前のハナシはこちら
63.2km先に感じた思い。
それは「京街道を歩いてはみたものの…」だった。
やっぱり歩いてみての感じ方は登山とは別物。
歴史探訪的な観光とも別物。
当たり前だけどねー。
●
【歩いて良かったか?】---------------------------------------------
●歩くと決め、決めたとおりに最後まで歩き通せたこと。
●歩かなければ一生わからなかったことが分かったこと。
そのふたつが「歩いて良かった」と思ったこと(笑)
両方とも人生において“経験”してみたという感想。
なんか中二病の子供みたいだけど。
【脚はどうだったのか?】-------------------------------------------
体力はもった。
ただ脚力には自信があったのに、脚はボロボロ。
1日目の終わりには右足の「腿と膝関節のウラ」が悲鳴を上げた。
ホテルを出て夜ごはんを食べに行くのも辛かった。
アミノ酸補給とシップ等でメンテで、
翌朝には歩けるようになったものの、痛みは残った。ペースもやや落ちた。
しばらく立ち止まったり座ってしまうと次に歩き出すのがつらかった。
エンジンがかかるまで、ぎこちない歩き方になった。
歩き終えて電車で自宅に帰るときの階段がつらかった。
3日たったても脚は具合は同じ。本調子になってくれない。ヤバイ。
【歩いているとき何を感じたのか?】----------------------------
京街道の歩きはじめ。
ビルの間から朝陽とともに見えてきた今の大阪城の姿。
高層ビルなんてない当時、最も大きな建物である天守を見た
旅人たちが何を感じたのだろうか。
いや、自分の住んでいる藩にもあったから何も感じないかな…とか、

今も残る石の道標たちはどんな経緯で今に残ったんだろうか、とか、

道の分岐に建てたのは間違う旅人もいたからだろうか(自分もここで間違えたw)、とか、

今は機能してないけど当時はどこへ案内しようと思ったのだろうか、とか、

ここに残っている碑のことを今のどれだけの人が知っているんだろうか、とか、

個々が宿場であることを教える碑をだれが何の目的で建てたんだろうか、とか、

江戸時代の宿屋だったお店が交通システムが変わっても現代まで残ったのは、
残したいと思った人たちがつないできたことで残ったんだろうな、とか、

江戸以降の歴史やかつてそこに住むひとたちや歩いた人たちの存在を
感じるときもありました。
ただね…。
【歩いているとき何を感じられなかったのか?】----------------------------
「ああ、街道だ」と街道を感じる道とは何度も出会った。

歩いている時間の大半は、歴史の匂いや息遣いはあまり感じられなかった。
石の道標なども新しいしね。


とってつけたようなものもあったし…。




ただ、かろうじて街道であった道の面影を残すものの両脇に建つのは新しい家々。
まだ街道と思える道はいいんだけど、
かつての道は新たに造成された道路や住宅地などに寸断され、
街道でもない道はホントつまらない。
さらに、
●とてつもなく長かった淀川の堤防の道、
●樟葉手前や淀など京阪電鉄の線路に沿った道、
●名神高速道路に沿った道、
●街道に関係なく新たに通された国道
を延々歩いたときは、心が折れそうになった。
というより心が折れないように「無」にして歩いた。

もうひとつ言ってしまえば、63.2km、ずっとと舗装された道路。
土の上は一度も歩かず。
当時は道の一部は雨が降ればぬかるんでいたんだろうし、晴れても土埃。
宿に着いたら「足を洗ってさっぱりする」なんてことも今はなく、
(今なら部屋で靴を脱いでスリッパに履き替える…かな)
昔の旅人のしんどさは感じたけどね。
●
それでも歴史の足跡は時折出会った。
淀城址。(淀君の城だと思ったら違うかったw)

天満橋そばの船着場の跡、

再現された枚方宿のお触書、

一里塚のあった跡、

郵便渡しの記念碑、

特に説明書きのなかった跡、

宇治川にかけられた橋の跡
(京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋だったらしい)、

戊辰戦争で亡くなった幕軍兵の碑、

伏見にあった長州の藩邸跡、

これ以外にもいろいろな碑を見たが、
全てに共通することがあった。
【今回、何が物足りなかったのか?】----------------------------
それらはいずれもが点であって、面ではない。そしてシズル感もない。
例えば…
鳥羽伏見の戦いの緒戦の跡を示した碑。

