January 2008

January 30, 2008

使われてこそ、価値がある

山田 和 著「知られざる魯山人」を読了。
書・陶芸・画・篆刻の、それぞれの分野で才能を発揮し、料亭「星岡茶寮」を舞台とした希代の「美の風狂人・数奇者」の物語である。
彼の雅号は「魯卿」であり、その由来について「山に棲む馬鹿な男という意味さ」とうそぶく。だが、本心は「世間の常識の中に断じて棲まぬ男」という不退転の覚悟の表れであった。

「魯山人の器は、そこに料理を盛ろうとすると、新鮮な材料を使えという声が聞こえてくる。そこで食材に思いを馳せるが、今度は旬のものを食べるべきだという声が聞こえてくる。季節や食材の産地、食材の扱いも気になってくる。先へ先へと思いを馳せるうちに、大自然に従うことの合理を悟り、ついには自然礼賛に至る。」
「いい焼物を手に入れれば、床の間に飾ったり、押入れに深くしまい込むことが多い。鑑賞陶器という言葉が世にあるが、それらは器本来の目的を惹起せず、所有自慢や著財の満足という卑屈の心を生ぜしめる。器はそもそも使うために発明されたのであって、器は使われてこそ、本領を発揮するのだ。」
この精神こそ彼の全てであり、それ以外何物も眼中にない。それが周りの人間との軋轢を生んだ。それを一切気にせず、独自の世界を貫き通した。

天衣無縫であっても、せせこましい賤しさはない。スケールの大きい生涯。謎めいた不分明の出自への絶望感が、彼の芸術活動の源である事を知れば、その後の「美の彷徨」から「美の創造」への道筋も説得力がある。

「美に跪く」偉大なる人物の伝記であり、一気に読ませる迫力があった。

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ryosuke_hara at 20:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜 

January 28, 2008

スポーツと観客

昨日、対称的な二つのスポーツイベントが開催された。
最も長く時間をかける「持続力・持久力」を争うマラソンと、最も短時間で決着がつく「集中力・瞬発力」を争う大相撲である。
大阪の女子マラソンでの、トラック競技の第一人者・福士のマラソン初挑戦は失敗に終わった。未知の長距離への挑戦は、最後に失速したが、完走せんとする姿勢は感動的なものであった。声援を送る観客と一体となる姿は、久方ぶりに「スポーツの爽やかさ」の表れであった。

一方、大相撲の千秋楽は横綱の相星決戦であり、注目を集めた。
ヒール役の横綱も、持ち前の運動能力・瞬発力で、稽古不足を補ってきたが、「ガップリ四つの長い相撲」になると、持久力・スタミナ不足の負けであったのか。
両者、死力を尽くし、意地と意地のぶつかり合いは、いい相撲であった。何よりもTVの高視聴率が、それを証明している、これも観客が盛り上げたものだ。

深田久弥は「登山という行為は、山という大自然の中で、心を解き放つ、世俗や欲望や絆から自由になって、精神を浄化する行為である。だから記録はいらない。スポーツには必ずある、勝ち負け・順位も不要である。観客のいないスポーツは考えられない。練習は別として、観客がいなければ、その試合は虚しいものである。」としていた。

まさに、スポーツは、観客・応援者があってこそ盛り上げるものである。

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ryosuke_hara at 17:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

January 25, 2008

職人の技

先日、NHKのかんさい特集「巨大高炉改修プロジェクト」が放映された。
時間的・空間的に厳しい制約のもと、難工事を完成させた千人の匠の技、緊迫の48日間の男の物語であった。
神戸製鋼所の前身である鈴木商店の創成期から没落までの物語である、玉岡かおる著「お家さん」を読了した後であった。

明治・大正期に一個人商店から世界的な貿易商社に登り上がった組織の、中心人物としてのお家さんの物語である。
総合商社は、日本人の人間関係の強さによって成立した組織であり、これは日本独特のものである。アジアには決してあり得なかったものである。

作者はこの日本独特の組織の成立を、「お家さん」を中心に、湊川神社の境内の夜店で買い、本宅の庭に植えた桃の若木の成長等の話題を交えて、一気に読ませるものに仕上げている。

「繕う、いう字は糸へんに善と書きますやろ。善うなるように、善うなるように、そう念じ、糸を縫い込む」
「彼女は縫い物をしながら店や家の一人一人のことを考えていたに違いない。行き詰っても縫い続ける。破れてもいつのまにか繕ってしまう」

会社が働く者たちにとって「家」であった時代、主人公はその懐に抱くようにして従業員を育て守った。しかし、もはや会社が「家」ではありえない時代の到来とともに鈴木商店は傾いていった。

近代資本主義から現代資本主義への変化の必然の過程か?
現代的な組織と日本独自の「一家意識」の再結合を考えるべきではないのか。

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ryosuke_hara at 17:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜 

