松尾龍之介の「長崎日和」

「うたがひあやしむべきは変にあらずして常のことなり」三浦梅園

「幕府」とカーテン

幕府という言葉を英語にしなさい、といわれたらあなたは何と答えますか?和英辞典によれば「徳川幕府」は”Tokugawa  shogunate"が出てくる。もし「将軍」を使わないとすれば、幕府は何と表現することができるのだろうか。ここに一つの例がある。

それが"Curtain  government"。なんと直截な表現だろう。この翻訳者は長崎の近世史に詳しかったC・Rボクサーという人物である。幕府とは、幕の内側の府(中心)で、鎌倉時代に将軍の居場所に横幕を張ったことに由来する。だから”Curtain  wall”とも訳される。

確かに時代劇で、紋所の描かれた幕の内側で床几に座った大将が大きな地図を前に、采配を振るう場面があったのを覚えている。あれが「幕府」ということになる。先日、高島秋帆の徳丸ヶ原での砲術訓練を描いた絵を目にしたが、やはり横幕が晴れがましく描かれてあった。

考えてみればあんな幕など何の役にも立たない。なるほど本部がそこにあることは分かるが、鉄砲玉や砲弾が飛び交う戦場に巻き込まれたら無意味である。外国人の目から見ると噴飯ものではなかろうか。つまり日本人にしか通用しない「文化」ということになる。


【参考】シーボルトの『日本交通貿易史』の中には、「陣幕は火器が現れる前には効用があったが、今や戦闘の警号・記号にすぎない」と書かれてある。

翼を持つ同胞たち(コウモリ)

コウモリ
一度捕まえて、噛みつかれたことがある。
長崎では有名なカステラ屋さんが登録商標に使用している。
中国では大切にされている。スペインの小話でもコウモリが大切にされていた。きっと蚊など小さな昆虫を食べてくれるからだろう。

戦後・食糧難時代の盲点

年寄りの話というものは、こころして傾聴すべきものである。私は先日、次のようなことを耳にした。ご存知のように、昭和十年代というものは日本は戦争、戦争であけ暮れた。言い換えると働き盛りの男性が軍に徴用されそれぞれの職場から姿を消していった。

漁業にたずさわる者も例外ではなかった。船に乗って漁をする者がいなくなったのである。するとどうなったか。海の中の魚は増え続けた。昭和20年、戦争が終わって海に出た漁師たちは、豊漁につぐ豊漁で笑いが止まらなかったという。長崎県なら鰯である。

こうして漁村や島々に、にわか長者が生まれたというのである。戦後の昭和二十一年、二年といえば、国民の誰もが食べるものが不足して、闇米などでかろうじて飢えをしのいでいた。そんな中にあって、彼らには濡れ手に粟というほど現金が集まった。

そんな所に仕事で出かけたある人は、「自分は百円札が一尺ほど束になっていたのを、二束、もらった…」と口にした。一尺とはざっと三十センチである。それがどれ程の貨幣価値になるのか見当もつかないが、この話は決してデッチあげではない。経験談である。




足元の同胞たち(オシロイバナ)

白粉花
一般にオシロイバナは、その種子の白い粉から「白粉花」と命名されたとされている。しかし私には、そうは思えない。名前は種子よりも、やはり花そのものから来ているのではないか。

すなわち夕方の、咲き始める時の馥郁(ふくいく)たる香りが、お化粧するときの匂いに似ているので、そう呼ばれたのではないだろうか。


デカルト曰く「日本人は数学に秀でる」

デカルトルネ・デカルト

フランソア・カロンは今のベルギーのプロテスタントの家に生まれた。一家はカトリックの勢力から逃れるようにオランダへ移住し、少年時代から苦労を重ねた。十九歳で炊事見習いとして平戸に来た。日本語の習得が早く通訳として活躍、三十九歳で平戸のオランダ商館長になる。

1641年、島原一揆を経てオランダ貿易にも断絶の危機が迫ったとき、幕府の命令に従い真新しい商館を破壊することで危機を乗り越えた。幕府の鎖国政策で多くの外国人混血児が日本から追放されたとき、カロンも日本人妻を持っていたのでバタビアを経て本国へ戻る。

彼の著書『日本大王国誌』では、小冊さながら当時の日本を要領よくヨーロッパに紹介した。日本でのキリシタンの過酷な弾圧や、西洋人には理解できない「切腹」もその中に登場する。各国語に翻訳されたということは、需要があったといえるだろう。

二人の間に生まれた一男児は、オランダのライデン大学に進み、そこで秀才として高く評価された。「われ思う。ゆえにわれあり」を残した哲学者また数学者ルネ・デカルトをして「日本人は数学に秀でている」と言わしめたという。