わかったのは、ここがかつてその場所だったという事実のみ。
うん?それだけ?といった感じ。
●
思い出したのは、昨年、関ケ原古戦場を訪れたときのこと。
小高い山にあった石田三成の陣跡からは家康などが陣を置いた場所を眺めることができ、
また小早川氏がいた山が見えた。
そして西軍の敗北が決定したのち、島津氏が退いた道筋も少しだけ歩いた。
自分の見た景色などから、関ケ原の戦場が想像できるのだ。
(武将の陣跡の石碑のうち、いくつかは川の再整備や区画整理などで
移動してるみたいだけどね)
●
今回の2日間の京街道からそんな歴史絵図が見えなかった。
復興と発展がつきものの市中に残る史跡だから、
当然と言えば当然なんだろうけどね。
京街道から離れたところにあったが、
新選組ファンとして見ておこうと思って立ち寄ったところも同じ印象だった。

しかし、この付近・・ってちょっと無理やり感w
昨年に行った九州旅行の時に行った長崎・出島。
その地に立った時、歴史小説で読んだしーふぉるとや
オランダ人船員、日本人官吏や商人と地続きになった気がして、
感慨深かったけどなぁ。
まだ出島などで受けた印象に近かったのは、楠葉台場跡かなぁ。
時代にほんろうされた場所と言うか、皮肉なドラマのあった場所だしね。

【歩いているときに面白いものは見つからなかったのか?】----------------------------
京街道を歩かないと見れなかったものは、いくつかあった。
カフェだったかパブだったかの前に停まってたビンテージバイク。

町の標語。
この町ではこの標語を大半の家が、玄関扉のところにつるしてあった。
「いい町にしよう」と住民たちが盛り立てている様子。

京阪・橋本駅そばの古い旅館。この地に遊郭があったことを後で知った。

こちらは宿泊施設として営業中のようです。→●

その橋本にあった住み込み?の交番。

飛び出し坊やはどこにでもいた。

最後は、京街道の終点の追分。
左の道が京街道。右の道が東海道。

ここに来た時、達成感はあった。

【結局、東海道五十三次は歩くのか?】----------------------------------------------------------
「でも、山ではなく町を歩き続けるのは本当に面白いのだろうか?‥‥」
東海道には行く価値のある場所はたくさんあるだろうけど、
自分の脚で歩いていく価値はない…というのが結論。
それを確信した京街道歩きだった。
63.2km先に感じた思い。
それは「京街道を歩いてはみたものの…」だった。
やっぱり歩いてみての感じ方は登山とは別物。
歴史探訪的な観光とも別物。
当たり前だけどねー。
●
【歩いて良かったか?】---------------------------------------------
●歩くと決め、決めたとおりに最後まで歩き通せたこと。
●歩かなければ一生わからなかったことが分かったこと。
そのふたつが「歩いて良かった」と思ったこと(笑)
両方とも人生において“経験”してみたという感想。
なんか中二病の子供みたいだけど。
【脚はどうだったのか?】-------------------------------------------
体力はもった。
ただ脚力には自信があったのに、脚はボロボロ。
1日目の終わりには右足の「腿と膝関節のウラ」が悲鳴を上げた。
ホテルを出て夜ごはんを食べに行くのも辛かった。
アミノ酸補給とシップ等でメンテで、
翌朝には歩けるようになったものの、痛みは残った。ペースもやや落ちた。
しばらく立ち止まったり座ってしまうと次に歩き出すのがつらかった。
エンジンがかかるまで、ぎこちない歩き方になった。
歩き終えて電車で自宅に帰るときの階段がつらかった。
3日たったても脚は具合は同じ。本調子になってくれない。ヤバイ。
【歩いているとき何を感じたのか?】----------------------------
京街道の歩きはじめ。
ビルの間から朝陽とともに見えてきた今の大阪城の姿。
高層ビルなんてない当時、最も大きな建物である天守を見た
旅人たちが何を感じたのだろうか。
いや、自分の住んでいる藩にもあったから何も感じないかな…とか、

今も残る石の道標たちはどんな経緯で今に残ったんだろうか、とか、

道の分岐に建てたのは間違う旅人もいたからだろうか(自分もここで間違えたw)、とか、

今は機能してないけど当時はどこへ案内しようと思ったのだろうか、とか、

ここに残っている碑のことを今のどれだけの人が知っているんだろうか、とか、

個々が宿場であることを教える碑をだれが何の目的で建てたんだろうか、とか、

江戸時代の宿屋だったお店が交通システムが変わっても現代まで残ったのは、
残したいと思った人たちがつないできたことで残ったんだろうな、とか、

江戸以降の歴史やかつてそこに住むひとたちや歩いた人たちの存在を
感じるときもありました。
ただね…。
【歩いているとき何を感じられなかったのか?】----------------------------
「ああ、街道だ」と街道を感じる道とは何度も出会った。

