寒い人生で悪かったな

トラキチバンドマンのサブ〜い毎日

虎の風景

朝日

未明から降り出した雨が通勤に向かう人たちの傘を濡らしていた
阪急南方駅近くの喫茶店で
メグミは憂鬱な表情で男がやってくるのを待っていた
中本さんとの別れから約半年
メグミの毎日は何一つ変わることはなかった

昨日、産婦人科で妊娠を告げられた
父親はわかっていた
金銭目当てに身体を許すことのないメグミにとって
少なくとも愛情を傾けた男であった
昨夜電話すると、出勤前の少しの時間なら会ってくれるという

やがてドアが開き、男がメグミの前に座った
男の顔を見た途端
メグミの両眼から涙が溢れ出した
「ゴメンナサイ、わたしアカチャンデキタ」
「神様は許してくれないケド、メイワクかけちゃイケナイカラ」
「わたし手術シタイデス、けどお金アリマセン」
「少しタスケテ下さい、オネガイシマス」
「ゴメンナサイ、ホントゴメンナサイ」
メグミは泣き続けた
男は何も話さなかった

ハンカチをぐしょぐしょにして
メグミが顔を上げた時

男は笑っていた

「メグミは俺と結婚したくないの?」
「おふくろ説得するの大変だなあ」

メグミの眼からまた涙が溢れ出した


赤星憲広は
電話で記者の取材を受けていた
敗者の弁を求める記者に怒りをぶつけていた
その誇りだけが自らを強くする術だという事を知っているから


多恵は息子の朝食を用意していた
もともとおとなしかった息子だが
最近では殆ど会話を交わすこともなくなった

夫が残してくれた工場の経営は苦しく
借金をしなかった夫のおかげで
なんとか生き永らえているいるような状態であった

息子の大輔は父の時代に付き合いがあった得意先を
毎日回っていたが
口下手な息子に営業が出来るはずもなかった

多恵は決心していた

工場を閉めようということを

息子が朝食の席につく
多恵が口を開こうとしたその時
電話が鳴った

「おばちゃん、センシュウって会社知っとるか?」
「うちの取引先やねんけど、石炭粉使てやってもええ言うてるねん」
「大ちゃんにすぐサンプル持って行かしてえや」
「品質は自信あんねんやろ」
「ええってええって、昔万引きしたプロ野球スナックのお返しや」

息子がかじりかけの食パンもそのままに飛び出して行った
多恵は両手で顔を覆ったまま
しゃがみこんで動けなくなってしまった


今岡誠は自宅のソファに座り
右手の傷を見つめながら冷遇された過去を思い出し
あの時の悔しさは本当の悔しさでなかったことに思いを馳せていた
本当の悔しさを知った今こそが自分の野球人生のスタートだと知っているから


ケンちゃんはその朝不機嫌であった
いつものように昨日の戦利品である空き缶をつぶしながら
大粒の雨を降らす空を恨めしそうに見つめていた
雨降りは強制休業になってしまうし
スクラップ屋まで愛車ではなく徒歩で行かなければならないからである

「おーいケンちゃん!!」

向こうからおまわりの真田が飛ぶようにしてやってくる

「ケンちゃん!ケンちゃんの本名は山内健やったな」

ケンちゃんは黙って頷いた

「ケンちゃん昔、西淀に住んどったんちゃうか」

ケンちゃんは黙って頷いた

「娘の名前は山内茜ちゃうか」

ケンちゃんは頷けなかった

「捜索願いやケンちゃん!娘さんがケンちゃん探しとるんや!!」

何事が怒ったのかと
よっちゃんや中やんやひろしや安城のオヤジやマッキーやみぃちゃんが集まってきた

「ケンちゃん 娘さんのことばっかりずっと言うてたやんか」
「その娘さんがケンちゃんのこと探してんねん」

ケンちゃんはうつむいたまま
ぴくりとも動かなかった

みんなが日焼けした顔を並べて下からのぞきこむと
ケンちゃんはぼろぼろぼろぼろ大粒の涙を流していた

「ケンちゃん!泣くなやあ!」
「ケンちゃん!!よかったなああ」
「ケンちゃん!服買わんとアカンなあ」
「ケンちゃん!どうせまたすぐ逃げられるわ」
「なあケンちゃん!なんか言えや!」
「ケンちゃん!」
「ケンちゃん!!!」


ケンちゃんが垢と涙でぐしょぐしょになった顔を上げて言った


「今年は金本来たから優勝や」


金本知憲は結局一睡も出来ずにその朝を迎えた
あの日叩きつけたバットを握り締めながら
それでも前を向いていた
これまでも悔しくて眠れなかった夜があった
怖くて震えた夜も数え切れないほどにあった
そしてそんな夜があるからこそ
これからも戦っていけることを知っているから