辛子色の記憶6(プチ自伝)

taxi

「面白半分」が、荻窪駅の南口のマンションの二階に引っ越しをしたとき、社長の佐藤さんが看板を出したいと口にした。だったら知り合いに看板屋がいますと斡旋を引き受けた。その当時の看板は今と違ってすべて手描きであった。だから彼らは「描き屋」と呼ばれていた。

当時、美大を出て画家を志すような人々の中にはこの「描き屋」をやっている人が大勢いた。さて、その看板が完成して、いざ荻窪まで運ぼうとしたのだがトラックの都合がつかない。仕方なくタクシーで運ぼうと考えた。看板は後部のトランクに積む予定だった。

クルマの多い環状七号線でやっとタクシーを捕まえ、ドアーを開けてもらい自分のサイフを座席に置いて、歩道に置いてあった看板を後部に積もうとしたら、その恰好から察したドライバーは、「そんなもの積みたかねェ…」と口にしてバタンとドアを閉じて発車した。

私は大声で「財布が、財布が…」と叫んだが、後の祭り。タクシーはあれよあれよという間に激しいクルマの流れに紛れ込んでしまった。ナンバーも会社名もあったものではない。そのあと自分がどうやって看板を運んだのか記憶がない。きっと忘れてしまいたかったからだろう。

およげげたいやきくん(プチ自伝)

たい焼き

東京から流れて来た似顔絵描きの
田島ちゃんとは学生時代からの馴染みだった。上京してからも、ときどき会っていた。その彼がいつの間にかフジテレビの仕事に関係し、忙しくなり、あるとき仕事を手伝ってくれと電話が来た。もちろん、二つ返事で引き受けた。

「ひらけ!ポンキッキ」という子供向け番組の仕事で、当時はまだアニメーションの時代ではなかったので、その代わりに何としてでも動く映像をつくるより他なかった。たとえば厚紙に絵を描き、ピアノ線で他の場所から操作できるような工夫をした。

そんな仕事を重ねているうちに、あの「およげたいやきくん」が大ヒットしたのである。「たいやきくん」が胸鰭を動かし泳ぐところは厚紙の裏からの指で回して動かした。海の中の光景をドラムに描き、回転させることで背景にしたり、それなりに工夫をこらした。

「たいやきくん」のキャラクターは田島ちゃんの代表作だろう。その後もフジテレビ関係のキャラクターなどを描いていた。ある日、彼の仕事部屋の壁に巨大なカジキマグロが現れた。聞けば休暇中にメキシコ湾でヨットから釣り上げ、それを剥製にしたものだった。


採れたて俳句


山開き

方言にもどる神官山開き

祝詞をあげ終わったとたんに方言が飛び出した。聖から俗への転換。
麦飯は胃の腑にやさし隠元忌

近ごろはコンビニのおにぎりにも麦めしがある。賀すべきことと思う。

片陰の凹凸に添ひ歩きけり
猛暑の道では影が有難い。その影を頼ってこちらも歩を合わす。

田川水泡氏のこと(プチ自伝)

田川水泡田川水泡(左)と小林秀雄(右)は義理の兄弟

「高見沢」は「たかみざわ」で、さらに「たかみずあわ」とも読める。こうして高見沢という姓から「田川水泡」というペンネームが生まれた。いうまでもなく「のらくろ」シリーズで有名になった漫画家である。のらくろは戦時中の読者の要望で次第に出世していった。

田川水泡は、戦前は知らぬ人はいないほどの漫画家だった。しかし戦後は違う。活躍の場所にも恵まれなかった。やっと戦時色好みの『丸』という雑誌に「のらくろ」が再開されたが、人気が出なかったのかまもなく消えた。その田川水泡に漫画展の会場で出会ったことがある。

漫画展というのは、漫画家たちがお金を出し合って会場を借り、自作を発表する場所である。彼は私が見上げるほど背が高かった。挨拶するとニコニコしながら背筋をピンと伸ばすのであった。「田川水泡の挨拶は、頭を後にそらす」という噂はこれだったのだ。

戦後ならばグッズの特許料だけでも巨額の収入になっていたに違いないが、戦前はそんなものはなかった。私のごとき無名の漫画家が集まって催す漫画展に平等な立場で参加するなんて、どんな気持ちだったのだろうかと、今になって振り返ることがある。



サフランモドキ(足元の同胞たち)

タマスダレタマスダレ
サフランモドキサフランモドキ

上段がタマスダレ。下段がサフランモドキ。両者ともに同じ科に属する。めしべの先が三つに分かれ、おしべは六本であるのは共通。
夏の終わりから初秋にかけて咲く。モドキがついているのは気の毒なほどに美しいピンク色。タマスダレの葉は肉厚だが、サフランモドキのそれは平坦。


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こんにちは、松尾龍之介です。
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