2009年04月25日
2009年04月18日
第七章 龍のくちづけ その14
泉美が、何度も今日子の名前を呼んだ。雄哉は魚探を掛けながら縦横に湖面を航行したが、水中に沈んだ今日子と巨大な影は、捕捉できなかった。
「あれや・・・今まで、なんどか目撃情報があったり、水中カメラにぼんやり映ったり、魚探に影が出たりしたけど、確証のない巨大生物、『深みより来るものども』とはまた別の、琵琶湖のUMA(ユーマ)・・・やっぱり、シコブチの使い魔みたいなもんやったんや」
魚探をにらみつけ、雄哉を叱咤しながら、蜷川は興奮した口調で呟いている。
豊俱教授は深刻にうつむき、泉美に問いかけている。
「お前は・・・気が付いていたのか、彼女の異変に?」
「信じたなかった・・・今日子の服に、汗染みができるようになってた。汗のにおいがし始めた。前に、今日子が教えてくれた、天人五衰やとしたら、今日子は、ひどく苦しんで、死なんとあかんのやて・・・」
健介は、泉美に尋ねる。ずいぶん久しぶりに、泉美に直接口をきくような気がする。
「不死身のシコブチ神に、寿命があるのか?脱皮すれば、何度でも若返ることができるのじゃないのか?」
「うちは、そんなこと、わからへん・・・」
泣きじゃくりながら、船底へ泉美は座り込んでしまう。慰めることもできず、ただ立ちすくむ健介に、豊俱教授が暗い目を向ける。
「生物としてのシコブチは、脱皮できない場合、死ぬんだ。比留間教授のようにね。それは壮絶な苦痛にさいなまれ、おぞましい死にざまを見せる。比留間教授は、脱皮しかかっていた。出来た筈なんだ。だがそれを彼は拒んだ。おそらくは、鬼室今日子も、脱皮をすれば輝かしい姿を保つことができる。しかし、このところ、彼女はあまりに美しく見えた。まさか、天人五衰を迎えていたなんて・・・」
教授の、説明とも独白ともつかない言葉に、不意に蜷川が割り込んで嘲笑を浴びせた。
「はは!教授はやっぱり文系の人やね。大体の生き物は、寿命が尽きる直前に華々しく身を飾るのよ。婚姻色って知ってる?繁殖期の魚類に顕著なんやけどね。あのシコブチも、繁殖期迎えてたに違いないわ。汗のにおいに、フェロモンぷんぷんで、男の関心を引き付けてたわけよ」
豊俱教授は眼を上げ、蜷川に低い声で反論する。
「シコブチ神は、生殖で同類を増やしていないはずだ。血を分け与えて、仲間を増やす・・・血が合わずにシコブチになれない人間がほとんどだそうだが・・・」
蜷川が、異様に目を光らせた。
「血!シコブチにとって、血はキーワードの一つじゃない。氷上神社氏子衆は、『深みより来るものども』を血を吸う魔物だと言い伝えてきたでしょ。シコブチ信者は、人間を生贄に捧げて、魔物どもはその生き血を飲んで、不死身の体を保つと」
「それは・・・偏見に満ちた言い伝えに過ぎない」
豊俱教授の声は、弱弱しく、その表情が怯んでいるのを、健介はいぶかしく思った。蜷川は、大きく目を開き、頷いた。
「そうか!こう考えれば、辻褄が合うのじゃない?つまり、シコブチが、衰え始めるとフェロモンを出すのは、生贄を誘うためよ。通常の状態では、何も食べないで済む生き物だけれど、脱皮のためには膨大なエネルギーが必要なわけ。つまり、生贄としての若い人間を喰らい、血を啜ると、脱皮が可能になる!氷上神社の姫を誘惑したのも、つまりは、脱皮のための生贄にするためだったんだ!」
泣きじゃくっていた泉美が、愕然と顔を上げ、蜷川を凝視する。その唇が震え、絶叫が響く。
「そんなん・・・嘘や!でたらめや!思い付きをしゃべらんといて!」
健介は茫然として、視線をさまよわせ、豊俱教授にすがるように聞く。
「先生、いまの、蜷川さんの仮説は・・・どう思われますか・・・」
教授は顔を伏せ、表情を隠すように背中を向けた。
「検証しないと、妥当かどうかは、それは、結論は出ないだろうが・・・極めて、整合性の高い仮説であると・・・認めざるを得ないな・・・」
教授もまた、自分と同じように、今日子に惹きつけられた最近の有様を、恥じているのだろうか・・・と健介は思った。
「なあ、先生、どないしたらよろしい?このまま、シコブチの隠れ里へ向こうたらよろしいんか?」
途方に暮れた様子で、指示を仰ぐ雄哉の声が、暮れかけた湖面に響いた。
(第七章おわり)
「あれや・・・今まで、なんどか目撃情報があったり、水中カメラにぼんやり映ったり、魚探に影が出たりしたけど、確証のない巨大生物、『深みより来るものども』とはまた別の、琵琶湖のUMA(ユーマ)・・・やっぱり、シコブチの使い魔みたいなもんやったんや」
魚探をにらみつけ、雄哉を叱咤しながら、蜷川は興奮した口調で呟いている。
豊俱教授は深刻にうつむき、泉美に問いかけている。
「お前は・・・気が付いていたのか、彼女の異変に?」
「信じたなかった・・・今日子の服に、汗染みができるようになってた。汗のにおいがし始めた。前に、今日子が教えてくれた、天人五衰やとしたら、今日子は、ひどく苦しんで、死なんとあかんのやて・・・」
健介は、泉美に尋ねる。ずいぶん久しぶりに、泉美に直接口をきくような気がする。
「不死身のシコブチ神に、寿命があるのか?脱皮すれば、何度でも若返ることができるのじゃないのか?」
「うちは、そんなこと、わからへん・・・」
泣きじゃくりながら、船底へ泉美は座り込んでしまう。慰めることもできず、ただ立ちすくむ健介に、豊俱教授が暗い目を向ける。
「生物としてのシコブチは、脱皮できない場合、死ぬんだ。比留間教授のようにね。それは壮絶な苦痛にさいなまれ、おぞましい死にざまを見せる。比留間教授は、脱皮しかかっていた。出来た筈なんだ。だがそれを彼は拒んだ。おそらくは、鬼室今日子も、脱皮をすれば輝かしい姿を保つことができる。しかし、このところ、彼女はあまりに美しく見えた。まさか、天人五衰を迎えていたなんて・・・」
教授の、説明とも独白ともつかない言葉に、不意に蜷川が割り込んで嘲笑を浴びせた。
「はは!教授はやっぱり文系の人やね。大体の生き物は、寿命が尽きる直前に華々しく身を飾るのよ。婚姻色って知ってる?繁殖期の魚類に顕著なんやけどね。あのシコブチも、繁殖期迎えてたに違いないわ。汗のにおいに、フェロモンぷんぷんで、男の関心を引き付けてたわけよ」
豊俱教授は眼を上げ、蜷川に低い声で反論する。
「シコブチ神は、生殖で同類を増やしていないはずだ。血を分け与えて、仲間を増やす・・・血が合わずにシコブチになれない人間がほとんどだそうだが・・・」
蜷川が、異様に目を光らせた。
「血!シコブチにとって、血はキーワードの一つじゃない。氷上神社氏子衆は、『深みより来るものども』を血を吸う魔物だと言い伝えてきたでしょ。シコブチ信者は、人間を生贄に捧げて、魔物どもはその生き血を飲んで、不死身の体を保つと」
「それは・・・偏見に満ちた言い伝えに過ぎない」
豊俱教授の声は、弱弱しく、その表情が怯んでいるのを、健介はいぶかしく思った。蜷川は、大きく目を開き、頷いた。
「そうか!こう考えれば、辻褄が合うのじゃない?つまり、シコブチが、衰え始めるとフェロモンを出すのは、生贄を誘うためよ。通常の状態では、何も食べないで済む生き物だけれど、脱皮のためには膨大なエネルギーが必要なわけ。つまり、生贄としての若い人間を喰らい、血を啜ると、脱皮が可能になる!氷上神社の姫を誘惑したのも、つまりは、脱皮のための生贄にするためだったんだ!」
泣きじゃくっていた泉美が、愕然と顔を上げ、蜷川を凝視する。その唇が震え、絶叫が響く。
「そんなん・・・嘘や!でたらめや!思い付きをしゃべらんといて!」
健介は茫然として、視線をさまよわせ、豊俱教授にすがるように聞く。
「先生、いまの、蜷川さんの仮説は・・・どう思われますか・・・」
教授は顔を伏せ、表情を隠すように背中を向けた。
「検証しないと、妥当かどうかは、それは、結論は出ないだろうが・・・極めて、整合性の高い仮説であると・・・認めざるを得ないな・・・」
教授もまた、自分と同じように、今日子に惹きつけられた最近の有様を、恥じているのだろうか・・・と健介は思った。
「なあ、先生、どないしたらよろしい?このまま、シコブチの隠れ里へ向こうたらよろしいんか?」
途方に暮れた様子で、指示を仰ぐ雄哉の声が、暮れかけた湖面に響いた。
(第七章おわり)
2009年04月17日
第七章 龍のくちづけ その13
緊張をはらみながら、蜷川と今日子は沈黙して向かい合う。雄哉は船を止めていた。わずかに風が出て、船が揺れ、二人の影は波の上に上下した。蜷川がまた、冷笑した。
「なによ、シコブチ、汗の臭い?腋臭(わきが)?もっと天女みたいな生き物かと思ってたけど、わりとケモノ臭いのね・・・」
その言葉に、劇的に反応したのは、泉美と豊俱教授だった。
「やめて!蜷川さん!」
「まさか!天人五衰が始まっているのか?!」
同時に発した二人の声は、悲鳴と絶叫だった。
蜷川と雄哉は、二人の反応に驚いているだけだが、健介は激しい衝撃の中に、一瞬で納得した。
自分が、こんなにも急に今日子に魅かれるようになったのは・・・
今日子が今までの、完璧なシコブチ「神」でなくなり、その美貌に翳りと崩れが生じたからだ!汗や体臭を発する、生々しい存在になったからだ!
