August 2013

August 31, 2013

「歴史認識」について

先日蔵書のうち、「明治維新・昭和史」関係以外は処分した。補充するものとして、保阪正康著「昭和史 七つの謎パート機Ν供廚鯑瀕察
昭和前期(昭和元年から第二次対戦終戦、講和独立まで)。日本人はこの短期間にあらゆる社会的事件を体験した。事変、部分的勝利、戦争、敗戦、占領、被占領、その他テロ、クーデター、革命騒動から飢餓や言論弾圧まで、他民族も体験したであろう全ての社会的出来事を、日本は一世代の詰まった期間で体験した。世界的に稀有なことであった。
今日、世界的に「日本の歴史認識」が声高に問われている。それについて想う事。
国内的には、‘本民俗の気質として「熱狂(幕末の攘夷、昭和の神国思想など)」する癖、これは、敗戦後の「民主化路線」の行き過ぎにも引き継がれた。当時の「軍の統帥権絶対」の思考は、現在も政治システムや官僚機構に継承されている。
対外的には、 崚豕裁判」は戦勝国の「復讐と正義の確認」のものである。我が方の和平申し入れで「戦争継続の意思無し」を知りつつ、戦勝国側は原爆投下・満州侵攻により、多数の民間人を殺戮したこと。アジア諸国は日本からだけでなく、全体が西洋の帝国主義圧迫の被害国であったこと。
これらのことを、相互に公平に認識すべきである、と想う。

番外編の「宮中祭祀というブラックボックス」と題する原 武史との対談は、考えさせるものであった。「平成」以降の「国民統合の象徴としての天皇制」が存立の意義を問われるものとなる危惧である。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 10:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 26, 2013

「風立ちぬ」

久方ぶりに妻と映画鑑賞。宮崎 駿監督の「風立ちぬ」である。
ひと言で言えば、この映画は、監督の自身の青春時代への追憶である。
青春時代「美しいもの作り」を願っていた監督。それを先進・理想とする人物として、「飛行機」の設計者である堀越二郎、「旅情」の文学家、堀 辰雄を憧憬していたのであろう。
そこには「反戦の思い」も込められている。それは、堀越には、「飛行機の設計、その美しさの一つの軽量化には爆撃装置が無ければもっと良い」と言わせ、堀には「戦事中の世相を無視し、思索の旅を続けた」姿勢に共感した、としているからである。
この映画を観て感慨を覚えたこと。
堀 辰雄、この作家の『大和路』の中の小品に「浄瑠璃寺の春」に魅かれて、高校時代毎春、京都の果てに位置する木津の浄瑠璃寺(九体寺)を訪れていた(この寺が妻の親戚筋に当たることが後日判明した折、不思議な縁を感じた)からである。
更に、堀越二郎の「終戦日記」と題した文章は、「敗戦は未曾有の出来事であったが、何時の時代であってもリーダーたるものに求められるのは、誠実・叡智・愛国なのではないか」、としていること、を思い出したからである。
この映画の物語の進行役でもあるイタリアの飛行機設計家、カプローニのセリフ「力を尽くしているかね?」は、宮崎監督からの現代人への問いかけでもあろう。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 14:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 20, 2013

「保守とリベラル」・・・その

人々が同じ方向を向いて「熱狂」している時にこそ、冷静に別の方向を見ようとする著者の思考の原点からすれば、左派・民主党政権への失望から右派路線への期待が湧出しているのが現在こそ、その出番の時と自負するのである。
人類の経験則から言えば、人間が尊重すべき「平等」は、「何事も全て平準化・均質化する平等」ではない。「有機体的一体という社会観に基づき、その中での個人個人の職分的・トポス的平等」である、とする立場から著者は、宗教的共同体や地域社会の人々の連帯感が失われている現代の新しい社会において、人々は個人として孤立し「自己の場所トポス」を失ってしまった。その「個としての「トポス」立場存在を認めてもらうことは、相互にそれを承認しあうことこそ求められている、と説く。
さらにまた、「個よりも全体を観る」護民官・武士道騎士道精神のエリートの必要性も説く。

本来の「保守」から派生遊離した右翼的思考「原発積極推進」や「徴兵制採用」また「グレート・リセット」の主張に対しては疑義を表明し、今こそ「保守」と「リベラル」のコペルニクス的転回の両立・並立・結合の必要ありとするのである。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 11:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 17, 2013