それぞれの胸にそれぞれの朝が訪れた

守護神と呼ばれた男は子供の寝顔を見ながら
この子の為に屈辱を晴らすことを誓っていた

不死鳥と呼ばれた男は一人きりになってしまった部屋で
一心不乱にバットを振っていた

鉄腕と呼ばれた男はいつの間にか引くことの無くなった
右肩の熱をその手の平ですくいとっていた

引退を胸に秘めた男達は
それでもこの球団を選んだことが幸福であったと感じていた

鳴尾浜で輝いた男達は
来年こそ自らが聖地に立つべく爪を研いでいた

蔦の絡まる聖地では
いつもの男達がいつものように
未来の為に雨よけのシートを広げていた

それぞれの胸にそれぞれの朝が訪れた

奇跡の灯は消えたが
新たに希望の灯が点った

この愛すべき、愛されるべき野球チームと仲間たちの
新しい物語が幕を開けようとしていた


男はいつものように日経新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた
階段を飛ぶように降りてくる息子の足音が聞えた
男は息子に声をかけた

「中日優勝してしもたわ」
「また来年やな」

自分を凌ぐほどの負けず嫌いに育っている息子の目に
みるみるうちに涙があふれだした

歯を食いしばり
直立不動のまま動けなくなってしまった息子に
声をかけようとしたその時

「素振りしてくる」

息子は雨の中を庭へ飛び出して行った

妻に激しく叱責されても
集団登校の時間が過ぎても
息子の素振りは止むことがなかった

やがて妻に引っ張られるように家に入ってきた息子は
びしょ濡れになった服を着替えると
何事もなかったかのような元気な声で

「学校行ってくる」

と飛び出していった

未来に向かって駆け出したランドセルの小さな背中を
男はいつまでも見つめていた

ケンちゃん(その二)

ケンちゃんはその日遠出をした

松屋町筋を北へ大阪城公園を経由して京橋まで
敬愛する金本の大事な節目の試合をTVで見るために
炎天下の大阪をふらふらふら走って行ったのである

あの日以来、安城自転車店のじじいが
店先にTVを置いてくれるようになったので
ケンちゃんとその仲間たちは
動く阪神タイガースを見られるようになっていたのだが
先週から安城のじじいは
ばばあを連れてゲロ温泉とか言う妙な名前の所に
盆休み旅行に出かけてしまっていたのである

お門違いも甚だしいが
ケンちゃんと仲間たちは憤慨していた
悪夢の名古屋三連敗も安城のじじいのせいになり
あわれ安城自転車店のシャッターは
怒り狂ったよっちゃんに立ちションをかけられるという
悲惨な目にあっていたのである


文明を知ってしまったケンちゃんは
どうしても金本の千試合をTVで見たかったので
自らの記憶をたどり、TVの見れる場所を考えた

タクシー運転手をしてたころ
早番の日に洗車を終えて飲んでいた京橋の一杯飲み屋
ドテ焼きの鉄板の向こうにTVがあった
あそこなら店の外からでも見えるはずである

かくしてケンちゃんは松屋町筋を北上することとなったのである

通りがけに寄った夏休みの大阪城公園は空き缶の大豊作であった
最近はペットボトルが増えたせいで
長らく一杯になることがなかったケンちゃんのポリ袋が
左のスチール缶も右のアルミ缶もはちきれそうな位パンパンになって
ケンちゃんはすっかりご機嫌で
京橋商店街の一杯飲み屋前に自転車を止めたのである

前かがみの姿勢でハンドルに身体を預け
右足はペダルに乗せたまま、左足一本で身体を支えている
TVの位置が記憶よりずっと奥にあったので
細かいカウントや打球の行方はわからなかったが
金本のタイムリーはよくわかった
金本の犠牲フライはホームランだと思った

試合が終わりナインに駆け寄る金本の姿を見て
ケンちゃんはどうしても我慢が出来なくなって
店の中に入ってしまった
ヒーローインタビューを聞きながら
ドテ焼きをつまみ、生ビールを飲んだ

久しぶりの冷えたビールが身体に沁み込んで
嬉しいような、淋しいような、甘酸っぱい気持ちが
ケンちゃんの身体を包みこんだ

胸のお守りからキレイに折りたたんだ千円札を出し
店を出て自転車のスタンドを外した

いつものようにふらふらふらふら走っていると
商店街いっぱいに広がって歩く酔っ払い集団にぶつかった
せっかくの良い気分が台無しにされてしまい
ケンちゃんはいつものように
左手にチアホーンのゴムを握り、右手の指をベルにかけた

