沖縄大辞典

沖縄人のブログ主が沖縄の立場から、 沖縄の政治、文化、歴史、経済など アラカルトを語ります。 毎日、1記事更新です。

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沖縄大辞典ブログ 全記事目次


 沖縄歴史年表

 






舜天王統(1187年~1259年)とは何?


 英祖王統(1260年~1349年)とは


三山時代(1322~1429年)とは何?

尚思紹王統の滅亡

尚円王統(1469~1879)を開いた金丸

中央集権へ移行する尚円王統

大交易時代の終わり

秀吉の朝鮮出兵と琉球

島津氏の琉球侵略

どうして琉球は島津氏に敗れたのか?

独立を失った琉球

退廃からの回復 琉球の近世(1673年以後)

天変地異と王府の財政破綻

米軍の土地強奪と島ぐるみ闘争



フィリピンと琉球のヤバい関係

あの沈黙(サイレンス)と琉球には関係があった

琉球処分後 沖縄の王族はどうなったのか?

沖縄タイムスと琉球新報はどうやって出来た?

沖縄の県都は那覇じゃなかった!

国際通りはどうして国際通りと言うの?

琉球人には名前が3つあった!

沖縄県知事応接室の屏風には何て書いてある?

組踊ってぶっちゃけどこを見るモノ?

沖縄の家にコンクリートが多い理由

沖縄戦後四天王って誰の事?

黄金の国ジパングは琉球だった

絶滅寸前 沖縄の銭湯

沖縄でエレベーターが導入されたのはいつ?

早すぎた山入端隣次郎

プラセンタの後始末

尚家と共に栄え滅んだ首里の五大門閥

1948年の2月8日、
沖縄で初めて女性参政権が許可された
市町村議員選挙が行われました。
史上初めて選挙権を与えられた沖縄婦人の
参加意識は高く、投票率も男性88%に対し女性は81%
そして、全体で14名の女性議員が誕生します。
さらにすごいのは、この時の選挙で、全市町村
TOPで当選したのも女性だったのです。


首里市でTOP当選した武富セツ



武富セツ



その女性は武富セツといい、明治16年の生まれ、
沖縄で初めて正教員資格を取得した女性であり、
首里小学校、沖縄第一高女、首里高校の教諭を努めます。
昭和23年に女性の地位権利向上を求めて、
沖縄婦人連合会の会長を努め、同年の市町村議員選挙に出馬
首里市の有権者6000名余りの時代に、549票を獲得し
全市町村でTOP得票で当選します。
それも戦前からのベテラン市議、2位の佐久本政敦の
284票を2倍近く引き離しての当選でした。

翌年には沖縄民政議会議員に



武富セツは、翌年には沖縄民政議会の議員になります。
こちらは、今風にいえば内閣閣僚のようなものと言え、
知事の志喜屋孝信の部下として新制沖縄の再建に
尽力する事になります。

理想と現実と



沖縄婦人連合会は、1949年に美里村(現沖縄市)で
米軍が構想した八重島特殊飲食街の構想にも猛反対します。
「料理屋やダンスホール等特殊地域を設置すれば
家庭生活に水を注す、戦前の辻遊郭の風があり、
絶対に賛成出来ません」と拒否の姿勢を打ち出します。

沖縄婦人連合会は全島組織だったので、
当然の事として婦人連合会の一団は特殊飲食街の候補地
コザまでやってきてメガホンを片手に
「売春をやめてください」「売春は悪い事です」と
言って歩いていた。

その当時、越来村に住んでいた厚生員の島マスは
こんな事を書いています。



ある日、婦連の人達がコザの街へやってきた
「売春はやめてください」「売春は悪い事です」と声を
張り上げて呼びかけていた、だが特殊婦人はおろか
コザの人は誰も耳を貸さなかった。
売春は確かに悪い、悪い事は誰だって知っている。
しかし、背に腹は変えられないではないか。
子供を七、八人も抱えた戦争未亡人は、夜も昼も
働かなければ、食べていけない時代だ。
売春でもしなければ、とても生きていけなかった」