「保守「と「リベラル」・・・その

お盆休みに我が意を得た本に出会った。中島岳志著「リベラル保守宣言」である。
著者は「保守」の真髄は「人間は道徳的にも知的にも不完全な存在である」ことを知る故に、「左派の主張する設計主義による急進的な改革や革命は、不完全な理性による暴挙」とし、「共同体に蓄積されてきた集合的経験知・伝統に基づく斬新的な改良に行為の指針をおく者」と規定する。
「神なき人間中心主義」が人間の能力への過信を助長し、「現在(今さえ良ければ・・・)」のみに関心を持ち、ジェットコスターの如く激しく変動する「世論(「輿論」とは別物)」に浮き足立つ大衆を生み出し、結果的に社会秩序を破壊している現状を観るとき、この「保守」の立場・連続性を担保する「宗教」の必要性を説くのである。
著者はこの立場の根拠を、バークやトクビィルなど西洋の先哲に求めると同時に、親鸞の「人間の存在は悪である。だからこそ人間を超えた存在・阿弥陀仏に絶対的にすがる「他力本願の教え」に接したことが、発想の原点となったとしている。

では、この「保守」と「リベラル」を並立させる、とは何故か?


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 10:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 10, 2013

「納得」の部分

「周五郎伝」の後半部分
「曲軒」とアダナされる程癖の強い「常にわが身がナンバーワンでなければならぬ、人間関係を勝ち負けの関係で見る」少年期の環境であったが故に、時勢に面従腹背し吝嗇と好色の汚辱と俗塵にまみれた周五郎の想像力から生まれた膨大な作品(63才で斃れるまでに38巻の全集と全集未収録作品集17巻という)の登場人物(武士・商人・丁稚・色街の女・無職の渡世人などあらゆる階層)それぞれの心理描写、またその葛藤は読者を納得させるものがあったが故に、彼の愛読者は多数存在したのであろう。
「小説に純文学も大衆文学の区別など無い」「人間の真価はその人が死んだ時、何を為したかではなく、何を為さんとしたかである」と言い続けた周五郎、特に、三長編「樅ノ木は残った」「長い坂」「虚空遍歴」には、作者の人生観・哲学・芸術観が集大成されている、と改めて認識し、今一度読み直したいと思った。

この著の書評をした篠田正浩は『「俗人」が「聖人」に変容する奇跡の如き文学の不思議』と述べている。私は、「人間・周五郎が山本周五郎の作品に変身した不思議」としたい。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 13:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 07, 2013

新発見  その驚愕と納得


横浜に所用あり。その新幹線の車中で、斉藤慎璽著「周五郎伝」に挑戦。
「驚愕と納得」の連続であった。先ず「驚愕」から。
山本周五郎という作家を、同時代の作家・文藝評論家の発言や記録を網羅し、彼を育てた風土・生活・世相のうねりやゆがみを凝視する、従来の人物評伝とは異なったものである。
私が彼の愛読者になった理由の一つは、司馬遼太郎が「歴史は記録と記憶からなる。人類にとっては記録が大事だが、人間個人にとっては記憶の方が大事だ」と喝破したと同様に、
山本周五郎は「慶長五年の何月何日に大阪城で、如何なることがあったか、ということではなくて、其の時道修町のある商家の丁稚がどういう悲しい思いをしたか、そしてどういうことをしようとしたかを、探求するのが文学の仕事であり、文学には純文学も大衆文学の区別など無いのだ」との創作姿勢を貫いたからであった。
彼の作品のみの愛読者を任じていた者にとって、この作家の生まれ育ちの家庭環境、それによって培われたであろう複雑な精神構造形勢の過程を知ることは驚愕すべき発見であった。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 12:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 01, 2013

隙間風が吹く感覚

先日、我が蔵書のうち「明治維新・昭和史」関係もの以外は全て手放した。
昨年末から何度か三途の川を渡る覚悟を余儀なくされたが、「万一の場合妻が処分に困るものの一つは我が蔵書であろう、これは元気なうちに身軽にしておこう」と決めていたからである。
神戸に関係する作家のものは神戸文学館に、政治関係のものは某市会議員(彼は25才になった本年、地縁血縁何も無い地方都市の市議として政治の道に歩を進めた)に、後代に残るであろう作家評論家の全集は本棚を含めて我が跡取り(弟の息子)に、残余のものは文学館出入りの業者に引き取ってもらった。
我が居間の四辺の壁を取り巻いていた二重スライドの本棚が無くなったので、随分と部屋が広くなった。
また、我が体重は昨年末からの四ヶ月に及ぶ入院生活で20キロ減、「肉のマント」を脱いだ「ホネ・カワ・スジ衛門」状態で、あれほどの暑がりであった男が「冷房を寒い」と感じている昨今であったが、この度の部屋の広さの感覚は、体の内外ともにスースーと「隙間風が吹いている」感覚である。
「拾った命・この隙間風」を、どう生きるか、である。


バナー

クリックよろしくおねがいします。

ryosuke_hara at 15:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)