沖縄大辞典

沖縄人のブログ主が沖縄の立場から、 沖縄の政治、文化、歴史、経済など アラカルトを語ります。 毎日、1記事更新です。

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沖縄大辞典ブログ 全記事目次





 沖縄歴史年表

 






舜天王統(1187年~1259年)とは何?


 英祖王統(1260年~1349年)とは


三山時代(1322~1429年)とは何?

尚思紹王統の滅亡

尚円王統(1469~1879)を開いた金丸

中央集権へ移行する尚円王統

大交易時代の終わり

秀吉の朝鮮出兵と琉球

島津氏の琉球侵略

どうして琉球は島津氏に敗れたのか?

独立を失った琉球

退廃からの回復 琉球の近世(1673年以後)

天変地異と王府の財政破綻

米軍の土地強奪と島ぐるみ闘争



フィリピンと琉球のヤバい関係

あの沈黙(サイレンス)と琉球には関係があった

琉球処分後 沖縄の王族はどうなったのか?

沖縄タイムスと琉球新報はどうやって出来た?

沖縄の県都は那覇じゃなかった!

国際通りはどうして国際通りと言うの?

琉球人には名前が3つあった!

沖縄県知事応接室の屏風には何て書いてある?

組踊ってぶっちゃけどこを見るモノ?

沖縄の家にコンクリートが多い理由

沖縄戦後四天王って誰の事?

黄金の国ジパングは琉球だった

絶滅寸前 沖縄の銭湯

沖縄でエレベーターが導入されたのはいつ?

早すぎた山入端隣次郎

プラセンタの後始末

尚家と共に栄え滅んだ首里の五大門閥


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強姦は魂の殺人とも言われますが、
日本では強姦の基準が厳しすぎ
力一杯の拒否がないと和姦と見做されてしまい
裁判において被告が無罪になってしまうなど、
首を傾げる判決が続いています。
このような強姦事件について琉球での裁きは
どうなっていたのでしょうか?

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琉球科律巻之十四強姦

琉球科律において、強姦は以下のように定義されています。



一、強姦の情犯は心狼藉の挙動を有りて
女人を逃げられないようにする。
女人の悲鳴を見聞した目撃者はいるか?
女人の体に損傷があるかどうか?
衣服が裂けているかどうか?
刃物のような凶器を使って女人を驚かせたか?
或いは縛ったり、殴ったり、
或いは仲間に女人を 抑えつけさせて強姦するなど、
凶暴な行動があったかをよく見るようにせよ。
尤強姦の情犯は偽りやすいので、
これらの証拠証跡などを見た上で
強姦の事実を調べる。

当時の裁判も現在と同じで、
強姦と和姦(合意の上での性行為)は
間違いやすいので 冤罪で容疑者を逮捕しないように、
必ず目撃者や証拠を集めてから
強姦の有無を確認するようにと書かれています。
冤罪はあってはならない事ですが、
実際に強姦被害を受けた女性にとっては、
かなり辛い取り調べになった事が容易に想像されます。
取り調べで細かく取り調べられる事を恐れて
訴え出ないケースも 多くあったのではないかと
考えられます。

強姦の罪状


では、強姦があったと認定された場合には
罪刑はどうなったのでしょう?
これは強姦を達した場合には、生涯流罪、
未遂に終わった場合には十年の島流しと決められました。
また、強姦以外の不倫のようなケースでは
男女とも処罰されていましたが、
強姦に関しては、女性には罪はない被害者であるとして
罪に問わないとされていました。

強姦後に合意が成立した場合


当初は強姦であったものの、
その後話し合い和解に至った場合には、
強姦について論じないともあります。
滅多にないケースだとは思いますが、
そのような場合もあったのでしょう。

参考文献:沖縄の法典と判例集


イシハラマサミツのズバッ!