武富セツ同様に、沖縄師範学校を卒業して
教員として働いた島マスですが、
戦後戦災母子家庭の救済や、
戦争孤児の育成に人生を捧げた経緯から
売春は悪い事と知りながら、
貧しさの為に体を売らざるを得ない
特殊婦人の悲哀に寄り添う立場を取っています。


イシハラマサミツの感想



どちらが正しいという事もない問題ですが
どちらに視点を置くかで見える物は
変わってくるという事でしょうね。

石原









現在では議員報酬を生活俸と勘違いして
なかば定職としている議員ゴロもいる有様の市町村議会
議員には就職するものではないのですが、、
しかし、戦前には議員になると暮らせるどころか
持ち出しが多くて貧乏になる事さえありました。


真和志村村会

(引用那覇市議会史115p:昭和11年当選した真和志村会議員)


郷紳クラスしか成れなかった戦前の議員



戦前には真和志村として独立した議会があった
那覇市真和志地区ですが、当時の村会議員には、
手厚い保障など、ありませんでした。


昭和3年から19年まで村会議員をしていた
眞榮城玄吉は、その回想として以下のように
書いています。

戦前は弁当代、交際費などすべて自弁で
議会開催中は日当1円也を支給され、
弁当をぶらさげて議会に通った
数年議員を務めると私財を手放す例も多かった

これを見ると、手弁当持参で議会開催中は
日当一円を貰い議場に通っていた
のどかな議員の様子が分かります。
1円の貨幣価値は昭和初期で現在の2~5千円です。
ほぼ一日拘束されて、これでは割が合わない
というのが正直な所です。


もちろん、こんな待遇では
食うや食わずの人ではとても議員など務まらず、
当時の議員はある程度身分や財産がある人でした。
ただ、ほぼ無給だからこそ、
本当に村の将来を考えて奮闘した議員も
いた事は事実でしょう。


イギリス式の当時の議会



元々、議会が設置されたイギリスでは、
政治に関わるのは、地主階級の神聖な義務とされ
無給とされていました。
当然、議員は政治活動をしても生活に影響がない
富裕層に限られていたわけです。

日本でも、元々はそうでしたが、
選挙権が拡大するに従い、そう豊かではない人も
議員に当選するようになり、
議員活動に伴う活動費、
文書費、交際費のような
手当の形で
金銭が支給されるようになります。

戦後は、それが拡充されたわけですが、
戦前は市町村議会の議員の手当はとぼしく
当然、成り手も地主や実業家のような
金持ちが大半だったわけです。


イシハラマサミツの感想



現在でも議員と名の付く人々に支給されるのは
あくまで手当であり、労働報酬ではありません。
ですので、議員報酬は議会で決めていて、
市町村議会で、それぞれ違うのですが、
どうか、それに見合うだけの仕事は
して欲しいものです。

石原

沖縄県における庶民の足といえばタクシーです。
一人だと割高ですが、最大4人で乗り込めば、
那覇市から沖縄市でも、5000円位ですから、
一人頭、1250円、バスの料金並みで利用できる上に
もちろん、バスよりは速いからです。
もう一つの理由は、沖縄は狭い割には坂が多く、
距離の割には移動がしんどい事が多いからで、
タクシーなら坂道料金があるわけでもないので
坂対策で近距離でもタクシーという利用方法もあります。


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沖縄のタクシー料金は誰が決めているのか?



そんなタクシー料金、全国的にも安いような気がします。
横浜市は初乗りで760円で550円の沖縄より、
210円も高い事になります。

では、どうして沖縄のタクシー料金は安いのでしょうか?
実はタクシー料金は、業者が勝手に決められるわけではなく
需要と原価構造を考えて運輸局長が上限を設定しています。
つまり初乗り550円は、その上限なのです。
たまにタクシーでも初乗り500円とかがあるのは、
別に違法ではなく、550円を下回る分には問題ないのです。
もちろん、あまりに安くすると儲けがなくなりますが・・

