July 2012

July 29, 2012

日本人論

船曳建夫著「日本人論再考」を読了。
日本人は「日本人論」を論じるのが好きである。特に、国全体が不安の時に、である。
それは「日本が島国であり、他国との接触が少なくコトバを共有し、更に自分たちは単層的な社会だ、と思いたい願望が強い」からである。特に不安の時にそうなのは、その深層には、「遅れたアジア」の植民地的状況から脱出することに集中した体験が、それなりの国際的地位を得た現在でも、その孤立感と独自性と自負心から解放されず、それ故に自らのアイデンテティーを希求しそれを確認したかったからであった。
著者は、「新たな日本人論の発想が必要」と提言するのである。
「混迷の現在」は第三のターニングポイントと言われるが、前の二つ「「明治維新」「第二次大戦の敗戦」とは、異質であるという。前二つはその後比較的短期間で回復成功したが、今日のバブル経済崩壊後の構造転換への取り組みは、長期間いまだに前途が見えない状況にある。
この間、日本人は感性や習性が変質を余儀なくされており、「日本人論を必要とした日本の終わりの始まり」が始まっているからである、と説く。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 14:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 21, 2012

「免許」とは

無免許の少年が、登校中の児童やその保護者を死傷させた事件。その公判が始まった。
最大の論点は、適用されるべき法律が、「自動車運転過失致死傷罪」か「危険運転致死傷罪」か、である。被害者遺族の感情問題だけでなく、また刑罰期間の長短よりも、今回の裁判に対して、検察側は「無免許とはいえ、長期に亘って運転技能は習熟しており、事故原因は過失による居眠り」としているのは、解せない。
私は以下の如く判断すべきと思う。
「自動車の運転には免許所持が必要」と認定しているのは、「運転は危険なもの」だからである。(それは、タクシーやバストラックなど職業として運転に係わる免許に対しては、普通免許に加えて特別な資格を必要としているのが、その証左であろう)。ならば「無免許での運転」そのものが、「危険運転」である筈である。「運転技能あり」の前提は、「免許あり」であり、「無免許でも経験をつめば技能あり」との判断は、「免許制度」そのものを否定するものである。
医師は、資格取得までの技術習熟期間を経た後、資格試験合格後「免許」が与えられるのである。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 16:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 15, 2012

安心と安全

日本の国債残高は膨大な規模に膨れ上がっているにも拘らず、国債の利回りは1%を下回り安定しており、かつ通貨の円も独歩の円高である。また、その国債を買い支えているのは国内の貯蓄であるから、「心配なし、もっと景気対策を」といわれる。
国債の安定と国家財政の安全とは?
「国債の安定」は、国内の貯蓄であり、その貯蓄には家計貯蓄と企業貯蓄とに分けられる。家計貯蓄、その主要な持ち主は高齢者。だが高齢者の割合が増加すれば、国全体の貯蓄率は確実に減少していく。この家計貯蓄の減少を補っているのは、企業貯蓄。それは、景気悪化により、企業が設備投資に資金を回すのではなく、国債購入に回している結果である。
「景気向上策を」といわれる。
景気が回復すれば、企業は設備投資に向かい、国債購入には回らなくなる。さすれば国債利回りは高まり、国家は多額の国債償還金に追われ、財政は安全でなくなる。
景気が低迷したまま、国債市場が安定していた方がマシなのか、景気回復による国債利回りの高まり、即ち財政運営の混乱の方がマシなのか。
「安心と安全」は両立するのか?


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 14:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 10, 2012

コミュニティー創造

今月の学士会会報、金子北大教授の「少子高齢化時代のコミュニティー創造」の論文。
歴史的にみると、コミュニティーが健在であった時代では、社会構成員すべてを包み込む配慮が地域社会の特質であり、そこには、地元居住者間の格差や異質な成員の排除は見当たらず、児童虐待や孤独死などもなかった。
今日の「少子化する高齢社会」では、構成員が個としては強いが、集合化しない「粉末社会」の様相が顕著になってきた。時間的空間的な個人行動圏が拡大するものの、成員の集団帰属や階層所属においては、コミュニティーは分散衰退している。
コミュニティーの存在意義は、地域社会の相互性と互恵性の有無である。そこから成員の間に潜在的にも顕在的にも認められる社会目標が形成され、個人を超えた集団的な動きと個人の帰属感などが引き出される。即ち、コミュニティーの創造には、個人間の互いの親しさだけでなく、集合的な目標の共有と協働こそが肝要である。
それ故に、「粉末社会」が普遍化した今日にこそ、コミュニティー創造を時代再建の柱とみなすのである。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 14:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 05, 2012

司馬遼太郎と乃木大将

先日の大阪での講演に惹かれて、関川夏央著「坂の上の雲と日本人」を読了。
著者は、「坂の上の雲」が書かれた動機について、次のように分析する。
司馬は日露戦争に至るまでの「まことに小さな国が開花期を迎えんとしていた若い日本」と、「戦後から昭和40年代までの日本」との間に共通するものを感じていた。
日露戦争後の日本は、その若く健康な国家を、いつの間にか病的な奇態な軍事国家に変質してしまった。同様に、昭和40年代の日本は経済成長路線を順調に進み、「開放的で自由に食える社会」を築きつつあるが、その健全さを失わせるものが芽生えるのではないか、という不安が、この書を書かせたのであると。
更に、この作品の時代背景、当時の鉄道事情や、軍隊生活の脚気対策、当時の海軍の動力事情、戦争捕虜に対して当時の日本が世界に認められるべく健気に国際協定を守る姿などにも触れる。
司馬自身の「昭和の陸軍の精神主義」体験から、明治の「健康な日本」を奇態なものに変質させた軍事国家・軍人の精神主義の象徴として「乃木大将」を愚将・悪将として論を展開したのである、人の好悪で言えば、司馬と乃木は好であると。
「健康な豊かさ」は、「自尊心・ナショナリズム」を産む。しかし、それには、独善的偏狭なものに変質する危さを、いかに内在しているかを自覚せねばならない。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 12:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)