January 23, 2008

親の背中を見て子は育つ

保育所の女性所長が自殺し、五年後にようやくその死について「保護者対応で精神疾患による公務災害」と認定されたとのニュースで、二つのことを想起した。
一つは、中世の啓蒙思想家 ジャン・ジャック・ルソーの生き様である。
彼の生い立ちは不幸なものだった。彼が生まれたのと引き換えに母親が死んでしまい、ルソーは愛妻の命を奪った憎い存在とみなされ、それ故に、彼は父から捨てられたのだ。
やがて、ルソーにも自分の子ができる。彼は、生まれた子を孤児院の門前に次々と捨てていった。父親が自分にした仕打ちを繰り返したのだ。五人も子供を捨てているから、決して出来心からとはいえない。ほとんど確信犯だ。
むろん、啓蒙思想家として成長した人だから、後年になってこの行為を反省しているのが、ルソーほどの人でも、親のやったことを繰り返したのだ。

二つは、文豪ドフトエフスキーである。彼の最後の大作「カラマゾフの兄弟」の最終章は、以下である。
「殊に子供の時分親の膝のもとで暮らした日の思い出ほど、一生涯にとって尊く力強い、健全甘美なものはありません。子供の時に経験した、こうした美しく神聖な思い出こそ、何よりも一番よい思い出なのです。過去においてそういう追憶をたくさん持っていることが、間違いのない人生の指針となるのです。」と。
これは、最愛の息子を亡くした経験が、彼をしてこう言わしめたのだ。
最近の世相をみて「親の背中を見て子が育つ」 つくづくそう思う。

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ryosuke_hara at 17:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜 

January 21, 2008

「カリスマ」と「オーラ」

「カリスマ」というのは、「神の賜物」で一般的に「他人が近づけないような超自然的・非日常的資質」である。と広辞苑にある。
瀧澤 中氏は「カリスマ」は政治家の場合、三つの様相を表わすとしている。
一つは、本人の資質は二の次で、その人物の偉大であった先代の「血族」によるカリスマ性。例えば、鳩山一族やケネディ一族。
二つは、今は引退若しくは表舞台に立ってはいないが、かつて活躍した「履歴」によるカリスマ性。例えば、吉田 茂や岸 信介や田中角栄。
三つは、誰もが考えもしなかった戦略や戦術で局面を大きく展開させた「異能」のカリスマ性。理解不能・ベールに隠されている神秘性。例えば、織田信長や坂本竜馬。
いずれも「カリスマ」は過去の話・伝承・歴史を語るものであり、いわば「幻影」である。

一方、「オーラ」は広辞苑では「人や物が発する霊気ないし独特な雰囲気」とし、語源のギリシャ語では「あたりに漂う、人・物などから発散している独特の趣、雰囲気、香気」である。
何かしらをやり遂げようとする「心意気・気迫・意志」を持つ人物が発散する圧力・風圧である。
即ち、「オーラ」は「現実」にあるものである。
現実のオーラ」が、時代を経て「幻影のカリスマ」となるのだろう。

最近そういうオーラ・雰囲気を醸し出す人物が少なくなった。


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ryosuke_hara at 17:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜 

January 18, 2008

カリスマ教師の教育論

山本美芽著「りんごは赤じゃない−正しいプライドの育て方−」を読了。
神奈川県の中学の美術教師であった太田恵美子さん(独自の成果を挙げた「カリスマ教師」と言われた人)の実話である。
彼女の教育論は、「いかに生徒を本気にさせるか」が原点であるとし
自分の責任を自覚させる
効果ある褒め方をする
見て、感じて、考えさせる
自由を与え、力を引き出す
子供を大切な人間として扱う
認められる喜びを実感させる
大人の世界に触れさせる   である
その教え子達が「カリスマ」というだけでなく、この先生にはオーラがあったとの言が印象に残った。長い年月をかければ、誰でもベテランになれるが、カリスマ性となると漫然と日時を過ごすだけでは身につかない。
彼女には数えきれないほどの創意工夫が隠されている。常に力を振り絞って創意工夫を行い、自分自身を磨いてきた。
そこからにじみ出る自信が「カリスマ性」や「オーラ」の正体なのである。

ただこのような教師が、現実の学校現場の中で、どれだけ異端視されたかは、想像に難くない。

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January 15, 2008

信念の生き方

福沢諭吉は「痩我慢の書」で、勝 海舟や榎本武揚を批判した。
この二人は江戸幕府に仕えながら、明治新政府にも登用されている。
「一片の痩我慢は立国の大本であり」「古来日本国の上流社会に最も重んずる所の、一大主義」「何者にも代え難い国民の精神的遺産」であり、「二君に仕えずが古来の美風である」と、批判した。
これに対して
榎本は「昨今多忙につき、いずれそのうち愚見申しのぶべく候」と逃げた。海舟は「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず、我に関せずと存じ候」とし、一切弁明せず沈黙を守った。