今日子は、ゆっくりと手を自分の脇の下へ差し入れて引きだし、鼻に近付けて匂いを嗅ぐ。童女のように当惑し、不思議そうな表情である。泉美が駆け寄り、今日子の肩を抱く。
「嘘や、嘘や!今日子は、いつまでも、綺麗なままで、何百年も生きるんやろ?藤本のおっちゃんの写真館の、あの写真のまんまやん!」
涙ぐみ、ゆがんだ表情の泉美を、今日子は優しく抱きしめ、すぐに、体を突き放す。その顔に、微かな笑みが浮かんでいる。ゆっくりと今日子は後ずさりし、船の舳先ぎりぎりに立った。
「自分では、わからないものなのね。確かに、このところ、脇の下が変にじめじめしたりすると思った。気分も、どこかふわふわしておかしかった・・・でも、そうか、これが、天人五衰、だったんだね」
歌うように今日子が言うと、泉美は耳をふさぎ、必死にかぶりを振る。
「いやや!なんで、やっと、平和に一緒に生きていこうとするときになって、そんなことになるんや!」
豊俱教授が沈痛なまなざしで呟く。
「天人五衰・・・永劫に近い寿命を持つ天人といえども、免れない滅びに、囚われているというのか、逝ってしまうのか、君は」
弾けるように明るい声で嘲るのは蜷川だ。
「なんやの?シコブチ、寿命が尽きたん?そら、もったいないわ、ちゃんとそのからだ、調べつくさな、世界的損失やで。すぐにくたばるんとちゃうやろ?」
怒りの声をあげて、泉美が蜷川に突っかかる。
「あんたは!今日子を研究材料としか思うてへんのか!」
そのとき、雄哉が、突拍子もない大声で叫んだ。
「魚探になんか、出た!真下や!なんか、どえらい、どでかい、なんか!」
船が大きく揺らいだ。その揺れに身を任せたように、舳先の今日子のからだが傾き、そのまま湖面に落下する。水音に全員が目を向ける。今日子のからだがまっすぐに沈む。
「今日子!」
絶叫して身を乗り出す泉美を、豊俱教授が抱きとめる。その時船は激しく突き上げられ、船上にいた全員が、船底に転げた。
健介は何かの予感に駆られ、跳ね起きた。舳先に這い寄り、目を凝らす。
信じられない光景があった。
夕日に染まる湖面に、濡れた衣服をまとった今日子が立っている。
「なんで・・・沈みもせず、水の上に」
恐怖の声で雄哉が唇を震わせる。その肩をひっぱたき、蜷川が叫んだ。
「よう見いや!シコブチは、水の上に立ってるんやない!水面すれすれに浮いてる何かの上に・・・」
そこまで言って、蜷川も息を呑む。水を透かして朧に見える巨大な影。今日子が立っている水中の物体は、恐ろしく長く、そして、蠢いていた。
「あれは・・・龍!龍としか思えない!」
豊俱教授が声を詰まらせながら、とぎれとぎれに呟くなか、今日子を乗せた水中の巨大な影は、尾の部分を左右に振り、ゆっくりと進み始める。今日子は彫像のように立ったまま、真北に顔を向けている。落日に照らされた横顔が、ガンダーラ仏のように健介の眼に映った。
そのまま、スピードを上げ、滑るように今日子は遠ざかっていく。正確には、今日子を乗せた水中の物体が、恐るべき速さで北へ向かっているのだ。
「どこへ行くんや!」
泉美の声に、雄哉が慌ててエンジンを始動する。しかし、今日子の姿は、遠ざかるにつれ、次第に波の下へと消えていった。
「なによ、シコブチ、汗の臭い?腋臭(わきが)?もっと天女みたいな生き物かと思ってたけど、わりとケモノ臭いのね・・・」
その言葉に、劇的に反応したのは、泉美と豊俱教授だった。
「やめて!蜷川さん!」
「まさか!天人五衰が始まっているのか?!」
同時に発した二人の声は、悲鳴と絶叫だった。
蜷川と雄哉は、二人の反応に驚いているだけだが、健介は激しい衝撃の中に、一瞬で納得した。
自分が、こんなにも急に今日子に魅かれるようになったのは・・・
今日子が今までの、完璧なシコブチ「神」でなくなり、その美貌に翳りと崩れが生じたからだ!汗や体臭を発する、生々しい存在になったからだ!
今日子は、ゆっくりと手を自分の脇の下へ差し入れて引きだし、鼻に近付けて匂いを嗅ぐ。童女のように当惑し、不思議そうな表情である。泉美が駆け寄り、今日子の肩を抱く。
「嘘や、嘘や!今日子は、いつまでも、綺麗なままで、何百年も生きるんやろ?藤本のおっちゃんの写真館の、あの写真のまんまやん!」
涙ぐみ、ゆがんだ表情の泉美を、今日子は優しく抱きしめ、すぐに、体を突き放す。その顔に、微かな笑みが浮かんでいる。ゆっくりと今日子は後ずさりし、船の舳先ぎりぎりに立った。
「自分では、わからないものなのね。確かに、このところ、脇の下が変にじめじめしたりすると思った。気分も、どこかふわふわしておかしかった・・・でも、そうか、これが、天人五衰、だったんだね」
歌うように今日子が言うと、泉美は耳をふさぎ、必死にかぶりを振る。
「いやや!なんで、やっと、平和に一緒に生きていこうとするときになって、そんなことになるんや!」
豊俱教授が沈痛なまなざしで呟く。
「天人五衰・・・永劫に近い寿命を持つ天人といえども、免れない滅びに、囚われているというのか、逝ってしまうのか、君は」
弾けるように明るい声で嘲るのは蜷川だ。
「なんやの?シコブチ、寿命が尽きたん?そら、もったいないわ、ちゃんとそのからだ、調べつくさな、世界的損失やで。すぐにくたばるんとちゃうやろ?」
怒りの声をあげて、泉美が蜷川に突っかかる。
「あんたは!今日子を研究材料としか思うてへんのか!」
そのとき、雄哉が、突拍子もない大声で叫んだ。
「魚探になんか、出た!真下や!なんか、どえらい、どでかい、なんか!」
船が大きく揺らいだ。その揺れに身を任せたように、舳先の今日子のからだが傾き、そのまま湖面に落下する。水音に全員が目を向ける。今日子のからだがまっすぐに沈む。
「今日子!」
絶叫して身を乗り出す泉美を、豊俱教授が抱きとめる。その時船は激しく突き上げられ、船上にいた全員が、船底に転げた。
健介は何かの予感に駆られ、跳ね起きた。舳先に這い寄り、目を凝らす。
信じられない光景があった。
夕日に染まる湖面に、濡れた衣服をまとった今日子が立っている。
「なんで・・・沈みもせず、水の上に」
恐怖の声で雄哉が唇を震わせる。その肩をひっぱたき、蜷川が叫んだ。
「よう見いや!シコブチは、水の上に立ってるんやない!水面すれすれに浮いてる何かの上に・・・」
そこまで言って、蜷川も息を呑む。水を透かして朧に見える巨大な影。今日子が立っている水中の物体は、恐ろしく長く、そして、蠢いていた。
「あれは・・・龍!龍としか思えない!」
豊俱教授が声を詰まらせながら、とぎれとぎれに呟くなか、今日子を乗せた水中の巨大な影は、尾の部分を左右に振り、ゆっくりと進み始める。今日子は彫像のように立ったまま、真北に顔を向けている。落日に照らされた横顔が、ガンダーラ仏のように健介の眼に映った。
そのまま、スピードを上げ、滑るように今日子は遠ざかっていく。正確には、今日子を乗せた水中の物体が、恐るべき速さで北へ向かっているのだ。
「どこへ行くんや!」
泉美の声に、雄哉が慌ててエンジンを始動する。しかし、今日子の姿は、遠ざかるにつれ、次第に波の下へと消えていった。
2009年04月14日
第七章 龍のくちづけ その12
豊俱教授と隠れ里の里長との間で、携帯電話のやり取りがあり、雄哉の漁船に蜷川が乗り込むことが許可された。教授と泉美、今日子が隠れ里へ戻るのに同行し、ブランクトンの採集をすることになったのである。
ブランクトンネットや保存容器など、かなりの機材を積み込み、採集作業にも人手がいると言うので健介も同乗した。隠れ里には上陸せず、雄哉と蜷川とともに戻って来るのだ。
風がほとんどなく、むせかえるような熱気が湖面の上に立ちこめていた。梅雨が近づいていた。雄哉はランニングシャツ姿である。蜷川もプラントンネットを沈めたり引き揚げたりするうちに汗を流し、タンクトップ姿になった。泉美も上気した頬で、上着を取り、Tシャツ一枚になる。豊俱教授もカッターシャツの胸をはだけた。
ひとり、涼しげな顔で舳先に立つ今日子は、軽やかに髪をなびかせていた。
採集作業に没頭しているように見えた蜷川が、不意に、雄哉の肩を小突き、小声で尋ねたのが健介の耳に入る。
「なに、シコブチに見惚れてるのよ。まさか、惚れた?」
雄哉が動揺して、顔が真っ赤になる。
「なんやしらん、前に比べて、あの今日子いう女、やたら色っぽく見えるんや」
「ははん!」
蜷川はメガネを押し上げ、雄哉と今日子を見比べ、さらに健介も見据えて、冷笑した。
「こりゃあ、興味深いことね。どうやら、シコブチは発情してフェロモンを振りまいてる?だから男どもがみんな、引き寄せられてる?」
その言葉に愕然としながら、健介は蜷川の視線から顔を反らした。蜷川もすぐに笑うのをやめ、相変わらずの小声で雄哉に指示する。
「あんたは、ギョタンをしっかり見とく事!見たこともない大きな影が映ったら、すぐ知らせて」
・・・ギョタン?と、聞き咎めた健介は、すぐに理解する。
魚群探知機の略称だ。蜷川は、ブランクトン採取だけが目的ではないのか?