石原


強姦については、
合意は男女間にしかわからない場合もあるので、
強姦か否かについては、目撃者や証拠などを
慎重に検討した上で判決は下されたという事が
条文からは窺えます。
しかし、それは被害者にとっては、
思い出したくもない事を色々と詮索される事で
辛い状態になったであろうと考えられます。





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首里城の最奥には、大内原と呼ばれる大奥がありました。
もちろん、ここは国王以外は男子禁制の女の園でした。
では、まかり間違って大内原に不法侵入したらどうなるのでしょうか?
今回は琉球国の刑法、新集科律から紹介します。



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新集科律では大内原の垣根を超えたら一生流罪


新集科律では、これらの首里城内に侵入する事について、
御城を越という条を設けて、細かく罪を規定しています。
それによると、



一、大内原の御囲垣を越えた者は終生流罪。
御城惣御囲を越えた者は十年流罪
諸役所の垣根を越えた者は寺入り七十日。
越えんとしていまた越えなかった者は罪一等を減じる


こうしてみると、大内原の垣根を乗り越えた者は、
一生流罪とかなり厳しい決まりです。
琉球では人倫に悖る罪や国家反逆罪が死刑でなかなか出るものではありません。
なので一生流罪は当時の常識ではかなり重いのです。

どうして罪が重いのか?


では、どうして大内原への侵入の罪が重いのでしょうか?
それは、血縁で継がれていく王家の血筋が
大きく揺るがされる事を意味するからです。
もし、侵入者が大内原の女官と肉体関係を持ち
その女官が国王の妻になったら?
誕生した子供が本当に国王の子かという重大な疑義が生じるからです。
ここは、ゆるがせにできない王国の正統性に関係するので、罪は重いのですが、
それなら死罪にすればいいとも思うのですが流罪で済むのは奇妙です。


大内原門の門番も厳しい

そんなこんななので、大内原の正門を守る門番に関する規律も
かなり厳しくなっています。



大内原の御門を閉めて鎖錠を掛け忘れたものは、五百日の寺入り
門限でもないのに開閉した者は一世流刑。

このように、門を閉めても鎖錠をし忘れると五百日の寺入り、
時間を無視して門を開閉した場合は、垣根を越えた人間同様に一生の流刑でした。
同じ門番でも首里城の門番なら鎖錠のし忘れで寺入り七十日ですから、
待遇は同じでも偉い違いです。

参考文献:沖縄の法典と判例集


イシハラマサミツのズバッ!

石原


警戒厳重な首里城の門に関する法律を紹介しました。




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 沖縄における昭和天皇のイメージの悪さに
大きく影響しているものに天皇メッセージがあります。
昭和天皇がアメリカに対し、半世紀から百年の
沖縄租借を認めたというもので
そのせいで沖縄は日本から分断された位の勢いで
沖縄二紙は主張しています。
しかし、それは、当時を知らない沖縄の
平和ボケのせいであり、 むしろ、天皇メッセージこそが
沖縄の日本復帰の根拠になり、
沖縄を防衛する事に役にたっているのです。


昭和天皇



冷戦構造が沖縄の運命を決める

中華人民共和国の成立

中華人民共和国の樹立Wikipedia

1945年6月、沖縄を軍事支配したアメリカですが、
当初は、沖縄をどうすべきか方針が決まっていませんでした。
アメリカにも、沖縄を日本の一部と考えるGⅡ(参謀部)と
沖縄は日本に征服された異国であると考えるGS(民政局)で
意見が食い違います。
しかし、明確な結論が出ない間に、中国大陸では
蒋介石の 国民党が毛沢東の人民解放軍に敗北して台湾に逃亡
1949年、毛沢東を主席とした中華人民共和国が成立します。
ソビエトに次いで中国も赤化した事で、
アメリカ本国は日本を非武装中立においておく方針を転換。
ソビエトと中共の防波堤として日本に盾の役割を担わせ
沖縄は米軍が直接統治する事に決するのです。

沖縄支配の正当性に苦しむ米軍


しかし、沖縄を米軍が支配するためにはその根拠が薄弱でした。
当時、侵略戦争は明確に否定される時代になっていて、
日本の一部である沖縄に米軍がいつまでも駐留する根拠がないのです。