 

 

 

 

 

「やっぱ金本さんですよー!」

 

 

 

 

目の前にいたお嬢がいきなり言ったのである
ケンちゃんは自分に向かって言ったのだと勘違いして
ドギマギしてしまったが、もちろん違った

 

 

 

 


「金本ダーリンはねぇ〜絶対あきらめてないねん!」

 

 

 

今度は左の方にいた日焼けのまぶしいお姐が言った

 

ケンちゃんは左手をチアホーンから外し
右手の指をベルから離した
自転車では走れないぐらい集団がのろのろ歩くので
ケンちゃんは自転車を押しながら集団のあとをついていった

一号線をまたぐ横断歩道の手前で集団が足を止めた時
ケンちゃんは端から見れば困っている顔にしか見えない
彼独特の笑顔を浮かべながら呟いた

 

 

 

 

 

 

 

「今年は金本来たから優勝や」

 

多恵

多恵は途方にくれていた

町工場が立ち並ぶ東大阪
軽自動車がやっと通れる路地裏に
多恵の店「奥山商店」はあった

奥山商店は二つの顔を持っていた
ひとつは石炭粉を製造する町工場の顔
そしてもうひとつは駄菓子屋兼お好み焼き屋の顔である

工場は夫が結婚から3年目の春に開業した
鋳物を作る時の剥離材として使われる石炭粉は
町工場の隆盛と共に大いに売れた

しかし現在では安価な中国製に押され工場は左前である
夫亡き後、一人息子の大輔が毎日作業服を真っ黒にしながら
なんとか営業を続けているが
ここ7年間黒字になったことはない

多恵は駄菓子屋とお好み焼き屋に生きがいを感じていた
多恵の店から歩いて2分のところには山崎中学校がある
かつては毎日、生徒達が店にあふれていた
多恵も子供達の喜ぶ顔が見たくて
お好み焼きを焼き続けてきた

キャベツとコンニャクだけのお好み焼きが60円
そば入りのモダン焼きでも110円

そばが大盛りのモダン焼きはマンモス焼き
目玉焼きに豚やすじ肉をのせた物はハッスル焼き

子供達が自分のお小遣いで食べられるように
少しでも楽しい思いで注文できるように

店には多恵の子供達に対する愛情があふれていた

店で子供達が喧嘩をした時も
駄菓子屋のお菓子を万引きした時も

多恵は常に暖かい笑顔で子供達を見つめてきた


一ヶ月ほど前のことである


山崎中学校の生徒指導担当と名乗る教諭が多恵の店にやってきた
「学校帰りの子供がお好み焼き屋に寄ったりするのは
教育上好ましくない」と言われた

「ついては学校からもこの店に寄らないように指導するが
店の方でも生徒に食事を出さないようにしてくれ」とのことであった

その日以来、奥山商店から子供達の笑い声が消えた

 

多恵は途方にくれていた


梅雨の訪れも間近な日曜日の昼下がり
誰も座らない鉄板の前にポツンと座り
多恵は壁のポスターを見上げていた

お好み焼きの油で汚れないようにビニールで覆われたポスターは2枚

1枚は真弓明信

阪神ファンであった亡き夫の影響で
多恵も阪神ファンである
中でも笑顔が素敵だった真弓の大ファンであった

そして真弓が阪神を去って2年後
真弓の7番を初々しい笑顔の若者が引き継いだ

そう もう1枚のポスターは今岡誠である

多恵はこの若者に夢中になった
初めて本人に会った時は50を越えた夫が嫉妬するぐらい興奮した

店の壁には2枚のポスターの他にも
今岡と一緒に撮った写真、サイン色紙、千社札など
今岡誠で埋め尽くされている

4年前夫が癌で死んだ時
工場を閉めるかどうかで悩んでいた時期があった
親類達は皆、工場を売って違う商売をするべきだと言っていたが
多恵は迷っていた

そんな時、野村監督に干されていた今岡が
新しくやってきた星野監督のもと
はつらつとしてダイヤモンドを駆け巡っていた

その姿を見て
苦しくても頑張ろう
あきらめず頑張っていれば
必ず良いことがあると信じることが出来た

そんな思いまでして続けた工場であったが
昨夜の夕飯時
いつものように「早くお嫁さんもらわな」とこぼした多恵の言葉に
おとなしい大輔が怒って言い返してきた
「こんな真っ黒の仕事してる男のところに誰が嫁に来てくれるんや!!」