見たこともない大きな影・・・それは、『深みより来るものども』のことか?
健介の脳裏を疑問が駆け巡ったが、何も変化は起きず、船は熱気の淀む湖上を滑って、やがて爽やかな風の吹く湖の北部へと進んでいった。
夕日に竹生島の影が長く伸びている中へ、船が入りつつあるとき、雄哉が小さく叫んだ。
「なんか、おる!」
プランクトンを保存容器に入れようとしていた蜷川が、容器を置いて雄哉に駆け寄る。食い入るように魚探の画面をみた蜷川が、がっかりした顔になった。
「こんなの、鯉かビワコオオナマズでしょ。もっと大きいやつ・・・10メートル超えるような・・・」
「そんな生物が、琵琶湖にいるとでも」
蜷川の頭上から降り注いだ声は、今日子のものだ。隣には豊俱教授も泉美も居て、全員が蜷川を注視している。
眼鏡の奥の目が、一瞬怯んだが、すぐに不敵な瞳に変わり、蜷川は立ち上がって今日子に対峙した。
「いまだに確証はつかめないけど、なにか、いるのよ。うちらの旗艦を沈めてしまうような化け物が。シコブチの意のままに動く、湖の魔神のような存在が」
ブランクトンネットや保存容器など、かなりの機材を積み込み、採集作業にも人手がいると言うので健介も同乗した。隠れ里には上陸せず、雄哉と蜷川とともに戻って来るのだ。
風がほとんどなく、むせかえるような熱気が湖面の上に立ちこめていた。梅雨が近づいていた。雄哉はランニングシャツ姿である。蜷川もプラントンネットを沈めたり引き揚げたりするうちに汗を流し、タンクトップ姿になった。泉美も上気した頬で、上着を取り、Tシャツ一枚になる。豊俱教授もカッターシャツの胸をはだけた。
ひとり、涼しげな顔で舳先に立つ今日子は、軽やかに髪をなびかせていた。
採集作業に没頭しているように見えた蜷川が、不意に、雄哉の肩を小突き、小声で尋ねたのが健介の耳に入る。
「なに、シコブチに見惚れてるのよ。まさか、惚れた?」
雄哉が動揺して、顔が真っ赤になる。
「なんやしらん、前に比べて、あの今日子いう女、やたら色っぽく見えるんや」
「ははん!」
蜷川はメガネを押し上げ、雄哉と今日子を見比べ、さらに健介も見据えて、冷笑した。
「こりゃあ、興味深いことね。どうやら、シコブチは発情してフェロモンを振りまいてる?だから男どもがみんな、引き寄せられてる?」
その言葉に愕然としながら、健介は蜷川の視線から顔を反らした。蜷川もすぐに笑うのをやめ、相変わらずの小声で雄哉に指示する。
「あんたは、ギョタンをしっかり見とく事!見たこともない大きな影が映ったら、すぐ知らせて」
・・・ギョタン?と、聞き咎めた健介は、すぐに理解する。
魚群探知機の略称だ。蜷川は、ブランクトン採取だけが目的ではないのか?
見たこともない大きな影・・・それは、『深みより来るものども』のことか?
健介の脳裏を疑問が駆け巡ったが、何も変化は起きず、船は熱気の淀む湖上を滑って、やがて爽やかな風の吹く湖の北部へと進んでいった。
夕日に竹生島の影が長く伸びている中へ、船が入りつつあるとき、雄哉が小さく叫んだ。
「なんか、おる!」
プランクトンを保存容器に入れようとしていた蜷川が、容器を置いて雄哉に駆け寄る。食い入るように魚探の画面をみた蜷川が、がっかりした顔になった。
「こんなの、鯉かビワコオオナマズでしょ。もっと大きいやつ・・・10メートル超えるような・・・」
「そんな生物が、琵琶湖にいるとでも」
蜷川の頭上から降り注いだ声は、今日子のものだ。隣には豊俱教授も泉美も居て、全員が蜷川を注視している。
眼鏡の奥の目が、一瞬怯んだが、すぐに不敵な瞳に変わり、蜷川は立ち上がって今日子に対峙した。
「いまだに確証はつかめないけど、なにか、いるのよ。うちらの旗艦を沈めてしまうような化け物が。シコブチの意のままに動く、湖の魔神のような存在が」
2009年04月01日
第七章 龍のくちづけ その11
その日の午後、キャンパスに今日子や豊俱教授たちを迎えに来たのは、雄哉の船である。そして琵琶湖博物館へ向かった。健介も同行した。
「船で行くと、こんなに早いのか」
あっという間に琵琶湖博物館に着いたのに驚く健介に、雄哉が自慢げに言う。
「陸の道は回り道ばっかや。湖の上には信号も渋滞もあらへん」
いつかのように、職員用出入り口から、バックヤードへ一同は踏み込んだ。迎えたのは研究員の蜷川である。健介が前に会った時には気づかなかったが、蜷川は首から身分証のネームプレートを下げていて、それには「蜷川冴香」と記してある。
メタルフレームの眼鏡の奥から、蜷川の切れ上がった瞳が、興味深そうに今日子を見つめた。
「ふうん、初めてお目にかかるけど、シコブチってこんな綺麗な女性だったの」
無遠慮というより、研究材料を見る視線である。今日子は動じずに微笑する。
「琵琶湖の生物相の異変を調べていると聞いて、こちらとの情報を付き合せに来たわ」
「ようこそ、願ってもないことよ」
歓迎の言葉を口にしながら、蜷川の眼は鋭く光ったままである。
「どうぞ、汚くしているけど」
蜷川の研究室は、相変わらず乱雑で、コンビニ弁当の容器や紙コップがちらかっている。中央大テーブルに広げられた琵琶湖の巨大な地図は書き込みで埋まり、壁にも何枚か同じような地図が重ね張りされていた。
蜷川はデスクのパソコンに向かうと、キーボードとマウスを忙しく操作し始める。
「みんな、適当に座って。今、あっこの一番大きなディスプレイに、映し出すし」
不揃いなパイプ椅子が、大テーブルの周りに置かれているのに、豊俱教授、泉美、今日子、健介、雄哉がそれぞれ腰をおろした。
「ほなら、まず、ブラックバスとブルーギルの漁獲量」
壁面の液晶ディスプレイが、棒グラフを映し出す。
「各漁港の去年から今年の、月ごとのデータ。激減してるところがあるよね」
喋りながら、蜷川は手早くカーソルで指し示し、今日子に顔を向けた。
「ずばり、聞くけど、この変化に、『深みより来るものども』は関係しているの?」
単刀直入な問いかけに、今日子は少し眉をひそめたが、すぐにはっきりと頷いた。
「彼らが貪り食べているから、減ったと言っていいわ」
「じゃあ、その変化の原因は、これやろか?」
蜷川は、マウスを操り、次の画像に転換させる。
「外来魚以外の、有用魚種全体の漁獲量。外来魚が減ったところはなんとか維持しているけれど、ほかは軒並みダウン。特に底棲・・・深い所にいるイサザなんかが、まるで獲れなくなった」
「私も、そのことは知っているわ」
落ち着いて今日子は答えた。蜷川は頷き、さらに続ける。
「その原因はいろいろ考えられるけれど、やっぱり地球温暖化で、琵琶湖の水の循環が変化して、湖底の酸素が減っているからだというのが一番妥当。そうなると当面、その傾向は止められない。『深みより来るものども』は、今までのように、湖底に潜んでばかりはいられなくなるようね。だから、うちらと和解が必要だと、考えたの?シコブチ神としては」
「その理由も確かにあるわ」
「じゃあ、データをくれへんと。『深みより来るものども』がどんな生物で、個体数はどのくらいか。食料として必要なモノの量は?」
畳みかける蜷川の言葉に、今日子は右手を軽く掲げて押しとどめる動作をした。
「それは、まだ明かせないわ。HFをそこまで信用できていないの」
「ふん、それはこちらも同じよ」
鼻で笑った蜷川だが、ふと真摯な眼差しになり、呟く。
「潜水ロボットで湖底の隅々まで映像を映せるはずなのに、いまだに正体の掴めないモノとか、探れない場所とか、あり得ないものだらけなんやからね、この湖は」
しばらく沈黙が続いた中、雄哉がおずおずと蜷川に尋ねた。
「なあ、サヤカ、前に渡したお化けアユ・・・、あれの調査はどないなっとる?」
冴香は、サヤカと読むのか・・・と健介は蜷川のファーストネームを記憶する。
「あれは、報告があちこちから続いていたけど、このところばったり。そうだ、シコブチ神、この体長20センチを超える、琵琶湖では常識外れの大アユについて、なにか御存じ?」
皮肉な調子で問いかけた蜷川に、今日子は即答した。
「プランクトンデータに出ているんじゃない?稚魚の餌の植物性プランクトンに変化があったのよ」
「別に・・・新種のプランクトンとかが大量発生したようなことは・・」
首をひねる蜷川に、今日子は続ける。
「種類の変化じゃなくて、個体の質の変化よ。体内にそれまでにない物質を作るようになったとか、化学物質が蓄積され始めたとか・・・」
明らかにその一言が、蜷川にとっては衝撃だったらしい。まじまじと今日子を見つめて問いかける。
「それ、湖の中にいる、シコブチの眷属たちの実感?」
今日子が無言で頷くと、蜷川は慌ただしくディスプレイの表示を閉じて、立ち上がった。
「すぐ、プランクトンの採集をするわ。雄哉、船、出して!」
「船で行くと、こんなに早いのか」
あっという間に琵琶湖博物館に着いたのに驚く健介に、雄哉が自慢げに言う。
「陸の道は回り道ばっかや。湖の上には信号も渋滞もあらへん」
いつかのように、職員用出入り口から、バックヤードへ一同は踏み込んだ。迎えたのは研究員の蜷川である。健介が前に会った時には気づかなかったが、蜷川は首から身分証のネームプレートを下げていて、それには「蜷川冴香」と記してある。
メタルフレームの眼鏡の奥から、蜷川の切れ上がった瞳が、興味深そうに今日子を見つめた。
「ふうん、初めてお目にかかるけど、シコブチってこんな綺麗な女性だったの」
