琉球における自鋳貨幣の歴史は、
15世紀の後半の大世通宝や世高通宝に
遡っていきますが、これらはあくまで
海外との貿易の為の銭であり、
国内で流通する性格はありませんでした。
琉球で一般に流通した最初は鳩目銭という
通貨でしたが、質が粗悪でした。

鳩目銭


■1656年、薩摩の帰化人 当間重陳が鳩目銭を造る



鳩目銭は、伊地知(当間)重陳という薩摩の帰化人が、
王府の許しを受けて、薩摩で使われずに倉に眠っていた
加治木銭を無料で譲り受けてて、美里間切の池原で
鋳造したのが最初です。
当時は、経済の成長に貨幣の量が追い付かず、
その窮余の策としての暫定的な方法であり、そのせいか
非常に質が悪く、鳩目銭50枚が一文というレベルで、
1662年には、京銭(寛永通宝等)を輸入して
共用していましたが次第に
京銭に駆逐されていきます。

■鳩目銭が廃棄されなかった理由は・・



鳩目銭は、一枚では買えるモノがなく、
数十枚を紐で通して使っていました。
元々が廃棄された銭なので使用される間に
どんどん質が落ちていきましたが

20年に一度くらいの頻度で、
冊封使が琉球に来る時だけ
大和の寛永通宝が流通している事実を
中国人から隠す為に
市中の京銭を回収し
老朽化した鳩目銭を流通させました。


鳩目銭の存在意義は、最期にはそれであり、

その理由で廃棄される事なく倉に仕舞いこまれたのです。

■イシハラマサミツの感想



最初から間に合わせだった鳩目銭ですが、
現在でも、その姿を見る事が出来ます。
それは黄色いウチカビに、刻印されたあの模様で
あれこそが鳩目銭なのです。
と言う事はあの世のお金は鳩目銭なのでしょうか?
もしそうなら、相当な量を燃やさないと
とても足りないでしょうね。



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