もう一つはタクシー適正化・活性化法で指定された地域、
及び準地域では、国土交通大臣が指定した料金を上限に
国土交通大臣に料金を定めて届け出る必要があります。


沖縄のタクシー運ちゃんは質が悪い



よく聴く話として、沖縄のタクシーの運ちゃんは
運転が荒くサービスが悪いという話もあります。
しかし、実際にはどうなのでしょうか?
ブログ主はよくタクシーにのりますが、
そこまで酷い運ちゃんに当たった事はありません。

※夜中に猛スピードでドリフト走行する
タクシーには乗りました。


実は、沖縄県は人口比で見た時のタクシー数が多く
1300万の人口を持つ東京都が、人口256人に1台の
割合なのに対し、人口140万の沖縄は、
人口278人に一台とまさに東京並にタクシーがいます。
一方で、一日の営業収入は東京の半分、実車率は
全国最低で30%しかありません。

まさに供給過多で、皆血眼で客を探す状態
沖縄ではバスは手を挙げないと止まらないが、
タクシーは何もしなくても止まるという話は
あながち嘘ではないのです。


一方で住民一人当たりの年間タクシー利用数は、
44回と2位の東京を10回以上、上回り
全国TOPになっています。

ここから分かるのは、沖縄のタクシーは数が多くて
空車が多く、県民の足になのに短距離利用が主なので
利用客も変なドライバーに当たる可能性が高く
それが、沖縄のタクシー運ちゃんはマナーが悪い
という評判に通じているのでしょう。


イシハラマサミツの感想



しかし、運輸局長にしても国土交通大臣にしても、
地域の物価や賃金形態を見て初乗り料金を設定しているので
沖縄県の物価は安いという事なんでしょう。
そして、東京並に存在するタクシーと県民利用率の高さが
運転手のマナー悪いというイメージに結びついているようです。



石原






琉球国時代にも後半には琉球科律という法律が出来て
それに則った裁判が行われていました。
このような裁判には、現在とは随分違う価値観もありますが
一方で納得できるような判決もあります。



平等所


1868年、前妻の金をだまし取った首里崎山村のT(37歳)



罪状:首里崎山村に住むT37歳が
前妻の衣服と金銭を騙し取り
身内の訴えによって事件が発覚した


判決:八重山島への流罪

関連法の条文「訴訟」「名義を犯律」
親族、主人の非文を訴える律


判決理由:夫婦は義によって結びついているものである。
ゆえに義絶(離婚)した場合には汎人(他人)になるから
その場合と同様に論ずるべきである。


元は夫婦であろうと離婚したら他人扱い



このケースでは、前夫が分かれた妻を騙して、
衣服と金銭をだまし取った事が裁判で争われています。
この場合だと、前夫の方が元は夫婦であった事を理由に
情状酌量を求めたのでしょうか?
しかし、平等所の判決は、
夫婦は義によって結びついたものであるから、
離婚してしまえば赤の他人である。
情状酌量は必要なく、通常の盗みと同等に扱うというものでした。


イシハラマサミツの感想


元は夫婦であれ、別れてしまったら他人であり、
情状酌量の余地は無いというのは、
かなりドライで現代的な感じがします。


石原





絣の製法はインドで生まれ、大交易時代の
14~15世紀、琉球にたどり着き独自の進化を遂げました。
もっとも生産量が多いのが南風原町で現在でも、
一番多く織られています。
その模様は600種類とも言われますが、こちらの琉球絣
幕末のヒーロー坂本龍馬も着ていた事が
文献から分かっています。



琉球絣坂本



薩摩へ新婚旅行へ行った時に贈られた琉球絣




その記録は龍馬と面識があった徳富一敬の記録にあります。

坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差し、
色の真っ黒い大男で至ってゆったりと物を言う人であった

このように、琉球絣の単衣に鍔の細い大小を差した
色の黒い大男だったと記録されています。
ゆったりとモノを言うというのは、
戦場カメラマン渡辺陽一のような語り口だったのか

この時に龍馬が着ていた白い琉球絣は竜馬が妻の楢崎龍を
連れて薩摩に遊んだ時に、土地の豪商に贈られたもので
当時の琉球絣は、なかなか手に入らない珍しいものなので
洒落者の竜馬は喜んだであろうことが分かります。