無遠慮というより、研究材料を見る視線である。今日子は動じずに微笑する。
「琵琶湖の生物相の異変を調べていると聞いて、こちらとの情報を付き合せに来たわ」
「ようこそ、願ってもないことよ」
歓迎の言葉を口にしながら、蜷川の眼は鋭く光ったままである。
「どうぞ、汚くしているけど」
蜷川の研究室は、相変わらず乱雑で、コンビニ弁当の容器や紙コップがちらかっている。中央大テーブルに広げられた琵琶湖の巨大な地図は書き込みで埋まり、壁にも何枚か同じような地図が重ね張りされていた。
蜷川はデスクのパソコンに向かうと、キーボードとマウスを忙しく操作し始める。
「みんな、適当に座って。今、あっこの一番大きなディスプレイに、映し出すし」
不揃いなパイプ椅子が、大テーブルの周りに置かれているのに、豊俱教授、泉美、今日子、健介、雄哉がそれぞれ腰をおろした。
「ほなら、まず、ブラックバスとブルーギルの漁獲量」
壁面の液晶ディスプレイが、棒グラフを映し出す。
「各漁港の去年から今年の、月ごとのデータ。激減してるところがあるよね」
喋りながら、蜷川は手早くカーソルで指し示し、今日子に顔を向けた。
「ずばり、聞くけど、この変化に、『深みより来るものども』は関係しているの?」
単刀直入な問いかけに、今日子は少し眉をひそめたが、すぐにはっきりと頷いた。
「彼らが貪り食べているから、減ったと言っていいわ」
「じゃあ、その変化の原因は、これやろか?」
蜷川は、マウスを操り、次の画像に転換させる。
「外来魚以外の、有用魚種全体の漁獲量。外来魚が減ったところはなんとか維持しているけれど、ほかは軒並みダウン。特に底棲・・・深い所にいるイサザなんかが、まるで獲れなくなった」
「私も、そのことは知っているわ」
落ち着いて今日子は答えた。蜷川は頷き、さらに続ける。
「その原因はいろいろ考えられるけれど、やっぱり地球温暖化で、琵琶湖の水の循環が変化して、湖底の酸素が減っているからだというのが一番妥当。そうなると当面、その傾向は止められない。『深みより来るものども』は、今までのように、湖底に潜んでばかりはいられなくなるようね。だから、うちらと和解が必要だと、考えたの?シコブチ神としては」
「その理由も確かにあるわ」
「じゃあ、データをくれへんと。『深みより来るものども』がどんな生物で、個体数はどのくらいか。食料として必要なモノの量は?」
畳みかける蜷川の言葉に、今日子は右手を軽く掲げて押しとどめる動作をした。
「それは、まだ明かせないわ。HFをそこまで信用できていないの」
「ふん、それはこちらも同じよ」
鼻で笑った蜷川だが、ふと真摯な眼差しになり、呟く。
「潜水ロボットで湖底の隅々まで映像を映せるはずなのに、いまだに正体の掴めないモノとか、探れない場所とか、あり得ないものだらけなんやからね、この湖は」
しばらく沈黙が続いた中、雄哉がおずおずと蜷川に尋ねた。
「なあ、サヤカ、前に渡したお化けアユ・・・、あれの調査はどないなっとる?」
冴香は、サヤカと読むのか・・・と健介は蜷川のファーストネームを記憶する。
「あれは、報告があちこちから続いていたけど、このところばったり。そうだ、シコブチ神、この体長20センチを超える、琵琶湖では常識外れの大アユについて、なにか御存じ?」
皮肉な調子で問いかけた蜷川に、今日子は即答した。
「プランクトンデータに出ているんじゃない?稚魚の餌の植物性プランクトンに変化があったのよ」
「別に・・・新種のプランクトンとかが大量発生したようなことは・・」
首をひねる蜷川に、今日子は続ける。
「種類の変化じゃなくて、個体の質の変化よ。体内にそれまでにない物質を作るようになったとか、化学物質が蓄積され始めたとか・・・」
明らかにその一言が、蜷川にとっては衝撃だったらしい。まじまじと今日子を見つめて問いかける。
「それ、湖の中にいる、シコブチの眷属たちの実感?」
今日子が無言で頷くと、蜷川は慌ただしくディスプレイの表示を閉じて、立ち上がった。
「すぐ、プランクトンの採集をするわ。雄哉、船、出して!」
2009年03月06日
第七章 龍のくちづけ その10
何か急速に世界の色が変わってしまった・・・健介はそう感じている。
この琵琶湖畔の大学にきて、豊俱教授という敬愛する師を得て、研究生活に生きがいを覚え、さらにHFに加わって使命感に高揚していた。そして「泉美を守る」ということが、彼の古い心の傷を癒してくれてもいたのだった。
だが、教授も、泉美も、HFも、今の彼に寄り添ってくれていない。代わって傍にいるのはカミラだが、いくらその肉体に溺れても、心の絆を感じられなかった。健介には周りのすべてが色褪せて見えた。
そんな中にあって、唯一、異様なまでに艶めかしく鮮やかに目に映るのが、今日子の姿である。
毎日、豊俱教授と泉美とともにキャンパスに現れる彼女を、健介は可能な限り監視した。それは、麻生宮司たちに命じられたためではなかった。彼自身が目を離せないのである。
そんな彼の様子に、カミラが気がつかないはずはない。
「また、見てる。ストーカーみたいね」
学生食堂のオープンテラスで、カミラは健介にそう言った。皮肉な口調ではあるが、前に比べるとずいぶん物言いが穏やかである。テーブルの向い側に、長い足をたたんで坐る彼女の口元には、微笑すら浮かんでいる。
「しかたないよ。HFの仕事だ。僕は監視役なんだ」
なげやりに小声でつぶやく健介に、カミラは可愛く口を尖らせる。
「HFの仕事って、それ、お金もらってるわけじゃないんでしょ?健介はバイトも全然してないじゃない。近江歴研のほうにもちっとも顔出さないし、つまんなくない?まあ、就職のほうはHFに居る限り心配ないみたいだけど」
「うん、まあね・・・」
生返事をしながら、健介の眼は、オープンテラスの向い側の校舎の一階大教室に注がれている。その広い窓から、講義を受けている泉美と今日子の姿が見えるのだ。教壇に立っているのは豊俱教授で、本来泉美たちが取れる授業ではないのだが、当たり前のように二人は受講しているのだった。
「どうせ、授業が終わるまであの三人はずっとあそこなんだから、そんなに見ている必要ないのに・・・ねえ、教えてほしいことがあるんだけど」
健介の視野に割り込むように体を動かしながら、カミラが問いかける。
「どうして、HFに入ったの?豊俱先生に誘われたからってことは察しがつくけど、それだけであんなヤバイとこに係わる気になるわけ?」
健介は、初めてカミラの顔をまともに見た。隠れ里での経験のことを含め、ほとんどシコブチやHFのことでの会話を避けていたカミラにしては、異例な話題だった。
「…そんなことを聞かれるとは思わなかったな」
困惑して呟く健介に、カミラは真摯な瞳で顔を寄せる。
「だって、ずっと健介ったら上の空なんだもの。ちゃんとこれからのことを考えていきたいのに、ちっとも話に乗ってこないじゃない。わたしはあなたのことをもっと知りたいの」
「ああ・・・すまなかったね」
「そんな、他人みたいな喋り方も厭。もっと恋人らしく、フランクに話してほしいの」
カミラの瞳に溢れる情熱に圧されながら、健介は、ぎこちなく話し始めた。
「・・・僕の出身が静岡だというのは、話したよね。親は、内科医院を経営してる。まあ、そんな特別な家じゃないけど、一応僕は跡取りって期待されてきた。高校二年までは、医学コースだった。でも、その夏休みに、僕は事故に遭った。浜名湖って、知ってるかな?」
「結構、大きな湖でしょ?」
「ああ、その湖に遊びに行って、友達と僕の妹とでボートに乗っていて、突風でボートがひっくり返って、妹だけが湖に沈んで、結局見つからなかった」
「ひとりっ子じゃなくて、妹さんがいたんだ・・・亡くなった時は何歳だったの?」
「僕より三歳下の中学生で、十四歳だった。僕はその事故から、全く勉強が手につかなくて、大学受験を二度見送った。医者になる気もなくなって、ひきこもりみたいになってた。そんなとき、歴史と民俗学の本を読んだ。豊俱先生の本だったんだよ。それで、この大学を受けて、琵琶湖のほとりに来た」
「じゃ、健介はけっこう年、上なんだ。道理で落ち着いた感じがあると思った」
無邪気に頷くカミラの顔を、少し眩しく感じつつ、健介は続ける。
「近江歴研に入会して、豊俱先生の指導を受けて、迷うことなく先生のゼミに入って、気が付くと先生の助手的な立場になってた・・・と自分では思っていた。だから、HFに入らないかと誘われた時は、当然のようにも思った。だけど、やっぱり命をかける覚悟がいると聞いた時は動揺したよ」
そこでいったん、健介は言葉をとぎらせ、大きく息を吸った。まなざしの先が、また大教室の窓へ向けられた。
「その時、氷上神社の境内で、泉美君を見たんだ。彼女は僕の妹によく似ているような気がした。僕は…彼女を守りたいと思った。救えなかった妹の代わりに、泉美君を守ることで、自分が…救われたかったんだ」
「だから今も、見守っているのね?」
静かなカミラの問いかけに、健介は首を横に振る。
「僕には、なんの力もありゃしない。ただうろたえて、とまどって、ただ見ていることしかできないと、隠れ里の件で思い知ったよ。正直、何のために自分がHFに居るのか、わからなくなってきた。今はどうしようもなくて、ただ見守っているって感じかな」
正直…とは口にしたが、実は泉美よりも今日子の異様な美しさに魅かれて目が離せないとは、健介はさすがにカミラには言えない。