本来なら、日本が主権を回復すると同時に米軍は本土及び、
沖縄から出ていかないといけませんでした。
ポツダム宣言にも、日本に民主的な政府が樹立されて
軍国主義の 残滓が払拭されたら、
連合軍は引き上げると明確に書いてあります。

一応、沖縄を国連の信託統治の状態におく方法はありました。
でも、これでは武力占領が許されず、そもそもこの方法は
沖縄を日本の主権から切り離さないと出来ません。
また、通常信託統治とは別に、軍事基地を置く事が出来る
戦略的信託統治という方法もありましたが、
これは国連安保理決議の全会一致が必要で
常任理事国の ソビエトが賛成する可能性がありません。

米ソの緊張が高まり、朝鮮戦争が秒読みというこの頃に
アメリカは手詰まり状態に追い込まれていました。

天皇メッセージがアメリカの危機を救う


本来ならここで、
日本政府が沖縄の帰趨について決断を下すべきでしたが
GHQの最高司令官であるダグラス・マッカーサーは、
共産シンパが多いニューディーラーに引きずられていて、
未だに日本は東洋のスイスたれという
寝ぼけた非武装中立の夢を見ていました。

しかし、マッカーサーとGSのいいなりであった吉田茂は、
日本の再軍備について全く言及せずに
マッカーサーと意見を合わす事に 汲々とし、
まるで使い物にならない状態でした。
この状況で動いたのが昭和天皇であり、
宮内庁御用掛の寺崎英成を通じて
シーボルト連合国最高司令官政治顧問に
天皇の見解を伝えたのです。
その内容は、



①アメリカによる琉球諸島の軍事占領の継続を決める
②琉球諸島の占領は日本の主権を残したまま長期租借
③条約の手続きは日米二国間の条約とすべき

これは、沖縄の軍事占領の方法に悩んでいたアメリカにとって
渡りに舟の名案でした。

天皇メッセージがなければ沖縄の復帰の根拠も消えた


沖縄をアメリカに売り渡したと言われる天皇メッセージですが
もし、これがなければ、もし、沖縄が信託統治に置かれれば、
潜在主権を根拠にした沖縄の復帰運動も難しくなっていたでしょう。

また、米軍が沖縄統治を諦め、
まるで復興していない沖縄を 放り出して撤退した場合、
沖縄の防衛力はゼロのまま 経済復興も叶わず、
同時期にチベットがそうなったように、
中華人民共和国の侵略を受けたかも知れません。

天皇メッセージが沖縄に米軍基地を縛り付けたという意見もありますが
それなら昭和天皇を責める前に、沖縄の基地負担を軽減できない
歴代の内閣と政治家を責めるべきでしょう。

日本軍が消滅し、共産主義の脅威が間近にある状態で、
昭和天皇は、沖縄と日本を守る為に可能な限りの手を打った
そうとしか言えないでしょうし、
現在からみれば、 当時の状況ではベストの選択だったのです。

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石原


昭和天皇の天皇メッセージは、日本国憲法が禁止している
天皇の政治行動に当たるのではないかという批判は前からあります。

しかし、当時の日本は独立しておらず、
憲法は占領軍を縛る事はなく、
事実上、GHQが日本の最高法規でした。

また、当時の内閣はマッカーサーのいいなりで機能不全に陥り
どうしても天皇の判断が必要な状態にあったのです。
ここで、天皇が動かなければ、日本の独立は遅れ、
共産主義の圧迫にも対抗できない、

もっと悪いシナリオも 現実にあり得たのです。
それでも昭和天皇が悪いというのであれば、
では、どうすればよかったのか?当時の国際情勢を踏まえて
非難する人が説明しないといけないでしょう。




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耳切り坊主と言えば、沖縄を代表する怪談です。
昔、黒金座主という高僧が、妖術を使って
婦人を誑かして暴行する というような醜聞が起きました。
その悪行を知った北谷王子が座主に証拠を突きつけると
座主は囲碁をして、王子が勝てば自分の副耳を与える。
自分が勝てば王子の髷を切る
(髷を切られるのは恥)と条件をつけます。

しかし、囲碁は王子の腕前が上で
負けそうになった座主は術を使って王子を眠らそうとして
失敗し両耳を斬られて無念から悪霊になって
北谷王子の家である大村御殿を祟るという話です。
ですが、どうして黒金座主は
耳を切られるのでしょうか?