ブーツに琉球絣、オーデコロンの珍妙な男




坂本龍馬は背中も胸も毛深く、その割に
胸をはだける癖があったので、つねにワイルドに
胸毛が見えたかも知れません。
また、船に乗る事が多いのでブーツを愛用し、
首筋にはオーデコロンを振りかけたそうなので
当時としては、さぞかし珍妙な姿だったでしょう。


イシハラマサミツの感想



新しいモノが好きだった坂本龍馬が琉球絣に興味を持ち
その後も着ていたというのは、面白い話です。


石原


沖縄戦で焦土と化した沖縄では、
もちろん発電所も送電設備も失われました。
明るい電気の下での家族団らんも、
映画館で映画を見る事も
しばらくは叶わなかったのです。
アメリカ軍でさえ送電船からの電気で
電力需要を賄なっていました。
しかし、逞しい沖縄の人々は米軍からの放出品の
発電機を元に個人が電気を販売しだしました。


全島で300の個人電力業者が創業開始




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終戦直後、沖縄の人々は地域関係なく、しまい込んでいた

石油ランプでうす暗い夜を過ごすようになります。
しかし、需要が必要な所には供給が生まれるもので、
1946年末には闇取引で、米軍からの放出発電機を使った
民間事業者が、自分で発電機から電線を引っ張り
一般家庭に電気を供給し始めます。

とはいえ、小さな発電機1個の零細企業ですから、
各家庭に送れる電力はようやく電球を一つ光らせる位
ラジオでもつけようものなら、ヒューズが飛んで
業者に怒られるというような次第でした。


米軍は勝手な電力販売を禁止するが




ささやかながら平和が戻ってきたと喜ぶ沖縄人
しかし、貴重な石油が民間の需要に流れて、
工業の振興が遅れると考えた米軍は闇業者を摘発
発電機を没収して登録制にし工業用に振り分けます。

これにより、一時電気を回復した庶民は、

また石油ランプの生活に戻ってしまいます。

ところが需要のある所には、供給があります。
今度は工業用発電機を保有していた業者が、
余剰電力を闇で民間に売り出したのです。

1949年、この頃の那覇にはアーニーパイル国際劇場
小禄劇場、みなと劇場などが自家発電機を備えて
電気の灯る箇所が出始めていました。

米軍は再び、闇業者を摘発し、見せしめとして
3つの業者の操業を停止します。
これは効果てきめんで、恐れた電力業者は、
一般への電力販売を控えるようになります。


当間重剛、松岡政保の働きかけで
電気が許される



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(画像:松岡政保Wikipedia)


しかし、一度、戻った電気を取り上げられた

庶民の不満は大きなものになりました。
映画も芝居も夜は見られなくなり娯楽は奪われ
米軍統治への不満が出てきます。
那覇市は郡島政府に陳情し、工務部長の松岡政保、
経済部長の当間重剛が米軍と折衝します。


当間重剛
(画像:当間重剛Wikipedia)



すでに一度、与えた電気を奪うというのは、
住民の間に大きな不満を起こしています。
なんとかならないでしょうか?

米軍政府も、自分達は電気を享受しながら
住民が戦後5年近く経過しても石油ランプ生活というのは
まずいという考えもあったようで、
1949年11月、一日五時間の条件つきで
民間への電力供給を許します。

戦後沖縄史でもとりわけ評判の悪い
松岡政保と当間重剛ですが、
別に時代劇の悪代官なわけでなし
こういう一面もあったのです。


零細電気事業者は消え琉球電力公社の時代に



牧港火力発電所

(画像:牧港火力発電所Wikipedia)


しかし、1950年代に入ると、徐々に庶民生活にもゆとりが生じて
電球一個ずつしか配電できない零細事業者では、
沖縄全体の安定した電力供給がおぼつかない事態になりました。
とはいえ、300もある電力事業者で正規の電力事業者の規格を
満たす業者は一つもありませんでした。