守るべき物だと信じた工場は
愛する息子から人並みの幸せすら奪い
深い傷を与えていた

正しいことだと信じたお好み焼き屋は
生徒の教育に良くないと言われた

自分が正しいと信じ、守ってきた物は
愛して来たものは何だったのだろう
自分の人生に何の意味があったのだろう

今シーズン不調の極みにいた今岡は
今日もスタメンを外されていた


梅雨の訪れも間近な日曜日の昼下がり
今岡のいない野球中継を見ながら


多恵は途方にくれていた

 

 

 

 


「おばちゃーん!!」


声に振り返ると
見覚えある顔の大人が3人
店の入り口から顔をのぞかせている

昔、この店に通っていた子供達だった

3人だけではない
後から後からどやどやと店に入り込んで来て
またたく間に店の中は10人ぐらいの大人達で一杯になった
店の外にもわいわい騒ぐ声が聞こえてくる

「こいつの息子が山中の2年生でなあ」
「奥山でお好み食うの禁止になったってインターネットに書いたんよ」
「山中卒業生の掲示板ってのがあってな、そこでもう大騒ぎやで」
「おばちゃん、インターネットって知っとるかあ」
「ほんでおばちゃん落ち込んでるやろから、いっちょ励ましに行こかって」
「そしたらこんだけ集まってしもてん」
「みなで学校に署名持って行こかって言うてんねんで」
「久しぶりにお好み食わしてえや」
「キャベツ足りるんかいな、切るん手伝うたろか」
「なんやおばちゃん泣くなやぁ」
「おおげさやなぁ」
「早よお好み焼いてえやぁ」


間違っていなかった
自分の信じたことは間違っていなかった
どの顔も覚えている
どの顔も覚えてくれている

「けんちゃんはスジのハッスル」
「あきひろはイカ天のお好み紅しょうが抜き」
「たっくんは豚のマンモスやろ」
「中村くん、そばめし作るんやったら早よお弁当のご飯出しや」
「イチケンはチロルチョコ万引きしたらアカンよ!」

 

 

「すげー!!!!」

 

 

店の中が歓声で湧き上がった

「こんな小さい店に、アホみたいによーけで押し掛けて迷惑やわ」

多恵の涙声にみんなが笑った

何物にも変えがたい温かい空気が店中を包み込んだ時
誰かの声が叫んだ

「おばちゃん、今岡やで!今岡代打やで!!」

町工場が立ち並ぶ東大阪
軽自動車がやっと通れる路地裏にある
お好み焼き屋の小さなブラウン管テレビ

たくさんの暖かい瞳が見つめるその中を
今岡の打球が右翼線を切り裂いた

 

 

「すげー!!!!」

ケンちゃん

ケンちゃんの仕事は空き缶拾いである
空き缶を手に持っただけで
スチール缶とアルミ缶を見分けてしまう

いつも夕方になると
10年来の相棒である自転車にまたがり
錆びた荷台の左にスチール缶 右にアルミ缶のポリ袋をぶら下げて
天王寺の町をふらふらふらふら走って行く

タテジマのハッピに懐かしいタテジマのキャップ
ハンドルの両端には小さな球団旗
前カゴのAMラジオからはいつもナイター中継が流れていて
ケンちゃんはラジオの声にブツブツ言いながら
天王寺の路地裏を今日もふらふらふらふら走って行く

ケンちゃんは昔
親父さんの残した工場を経営していた
レコード盤のほこりを取るクリーナーの持ち手を
プラスチックで成型する仕事をしていた工場は
CDの登場と共にあっという間に左前になった

ケンちゃんは嫁さんと子供を実家に帰らせ
自分は二種免許を取ってタクシー運転手になった
4畳半の部屋に住みながら家族に仕送りを続けていたが
ある朝、夜勤明けの帰り道
居眠り運転のケンちゃんの車は
集団登校の子供の列に突っ込んだ

加古川の刑務所に離婚届が送られてきたのは
85年の秋のことだった

ケンちゃんの口癖は

「今年は高橋慶彦来たから優勝や」
「今年は松永来たから優勝や」
「今年は山沖来たから優勝や」
「今年は大豊来たから優勝や」
「今年は広沢来たから優勝や」
「今年は片岡来たから優勝や」

ケンちゃんは誰かに「今年の阪神どないや?」って聞かれるたび
毎年毎年、秋までそう答えて続けるのである

2003年
ケンちゃんは「今年は金本来たから優勝や」と言っていた

春が来て、夏になり、秋の訪れ・・・

その年、ケンちゃんの言葉は初めて真実になった
初めて真実となった自分の言葉に戸惑いながら
迎えた10月23日
あべのアポロの裏路地で
ケンちゃんがスプライトの空き缶を手にした瞬間
カゴの中のAMラジオがサヨナラホームランを告げた

