松尾龍之介の「長崎日和」

「うたがひあやしむべきは変にあらずして常のことなり」三浦梅園

わが友・裾分(すそわけ)照のこと(プチ自伝)

彼は天性の詩人だった。彼と出会ったのは私が二十歳の頃で、彼は二部の学生だった。昼間は毎日新聞社でカメラマンとしてアルバイトをしていた。大牟田の生まれで、従って少年時代を戦後史に残る「三池闘争」の真っ只中で過ごした。東京から来た様々な知識人に刺激された。

詩を書くのが非常にうまかった。私はイラストを描き彼は詩を書き、そこに一つのハーモニーが生まれた。じゃァ、二人展をやろうかと言って、長崎の画廊で詩画展を開いた。長崎新聞社が文化欄で取り上げてくれた。そのうちフッと彼の消息が消えた。

噂によれば上京したという。数年後その彼と新宿の大ガードの下でバッタリと出会うことになる。互いの奇遇に驚いたものの、彼はしがない勤め人になっていた。その後つき合いはなかった。もはや飛び散る火花などなかった。遥かのちになって、二十六歳で自殺したと耳にした。

それは再会して数年後のことである。彼はきっと仮面をかぶって都会を生きていたのだろう。そんなもの剥ぎ取って生きれば良かったのに…。部屋には酒の瓶が山ほど積まれていたという。仕事の途中、現場の五階から身を投げたらしい。『出船』という唄を好んで歌っていた。

砲弾も海面を撥ねる

あれは石切りというのだろうか。河原で石を拾って水面に向かってほうると、石が水面を撥ねて、ピョンピョンと繰り返しジャンプしながら最後は川の中に沈んでゆく。それが面白くて、仲間と数を競ったり、たとえ独りでも繰り返し、飽きもせずに遊んだ記憶がある。

私の経験によれば、丸い石よりも平べったい石の方が、心地よく弾んだような憶えがあるのだが、しかしそうではなく、花火の玉のように丸いものでも水面を撥ねるということを本の中から学んだ。それは『朝鮮・琉球航海記』で、1816年に書かれたものである。

その年イギリスは中国に使節を送った。それを契機に朝鮮と琉球を軍艦で調査した時の記録である。一読して分かるのは朝鮮の閉鎖的な国民性である。それに比べて閉鎖的(鎖国)ながら、琉球人が見せてくれた明るい対応が描かれている。国民性の違いは一読了解。

朝鮮の西海岸を南下するある港で、どうしても大砲の試射が見たいという人々のために、約八キロの砲弾をこめて発射して見せた。「砲口を下げて撃ったので、弾はすぐ近くの海面にあたって八、九回バウンドして海に消えた」と書かれていた。石切りと同じである。

渡来人と帰化人

帰化植物と外来植物は似ているようでいて異なる。帰化植物は日本に根付いていなければならない。独力で種をつくり繁殖している植物を指す。例えばハルジオンのように。外来種は人の手を借りなければ生きていくことができない。例えばチューリップ。

同様に、帰化人と渡来人では似ているようでじつは異なる。帰化人は日本人の中に溶け込んで日本人になりきって生きていくが、渡来人はそうではない。日本人になったといえない。帰化植物は帰化人に近く、外来種は渡来人に近い。

四世紀、朝鮮半島では高句麗が勢力を伸ばし新羅と手を結び、百済を滅ぼしにかかった。この時、多くの人々が戦乱や飢餓を避けて日本を頼って逃れてきた。そういう彼らを大和朝廷は受け入れた。その後、彼らは日本に根づいたので帰化人と呼んでいい。

しかし日本の教科書では「渡来人」としている。「帰化人」には、外国の者が他の国の君主を慕って臣下になるという意味がある。帰化人たちの中には捕虜や強制連行もあったので、「帰化」はふさわしくないという外国からの意見に遠慮をしているのである。


あるリーフデ号の乗組員

1600 年、オランダ船「リーフデ号」が大分に漂着。それはどんな年表にも記されている。その乗組員として最も有名な人物がアダム・スミスとヤン・ヨーステンである。だから二人については書かない。かわりにサント・フォールトについて書く。