1953年、米軍は牧港村に牧港火力発電所を建設、
やがて、ここの発電力で米軍の電力需要は賄えるようになり
余剰電力を民間に売る計画が出てきます。

その為に、米軍は最初、群島政府、次には琉球政府に
電力公社を造らせようとしますが、
まだ、それに必要な株式を集める力が琉球政府に無い為に、
琉球電力公社は、アメリカ人の理事長を置いた
米国民政府の持ち物になります。
1972年、琉球電力公社は、復帰により沖縄電力になり
現在に至っているのです。

イシハラマサミツの感想



沖縄では、冷戦を睨み、また沖縄の世論を
米軍に繋ぎ止める目的でシーツ准将が赴任し、
米軍が一手に握る石油、電力、運輸、交通のような
事業を民間に開放して効率化するシーツ善政が敷かれます。
電力の公社化も、その一環で行われました。
シーツ善政は、非効率な軍政を緩めて市民生活を向上させますが
一方で沖縄人の政治への参加は依然厳しく制限されたので
それは返って、復帰熱に火をつける結果になります。

石原






翁長知事の4年間を見ていてブログ主が思ったのは
彼は自主独立を唱えない典型的な戦後保守だという事です。
そして、そんな翁長知事をオール沖縄が担いだのが
オール運動運動の終わりの始まりだったのだなと
今は思っています。


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翁長知事を担ぐ事で反米を封印した革新陣営



普天間基地


一見すると、辺野古の新基地に反対するなど、
革新的な部分があるように見える翁長知事でしたが、
それは米軍支配を脱するのではなく、
本土に応分な基地負担を求めるという立場でした。



つまり、安保は必要だが、小さな沖縄に米軍基地が
集中しているのは不公平ではないですか?
他府県なり県外に移転して公平負担して下さいが
翁長知事の基地反対のスタンスだったわけです。


これは、今までの実現不可能な
米軍基地即時撤去を叫ぶ革新知事よりは
県民の大多数の現実主義者に訴える力があり
現職の仲井真知事を破る原動力になりました。

しかし、安保容認の立場の翁長知事を担ぐ事で、
元々、異民族支配を打ち破り沖縄の主体性を勝ち取る
そういう主張で支持を得て来た革新勢力が
大きく方向転換をしたというのは事実です。
安保を消極的にせよ容認した事で、
沖縄の保守と革新の差はほぼなくなりました。



オール沖縄は確かにオール(全体)になった・・



沖縄自民党なんか、安倍政権の腰巾着じゃないか
オール沖縄は安倍政権の独裁にも反対している

まあ、そういう人もいるでしょうが、
安倍政権に反対すれば革新というわけでもありません。
沖縄の保守勢力の堕落ぶりはいくら口を極めて罵っても
足りない程のていたらくですが、


国防を考えず、自分で国を守るという気概もなく、
安保=アメリカに頼ろうという点では
沖縄の保守も革新も大差ないです。


翁長知事を担ぐまでは、辛うじて空想平和主義に
過ぎないとしても、米軍の即時退去と基地全廃を
訴えていた革新勢力
は4年前安保を容認した時に
保守と同類、その意味でオール沖縄に変貌しました。

沖縄県民でも国土を守る為に安保にすがる
その為に多少の犠牲はやむを得ないという人が
大多数なのですから、オール沖縄はやはり
いよいよ県民世論を完全に掴んだのです。
しかし、それは完全に堕落した態度であり、
安倍政権からすれば御しやすい世論でした。

安倍政権だって、県民と同じように考えていて
その厄介な米軍基地を沖縄に押し付けたいのですから


次の知事選は政権に近い勢力が有利




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革新勢力が翁長知事を擁立し

国防はアメリカ頼みの県民世論にすり寄ったので
保守と革新の米軍基地問題の主張の差は消えました。
なので今後の争点は、もう経済しかありません。
そうなると、安倍政権に近い保守のほうが
かなり有利であるのは間違いないでしょう。
県民世論に日和り、高い目標を捨ててしまった
オール沖縄の前途は極めて暗いと言うしかありません。
4年前に翁長知事が勝ったのは長い目で見れば、
終わりの始まりだったのです。