琵琶法師Wikipedia
琵琶法師Wikipedia



中世の刑罰で僧侶の刑罰だった耳切り


中世の頃、日本では僧侶と女は死罪相当の罪を犯しても死刑にせずに
罪一等を減じて、耳削ぎ・鼻削ぎ刑にする事がありました。
中世日本では、仏教が浸透していて、坊主を殺すと七代祟るとして
敬遠されていました。 また、婦人については、学問がなく無知蒙昧という
男尊女卑思想から 耳や鼻を削いで死刑を回避したそうです。

黒金座主の提案は罪を認めるという意味


琉球国時代の沖縄では、
しだいに漢文の読解は久米村人の専属になり
一般の士族は、和文の読み書きに不自由しなくなりました。
そういう事で、日本からの文物はどんどん入ってきていたので、
大和では、坊主は殺さずに耳を削ぐというのは知識としては
持っていたと考えられます。
耳切坊主の話は怪談の類で脚色されていますが、
黒金座主が私が囲碁に負けたら副耳をあげようと言ったのは
耳を削いでもいい=罪を認めるという暗喩ではないかと思います。

実在した黒金座主

耳切坊主こと、黒金座主は盛海上人と言い
18世紀の前半に実在した真言宗護国寺の十八代住持だそうです。
当時、琉球の仏教界は琉球国の緊縮財政で援助を縮小されていて
盛海上人は、緊縮財政を批判し摂政の北谷王子の悪政を批判して
粛清されたと「沖縄仏教史」にはあるようです。
また、盛海上人は生活の為か、辻占のような事もしていたようで、
それも、無知な庶民に迷信を広めると
王府に睨まれた要因に なっていたようです。
いずれにせよ、王府に手向かい粛清された黒金座主の話が、
耳切坊主の怪談の基礎にはあり、
典型的な悪僧のイメージが 形作られたのでしょう。

イシハラマサミツのズバッ!

石原


耳を切られるや鼻を削がれるのは、怪談話に生々しさを加えます。
もっと後に出てきた逆立ち幽霊の芝居も、
そこに四谷怪談の影響がありますが 鼻を削ぐのはオリジナルであり、
それが怖さを増幅しています。
これらの源流に僧侶や婦人に対する肉刑があったというのが、
ブログ主の推測です。




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シロアリと言うと家を食べてしまう害虫として
あまり良いイメージがありません。
しかし、シロアリも様々で家を食べてしまう奴もいれば、
野外で繁殖して人間には危害を及ぼさない、
良いシロアリもいるのです。
特に、沖縄本島では首里近辺にしかいない台湾シロアリは、
琉球の王様が 直接に海外から輸入してきたとも推測される
果報なシロアリです。
どうして、琉球の王様がシロアリなんか輸入したのか?
今回は琉球王が輸入したかも知れない
台湾シロアリについて書きます。



キノコ

cheetahさんによる写真ACからの写真




農業をするシロアリ台湾シロアリ


台湾シロアリは、自分で農業をして菌類を栽培する事で知られる
キノコシロアリの亜科です。
他のアリのように、直接食物を食べるだけではなく、
巣の中にドーム状のキノコの苗床を造ります。
そして、担子菌と呼ばれるキノコの胞子を体に付着させて、
苗床に定着させ自分達の糞を土にして、担子菌を育てているのです。
この担子菌は成長すると最後には土を突き破り地表に出現して
大シロアリタケと呼ばれるキノコになります。
そして、この大シロアリタケ、
中国では、 煮てよし、焼いてよし、蒸してもスープでも美味しく
肉や魚と共に調理しても美味しいという
キノコの王様と呼ばれる美味なキノコなのです。



琉球の王様が台湾シロアリを輸入した?

