、誰とも深く関わらないように―もうこれ以上、幸せの幻も、悲しみも、この人生に訪れないように、と思い生きた。

 

 それでも、裕太のことを思い出さない日は無かった。

 この、ろくでもない運命に惑わされた人生で、唯一自分がこの世界に残した―たった一人の、息子。

 

 爪に火をともすような一人での生活の中、倹約して溜めた金でキヨミは興信所に調査を依頼した。

 裕太が結婚し、女の子が生まれていること、その子は千葉県にある衣料品店に勤めていること。

 興信所のレポートには、裕太の娘、キヨミの孫の名前は、

「響子」と記されていた。

 

 

 ㉜

 

 

 「ぐだぐたになっちゃったね」

 サツキが、悪戯っ子のような顔で、笑いながら言った。

 くしゃくしゃの掛け布団と、真っ白なシーツの間で、僕らは裸のまま笑った。

 

 「だって、どうしてもしたくてしょうがなくなっちゃったんだもん」

 サツキがそう言ったので、僕は意地の悪い質問をしてみたくなった。

 「誰とでもよかったの?ムラムラしちゃっただけ?」

 サツキは笑いながら、僕を叩く真似をした。

 「シンジとしたかったに決まってるじゃない」

 「本当かな・・」

 僕は笑いながら言った。

 

 サツキが体を寄せてきた。裸の胸が、僕の腕に当たる。性懲りもなく僕の下半身が、少しずつ反応する。

 見慣れた天井を眺めながら、僕は何故だか、

 なるようになるさ、と思った。

 

 

 

 ㉝

 

 サツキのマンションを出て、最寄り駅まで着き、電車に乗る。

 彼女が明日はお店のオープンからのシフトだったことを知り、泊まりたい、とは言い出せなかった。

 相変わらず千葉の部屋までの電車は長い。

 しかし、さっきまで感じていたサツキの体の温もりを思い返していれば、永遠にだって電車に乗っていられそうな気がした。

 

 サツキの肌の柔らかさ。

 中に入った時の、あの感触。

 行為の後、抱き締めた時の温かさ。

 

 最寄り駅まで見送りに来てくれたサツキを、別れ際に強く抱き締めた。

 

 ――また、連絡する。

 ――うん、わたしも、連絡するね。

 

 それだけ言葉を交わして、別れた。

 

 果たしてこの先、僕たちはどうなっていくんだろう。

 不安が頭をよぎる度に、サツキの優しい声を思い出して、振りほどく。

 

 なんとか家に辿り着くと、もう夜の十一時を過ぎていた。

 僕は随分疲れていたようで、着替えもせずに気付いたらベッドの上で眠っていた。

 

 

 翌朝、僕は午前中のうちに「グリーンモール・トーキョー・ベイ」へと向かっていた。

 夏が随分近づいているようで、毎日の気温が段々と上がっている。僕の部屋にもクーラーはあるのだが、まだ今年に入って使ったことは無く、その為もあってか一日中快適な温度のショッピングモールへと足が向いた。

 いつもであれば、モール内のフードコートで本を読んだり、レポートを書いたり、音楽を聴いたりして過ごすのだが、その日は雑貨店や衣料品店を見てまわった。

 

 来週が、サツキの三十七歳の誕生日だ。

 お金の無い学生の僕なりに、サツキに喜んで貰えるようなプレゼントを贈りたい。

 そう思い、モール内に幾つかある洒落た雑貨屋を見るのだが、なかなか、これだ、と思える物に出合えない。

 モール内を更に歩き続けていると、有名な衣料販売店があった。

 いわゆるファストファッションと呼ばれる店で、コストパフォーマンスの良さそうな衣類が店内に沢山並んでいた。

 ここには誕生日プレゼントに適した商品は無さそうだ、と思ったが、とりあえず店内を見てみることにした。

 

 

 

        ㉞

 

 

 平日のモールは、相変わらずお客さんが少ない。

 響子はフロアに出て商品の陳列を整えながら、来週から始まるセールに向けて、電子端末を使って発注をしていた。

 

 ふと、レディース向け商品のエリアを見ると、大学生とおぼしき男の子が所在無さげに歩いているのが目についた。彼女へのプレゼントでも探しているのだろうか。

 どことなく繊細そうな彼の雰囲気を察し、敢えて別の商品の棚の方向を見ながら、

 

 「いらっしゃいませ、どうぞお手に取ってゆっくりとご覧下さい」

 と、声を出す。

 

 「すいません」

 意外なことに、その男の子の方から話し掛けてきた。

 響子は笑顔で、彼の方を向く。

 

 「女性へのプレゼントで、何か良いものってありますかね・・?」

 少し照れ臭そうに、しかしはっきりとした口調でそう訊いてくる男の子が、なんだか可愛かった。二十歳前後ぐらいのその青年は、

 

 「初めてなんで、何をあげたらいいのか全然分からなくって」

 と、続けた。

 「彼女への」とか「恋人への」という尋ね方ではなくて、「女性へのプレゼント」というその尋ね方が、更に可愛く思えた。

 しかし、このお店の商品で、女性へのプレゼントに向いているものなんて、あるだろうか。

 響子は少し考えた後に、

 

 「凄く着心地の良い女性用のパジャマがあるんですが、いかがでしょうか?」

 と言って、パジャマの陳列されている辺りにその青年を案内した。

 