イシハラマサミツの感想



米軍の武力は必要だけど、沖縄に基地が集中し
被害も多いのはオカシイ、本土も被害を引き受けろという
不道徳の極みのような意見を無邪気に主張する
自分さえよければいいという考えでは、基地は動かないでしょう。


米軍基地を劇的に減らすには、
犯罪の温床である米軍基地と米兵をつけあがらせる
不平等な地位協定をセットで改正させるには米軍なしで
国を守れる国防力がないといけません。

それが出来ないなら、すべてはニヒリズムに回収され
金さえもらえて自分さえ被害に遭わないならという
自分勝手なエゴイズムに堕するしかないでしょう。
オール沖縄にそれをやる気概があるでしょうか?
いや、ないでしょう・・
あれば親米保守派で辺野古新基地反対だけが
合致する翁長知事を担ぐわけもないからです。


石原











沖縄では現在でも県内製造業が全国平均の半分以下で
多くをサービス業や観光、輸入関連事業に頼る外需頼みの経済です。
これは植民地を経験した国に典型的な経済構造ですが、
沖縄ではどうやって外需依存が定着したのでしょうか?


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冷戦の開始が基地経済を確立した

中華人民共和国の成立
(画像:中華人民共和国の成立Wikipedia)


沖縄が明確に米軍基地経済に依存する状態になったのは
1949年以降の事でした。
その大きな理由は、中華人民共和国の成立です。
海の向こうに共産主義の帝国が出来た事により、
アメリカは沖縄と日本を防共の防波堤として使う事を決定します。
それに伴い、これまで熱心ではなかった沖縄県の民政にも
力を入れる事になっていきます。

さらに1951年に勃発した朝鮮戦争は共産圏の脅威を
より強くアメリカに印象付け、沖縄の要塞化は加速します。
沖縄の民政を善くすると共に基地を建設するには
沖縄人の土地を取り上げて基地を拡大すると同時に
生活の生業を奪われた人々を軍雇用員として基地経済に
吸収するのが一番合理的だったわけです。

米軍基地は拡大を続け、沖縄の耕地面積の5分の1に達します。
1951年、軍雇用員として働く人口は6万人に到達します
これは当時の沖縄の労働人口44万人の13パーセントにあたり
一方で製造業に従事する人口は3500人と労働人口の
1%にも満ちませんでした。

基地の拡大は、米兵と軍属を数万人単位で呼び寄せ、
これらの人々の消費をまかなう名目でサービス産業が
大きく発展します、プラザハウスなどはそんな増加した
アメリカ軍人軍属用の娯楽施設兼ショッピングセンターです。

沖縄の経済は皮肉にも沖縄を破壊した米軍基地の建設により
歪ながら復興発展してきたのです。


造るより輸入した方が安いB円ドルレートの固定



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もう、一つ、沖縄を極端な基地依存経済、ひいては、
製造業が弱く、輸入に頼った経済にした大きな理由は、
B円ドルレートの固定にありました。
当時、日本円が1ドル=360円で固定されていたのに対し、
沖縄のB円は1ドル=120円と3倍の高値でした。
日本との貿易は、ドルで決済される為に沖縄は強いドルを
背景にして日本の物資を安く輸入できる事になります。

これは、国内で製造業を発展させるよりも、
強いドルで輸入した方が手っ取り早いという風潮になり
沖縄の製造業を停滞させる要因になります。


強いドルで一石三鳥を狙ったアメリカ



アメリカは、共産圏の拡大により、日本の非武装中立化を
放棄して、日本の再軍備を促し、西側陣営に引き込む為に
日本の経済発展を図る必要に迫られます。

そこで、朝鮮戦争を契機に沖縄の基地を強化する時に、
積極的に日本の業者に基地の建設を請け負わせました。
こうして、アメリカは基地を拡大強化させつつ、
軍雇用で沖縄経済を豊かにすると同時に、
そのドルを日本に還流させて、日本経済も発展させるという
一石三鳥を狙ったわけです。