「そうね。つまり健介は、泉美に振られたわけなのよ。だから言ってたでしょ。泉美は今日子しか見ていないって。だから、もうHFのことは、仕事と割り切れるんじゃない?だからお願い、まっすぐわたしを見て!」
カミラの強い口調に引きずられ、健介は視線を合わせた。カミラの瞳は涙で潤んでいた。
「あなたの側にいるのは、この、貴田カミラなの!あなたを誰よりも愛しているの!妹さんを亡くした痛みも、なにもかも、わたしが癒してあげる。約束するわ!」
その言葉が、思いがけないほど強く心に響き、熱いものが胸の中に生まれたのに健介は驚いた。同時に自分が、カミラにひどいことをしているという罪悪感が生じた。
「ごめん…ありがとう」
思わず呟いて、カミラに手を伸ばす。テーブルの上で健介の手を握ったカミラは、天使のように晴れやかな笑顔になった。
この琵琶湖畔の大学にきて、豊俱教授という敬愛する師を得て、研究生活に生きがいを覚え、さらにHFに加わって使命感に高揚していた。そして「泉美を守る」ということが、彼の古い心の傷を癒してくれてもいたのだった。
だが、教授も、泉美も、HFも、今の彼に寄り添ってくれていない。代わって傍にいるのはカミラだが、いくらその肉体に溺れても、心の絆を感じられなかった。健介には周りのすべてが色褪せて見えた。
そんな中にあって、唯一、異様なまでに艶めかしく鮮やかに目に映るのが、今日子の姿である。
毎日、豊俱教授と泉美とともにキャンパスに現れる彼女を、健介は可能な限り監視した。それは、麻生宮司たちに命じられたためではなかった。彼自身が目を離せないのである。
そんな彼の様子に、カミラが気がつかないはずはない。
「また、見てる。ストーカーみたいね」
学生食堂のオープンテラスで、カミラは健介にそう言った。皮肉な口調ではあるが、前に比べるとずいぶん物言いが穏やかである。テーブルの向い側に、長い足をたたんで坐る彼女の口元には、微笑すら浮かんでいる。
「しかたないよ。HFの仕事だ。僕は監視役なんだ」
なげやりに小声でつぶやく健介に、カミラは可愛く口を尖らせる。
「HFの仕事って、それ、お金もらってるわけじゃないんでしょ?健介はバイトも全然してないじゃない。近江歴研のほうにもちっとも顔出さないし、つまんなくない?まあ、就職のほうはHFに居る限り心配ないみたいだけど」
「うん、まあね・・・」
生返事をしながら、健介の眼は、オープンテラスの向い側の校舎の一階大教室に注がれている。その広い窓から、講義を受けている泉美と今日子の姿が見えるのだ。教壇に立っているのは豊俱教授で、本来泉美たちが取れる授業ではないのだが、当たり前のように二人は受講しているのだった。
「どうせ、授業が終わるまであの三人はずっとあそこなんだから、そんなに見ている必要ないのに・・・ねえ、教えてほしいことがあるんだけど」
健介の視野に割り込むように体を動かしながら、カミラが問いかける。
「どうして、HFに入ったの?豊俱先生に誘われたからってことは察しがつくけど、それだけであんなヤバイとこに係わる気になるわけ?」
健介は、初めてカミラの顔をまともに見た。隠れ里での経験のことを含め、ほとんどシコブチやHFのことでの会話を避けていたカミラにしては、異例な話題だった。
「…そんなことを聞かれるとは思わなかったな」
困惑して呟く健介に、カミラは真摯な瞳で顔を寄せる。
「だって、ずっと健介ったら上の空なんだもの。ちゃんとこれからのことを考えていきたいのに、ちっとも話に乗ってこないじゃない。わたしはあなたのことをもっと知りたいの」
「ああ・・・すまなかったね」
「そんな、他人みたいな喋り方も厭。もっと恋人らしく、フランクに話してほしいの」
カミラの瞳に溢れる情熱に圧されながら、健介は、ぎこちなく話し始めた。
「・・・僕の出身が静岡だというのは、話したよね。親は、内科医院を経営してる。まあ、そんな特別な家じゃないけど、一応僕は跡取りって期待されてきた。高校二年までは、医学コースだった。でも、その夏休みに、僕は事故に遭った。浜名湖って、知ってるかな?」
「結構、大きな湖でしょ?」
「ああ、その湖に遊びに行って、友達と僕の妹とでボートに乗っていて、突風でボートがひっくり返って、妹だけが湖に沈んで、結局見つからなかった」
「ひとりっ子じゃなくて、妹さんがいたんだ・・・亡くなった時は何歳だったの?」
「僕より三歳下の中学生で、十四歳だった。僕はその事故から、全く勉強が手につかなくて、大学受験を二度見送った。医者になる気もなくなって、ひきこもりみたいになってた。そんなとき、歴史と民俗学の本を読んだ。豊俱先生の本だったんだよ。それで、この大学を受けて、琵琶湖のほとりに来た」
「じゃ、健介はけっこう年、上なんだ。道理で落ち着いた感じがあると思った」
無邪気に頷くカミラの顔を、少し眩しく感じつつ、健介は続ける。
「近江歴研に入会して、豊俱先生の指導を受けて、迷うことなく先生のゼミに入って、気が付くと先生の助手的な立場になってた・・・と自分では思っていた。だから、HFに入らないかと誘われた時は、当然のようにも思った。だけど、やっぱり命をかける覚悟がいると聞いた時は動揺したよ」
そこでいったん、健介は言葉をとぎらせ、大きく息を吸った。まなざしの先が、また大教室の窓へ向けられた。
「その時、氷上神社の境内で、泉美君を見たんだ。彼女は僕の妹によく似ているような気がした。僕は…彼女を守りたいと思った。救えなかった妹の代わりに、泉美君を守ることで、自分が…救われたかったんだ」
「だから今も、見守っているのね?」
静かなカミラの問いかけに、健介は首を横に振る。
「僕には、なんの力もありゃしない。ただうろたえて、とまどって、ただ見ていることしかできないと、隠れ里の件で思い知ったよ。正直、何のために自分がHFに居るのか、わからなくなってきた。今はどうしようもなくて、ただ見守っているって感じかな」
正直…とは口にしたが、実は泉美よりも今日子の異様な美しさに魅かれて目が離せないとは、健介はさすがにカミラには言えない。
「そうね。つまり健介は、泉美に振られたわけなのよ。だから言ってたでしょ。泉美は今日子しか見ていないって。だから、もうHFのことは、仕事と割り切れるんじゃない?だからお願い、まっすぐわたしを見て!」
カミラの強い口調に引きずられ、健介は視線を合わせた。カミラの瞳は涙で潤んでいた。
「あなたの側にいるのは、この、貴田カミラなの!あなたを誰よりも愛しているの!妹さんを亡くした痛みも、なにもかも、わたしが癒してあげる。約束するわ!」
その言葉が、思いがけないほど強く心に響き、熱いものが胸の中に生まれたのに健介は驚いた。同時に自分が、カミラにひどいことをしているという罪悪感が生じた。
「ごめん…ありがとう」
思わず呟いて、カミラに手を伸ばす。テーブルの上で健介の手を握ったカミラは、天使のように晴れやかな笑顔になった。
2009年03月04日
第七章 龍のくちづけ その9
できるだけ平静を心がけたつもりだったが、座るときに、健介は少し膝が震えた。麻生宮司とその母親の視線が怖いと思った。
「聞きたいことがあると?」
麻生宮司が問いかけるのに、セイが割り込んだ。
「あんた、今、うちと利宏の話、聞いてたんか?」
健介は、腹の底に力を入れ、思い切って答えた。
「はい、聞こえました。鬼室君を、実験材料に『ウエ』というところへ引き渡すとか」
宮司と老婦人の顔が、能面のように強張り、視線が鋭くなるのを感じて、健介はさらに緊張する。
しかし、セイの顔が、不意にほころんだ。
「さすがは、うちらが見込んだ野崎さんや。こそこそせんと、腹が据わってはるわ。なあ、利弘、ここはこの子に全部知ってもろたほうがええで」
宮司の顔はいまだに無表情である。
「彼は、豊俱の弟子だ。豊俱に情報が筒抜けになると、まずい・・・」
健介は、ここで口を挟まないといけないと思い、必死で言う。
「僕は・・・あまりにも蚊帳の外に置かれています。豊俱先生も今は娘の泉美さんや鬼室・・・シコブチ神に夢中で、僕など眼中にありません。そして、HFはしっかり統率された組織だと思ってきたのに、豊俱先生と、麻生さんたちは、どうも考えが違う・・・そして『ウエ』ってなんですか?」
麻生宮司は腕組みをして大きく息をついた。セイは柔和な笑みをたたえて、語り始めた。
「泉美が利宏の子やのうて、美彦さんの子やったこととか、あんたもびっくりすること続きで大変やったやろな。HFは、うちと利宏と、美彦さんが中心になって作ったんやけど、氷上神社は、尊い血筋を祭ってきた神社やし、今もそのご意向を汲んで動かんならん。当然、政財界の人らとのつながりも深い。わかるやろ?『ウエ』いうんがどういうもんか?」
「豊俱先生は、その『ウエ』の意向を知らないんですか?」
口を挟んだ健介の言葉に、宮司が頷く。
「あいつは、HFでは学問研究を受け持っているから、実際の作戦行動はあまり知らしていない。政治的な駆け引きに、向いていないからな。もっぱら、シコブチがどういうものか、その信者たちの組織がどうなのかを調べてきたやつだ。だが、どうも調査した成果を抱え込んで自分ひとりのものにしている傾向がある。シコブチの隠れ里を突き止めておきながら知らさず、勝手に和解の交渉を始めたのは、われわれの規律を乱している。今は、とりあえずやつの独断専行を認める結果になったが・・・」