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この台湾シロアリは、台湾と名がつくだけあり、
西表と八重山諸島に分布していて、一部が沖縄本島でも生息しています。
そして沖縄本島の一部というのがなんと首里なのです。
首里以外では、台湾シロアリは生息している様子がなく、
琉球の王様が、大シロアリタケが食べたくて、
わざわざ首里に持ち込んだのではないかと推測されているそうです。

美味しい大シロアリタケ


大シロアリタケは、中国では
貴州省、雲南省、四川省、湖南省、広東省、福建省等の
中国西南地区と台湾で見られるポピュラーなキノコですが、
日本では、見る事が出来ない珍しいキノコであるそうです。
生のマツタケとオオシロアリタケでは、
オオシロアリタケが遥かに美味しいとか
これって、上手く繁殖させる事が出来れば、
琉球の王様も食べた幻のキノコとして
売れるんじゃないかと思います。


イシハラマサミツのズバッ!

石原


台湾シロアリが、
どうして沖縄本島では首里にだけいるのか、
本当の所は分かりませんが、
美味しいキノコを栽培する台湾シロアリ、、
すごく観光ビジネスには相性がいいと思います。



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沖縄に住んでいると、大通りを一つ奥に入ると、
行き止まりが異様に多い事に気がつきます。
そして、周囲の住宅に比べて非常に老朽化した住宅が
建て替えられる事なく残っているのも よく見られる光景です。
一体、どうして、こんな変な話になっているのか
その原因は沖縄戦に関係していました。

参考文献:戦後沖縄都市計画の実際史に関する研究 
その2:不良住宅地区問題の発生と実態及びその整備課題
池田孝之



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84%10万戸が焼けた沖縄戦

沖縄戦前の昭和19年には、
沖縄県の人口は59万人世帯数は12万6千でした。
それが昭和30年の調査では、戦前からの住宅に住む人は
2万331世帯しかありません。
つまり、沖縄戦では10万戸84%の住民が焼け出されたのです。
生活するには、まず家がないといけません。
その為に占領軍であるアメリカは、
すぐに手を打つのですが その手法は杜撰そのものでした。


地権者を無視した割当土地制度

沖縄を軍事占領したアメリカは、
住民を狭くて不衛生な収容所に送り込む一方で
広大な土地を囲い込んで軍用地にしてしまいます。
そして、収容所から帰還して住む土地も家もない住民に対し
1945年10月23日公布の米国海軍軍政府指令第29号
「旧居住地移住の計画と方針」に基づく
割当土地制度という措置を取りました。

これは、収容所から帰還した住民に対し、
米軍の地区隊長や、市町村長が適当な土地を割り当てて
無償で与えるという措置でした。

特に、中心市街地が灰になった那覇やコザでは、
そのほとんどの土地が割当土地制度で分割されています。
ところが、これは元の地権者など無視した杜撰なもので
やがて、復員したり、遅れて収容所から帰ってきたり
南洋や大陸から引き揚げてきた元々の地権者との間で
大変なトラブルを引き起こしました。

しかし、敗戦の混乱に直面した沖縄の行政と、
アメリカ軍政は、この問題に抜本的な解決を与える事が出来ず
割当土地制度で土地を分譲された者は、
地権者から土地を賃借しているとみなすという措置で
お茶を濁してしまったのです。


これは、他府県に比べて異常に多い借地人と地権者を生み出し
現在でも沖縄市の中心市街地、そして那覇の中心市街地で
抜本的な再開発がままならない後遺症として残っています。



問題を大きくした規格住宅

ところが、問題は割当土地制度だけではありませんでした。
同時代に、家を失った住民に向けて、
急ピッチで造られた 規格住宅も、歳月が経過すると
不良住宅となって 中心市街地のスラム化に拍車を掛けたのです。

規格住宅は述べ面積6・66坪、母屋と土間からなる
茅葺、布壁(後は板壁)の狭小な住宅であり、
大量の住宅が同じ構成で 造られたので
規格家(キカクヤー)と呼ばれました。