当時、日本と交易があったのはマカオから長崎に来るポルトガル船だけで、オランダ人は日本から去ろうとしても船がない。1608年、オランダ商館がマレー半島付け根のパタニ建てられたので、サント・フォールトはリーフデ号船長と一緒に平戸藩の船で出帆した。

ところが彼は再び日本に引き返し貿易商となった。翌年、二隻のオランダ船が平戸に入港。二人のオランダ代表者が家康と対面する際、通訳を務めている。彼は人柄が良かったのか1624年の平戸商館日記に「サント・フォールトは長崎にすっかり溶け込んでいる」とある。

1636年、ポルトガル人の大追放があり、鎖国が完成した1639年には、長崎の外国人は彼と家族だけの11人だけになった。大分に漂着してほぼ40年を日本で過ごした彼も、同年ジャカルタに去り、まもなく彼の地で亡くなった。70歳を過ぎていたという。




平川祐弘氏のこと

祐弘平川平川祐弘氏

平成30年の春、平川祐弘氏にまみえることができた。平川氏は『和魂洋才の系譜』や『西欧の衝撃と日本』などを読みすっかり魅了され、私にとっては興味ある人物の一人だった。上京した折、誘われて氏の講演に参加することができた。

演壇の一番近くに席がとれた。思ったより小柄な人であった。私の後ろには氏の育てた弟子にあたると思われる人々が駆けつけ、小声で当世をさまざまに語っていた。演題は『明治維新はアジアの人たちに何を意味したか』であった。

会が終わって二次会にも顔を出した。立席パーティで同じテーブルにいたが、何しろ平川氏は著名なので次から次へと挨拶をする人々がやってきて、話ができたのはほんのわずかだった。でもそれで十分だった。謦咳に接することができたのだから。

「自分は『和魂洋才の系譜』以来、ずっと同じことを繰り返し言っている」という言葉が印象に残った。傍から見れば多彩な執筆活動をされているように見えるのに、当人はそう言うのである。「書き手というのはそんなものかもしれない…」と思った。



辛し色の記憶4(プチ自伝)

瞑想

自由業の道を選んだ以上は、先ず健康でなければならないことは百も承知していた。自由業には締め切りがある。「寝込みました」では済まされれない。それをやったら、一巻の終わりである。散歩だけではダメだなと思っていたところにヨガに出会った。

今だからこそヨーガが通用するが、当時は誰も知らなかった。「ヨーギー」はインド大魔術師いくらいに思われていた。最初は本で出合って、次に新聞か何かを通して高田馬場の駅の近くで講習が行われていたのを知り、思い切って出かけてみた。

それが良かった。佐保田鶴二という阪大の名誉教授率いる流派だった。費用はわずか五百円。すっかりハマってしまった。それから幾年か通っているうちに、池袋のもっと広い会場に引っ越した。世の中がようやくヨーガに気がつきはじめたのである。

ある日、瞑想中にすかしたオナラが匂ってきた。人々は皆気が付いたはずなのに無口である。自分はたまらず立ち上がって場所を移した。そしたら次回から周囲の目線が違ってきた。私をオナラの犯人だと言わんばかり…。以来、道場通いはやめた。


チェッペリン伯号船長の”じゃがいも”

チェッペリン霞ヶ浦に現れたチェッペリン伯号

長崎では靴下に穴が開いた場合「じゃがいも!」と言って指さす。それはまったく「じゃがいも」そのものである。肌色がこんなにジャガイモにそっくりとは、言われて初めて気がついた次第。誰が言い出したのか本当に感心する。

ところで昭和四年八月、飛行船チェッペリン伯号が世界周航に旅立ち日本にも姿をあらわした。昭和四年といえば日本は不況の真っただ中であった。「天にチェッペリン、地に失業者」という標語が生まれたという。だからだろうか、なおのことフィーバーした。

北から東京に入り、横浜上空をめぐったあと、午後六時に霞ヶ浦に到着した。乗客はその足で東京に出て帝国ホテルに宿泊したが、船長エッケナーは霞ヶ浦に宿泊したのち、東京へ出た。歓迎会ののちふたたび霞ヶ浦に戻り土浦の料亭霞月に案内された。