「隠れ里での話し合いには、大江さんもいましたよ。それでも、豊俱先生の独断専行になるんですか?」
健介の反論に、宮司は冷たく苦笑する。
「大江は実働部隊の隊長に過ぎない。幹部とは言っても、方針決定に関わる頭脳を持っていない。実際、あの場では酒を飲んでいたにすぎなかっただろう」
セイが言葉を引き継いだ。
「泉美に、美彦さんまでシコブチにたぶらかされて、平和に仲よう暮らそうやなんてたわけた夢物語を言い始めて、うちは裏切りや思うてます。はよその夢を覚まさんならん。健介さんには、これから泉美や美彦さんの監視を頼むことにしまひょ。いずれは、あんたはんにHFの頭脳になってもらわなあかんし」
「ちょっと待ってください。そんな、スパイみたいなこと・・・」
ためらう健介に、宮司の鋭い視線が刺さる。
「これは、遊びごとじゃないのだよ。命のやり取りを含めたこれ以上ない真剣で危ない世界だ。『ウエ』のことを含めて、たとえHFのメンバーであっても口にしてはならないことがある。野崎君、君はもう、われわれの命令を拒否する権利がないと思ってもらおう」
表情をこわばらせる健介に、セイはあくまでも柔和な顔を崩さずに告げた。
「そない、こわがらんかて大丈夫や。今までよりも一段、上の幹部になったと思いよし」
「聞きたいことがあると?」
麻生宮司が問いかけるのに、セイが割り込んだ。
「あんた、今、うちと利宏の話、聞いてたんか?」
健介は、腹の底に力を入れ、思い切って答えた。
「はい、聞こえました。鬼室君を、実験材料に『ウエ』というところへ引き渡すとか」
宮司と老婦人の顔が、能面のように強張り、視線が鋭くなるのを感じて、健介はさらに緊張する。
しかし、セイの顔が、不意にほころんだ。
「さすがは、うちらが見込んだ野崎さんや。こそこそせんと、腹が据わってはるわ。なあ、利弘、ここはこの子に全部知ってもろたほうがええで」
宮司の顔はいまだに無表情である。
「彼は、豊俱の弟子だ。豊俱に情報が筒抜けになると、まずい・・・」
健介は、ここで口を挟まないといけないと思い、必死で言う。
「僕は・・・あまりにも蚊帳の外に置かれています。豊俱先生も今は娘の泉美さんや鬼室・・・シコブチ神に夢中で、僕など眼中にありません。そして、HFはしっかり統率された組織だと思ってきたのに、豊俱先生と、麻生さんたちは、どうも考えが違う・・・そして『ウエ』ってなんですか?」
麻生宮司は腕組みをして大きく息をついた。セイは柔和な笑みをたたえて、語り始めた。
「泉美が利宏の子やのうて、美彦さんの子やったこととか、あんたもびっくりすること続きで大変やったやろな。HFは、うちと利宏と、美彦さんが中心になって作ったんやけど、氷上神社は、尊い血筋を祭ってきた神社やし、今もそのご意向を汲んで動かんならん。当然、政財界の人らとのつながりも深い。わかるやろ?『ウエ』いうんがどういうもんか?」
「豊俱先生は、その『ウエ』の意向を知らないんですか?」
口を挟んだ健介の言葉に、宮司が頷く。
「あいつは、HFでは学問研究を受け持っているから、実際の作戦行動はあまり知らしていない。政治的な駆け引きに、向いていないからな。もっぱら、シコブチがどういうものか、その信者たちの組織がどうなのかを調べてきたやつだ。だが、どうも調査した成果を抱え込んで自分ひとりのものにしている傾向がある。シコブチの隠れ里を突き止めておきながら知らさず、勝手に和解の交渉を始めたのは、われわれの規律を乱している。今は、とりあえずやつの独断専行を認める結果になったが・・・」
「隠れ里での話し合いには、大江さんもいましたよ。それでも、豊俱先生の独断専行になるんですか?」
健介の反論に、宮司は冷たく苦笑する。
「大江は実働部隊の隊長に過ぎない。幹部とは言っても、方針決定に関わる頭脳を持っていない。実際、あの場では酒を飲んでいたにすぎなかっただろう」
セイが言葉を引き継いだ。
「泉美に、美彦さんまでシコブチにたぶらかされて、平和に仲よう暮らそうやなんてたわけた夢物語を言い始めて、うちは裏切りや思うてます。はよその夢を覚まさんならん。健介さんには、これから泉美や美彦さんの監視を頼むことにしまひょ。いずれは、あんたはんにHFの頭脳になってもらわなあかんし」
「ちょっと待ってください。そんな、スパイみたいなこと・・・」
ためらう健介に、宮司の鋭い視線が刺さる。
「これは、遊びごとじゃないのだよ。命のやり取りを含めたこれ以上ない真剣で危ない世界だ。『ウエ』のことを含めて、たとえHFのメンバーであっても口にしてはならないことがある。野崎君、君はもう、われわれの命令を拒否する権利がないと思ってもらおう」
表情をこわばらせる健介に、セイはあくまでも柔和な顔を崩さずに告げた。
「そない、こわがらんかて大丈夫や。今までよりも一段、上の幹部になったと思いよし」
2009年02月28日
第七章 龍のくちづけ その8
道場のうちから、しだいに緊張感が薄れていくのを感じて、健介は安堵の息をついた。
気が付くと全身が汗にまみれていた。道場の真ん中で、今日子と麻生宮司が向かい合って座ると、周りの者がそれに倣った。健介も胡坐をかいた。座るときに、腰が抜けたように足に力が入らず、みっともないと自分を恥じた。
いきり立っていたセイも、麻生宮司がその耳元で言い聞かせた言葉で、とりあえずは矛を収めたようである。
「それでは、私と泉美・・・泉美君が、シコブチの隠れ里に滞在することは、HFとして認めてもらえるのだね」
豊俱教授が明るく言うと、麻生宮司は頷いた。
「いつでも、連絡が取れるようにすることが条件だ。それと、シコブチ側から、こちらに二人、滞在してもらう」
「人質、ということなのね」
今日子が尋ねる。泉美が顔をしかめるが、麻生宮司は無表情に答えた。
「その通りだ。しかるべき者をよこしてもらいたい」
「しかるべき者?どのような条件の者だ?」
今日子がさらに尋ねると、宮司は暗欝な目つきになった。
「シコブチの血を分け与えられ、尋常の人間ではなくなった者ということだよ。隠れ里には幾人もいるはずだ」
今日子はしばらく沈黙していたが、やがて頷く。もう一度、携帯電話を取り、里長に連絡している。
それが済むと、麻生宮司は立ち上がり、再び人垣を分けていったが、すぐに戻ってきた。手には、小太刀の鞘を握っている。それを、泉美に向って差し出した。
「これが、最後の条件だ。泉美、これを持って行け。隠れ里に居る時も、大学に通う時も、放さず身に付けているのだ」
泉美は、自分がセイから取り上げた逆鱗の小太刀をまだ握っていることに気づき、愕然としている。そして、鞘を前に首を横に振った。
「いやです。うちはもう、この刀はもちたない」
「だめだ!これは譲れない条件だ。これを持たない限り、おまえをシコブチの里へやることは出来ない」
麻生宮司は断固として言い放ち、泉美の手から取った小太刀を鞘におさめ、改めて泉美に突き付けた。
泉美が唇を噛んで小太刀を受け取ると、麻生宮司は強い語気で言い放った。
「お前の身に害が及ぶ時、それを使って戦え。そして、おまえがシコブチの血に汚されそうになり、それを拒むのが不可能な時は、おまえ自身を刺せ」
その言葉に、健介が目を見張り、一同が粛然と息を飲む中、麻生宮司は立ち上がり、背中を向けて道場を去っていく。セイがその後ろに続く。
豊俱教授が、大きく息をついて、今日子と泉美に促した。
「今日は、これでおいとましよう」
隠れ里へ向かう船は、氷上神社へ来たのとおなじ、安孫子船頭の船が使われた。健介は、今日子と泉美と豊俱教授を乗せたその船が、去っていくのを湖岸で見送る。沖合に、ガリラヤ号の船体が黒く見えた。二隻の船は接近すると並走して、健介の視界から消えていった。
健介は唇を噛み、その足で氷上神社に戻る。麻生宮司や、セイに問い質したいことが多すぎて、とてもこのまま帰る気になれないのだ。
境内や道場には、まだ氏子衆の男たちが殺気の余韻を残してたむろしているが、その中を突っ切って、健介はまっすぐ社務所に入って行った。玄関を上がり、事務所兼居間のようになっている部屋の襖を開けようとしたとき、中からの声が耳に入る。
「・・・なぜ、シコブチを見逃したかって・・・あいつは一人でやってきたが、近くに水知組の手先や、眷属が控えていたのは間違いない。まだ機会はある。捕獲するには、もっと準備が必要なんだよ、母さん」
麻生宮司の、押し殺したような声に、健介は耳を疑う。セイのしわがれた声が続く。
「ほかく、やて?なぜ殺さへんのや?」
「ウエからのご指示だ。なるべく、傷つけぬように捕えて、引き渡すことに決まっている。そのための捕獲部隊をいま、編成中だそうだ。それが整うまでは、このままの状態を続けるということだ」
「とらまえて、なにするいうんや・・・」
「あの生きものは、貴重な実験材料、不老不死の研究のまたとない素材だと、ウエはお考えになっている・・・」
「け!おぞましい。いつもそうや、ウエは、最後のところで自分らも不老不死になりたい思うて欲掻いて、シコブチに甘くなる。うちは・・・」
「母さん、ウエを批判するのは控えたほうがいい。HFのメンバーにも、ウエに直属のものがいるようだ・・・」
健介は、襖に伸ばした手を留めたまま、息を殺していたが、我慢できなくなり、声を張り上げた。
「失礼します!野崎です。伺いたいことがあります!」
襖の向こうの会話が止み、沈黙が続いた。健介の首筋に汗が垂れてくる。やがて、麻生宮司の冷徹な声が響いた。