規格住宅は、1945年8月から3年間で73500戸が造られましたが
その緊急性から、主に割当土地制度で土地を与えられた
住民の 住宅として供給が始まりました。

当初は必要不可欠な存在として始まった規格住宅の供給ですが
茅葺、板塀の住宅は10年もすると老朽化しました。
しかし、建て替えようにも早く土地を返して欲しい地権者が
首を縦に振らず、そのままになってしまうのです。

おまけに適当に並べて建てられた規格住宅の間は狭く、
自動車も通れない上に、下水道整備などもされていないので、
かつての規格住宅のエリアは、スラム化が深刻化して行ったのです。


スラム化を解消する協調化・共同化

この地権者と借地者、
さらには借地者と借地者同士の利害調整の為に
行政では、協調化・共同化による土地問題の解決をしています。
「共同化」とは複数の敷地を一つにまとめ
マンションと同様な区分所有に分けることを言い 「協調化」とは、
敷地の区分は変えずに,敵地境界を接して 建物のみ協調して
一体的な形状で建てようとするものです。

この方法が功を奏し、現在では徐々に
不良住宅は消滅してはいますが 地域によって、
進み方はマチマチであり、
沖縄市中心地では、今でも道幅が狭く、
不良住宅が多く残る地域が 存在しています。


イシハラマサミツのズバッ!

石原


沖縄に異常に多い借地人と地権者の土地トラブルと
繁華街から取り残された不良住宅の原因が、
米軍が場当たり的に発行した割当土地制度と
狭小で劣悪な規格住宅によって引き起こされたのです。
沖縄戦の後遺症については、 色々調べて知っているつもりでしたが、
これは知りませんでした。




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沖縄戦の終戦直後、沖縄には米兵以外にも
通訳でフィリピン人が やってきていた事はよく知られています。
しかし、当時中国を支配していた国民党軍も戦勝国として、
沖縄に駐屯していた事を知る人は地元の人でない限り少ないでしょう。
今回は、与勝半島に26カ月間、駐屯した国民党軍について

参考文献:占領初期沖縄の勝連半島地域における
「チャイナ陣地」に関する一考察

高橋順子 (日本女子大学現代社会学科助教)
森 岡稔 (宜野湾市立普天間中学校教諭)
波照間陽 (早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程,
沖縄県知事公室地域安全政策課研究員)

国民革命軍兵士
国民革命軍兵士Wikipedia



1947年9月にはあったチャイナベース

チャイナ陣地


当時の新聞の記録によると、国民党の部隊がいたチャイナベースは、
1947年9月には、旧勝連町と首里石嶺にあった事が確認できます。
チャイナベースは、1949年の11月には撤収していて、
26カ月という 短期駐留であった事も分かります。
この短期駐留と首里石嶺と勝連にしか駐屯していない事で、
当時の沖縄県民でも知らない人が多いのでしょう。



国民党軍は沖縄で何をしていたのか?


では、国民党軍は、沖縄で何をしていたのでしょう?
それはどうやら、米軍が沖縄に置いてきた莫大な軍需資源
つまりは、ジープや戦車、トラックのような乗り物を解体して
まだ、内戦が続いていた中国の国民党へ向けて、
軍需物資として送り出す事であったようです。

1946年の8月30日、アメリカ合衆国と中華民国の間で締結された
「中国に対する余剰資産一括売却に関する協定」に従っての 措置でした。
アメリカは容共のルーズベルトから反共のトルーマンへ
大統領が変わっており、トルーマンは毛沢東の人民解放軍よりも、
蒋介石の国民党による中国統一を望んでいました。


沖縄人と国民党軍人との交流


国民党軍の兵士は私服の人間も軍服の人間もいたようですが、
すべて青年ばかりであったようです。
地域住民との交流は、概ね良好であり、
沖縄人も同じアジア系の中国人に 親しみを感じたとかで、
大交易時代の交流を思い出すかのように
国民党軍の兵士と仲良くなった地元民もいました。