広大な米軍基地建設で一番儲かったのは、
本土の建設業者だという皮肉な構造がここにはあります。
朝鮮特需を契機とする日本の経済復興は、
沖縄の米軍基地の建設にも支えられたのです。


外需頼みの基地経済の病を引き継ぐ沖縄



沖縄における米軍基地経済の割合は、
復帰後徐々に減少していき2018年には5%になりました。
これを以て、沖縄は基地依存から脱却したという声がありますが
沖縄の産業構造は、今でもサービス業や観光がメインです。


実際のデータを見てみると、
平成26年度 産業割合は、
第一次産業(農業・漁業・畜産業等) 1.6%
第二次産業(製造業・建設業) 12.3%
第三次産業(観光サービス行・商業・金融等) 85.9%

このように観光サービスがダントツに高いのです。
沖縄は他府県に比較しても、第二次産業の比率がワースト1
逆に第三次産業の比率が東京に次いで2位になっています。
東京のように首都機能が集まり、黙っていてもお金が
流れ込む自治体ならともかく、自らお金を稼ぐ力に乏しい
外需頼みの産業構造の沖縄は基本的に
米軍基地に依存していた時代と大きな変化はありません。
観光が米軍基地に取って変わっただけです。

また、県経済の輸出入を比較してみると
平成25年のデータでは、
輸入が3099億円であるのに対し、
輸出は834億円と今でも輸入が多い産業構造です。



イシハラマサミツの感想


いかに米軍基地依存が小さくても、
基地を返してもらえば、
そこにショッピングセンターを造って観光客を呼ぶ
という発想自体が、かなり植民地的な思考です。
経済が自立している国の多くは製造業が堅調に推移し
観光産業以外にも外貨を獲得する手段があります。

また、米軍統治を経験し、
世界中から様々な人がやってくる地域ながら
英語を喋れる人口はとても少なく、
中国語となるともっと少ない傾向があります。

それは観光産業を単純な見てまわるだけの
単調なものに終わらせ、質や満足度を高め、
お金を使ってもらえるという方向にはシフトしていません。


このような要因を基地のせいだというのは勝手ですが
すでに復帰から46年経過していながら、
基本的な産業構造も変わらない状況は、
ただ、沖縄人が怠惰なだけだと判断を下されるに
十分ではないかと思います。

石原












沖縄における親米派というと嫌われモノ扱いです。
しかし、反米を唱えている人々が庶民の喝さいを浴びる中
戦後沖縄の経済を下支えしていた人々こそ、親米派に
ほかならないという一面もあります。

そこで今回は、代表的な沖縄の親米派松岡政保と、
比嘉修平について解説します。


筋金入りのアメリカ通 松岡政保


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(画像:松岡政保Wikipedia)


松岡政保は元の姓を宜野座と言い、金武の出身です。
金武は移民の父、当山久三の生誕地であり、
その影響で松岡も、父の手引きでハワイに行き、
過酷なサトウキビ労働で金を貯め、
1924年には、アメリカインディアナ州のトライステート
工科大学を卒業し、ラジオ工場で働いたり、
夫婦でラジオの修理屋を営むなどアメリカで暮らしますが
アメリカで排日の空気が高まると1933年には永久帰国します。

1936年からは、沖縄製糖に入社、技師や工場長を勤めますが
沖縄戦で工場は全焼、金武に避難してそこで捕虜になります。
しかし、松岡の英語力を重宝した米軍は、松岡を
沖縄民政府の工務部長を勤めさせます。

しかし、松岡は民政府より米軍との結びつきが強く
知事の決済を経ないで復興費の利用を任され、
民政府の志喜屋孝信知事、又吉副知事、比嘉修平官房長とは
仲が悪くなっていました。

1950年、米軍は住民の直接投票による群島政府知事選を行います。
松岡は選挙の情報をいち早く掴んで立候補しますが、
それに対して民政府は反発、琉球農林省総裁の平良辰雄を擁立
ここに沖縄人民党書記長の瀬長亀次郎が加わり、
三つ巴の選挙戦の結果、松岡は落選します。

