松尾龍之介の「長崎日和」

「うたがひあやしむべきは変にあらずして常のことなり」三浦梅園

町からアリンコが消えた‼

脚下照顧というけれども、自分の足元のことは普段は見逃しがちである。この秋、アリの姿が消えてしまっている事実に気がついた。

夕方の散歩の折りに、たまたま「アリはアリは…」と唱えながら歩いたのであるが、とうとう一匹たりとも目にすることができなかった。

よく見れば、道という道がアスファルトかセメントで塗りつぶされているである。これではアリだって生きていけないと思い当たった。

2024年は、ツバメが減りズズメが激減したというニュースが流れた。それと考え合わせればこのアリの激減も決して不思議ではない。








採れたて俳句

歯切れ良き棟梁の声秋高し
改築中の家の側を歩いたときにの感想
蓑虫の長き糸引く楽天家
最近は糸を引いて吹かれる蓑虫は少なくなった
笙の笛耳に秋めく奥の院
幼稚園は神社だったので笙の笛はなつかしい

宦官になるには…

「宦官」は教科書にも出てくるので説明はしない。もとは騎馬民族が行った去勢に発するものという。私はまな板上に載せてちょん切るのかと想像していた。

実際はそうではなく、仰向けになって陰嚢と男根を天井から吊るした紐で引っ張ったのち、肛門の方から臍の方に向かってスパっと切るのだという。

なにせ男の急所なので、潜血がほとばしり当人は気を失ってしまう。気絶している間に尿道に栓をする。その作業がとても大切だったらしい。

四・五日たって尿道の栓を外したときに、少しでも小便が出れば手術は成功で、もしそれが出ない場合は死を待つしかなかった。


晩年の清水次郎長

次郎長

清水次郎長と言えば江戸時代の人と思われがちであるが、幕末から明治の半ばまでにかけての人物である。もはや組同志のチャンバラなどなかった。

晩年の次郎長は何枚も着物を重ねて、袖の中には色んなものを忍ばせたのち家を出た。その姿はまるで布袋様そっくりであった。

そして通りすがりの子供に会うと、懐から御菓子や果物を出して与え、またみすぼらしい衣服の人物に会えば、その場で脱いで授けたという。

だから家にもどった時には、裸同然のスッテンテンであった。
女房のおちょうさんは、そんな彼をやさしく迎え入れたと、これは目撃談


ツルボの花

turubo
今年の夏はひときわ暑かった。天気予報でも「夜はエアコンをつけたまま寝てください」と注意を喚起するほどの暑さだった。

そんなとき常の散歩道にツルボが顔を出した。秋の花である。正直うれしかった。ユリ科の花である。丈はないが、薄紫の花が涼を呼ぶ。

ツルボに気がついて五日後に急に冷気がやってきて、日本全国に一気に秋が訪れた。植物は正直だとしみじみ思った。

その後のルイス塩塚

ルイス塩塚の絵画と音楽にささげたる時間は長くは続かなかった。1614年のバテレン追放令によりマカオに追放される。一挙に60名もの修道士を迎えたマカオのコレジョでは除名をはじめた。

塩塚も除名され、フィリピンはマニラのフランシスコ会に入会、のち司祭に叙階された。日本では激しいキリシタンの迫害がはじまり、フランシスコ会は幕府に配慮して宣教師の日本渡航を禁じた。

そこで塩塚神父は今度はドミニク会士となり、1636年、日本渡航を試みたが台風で遭難し、トカラ列島に漂着、翌年見つかって長崎に連行され、水責めののち1637年、西坂で処刑された。

ルイス塩塚の帰国に塩塚一族は驚いたに違いない。ひと月後「島原の乱」が起き、三十一歳の
「塩塚市左衛門」は「嶋谷市左衛門」と改名、船で島原を目指し、大砲を用いて原城を陥落させた。


本邦初の指揮者・ルイス塩塚

ルイス塩塚は1577年に長崎で生れ、十歳のときセミナリヨに入学した。ラテン語は得意とはいえず途中で脱落した。ところが芸術的方面において抜きんでた才能を見せた。

ルイスが十五歳のとき、ジョワンニ・ニコラオというイタリア人修道士が来日し、彼の下で西洋画の描き方を学び、当時需要の大きかった宗教画を数多く手掛けた。

1600年、司教セルケイラが長崎を仮司教座としたので、教会での儀式が盛んとなった。そのときルイス塩塚は、オルガンを弾き、日本人として初めて指揮をした。

こうして音楽史上に不朽の名を残したルイス塩塚は、小笠原諸島を探検した嶋屋市左衛門の一族に当たる。何故なら市左衛門は島原の乱までは「塩塚」を名乗っていたのだから。



『猫と海賊』について(2)

7 島原の乱では「塩塚」という名前を名乗らされたとあるが、実際にそれまでは『塩塚』だった。
8 乱ののち報奨金であった銀三十枚を受けとらなかったとあるが、受け取っている。
9 唐船の名前「北風号」は、実際には無かった。一般に流布してる『富国寿丸』も誤り。
10 跡継ぎの長男が小笠原諸島探検航海に参加しているというのは誤り。
11 訓練航海の際に台湾や福建にまで足を伸ばしたという個所は嘘。
12 延宝三年の船頭は二代目が務めたとあるのは誤りで、市左衛門自身が務めた。同乗したのは次男の太郎衛門である。
13 長崎に戻った市左衛門は地図をオランダ人に見せたとあるが、史実ではない。

以上『猫と海賊』の誤りを書き並べてみたが、この本は、島屋市左衛門を小笠原諸島諸島を探検した英雄として描いた素晴らしい児童書であることに違いはない。

『猫と海賊』について(1)

なだ・いなだ著『猫と海賊』は初版からすでに30年。今でも版を重ねている名著である。しかしその後、嶋谷の研究はさらに進んだ。そんな観点から『猫と海賊』を見直してみると次のような誤りがあることに気がついた。

1 「.市左衛門をサムライではなかった」とあるが市左衛門は島原の乱の際、有馬玄蕃守の陣地で石火矢(大砲)を放っている。 
2 主人公の猫に「ヒラウト」という名前をつけてあるが、これは「ピロウト(水先案人)」が正しい。
3 市左衛門をのルーツを松浦海賊とする説は、もはや古い。
4 三代目末次平蔵茂房が病気がちで早くして亡くなったとあるが、実際の平蔵茂房は落馬事故で足を骨折し、弟の茂朝に四代目を譲っている。
5 唐船に「からふね」というルビは誤り。「とうせん」が正しい。

6 幕府の建造許可が下りた唐船は海賊仲間が海外に逃れるためとするのはフィクション。
(2)に続く



                                        






延宝三年、小笠原で採れた海老

延宝三年、小笠原島の探検航海に成功した島谷市左衛門の末裔は町乙名を勤めた。そのひとり佐嘉右衛門は天保の頃まで、市左衛門が持ち帰った品々を所持していた。

それを目にしたことのある幡崎鼎子によれば、ヤシの木や色んなめずらしい産物に混じって、長さ六尺の伊勢エビがあったという。六尺といえばニメートルだ。

果たしてそんな巨大な海老がいる可能性があるのかどうか、私は元水産学部の教授に尋ねたことがる。すると「連中は限りなく成長することがある」という答えが返ってきた。

「島屋市左衛門覚書」には「海老」とあるだけで大きさは書かれていない。しかし『携帯諸品目』には「長さおよそ三尺の海蝦(いせえび)」とある。確かに持ち帰っている。
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