平敷屋の食堂に、チョーヒンコ、ショースーペンという名前の
2人の中国人がよく遊びに来ていた。

というような証言や、



中国人とは現在の中国国民党の将兵であったと考えられる。
また青年ばかりだった。アジア人ということで親しみがあった。
中国語(漢字)で会話した。工作部隊では軍服を着ていた

このような証言がある一方で



相手が外国人なので良くないということで
チャイナ陣地に働きに出る女性はいなかった。
自分は日中戦争に従軍したので、チャイナ陣地には行かなかった。

という証言のように外国人の陣地なので女性は働きに出さなかった事や
日中戦争に従軍した反中感情から、チャイナ陣地に
否定的な 感情を持つ人もいたようです。


生活物資をくれたチャイナベース


しかし、食べるものにも事欠く地域住民にとって、
チャイナベースは、 なくてはならない場所であったようです。



夥しい数の廃車等のスクラップがあった。
部隊の正確な人員数はわからない。
何百人いたとも言われている。
集積物を片付ける中国軍人と軍属
その共同炊飯場もあった。

チャイナ陣地での作業に、屋慶名の住民も
働きに出る者がいて、日当が出た。
仕事は炊事が主だったようである。

平敷屋よりは屋慶名との交流が盛んで、
屋慶名には遊びに来ていたとの証言が多い。
部隊の撤収時にお椀などを貰った人もいた。
饒辺には4ヶ所ぐらい監視用の塔が建っていた。
チャイナ部隊は、物資の積み出しを饒辺舟田で行っていた。

このようにチャイナベースは
貴重な現物収入が得られる場所であり
中国人から食器をもらった人もいたのが分かります。

或いは、別の証言では



当時、自分が通っていた前原高校は
現在の与勝中学校の場所にあった。
チャ イナ・ベースの場所は与那城あたりだったと思う。
生徒たちが頻繁に廃品を貰いに行ったので、
沖縄で一番設備が整った高校だったと感じた。
先輩はピアノを貰いに行った。
廃品を貰って来て改造したりラジオを作ったりした人もいた。
自分も2,3回行った。
そこで拾った約15㎝の小さなカンナを今でも持っている。


このように、度々、チャイナベースで廃品をもらって
学校の備品を整備したりラジオを造ったりした人が
いた事も分かります。

イシハラマサミツのズバッ!

石原


当時、国民党軍は、中国大陸での戦争を
有利にすすめており、 物資も豊富にもっていました。
その為、沖縄から送られた軍需物資は
上海に山積みだったようで あまり役に立たなかったようです。

だからこそ、中国兵も、度々の戦果と名付けられた泥棒を
特に気にする事もなく、また物資や食料も
気前よく 与えていたのでしょう。

チャイナベースは、一応バリケードで囲まれていたようですが
所々はバリケードがない所もあり、米軍物資は盗み放題だったようです。
証言には監視塔の存在が分かるものもありますが、
果たして役に立っていたのか疑問です。



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琉球は大きな河川がない土地ですが、
土地の起伏が激しいので
長雨が続くと川は激流となり、
木橋は簡単に流されてしまいました。
そんなこんなで、王府は次第に矼(いしばし)を
建設するようになります。
では、石橋はどのような手続きで
架けられていたのでしょうか?

長崎県諫早眼鏡橋
長崎県諫早眼鏡Wikipedia



工事の監督者


矼を架ける具体的な手順については、
間切公事帳に記載があります。
以下では、その文章を紹介します。


各地で矼を建設する際には、
諸雑役帳と遣夫帳を造って出納を行い
その都度、各地の掟へ通を渡しておき、
工事が竣工し その総額が諸間切に賦課され次第、
通いを元に各村負担の過不足を 差引して、
その差額を現金で取り渡しする事。