福沢が、「役人」にならず教育界に於いて、独立自尊を貫いた「痩我慢」。
海舟は、日本海軍創設のために「役人」となった「沈黙」。
孰れも「自らの使命の自覚」に立脚した生き方を示している。

孰れの道を選ぶかは、その人の生き方に関わる事だ。

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January 12, 2008

戦略的視点と目指すべきもの

最近の日本経済新聞に文化庁長官、青木 保さんの「危機を超えて」が連載されている。
10日は、福澤諭吉の誕生日であり「福澤の視点」と題している。
その中身は、「文明論之概略」である。
福澤はこの著作で、人間の世界を「文明・半開・野蛮」の三段階に分けた。
「野蛮」は進歩への志向を持たず、その日暮らしに終始するような社会。
「半開」とは国家も文学も発達しているが、旧慣に惑溺し進歩向上への道を自ら閉ざしているような社会。
「文明」とは開かれた創造性を尊び、進歩へ旧慣に構わず邁進でき、虚よりも実を重んじる社会。

今の世界でこの文明の状態に達しているのは西欧諸国だけであるとし、日本はこれを目指して進歩向上すべきと説いた。
しかし西欧も決して文明の最高の状態に達しているとは言えず、日本がその半開の状態から早く抜け出して文明国になるために一時的に、西欧諸国をモデルにすべき。」と説いているのである。

ここに「文明論之概略」の持つ、醒めた目で自他を見通す視点、即ち近代日本の国家形成への戦略的視点が明示されている。
21世紀、改めてこの書を基礎として新たな出発を図るべきであろう。

今の世で、「規制緩和」「聖域なき構造改革」を至高のものと叫ばれているが、それは欧米諸国の事例を、そのまま日本に導入しようとしているだけではないのか。

欧米諸国の例を、最善のものと見なすのは、この福澤精神に反するものだ。
その一人が、福澤諭吉の慶應義塾大学の教授であるのは、いささか奇異な感じがする。

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ryosuke_hara at 22:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜 

January 10, 2008

反骨精神

高田 宏「大いなる人生」を読了。
伝記書評しつつ、著者自身も独自に伝記の対象となった人物の実像に迫る試みの一冊。
「惚れて書いてこそ伝記だ、と思う。惚れてしまえばアバタもエクボである。著者が当の人物に惚れるというのが、書くための最大のエネルギーだろう。惚れもせずに書いたら、アバタはアバタだ。下手するとエクボまでアバタに見えてしまう。伝記の著者は屍体解部医ではない。屍体の腸を取り出して、ここがこんなに病んでいると言ったところで、それは人間を描くことではない。内に病巣を抱えながら、人は生きている。喜怒哀楽を生きている。屍体解剖は無意味だ。」と。

我がブログ作成の協力者の一人は、慶應大の学生である。
彼によれば、本日は福澤諭吉の誕生日である。
福澤諭吉の自伝の終章「老余の半生」になぜ政府に出仕しなかったのか。
四つの理由を挙げている。
第一に、政府役人が無闇に威張っている。そんな空威張りの仲間に入る気がない。
第二に、役人達の気品が高くない。
第三に、幕末に勤皇といい佐幕といいながら、新政府におもねているのが気にいらぬ。
第四に、独立自尊の見本を、自分の行き方で世に示したい。

明治政府以来の、「役人の特権意識」こそ、今の時代も最大の弊害であろう。

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ryosuke_hara at 17:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜 

January 08, 2008

母べぇ(かぁべぇ)

野上照代 著「母べぇ」を読了。
著者は、黒澤 明監督の「スクリプター」であった人である。
スクリプターとは、撮影シーンにおけるあらゆる事象・物体・セリフ・撮影
方法・時間・台本と違う箇所などを記録し、芝居やシーンがうまくつながるよう管理する仕事である。

「母べぇ」とは、「自分を犠牲にしても家族を守る母親」の姿である。
昭和10年代の世相背景に戦時体制に翻弄される庶民の生活、家族の絆が淡々と描かれている。
「今なら、父の、母の気持ちを分かってあげられるのに」
父の、母の享年を超えて抱くその想いがこの作品を仕上げている。
ただフィクションとはいえ、主人公の父親を獄死させるのは、如何なものか。
その昔、高峰秀子主演の「名もなく貧しく美しく」という映画があった。
聾唖者夫婦の物語だが、その必死に生きる夫婦が、更に最愛の子供を交通事故で亡くすという結末であった。
「何もそこまで・・・」という印象を持ったことを思い出させた。

我が青春時代の理想の母親像を高峰秀子が演じた。
それが今、「母べぇ」では吉永小百合が演じるそうだ。
時代の流れを痛感する。

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ryosuke_hara at 17:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感記〜日々私が思うこと〜