「入りなさい」
気が付くと全身が汗にまみれていた。道場の真ん中で、今日子と麻生宮司が向かい合って座ると、周りの者がそれに倣った。健介も胡坐をかいた。座るときに、腰が抜けたように足に力が入らず、みっともないと自分を恥じた。
いきり立っていたセイも、麻生宮司がその耳元で言い聞かせた言葉で、とりあえずは矛を収めたようである。
「それでは、私と泉美・・・泉美君が、シコブチの隠れ里に滞在することは、HFとして認めてもらえるのだね」
豊俱教授が明るく言うと、麻生宮司は頷いた。
「いつでも、連絡が取れるようにすることが条件だ。それと、シコブチ側から、こちらに二人、滞在してもらう」
「人質、ということなのね」
今日子が尋ねる。泉美が顔をしかめるが、麻生宮司は無表情に答えた。
「その通りだ。しかるべき者をよこしてもらいたい」
「しかるべき者?どのような条件の者だ?」
今日子がさらに尋ねると、宮司は暗欝な目つきになった。
「シコブチの血を分け与えられ、尋常の人間ではなくなった者ということだよ。隠れ里には幾人もいるはずだ」
今日子はしばらく沈黙していたが、やがて頷く。もう一度、携帯電話を取り、里長に連絡している。
それが済むと、麻生宮司は立ち上がり、再び人垣を分けていったが、すぐに戻ってきた。手には、小太刀の鞘を握っている。それを、泉美に向って差し出した。
「これが、最後の条件だ。泉美、これを持って行け。隠れ里に居る時も、大学に通う時も、放さず身に付けているのだ」
泉美は、自分がセイから取り上げた逆鱗の小太刀をまだ握っていることに気づき、愕然としている。そして、鞘を前に首を横に振った。
「いやです。うちはもう、この刀はもちたない」
「だめだ!これは譲れない条件だ。これを持たない限り、おまえをシコブチの里へやることは出来ない」
麻生宮司は断固として言い放ち、泉美の手から取った小太刀を鞘におさめ、改めて泉美に突き付けた。
泉美が唇を噛んで小太刀を受け取ると、麻生宮司は強い語気で言い放った。
「お前の身に害が及ぶ時、それを使って戦え。そして、おまえがシコブチの血に汚されそうになり、それを拒むのが不可能な時は、おまえ自身を刺せ」
その言葉に、健介が目を見張り、一同が粛然と息を飲む中、麻生宮司は立ち上がり、背中を向けて道場を去っていく。セイがその後ろに続く。
豊俱教授が、大きく息をついて、今日子と泉美に促した。
「今日は、これでおいとましよう」
隠れ里へ向かう船は、氷上神社へ来たのとおなじ、安孫子船頭の船が使われた。健介は、今日子と泉美と豊俱教授を乗せたその船が、去っていくのを湖岸で見送る。沖合に、ガリラヤ号の船体が黒く見えた。二隻の船は接近すると並走して、健介の視界から消えていった。
健介は唇を噛み、その足で氷上神社に戻る。麻生宮司や、セイに問い質したいことが多すぎて、とてもこのまま帰る気になれないのだ。
境内や道場には、まだ氏子衆の男たちが殺気の余韻を残してたむろしているが、その中を突っ切って、健介はまっすぐ社務所に入って行った。玄関を上がり、事務所兼居間のようになっている部屋の襖を開けようとしたとき、中からの声が耳に入る。
「・・・なぜ、シコブチを見逃したかって・・・あいつは一人でやってきたが、近くに水知組の手先や、眷属が控えていたのは間違いない。まだ機会はある。捕獲するには、もっと準備が必要なんだよ、母さん」
麻生宮司の、押し殺したような声に、健介は耳を疑う。セイのしわがれた声が続く。
「ほかく、やて?なぜ殺さへんのや?」
「ウエからのご指示だ。なるべく、傷つけぬように捕えて、引き渡すことに決まっている。そのための捕獲部隊をいま、編成中だそうだ。それが整うまでは、このままの状態を続けるということだ」
「とらまえて、なにするいうんや・・・」
「あの生きものは、貴重な実験材料、不老不死の研究のまたとない素材だと、ウエはお考えになっている・・・」
「け!おぞましい。いつもそうや、ウエは、最後のところで自分らも不老不死になりたい思うて欲掻いて、シコブチに甘くなる。うちは・・・」
「母さん、ウエを批判するのは控えたほうがいい。HFのメンバーにも、ウエに直属のものがいるようだ・・・」
健介は、襖に伸ばした手を留めたまま、息を殺していたが、我慢できなくなり、声を張り上げた。
「失礼します!野崎です。伺いたいことがあります!」
襖の向こうの会話が止み、沈黙が続いた。健介の首筋に汗が垂れてくる。やがて、麻生宮司の冷徹な声が響いた。
「入りなさい」
2009年02月26日
第七章 龍のくちづけ その7
健介の位置からは、何がどうなったのかわからない。ほとんど一瞬の出来事であった。
今日子を中心に、爆発が起こったように、今日子に掴みかかった男たちが薙ぎ倒され、道場の床板に叩きつけられた。
目を見張る健介の前に、剣道着姿の男が宙を舞って落下する。今日子が手を前にのばし、平然と立っている。どうやら今日子は、剣道着の男のからだを掴んで猛烈なスピードで振り回し、襲ってくる敵を一人残らず弾き飛ばしたらしい。
「凄い力だ・・・」
呆然と豊俱教授が呟くのを尻目に、今日子は小太刀を構えるセイに向かって歩み始めた。その前に氏子衆の男たちが立ちはだかるが、次々とはねのけられる。今日子の白い手が手刀となって男たちの首筋を打ち、あるいはタイトスカートから延びたしなやかな脚が旋風を起こして脾腹にめり込み、ただの一撃で男たちは床に這いつくばっていく。
「怨敵退散!降魔調伏!」
甲高い声で叫び、老女が必死の面持ちで小太刀を振るった。しかしその切っ先は今日子に届かない。小さくステップを踏むだけで軽々と斬撃をかわし続ける。老女の動きはすぐに鈍り、無惨に息切れし始めた。
「もう、ええやろ!」
悲痛な叫びがして、泉美が俊敏にセイに抱きつき、小太刀をもぎ離す。肩を掴んで座らせ、寄り添って抱きしめる。
「もう、やめよう、こんなこと」
無力感に打ちひしがれ、言葉もないセイに、今日子が静かに語りかける。
「セイ子さん、繰り返すわ。あなたたちと戦うつもりはない。どうしてもそれを納得してもらいたくて、私はここへ来たの」
セイは、悔し涙とよだれを垂らしながら、般若のように凄絶な表情になっている。
「いまさら・・・なにを!利宏!利宏はまだか!」
もがく老女を抱きすくめていた泉美が、ふと眉を曇らせる。
「そう言えば・・・お父さんは、どこ?」
それに応じるように、男の声が響く。
「これは、なんのざまだ。私が到着するまで、勝手なことをするなと命じたはずだ」
氏子衆の人垣が割れ、現われたのは麻生利宏である。宮司の白い着物に浅葱色の袴を着け、鋭い目で居並ぶ人々を見据える。セイが泉美を振り離し、躍りあがった。
「利宏、シコブチを討ちや!今こそ、シコブチの首を獲るんや!」
麻生宮司は、今日子と正対し、低く問いかける。
「ひとりで、やってきたのだな。おぞましい眷属も、汚れた隠れ里の者も水知組の者も連れずに」
今日子は微かに眉をひそめて応える。
「私、だけだ」
「我々が、武器を持ってお前を待ち構えているとは、考えなかったのか?」
「私は泉美を友と信じている。豊俱教授とも共通の認識を持っていると信じている。二人を信頼して、やってきた」
「信頼、か・・・」
麻生宮司は苦く顔を歪めた。セイが苛立って喚き立てる。
「この化け物は、氏子衆をほれ、そのように何人も傷つけたんやで!」
昏倒している男たちを指さすセイに、泉美は怒って反駁した。
「その人たちが今日子に跳びかかっていったからやないの!今日子は身を守っただけや!」
倒された男たちにかがみこみ、様子をうかがいながら、麻生宮司が呟く。
「命に別条はないようだが、見事に急所を一撃か。それぞれに武道の心得のあるものが、やすやすとやられたものだな。さすがはシコブチ神、というべきか」
「戦うつもりはなかった。私は、そちらと和解し、協力し合おうと思ってやってきたのだ」
今日子の言葉に、麻生宮司は立ち上がり、表情を殺した顔で告げる。
「ならば、その言葉に裏付けが欲しいものだ。まず、水知組の活動をすべてやめさせろ。それなら、おまえの言葉を信じよう」
「水知組がしていることは、私を信じる者たちを支える経済活動だ。すべてをやめれば、食べるに困る。そちらに敵対する行動と、非合法の活動に限れば、即座にやめるよう命令しよう」
「今、この場でそれができるか?」
「してみせよう」
今日子はポケットから携帯電話を取り出し、二件の電話をかけた。水知組の渕崎と、隠れ里の里長へである。(その7)
今日子を中心に、爆発が起こったように、今日子に掴みかかった男たちが薙ぎ倒され、道場の床板に叩きつけられた。
目を見張る健介の前に、剣道着姿の男が宙を舞って落下する。今日子が手を前にのばし、平然と立っている。どうやら今日子は、剣道着の男のからだを掴んで猛烈なスピードで振り回し、襲ってくる敵を一人残らず弾き飛ばしたらしい。
「凄い力だ・・・」
呆然と豊俱教授が呟くのを尻目に、今日子は小太刀を構えるセイに向かって歩み始めた。その前に氏子衆の男たちが立ちはだかるが、次々とはねのけられる。今日子の白い手が手刀となって男たちの首筋を打ち、あるいはタイトスカートから延びたしなやかな脚が旋風を起こして脾腹にめり込み、ただの一撃で男たちは床に這いつくばっていく。
「怨敵退散!降魔調伏!」
