琉球は大きな河川がない土地ですが、
土地の起伏が激しいので
長雨が続くと川は激流となり、
木橋は簡単に流されてしまいました。
そんなこんなで、王府は次第に矼(いしばし)を
建設するようになります。
では、石橋はどのような手続きで
架けられていたのでしょうか?

長崎県諫早眼鏡橋
長崎県諫早眼鏡Wikipedia



工事の監督者


矼を架ける具体的な手順については、
間切公事帳に記載があります。
以下では、その文章を紹介します。


各地で矼を建設する際には、
諸雑役帳と遣夫帳を造って出納を行い
その都度、各地の掟へ通を渡しておき、
工事が竣工し その総額が諸間切に賦課され次第、
通いを元に各村負担の過不足を 差引して、
その差額を現金で取り渡しする事。



通(かよい)とは、今でいう領収書です。
矼を架ける時には、該当する間切、大きな石橋なら
周辺の間切にも 賦役を掛けて最初に通を渡して、
その負担額を示しておいて 工事が始まって総額が確定すると、
負担が重くなった村には金銭を与えて補い
負担が軽く済んだ村からは、金銭を取って
公平を期していたのです。
琉球国時代は地方の公共事業は、
地方の負担であった事も分かります。


工事の監督者


では、工事の監督者は誰が担当したのでしょうか?
間切公事帳には、以下のように決められています。
矼普請の時には、夫地頭と大さばくりの中から一名
掟から一名、文子から一名が人夫をしたけ(先導の意味)
普請場に出向き下知(指図)する事。

このように矼工事には、村長クラスの夫地頭と
区長クラスの掟、書記官の文子(てぐく)の3名が参加して
人夫を指示していたことが分かります。

イシハラマサミツのズバッ!




石原

昔は橋が落ちると、その修復はやはり農民の負担でした。
それだけに木橋だと数年置きに落ちてしまい、
農民の負担が大きくなる傾向がありました。
矼は、架けるのに時間が掛かりますが、なかなか落ちないので
農民にとっては歓迎すべきものだったようです。

また経費帳と人夫帳を細かくつけて、
負担が公平になるように苦心している様子も分かります。






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