現在の私達には、芸能人でない限りは、名前は原則1つです。
しかし、はるか琉球国時代の琉球士族は、
名前を3つ持っているのが普通でした。
ちょっと考えると不便ですが、どうして名前が3つあったのでしょう?


米軍統治時代

■大国の間で生きる小国の知恵



琉球は、北に大和、西には中国を抱えている関係で、
絶えず、両国の間でバランスを取る必要がありました。
そのような中で、士族の名前も変化していきます。

琉球地図

元々、琉球士族には氏というものがなく、
名前は童名(わらびなー)だけでした。
これでも、国内だけなら通じるのですが、
国外になると、不便になります。

なぜなら、大和でも中国でも、名前は、
姓と字と名で構成されているのが普通で、
名前だけの琉球名では通りが悪かったのです。

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■大昔は名前だけで通していた琉球人



15~16世紀に中国に渡った琉球人の名前を見ると
普須古(ふすく)や泰刺(たいら)、達魯加尼(たるがに)、
呉詩(ぐし)、阿加尼施(あかにし)という琉球名が見えます。

これは、発音を漢字に当てはめた当て字で、
それゆえに暴走族の夜露死苦のような
雰囲気になっているのです。

達魯加尼は、太郎金という童名で、それ以外は、
自身の産まれた村の名前です。
本当は、村の名前の後に童名が続いた筈ですが、
それは、カットされてしまったのでしょう。

村の名前が姓の代わりというのは、何も琉球だけでなく
イタリア、ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ヴィンチだって
ヴィンチ村のレオナルドという意味で、姓に当たるものが
村の名前になっているのです。


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しかし、これは中国人の姓・名・字の原則とは大きく違い
公務に支障をきたしたので、16世紀の後半に入ると
久米村人の影響を受けて、琉球人の士族は、
唐名(からなー)を持つようになります。

また、1609年以後は、薩摩の侵略を受けて、
徳川幕府とも付き合いが出来たので、大和向けの名前も
持つようになり、琉球士族は一人で名前を3つ持ちます。



沖縄の歴史

■琉球の有名人の唐名を紹介



では、琉球史上に名前を残す、偉人達の
童名 唐名 大和名を少し紹介しましょう。


儀間真常・・・・大和名 真常(しんじょう) 唐名 麻平衡 童名 真市(まいち)

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具志頭文若・・大和名 文若(ぶんじゃく) 唐名 蔡温  童名 蒲戸(かまと)

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羽地朝秀・・・大和名 朝秀(ちょうしゅう) 唐名 向象賢 童名 思亀(うみがみ)
 

名護寵文・・・大和名 寵文(ちょうぶん) 唐名 程順則 童名  思武太(うみんた)

玉城朝薫・・・大和名 朝薫(ちょうくん) 唐名  向受祐 童名 思五郎(うみぐるー)

宜湾朝保・・・大和名 朝保(ちょうほ) 唐名 向有恆 童名 ?



以上のように、士族は、童名 大和名 唐名の3つを持っている事が分かります。
ただし、羽地朝秀は、生前は重家(しげいえ)という大和名で、唐名も呉象賢でした。
死後、変更されたので注意が必要です。


■要するにジャッキー・チェンみたいなもの



名前を幾つも持つ事を現代人は、屈辱的な事ととらえるかも知れませんが、
今だって、香港や中国、台湾のスターは、西洋向けの名前を使います。
ジャッキー・チェンは成龍(セイロン)が本名ですし、ジェット・リーの本名は、
李連杰です。
どうして、そうするかと言えば、西洋人向けには覚えてもらいやすいから
それに尽きるのではないでしょうか?

童名には命名ルールがある



沖縄の未来ステッカー