 「コットン100%なので、すごく肌触りが良くて、女性の方に好評ですよ」

 「ありがとうございます」

 

 ――女性への、というだけで、恋人へのプレゼントだと決めつけて、パジャマを勧めてしまったけれど、大丈夫だろうか――

 

 一瞬、響子は心配になったが、水色とピンクの二色が有るそのパジャマを手に取って、真剣な面持ちで選んでいる青年を見て、少し安堵する。

 響子はフロアで発注作業を進めながら時折彼の方を見たが、どうやらピンクの方に決めたようだ。自分が勧めた商品を、大事なプレゼントに決めてくれたことが、響子にとって凄く嬉しかった。

 

 

           ㉟

 

 

 「ありがとうございます。では、プレゼント用のお包みでよろしいでしょうか?」

 響子はレジで、いつもより朗らかな声で彼にそう尋ねた。

 

 「あ、はい。お願いします」

 響子は綺麗な笑顔で頷き、

 「お包みに付けるリボンの色を、ピンクか水色からお選び頂けるのですが、どちらがよろしいでしょうか?」

 そう口に出して尋ねてから、勧めたパジャマの色と同じ二択であることに気付く。

 青年は数秒、少し困ったように考えて、

 「・・どっちが、いいんですかね?ある程度大人の女性へのプレゼントとしては」

 と言った。

 

 「失礼ですが、こちらは・・例えばお誕生日プレゼントといったものでしょうか?」

 そう尋ねると、

 

 「そうなんです。

  彼女にあげる、初めての誕生日プレゼントで・・」

 響子はなんだか嬉しくなって、

 

 「素敵ですね。実は、私も明日が誕生日なんです。

  私だったら、とっても嬉しいです。

  きっと、恋人の方も凄く喜ばれると思いますよ」

 と言った。

 

 「ありがとうございます。

  あ、それに、おめでとうございます」

 

 「とんでもございません。

  こちらこそ、本当にありがとうございます」

 不思議なやりとりになり、二人とも少し笑う。

 一呼吸置いて、

 

 「プレゼントのパジャマも可愛らしいピンクでしたし、

  お包みのリボンもピンクで統一されるのも、素敵かと思います」

 と、響子が言った。

 青年は少し照れながら、

 

 「じゃあ、それでお願いします」

 と、答えた。

 

 商品をラッピングしながら響子は、もし次に恋愛なんていうことが出来るなら、このぐらい真面目そうな人が良いのかもしれないな、と思った。

 

 

 

        ㊱

 

 

 良いプレゼントが見つかって、嬉しい。

 着るものをあげるのって難しいけれど、パジャマっていう選択肢もあったんだな。

 僕はフードコートの椅子に座りながら、そんな事を考えていた。

 

 あの店員さん、綺麗で感じの良い人だったな、

 勇気は要ったけど、女の人に訊いてみて本当に良かった。

 

 「お兄さん、ごめんね。ちょっと尋ねてもいいかい?」

 

 突然、手押し車を押しているお婆さんが声を掛けてきた。

 見た目よりも随分としっかりした芯の有る声で話し掛けられたので、驚いてしまった。

 

 「はい」

 

 と警戒しながら答えると、老婆はそれまでとは打って変わってにっこりと笑った。

 

 「お兄さんは・・・ハタチぐらいかねえ」

 

 「はい。もうすぐ十九歳です」

 

 「最近の若い人はみんな、背が高いねえ」

 

 老婆は的外れなことを言ったあと、少し沈黙した。

 やっぱり変な人かな、と思ったその時、老婆が口を開いた。

 

 「今度、二十七になる孫娘が居てね。

  誕生日のお祝いに何をあげたら喜んでくれるのか、分からなくてね・・

  あんまり大袈裟な物だと、驚かせちゃって貰ってもらえないだろうし・・」

 

 と、照れ臭そうに、早口で老婆が言った。

 

 

 

          ㊲

 

 

 

 店舗内のメンズコーナーで、響子は中年の男性客を見て、自分の父と同じくらいの年頃かな、とふと思った。

 

 「お父さんの育ったのは田舎でさ・・沢山引っ越しをしたんだけど、どこにもこんなに立派な建物なんてなかったんだよ」

 

 響子が幼い頃、子煩悩の父はよく色んなところに遊びに連れて行ってくれたが、どこに行っても父がそう言うので、

それはもう聞き飽きたよ、と小さな頃から思っていた。

 

 お父さんのお父さん、おじいちゃんは田舎に一人で住んでいる。お父さんのお母さん、私のおばあちゃんに当たる人は、お父さんが小さい頃に亡くなったらしい。

 お父さんも、おばあちゃんのことはあんまり覚えていないみたいだ。

 

 休憩に入ると、すぐ後に遅番で出勤してきた誠が入ってきた。

 一瞬どきっとしたが、大丈夫、何があっても大丈夫なんだ、と、自分に言い聞かせる。

 

 お疲れさまです、と、どちらからともなく、声を掛ける。

 

 昨日のズル休みで出逢った、二人の子供たちの顔を思い出した。

 

 何があっても、大丈夫。

 

 休憩時間が終わり、売り場に出る。

 

 今朝、握手をした老婦人がフロアの遠くから歩いてくるのが見えた。

 

 老婦人もこちらに気付いたようだ。

 

 彼女が手提げ袋を持ったまま、響子に向かって、微笑むのが見えた。




(完)






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