甲高い声で叫び、老女が必死の面持ちで小太刀を振るった。しかしその切っ先は今日子に届かない。小さくステップを踏むだけで軽々と斬撃をかわし続ける。老女の動きはすぐに鈍り、無惨に息切れし始めた。
「もう、ええやろ!」
悲痛な叫びがして、泉美が俊敏にセイに抱きつき、小太刀をもぎ離す。肩を掴んで座らせ、寄り添って抱きしめる。
「もう、やめよう、こんなこと」
無力感に打ちひしがれ、言葉もないセイに、今日子が静かに語りかける。
「セイ子さん、繰り返すわ。あなたたちと戦うつもりはない。どうしてもそれを納得してもらいたくて、私はここへ来たの」
セイは、悔し涙とよだれを垂らしながら、般若のように凄絶な表情になっている。
「いまさら・・・なにを!利宏!利宏はまだか!」
もがく老女を抱きすくめていた泉美が、ふと眉を曇らせる。
「そう言えば・・・お父さんは、どこ?」
それに応じるように、男の声が響く。
「これは、なんのざまだ。私が到着するまで、勝手なことをするなと命じたはずだ」
氏子衆の人垣が割れ、現われたのは麻生利宏である。宮司の白い着物に浅葱色の袴を着け、鋭い目で居並ぶ人々を見据える。セイが泉美を振り離し、躍りあがった。
「利宏、シコブチを討ちや!今こそ、シコブチの首を獲るんや!」
麻生宮司は、今日子と正対し、低く問いかける。
「ひとりで、やってきたのだな。おぞましい眷属も、汚れた隠れ里の者も水知組の者も連れずに」
今日子は微かに眉をひそめて応える。
「私、だけだ」
「我々が、武器を持ってお前を待ち構えているとは、考えなかったのか?」
「私は泉美を友と信じている。豊俱教授とも共通の認識を持っていると信じている。二人を信頼して、やってきた」
「信頼、か・・・」
麻生宮司は苦く顔を歪めた。セイが苛立って喚き立てる。
「この化け物は、氏子衆をほれ、そのように何人も傷つけたんやで!」
昏倒している男たちを指さすセイに、泉美は怒って反駁した。
「その人たちが今日子に跳びかかっていったからやないの!今日子は身を守っただけや!」
倒された男たちにかがみこみ、様子をうかがいながら、麻生宮司が呟く。
「命に別条はないようだが、見事に急所を一撃か。それぞれに武道の心得のあるものが、やすやすとやられたものだな。さすがはシコブチ神、というべきか」
「戦うつもりはなかった。私は、そちらと和解し、協力し合おうと思ってやってきたのだ」
今日子の言葉に、麻生宮司は立ち上がり、表情を殺した顔で告げる。
「ならば、その言葉に裏付けが欲しいものだ。まず、水知組の活動をすべてやめさせろ。それなら、おまえの言葉を信じよう」
「水知組がしていることは、私を信じる者たちを支える経済活動だ。すべてをやめれば、食べるに困る。そちらに敵対する行動と、非合法の活動に限れば、即座にやめるよう命令しよう」
「今、この場でそれができるか?」
「してみせよう」
今日子はポケットから携帯電話を取り出し、二件の電話をかけた。水知組の渕崎と、隠れ里の里長へである。(その7)
2009年02月21日
第七章 龍のくちづけ その6
白い和服に黒の袴を付けたセイは、武道家や神職のイメージそのものである。今日子もまた、白のブラウスと黒のタイトスカートという、似た感じの服装だったが、その全身から漂う艶やかで魔性めいた雰囲気は対照的だ。
「あの頃の美津加藤大学は、京都にあったね。女子専門学校から新制大学になったばかりで、みんな張り切っていた。比留間先生もそうだった」
今日子がそう語ると、セイは唇を噛む。
「お前に、先生の名前を口にする資格はあらへん。その淫らでおぞましいからだで、先生を誘惑し、破滅させたんや。今度は、こともあろうに氷上の巫女やHFの幹部をたぶらかそうとは、なんと恐れを知らぬ罰あたりめ」
豊俱教授が大きく嘆息し、セイをなだめにかかる。
「あれだけ詳しく説明したのに、わかってもらえないのは残念だよ、セイさん。僕はたぶらかされてるわけじゃない。学者として積み重ねた研究と、HF幹部としての実践とを合わせて、われらと彼らの和解を導こうとしているだけだ」
泉美も教授の横に並び、張りつめた声で訴える。
「うちも、お願いします。今日子のことを理解してほしい。うちの、友達なんや。昔のことはわからへんけど、今は、けっして戦いを望んではいない。うちは、もう逆鱗の小太刀を振るのはごめんや。そんなことして、琵琶湖を汚すのはあかん。みんなで、力合わせて守っていかな・・・」
セイは、今日子をねめつけていた視線を外し、泉美に向けた。その視線は、珍しい動物を見物するかのような好奇心と、軽蔑の色があった。
「あんた・・・なあんにも知らへん小娘が、たどたどしゅう世迷言を口にしよって。この今日子やらいうモノが、どんなえげつない化け物か知ってて、ともだち、言うてんのか?」
泉美の大きな瞳が吊りあがり、激しい怒りに頬が紅潮した。
「今日子を侮辱するのはやめて。そんで、うちを何にも知らへん小娘に育てたのは、おばあちゃんやないの」
泉美の非難の言葉を、まるで聞き流して、セイは豊俱教授に皮肉に笑う。
「美彦さん、あんたまでが、小娘と同じような甘いことをさえずったらあきまへんわ。シコブチと和解?・・・天地がひっくり返っても、ありえへんな」
吐き捨てるように言い切るセイに、今日子が身を乗り出し、語りかける。
「天地がひっくり返ろうと、しているのよ。琵琶湖の底が沸き立って、湖底と水面が逆転するのよ。琵琶湖の歴史が始まって以来、起こり得なかったことが始まろうとしているの。豊俱先生から聞いたはずでしょ?セイ子さん」
「地球温暖化、やらいう話か?琵琶湖の底でうごめいとる『深みより来るものども』の餌がなくなって、浮き上がってくる言うことやろ。なんぼでも来たらええわ。端から皆殺しや。やっとさっぱりするわ」
老女は般若のように凶暴に笑った。膝元に置いてあった小太刀を左手に掴み、片膝を立てる。
「氏子衆!茶番はもうやめや。シコブチを滅ぼすときや!」
高らかに宣言すると、小太刀を抜き放った。泉美が手にして稽古し続けた「逆鱗」の刃である。
「本来なら、泉美がこの剣で、悪龍の化身のシコブチを仕留めるはずやった。けど泉美がこないな腑抜けにされてしもうては、しゃあない。皆で取り押さえ、うちが首を獲る!」
「やめて!!」
泉美が絶叫した。だが、道場に充満した氷上神社氏子衆の男たちは、雪崩を打って今日子に襲いかかった。
「あの頃の美津加藤大学は、京都にあったね。女子専門学校から新制大学になったばかりで、みんな張り切っていた。比留間先生もそうだった」
今日子がそう語ると、セイは唇を噛む。
「お前に、先生の名前を口にする資格はあらへん。その淫らでおぞましいからだで、先生を誘惑し、破滅させたんや。今度は、こともあろうに氷上の巫女やHFの幹部をたぶらかそうとは、なんと恐れを知らぬ罰あたりめ」
豊俱教授が大きく嘆息し、セイをなだめにかかる。
「あれだけ詳しく説明したのに、わかってもらえないのは残念だよ、セイさん。僕はたぶらかされてるわけじゃない。学者として積み重ねた研究と、HF幹部としての実践とを合わせて、われらと彼らの和解を導こうとしているだけだ」
泉美も教授の横に並び、張りつめた声で訴える。
「うちも、お願いします。今日子のことを理解してほしい。うちの、友達なんや。昔のことはわからへんけど、今は、けっして戦いを望んではいない。うちは、もう逆鱗の小太刀を振るのはごめんや。そんなことして、琵琶湖を汚すのはあかん。みんなで、力合わせて守っていかな・・・」
セイは、今日子をねめつけていた視線を外し、泉美に向けた。その視線は、珍しい動物を見物するかのような好奇心と、軽蔑の色があった。
「あんた・・・なあんにも知らへん小娘が、たどたどしゅう世迷言を口にしよって。この今日子やらいうモノが、どんなえげつない化け物か知ってて、ともだち、言うてんのか?」
泉美の大きな瞳が吊りあがり、激しい怒りに頬が紅潮した。
「今日子を侮辱するのはやめて。そんで、うちを何にも知らへん小娘に育てたのは、おばあちゃんやないの」
泉美の非難の言葉を、まるで聞き流して、セイは豊俱教授に皮肉に笑う。
「美彦さん、あんたまでが、小娘と同じような甘いことをさえずったらあきまへんわ。シコブチと和解?・・・天地がひっくり返っても、ありえへんな」
吐き捨てるように言い切るセイに、今日子が身を乗り出し、語りかける。
「天地がひっくり返ろうと、しているのよ。琵琶湖の底が沸き立って、湖底と水面が逆転するのよ。琵琶湖の歴史が始まって以来、起こり得なかったことが始まろうとしているの。豊俱先生から聞いたはずでしょ?セイ子さん」
「地球温暖化、やらいう話か?琵琶湖の底でうごめいとる『深みより来るものども』の餌がなくなって、浮き上がってくる言うことやろ。なんぼでも来たらええわ。端から皆殺しや。やっとさっぱりするわ」
老女は般若のように凶暴に笑った。膝元に置いてあった小太刀を左手に掴み、片膝を立てる。
「氏子衆!茶番はもうやめや。シコブチを滅ぼすときや!」
高らかに宣言すると、小太刀を抜き放った。泉美が手にして稽古し続けた「逆鱗」の刃である。
「本来なら、泉美がこの剣で、悪龍の化身のシコブチを仕留めるはずやった。けど泉美がこないな腑抜けにされてしもうては、しゃあない。皆で取り押さえ、うちが首を獲る!」
「やめて!!」
泉美が絶叫した。だが、道場に充満した氷上神社氏子衆の男たちは、雪崩を打って今日子に襲いかかった。