歩いている時間の大半は、歴史の匂いや息遣いはあまり感じられなかった。
石の道標なども新しいしね。


とってつけたようなものもあったし…。




ただ、かろうじて街道であった道の面影を残すものの両脇に建つのは新しい家々。
まだ街道と思える道はいいんだけど、
かつての道は新たに造成された道路や住宅地などに寸断され、
街道でもない道はホントつまらない。
さらに、
●とてつもなく長かった淀川の堤防の道、
●樟葉手前や淀など京阪電鉄の線路に沿った道、
●名神高速道路に沿った道、
●街道に関係なく新たに通された国道
を延々歩いたときは、心が折れそうになった。
というより心が折れないように「無」にして歩いた。

もうひとつ言ってしまえば、63.2km、ずっとと舗装された道路。
土の上は一度も歩かず。
当時は道の一部は雨が降ればぬかるんでいたんだろうし、晴れても土埃。
宿に着いたら「足を洗ってさっぱりする」なんてことも今はなく、
(今なら部屋で靴を脱いでスリッパに履き替える…かな)
昔の旅人のしんどさは感じたけどね。
●
それでも歴史の足跡は時折出会った。
淀城址。(淀君の城だと思ったら違うかったw)

天満橋そばの船着場の跡、

再現された枚方宿のお触書、

一里塚のあった跡、

郵便渡しの記念碑、

特に説明書きのなかった跡、

宇治川にかけられた橋の跡
(京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋だったらしい)、

戊辰戦争で亡くなった幕軍兵の碑、

伏見にあった長州の藩邸跡、

これ以外にもいろいろな碑を見たが、
全てに共通することがあった。
【今回、何が物足りなかったのか?】----------------------------
それらはいずれもが点であって、面ではない。そしてシズル感もない。
例えば…
鳥羽伏見の戦いの緒戦の跡を示した碑。

わかったのは、ここがかつてその場所だったという事実のみ。
うん?それだけ?といった感じ。
●
思い出したのは、昨年、関ケ原古戦場を訪れたときのこと。
小高い山にあった石田三成の陣跡からは家康などが陣を置いた場所を眺めることができ、
また小早川氏がいた山が見えた。
そして西軍の敗北が決定したのち、島津氏が退いた道筋も少しだけ歩いた。
自分の見た景色などから、関ケ原の戦場が想像できるのだ。
(武将の陣跡の石碑のうち、いくつかは川の再整備や区画整理などで
移動してるみたいだけどね)
●
今回の2日間の京街道からそんな歴史絵図が見えなかった。
復興と発展がつきものの市中に残る史跡だから、
当然と言えば当然なんだろうけどね。
京街道から離れたところにあったが、
新選組ファンとして見ておこうと思って立ち寄ったところも同じ印象だった。

しかし、この付近・・ってちょっと無理やり感w
昨年に行った九州旅行の時に行った長崎・出島。
その地に立った時、歴史小説で読んだしーふぉるとや
オランダ人船員、日本人官吏や商人と地続きになった気がして、
感慨深かったけどなぁ。
まだ出島などで受けた印象に近かったのは、楠葉台場跡かなぁ。
時代にほんろうされた場所と言うか、皮肉なドラマのあった場所だしね。

【歩いているときに面白いものは見つからなかったのか?】----------------------------
京街道を歩かないと見れなかったものは、いくつかあった。
カフェだったかパブだったかの前に停まってたビンテージバイク。

町の標語。
この町ではこの標語を大半の家が、玄関扉のところにつるしてあった。
「いい町にしよう」と住民たちが盛り立てている様子。

京阪・橋本駅そばの古い旅館。この地に遊郭があったことを後で知った。

こちらは宿泊施設として営業中のようです。→●

その橋本にあった住み込み?の交番。

飛び出し坊やはどこにでもいた。

最後は、京街道の終点の追分。
左の道が京街道。右の道が東海道。

ここに来た時、達成感はあった。

【結局、東海道五十三次は歩くのか?】----------------------------------------------------------
「でも、山ではなく町を歩き続けるのは本当に面白いのだろうか?‥‥」
東海道には行く価値のある場所はたくさんあるだろうけど、
自分の脚で歩いていく価値はない…というのが結論。
それを確信した京街道歩きだった。
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