芸者の居並ぶ座敷に通されることとなったが、エッケナーは「どうぞ、おあがり下さい」と誘われても頑なに拒み、あがろうとしなかった。「ドイツにはその習慣にはないから…」が理由であったが、じつは右足に大きな”じゃがいも”があったのだ。

ロアルド・ダールが乗った機体


グロースター
グロースター グラディエイター

ホーカーハリケーンホーカーハリケーン
作家ロアルド・ダールは高校を卒業するとすぐにシェル石油に就職した。勤め先はアフリカのタンザニアだった。1939年、9月、イギリスはドイツに宣戦布告した。ダールは空軍を志願した。六ヶ月はタイガー・モス(複葉機)に乗って訓練を行った。

訓練が終わると、戦闘機パイロットを選んだ。乗った機体はグロースター・グラディエイター。ドイツはすでにメッサーシュミットを登場させていた。ダールはこの複葉機で不時着を経験。もう少しで死ぬところだった。後遺症として頭痛が残った。

その後、ホーカーハリケーンに乗ってドイツ軍と戦った。仲間は二十人いたが、うち十七名が戦死している。軍は頭痛で悩むパイロットよりも機体を惜しんで彼を傷病兵としてイギリスに返した。そのクラブで空軍次官と会い、武官としてアメリカに渡る。

アメリカはまだ戦争を知らなかった。ヨーロッパでパイロットだったダールは空中戦の経験談を求められた。取材に来たのはC・S・フォレスターという有名な海洋小説家だった。話すよりも書きましょうと申し込んで送った原稿が、出世作となった。

馬鹿で阿呆

私のことではない。牛肉をニンニクと一緒に炒めると「馬鹿で阿呆」が出来上がる。「バカ・デ・アホ」はスペイン語で”vaca de ajo”となる。”vaca”は「牛」、”ajo”が「ニンニク」なのだそうだ。vはスペイン語ではbと同じ発音なので「バカ」で良い。

スペイン語でバカは牝牛(めうし)のことになる。それは食用牛である。牡牛(おうし)のことは””toro”という。トロといえば、マグロのトロのせいかおいしそうに聞こえるがバカの方がおいしい。たしか豊臣秀吉も牝牛をワカと呼んで食べたはずである。

ところで”vaca”から生まれた”vacuna”という言葉は英語の”vaccine”に相当し、ワクチンのこと。ジェンナーは牛痘(ぎゅうとう)の膿が天然痘予防に効果があることを発見した。種痘をすること、つまり動詞はスペイン語で”vacunar”、英語で”vaccinate”となる。

ワクチンという言葉が「牛」から派生したのは、英語圏やラテン語系の人々にはいとも簡単に気がつく。しかし日本人には難しい。カタカナになるとたちまちその語源から遠ざかってしまう。そんなカタカナ語にあふれている現代はうそ寒い。








バンコって知ってます?

バンコバンコ

「サガン鳥栖」と言えばサッカーチームの名前であるが、その他のチーム名がそうであるように、「サガン」をスペイン語だと勘違いしている方もいるのではあるまいか。余計な心配かもしれないが、これは「佐賀の鳥栖」という意味の九州弁である。

初期の長崎では貿易にポルトガル語やスペイン語がつかわれたので、その残滓が今でも顔を出す。その一つが「バンコ」である。バンコは椅子のことであり、昔は台の上で現金の受け渡しが行われたので転じて銀行を意味する。英語のBankに当たる。

でも長崎人がバンコというときには椅子の意味に限る。私は子供の頃、父からよく「バンコを持っておいで」と言われたものである。父はバンコに乗って柱時計のネジを巻いたり、時間を合わせたりした。三本足のバンコもあれば、四本のものもある。

ある時、佐賀の町中を歩いていたら長いすがやたらと目についた。そしてそこには「佐賀んバンコ」と書かれてあった。つまり、疲れた方は休んでくださいという意味で、長いすが置かれていたのである。これもまた「佐賀の椅子」という意味だ。

記事検索
プロフィール
自画像 (1)

こんにちは、松尾龍之介です。
著書












QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