通(かよい)とは、今でいう領収書です。
矼を架ける時には、該当する間切、大きな石橋なら
周辺の間切にも 賦役を掛けて最初に通を渡して、
その負担額を示しておいて 工事が始まって総額が確定すると、
負担が重くなった村には金銭を与えて補い
負担が軽く済んだ村からは、金銭を取って
公平を期していたのです。
琉球国時代は地方の公共事業は、
地方の負担であった事も分かります。


工事の監督者


では、工事の監督者は誰が担当したのでしょうか?
間切公事帳には、以下のように決められています。
矼普請の時には、夫地頭と大さばくりの中から一名
掟から一名、文子から一名が人夫をしたけ(先導の意味)
普請場に出向き下知(指図)する事。

このように矼工事には、村長クラスの夫地頭と
区長クラスの掟、書記官の文子(てぐく)の3名が参加して
人夫を指示していたことが分かります。

イシハラマサミツのズバッ!




石原

昔は橋が落ちると、その修復はやはり農民の負担でした。
それだけに木橋だと数年置きに落ちてしまい、
農民の負担が大きくなる傾向がありました。
矼は、架けるのに時間が掛かりますが、なかなか落ちないので
農民にとっては歓迎すべきものだったようです。

また経費帳と人夫帳を細かくつけて、
負担が公平になるように苦心している様子も分かります。






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琉球王朝では薩摩侵略の後には、
茶の湯が盛んになりました。
茶の湯には茶釜などの汚れをキレイに拭き取る道具として
羽箒という茶道具があるのですが、
この茶道具の原料を、もしかして琉球が
上納していたのかなと思える文献を見つけたのです。


羽箒


https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%8B%E5%9C%92-%E7%B5%84%E5%B0%8F%E7%BE%BD%E6%A0%B9-%EF%BC%88%E8%8C%B6%E6%8E%83%E7%94%A8%EF%BC%89-%E8%8C%B6%E9%81%93%E5%85%B7/dp/B00BWGXY7M/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E7%BE%BD%E7%AE%92&qid=1564063403&s=home&sr=1-3



間切公事帳に記載された記述

間切の番所と王府の間で取り交わされた間切公事帳には、
以下のような記述があります。



大和御用である鳥の尾羽は、
従来は白鳥の尾羽に限り上納していたのだが
乾隆十三年(1748年)よりは、それに限らず、
何でもありあわせの尾羽を 納める事になった。
もっとも白鳥尾羽も、多少色付きでも
納めるように言われているので 今後は左様心得て、
今後はどのようなものでも(4月)十五日までに
御用物座に納めるようにしなさい。



鳥の尾羽なんか何に使うの?

不思議な記述です、鳥の尾羽を大和に納める。
それも当初は白鳥の尾羽だったが、
今後はどんな鳥の尾羽でもいいというのです。
中国のように、鳥の羽をつけた冠を被る国なら兎も角、
日本のような基本、烏帽子のような国で
鳥の尾羽なんか何につかうのでしょう。
そんな風に考え検索していると出てきたのが羽箒なのです。

利休の弟子の古田織部の書いた文書



そこで、羽箒を検索してみると、
利休の弟子の古田織部が 羽箒の材料は、
「白鶴、鶴の本白(根元が白い羽)、
白鳥、野雁、黒鶴(ナベヅル)、鴻」に限定し、
侘び茶には野雁か黒鶴に限ると用途も限定、
仕立て方も現在一般的な三本を
まっすぐ縦に重ねる形にした。




引用http://birdbanding-assn.jp/J04_convention/2008/2008shimosaka.htm

などと書いているのに遭遇、、
白鳥や雁、鴻(ヒシクイ)に限定すると書いているので
元々琉球では白鳥の尾羽を上納していたという記述と一致するのです。

イシハラマサミツのズバッ!

石原


これは、何の確証もありませんが、
茶道具以外に、鳥の尾羽なんか何に使うのか
全く見当がつかないので、羽箒の材料を琉球は
上納していたんではないかと思います。
理由はよく分りませんが、
鶴がよく飛来してきたのでしょうか?
そして、どうして、白鳥の尾羽に限らず、
鳥の尾羽なら何でもよくなったのか
疑問は膨らむばかりです。




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