敗れた松岡は共和党を結成しますが、
同党は独立志向を標榜するようになった為に
距離を置き、米民政府のホーマン工務課長の勧めで
配電会社を起こします。


初代琉球政府主席、比嘉秀平


Shuhei_Higa
(画像:比嘉秀平Wikipedia)


もう、一人の親米派比嘉秀平は、1901年に読谷に生まれます。
幼少期に事故で右腕を失いますが
勉学に励んで早稲田大学文学部英文学科を卒業
高野山中学で教鞭を執った後に
恩師の志喜屋孝信が校長を務める
県立第三中(現名護高校)に赴任し、
11年の勤務の後、
沖縄戦では学徒兵を率います。
戦後は、実務能力と英語が出来る事を米軍に買われ、
翻訳課長や官房長を歴任1950年の郡島選挙では、
平良辰雄を擁立して松岡と敵対し勝利、
その後は復帰政党である社会大衆党に加盟します。

ところが、郡島政府は沖縄の復帰熱を警戒した米軍により
1年半で解散され
新しく臨時中央政府の主席として比嘉秀平が任命されました。
しかし、これは米軍による復帰政党社大党分断の罠でした。
米軍の傀儡として比嘉秀平は過剰な程にアメリカに配慮し、
沖縄の日本復帰についても時期尚早と発言するようになります。


琉球民主党結成、怨敵の松岡と和解


これにより、社大党と比嘉の間で感情的な溝が深まるようになり
1952年に琉球政府が樹立されると、比嘉は初代主席に就任、
同時に社大党を離党して琉球民主党を結党しました。

面白いのは、この時に郡島知事選挙で敵対していた松岡政保と
比嘉秀平は手を組んだという事です。
ちなみに民主党という名前は
当時、合衆国政府が民主党政権だった事からで
その方が援助が得やすいと松岡が出したアイデアです。
もちろん、松岡がかつて共和党を結党したのは、
当時の合衆国政府が共和党政権だったからでした。
この琉球民主党こそ、現在の自民党県連であり、
沖縄の親米政党の源流になります。

土地問題と心中した比嘉秀平
最後の官選行政主席松岡



やがて琉球民主党は行政主席の比嘉を支える政党になりますが
1956年、米軍が軍用地とした土地の一括買い上げを指示、
一度手放してしまえば二度と土地は戻らないと危機意識を持った
県民は団結して猛反対し、立法院も土地を守る四原則を決議して
一喝買いあげに反対します。
その中で比嘉秀平は米軍と住民の板挟みになり狭心症で死去します。
二代目の行政主席は再び、米軍により当間重剛が選ばれました。


松岡は、松岡配電の社長として実業界で成功していましたが、
1961年、高等弁務官のキャラウェイが着任し、
独裁的手腕を奮うようになると、3代目の主席でキャラウェイの
言いなりの大田政作に対して反旗を翻し、
沖縄自由民主党の分裂をもたらします。

その後、松岡は米軍の要請で
4代目の官選行政主席に指名されて就任します。
この時、松岡は
「私が米軍が指名する最期の行政主席である事を希望する」と声明
分裂した沖縄自民党を統一し保守合同を成し遂げます。
沖縄の復帰には消極的だった一方で過剰な軍政府の関与を
阻止する為に主席公選制を後任の高等弁務官のワトソンに求め
自治権の拡大には一定の貢献をしました。

1968年の行政主席選挙は、日本復帰が確定した為に
初の住民による直接選挙になり革新系、屋良朝苗が当選します。
松岡の最期の官選主席でありたいという要望は、
こうして的中した形になりました。

イシハラマサミツの感想



松岡政保は財界人としても非常に成功し、
自分が起こした松岡配電は沖縄電力と合併し、
復帰後の初代沖縄電力の社長を勤めました。

一般に親米派はアメリカの腰巾着と言われがちですが
キャラウェイ旋風では、明確に反キャラウェイに
立つ人々もいたなど、本当は色々です。


石原

















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