2004年もケンちゃんは
「今年は金本来たから優勝や」

2005年もケンちゃんは
「今年は金本来たから優勝や」

ケンちゃんはそれに勝る言葉を見つけられなかった

2006年
金本が世界一になるのだという

ケンちゃんはダンボールハウスで暮らしながら
AMラジオの乾電池と週に一度のホルモン焼以外のお金を
生き別れた娘の為に20年間貯めていた

ケンちゃんは初めてそのお金を引き出し
ポロシャツとズボンと4月8日の大阪ドームのチケットを買った

春の雨がケンちゃんのチケット濡らして
4月8日は世界一の日ではなくなってしまった
そして、ケンちゃんがそのチケットを使うことはなかった

あくる日、ケンちゃんはダンボールハウスの中で
真新しいポロシャツとズボンでラジオの前に座っていた

「おーいケンちゃん」

声に振り返ると
いつも空き缶を引き取ってくれるスクラップ屋の社長が
TVを両手に抱えてやってきた

「ケンちゃん、金本見たいんやろ」

元電気屋のよっちゃんが針金を曲げてアンテナを作ってくれた
土方の中やんが現場から発電機を借りてきてくれた
発電機の音がうるさくてTVの声が聞こえないので
中やんはよっちゃんに殴られた
いつも無口なひろしが
向かいの安城自転車店から電気を借りてきてくれた
ホルモン屋のマッキーがホルモンとワンカップをしこたま持ってきてくれた
ダンボールハウスのマドンナ、みぃちゃんが
ケンちゃんに腕を絡めて微笑んでくれた
おまわりの真田が「うるさい」と文句を言いに来たが
その顔は笑っていた

ケンちゃんは涙でぐじゃぐじゃになってしまい
せっかくのTVがほとんど見れなかった

ゲームが終わり
世界一になった金本がグラブを右手でポンと叩いた

「今年は金本来たから優勝や」

ケンちゃんの涙声にみんなが笑った

 


 

メグミ

メグミはその日
初めて店を休んだ

スモーキィマウンテンで生まれた
私にとってメグミというのは
もちろん本名ではない

この国に来た時
メグミというのは「ギヴン ビューティ」という意味だと
同じスモーキィマウンテン生まれのママさんが教えてくれた

この国に来てから5年
数え切れない男が愛の言葉を囁き
そして身体の上を通り抜けていった

その度に傷付き
その度に裏切られ
メグミの心には
かさぶたのようなものだけが残されていった

だけどナカモトサンだけは
一度だってメグミを傷付けたりしなかった
一度だってメグミに嘘をつかなかった

いつもお店の同じ席に座って
ウーロンチャを飲みながらニコニコ笑っていた

愛してるなんて言葉を
かけることはなかったけれど
それでもメグミは愛されていると感じることが出来た

あの日
阪急西中島駅の踏切の前で
「イッショニ クラシタイ」と言ったメグミに
いつもよりほんの少し困った顔で
笑っていたナカモトサン

それがメグミの見た
ナカモトサンの最後の笑顔だった

その日を境に
店に来なくなったナカモトサン

裏切られた思いと
悔しくさとやりきれなさで
携帯電話の番号を押した

電話に出たのはナカモトさんではなく
ナカモトサンのお母さんだった

ナカモトサンが工事現場の事故で亡くなったと言った

あれから2ヶ月
人間は本当に悲しい時は涙なんて出ないのだと知り
それからもメグミは毎日店に出続けた

けれど今日
どうしてもナカモトサンが大好きだった
ハンシンタイガースの野球が見たくて
TVを見るために店を休んだ

生まれて初めて見る野球は
どちらが勝ってるのかさえもわからなかったけれど

いつもナカモトさんが話してくれた
アカホシという選手が画面に映った時
自分でも信じられないぐらいの涙があふれた

ゴメンネ ナカモトサン
ワガママばかり言ってゴメンナサイ
アリガトウネ ほんとうにアリガトウネ
メグミと出会ってくれてアリガトウネ

アリガトウネ


TVを消し
店に出る身支度を始めた

ハンシンタイガースを見て
アカホシを見て
もういちど
この国で生きていこうと決めた

アパートを出て
大原簿記の門を曲がり
線路沿いを歩く

梅田発京都行き特級電車の行き過ぎる風が
メグミの髪を優しく撫でた
ナカモトサンの手と同じだとメグミは思った

自己紹介
Ryuhey
中年トラキチボーカリスト
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