大交易時代日本刀は琉球国の主要な輸出品でした。
その後、海外交易が斜陽になった後も、
中国への贈答品として日本刀は人気があったのです。
このような事情から琉球には日本刀が沢山あり、
専門の日本刀の磨物師がいました。



夏男さんによる写真acからの写真

夏男さんによる写真ACからの写真



1644年球陽に記録が残る磨刀主取、外間

琉球国の歴史書、球陽には
西暦1644年、寛永二十一年に那覇の若狭町に外間という男がいて
彼が薩摩に磨刀の修行の為に三年間学び、
その後、王命で磨刀主取に任命されたとあります。



【尚賢王四年、外間、始めて磨刀の法を学ぶ。】
若狭町邑に外間なる者有り。嘗て薩州に往きて磨刀の法を学ぶ。
已に三年を閲して帰来す。嗣後、命を奉じて磨刀主取と為る。



若狭は室町時代から日本からの渡来人が多く、
外間もその為に日本刀に触れる機会が 多かったのではないでしょうか?

外間が勤めたのは鍛冶奉行所

外間が任命されたとされる磨刀主取は、
王府の役職からは確認できませんでしたが、
鍛冶奉行所のセクションに金具師主取、
それに磨物師というポストがあり、
それぞれ3石、2石の俸給を受けていました。




鍛冶奉行所

奉行1名5石
筆者2名4石
加勢筆者4名無給
足筆者1名0.5石
金具師主取1名3石
磨物師1名2石
錫勢頭1名2石
加治勢頭1名2石
下代2名2石




おそらく外間も、この鍛冶奉行所に奉公して
日本刀を磨いていたのでしょうね。



イシハラマサミツのズバッ!

石原


日本刀は、ただ置いておけばいいという代物ではなく
定期的に研がないといけません。
それも庖丁を研ぐような簡単なものではなく専門的な技能職でした。
また、当時の琉球においては、専門の役職を置いて
日本刀を研がないといけないくらいに
多くの日本刀が存在していた事が分かります。