ふちのべ三番館

主に映画やドラマについて、そしてたまに読書についてほざきます スイマセン

牛泥棒

◇誰がラリー・キンケイドを殺したのか
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 牛泥棒というタイトルだけでは、どんなジャンルなのかピンときません
ハート泥棒とか、泥棒貴族など、タイトルで泥棒と付くとちょっとコメディ寄りの印象もありますし(『自転車泥棒』というリアリズム映画もありましたが)

ただ、ヘンリー・フォンダ主演で、集団リンチ事件がテーマと聞いてずっと興味があったのでした
原題はTHE OX-BOW INCIDENT、「オックスボウの事件」で、バリバリの社会派なタイトルです


映画はヘンリー・フォンダと友人の2人が殺風景な町にやってくるところから始まります
だいたいの西部劇は、馬に乗った主人公が町にやってくるので別段めずらしくもありませんが

ところが映画が始まって、捜索隊が牛泥棒を追っていくまでの30分がどうにもストーリーに入り込めずに困りました
そして、後半を見終わってから改めて最初から見直してようやく人物の相関関係がわかってからストーリーの流れが解りました

映画は、こちらになにも情報がない状態から始まるので、だいたい冒頭や最初の方では人物の紹介や背景の説明に使われますが「牛泥棒」の場合、こちらが知ってる顔はヘンリー・フォンダくらいです

そしてまだ、登場人物たちの名前すら把握していない状態で、さらに画面には現れない元恋人や、友人の名前が出てくるのです
そのあと、牛泥棒が東に逃げてるらしいという情報を元に捜索隊が組織されるのですが、この中にも
「リンチはいけない。ちゃんと裁判をすべきだ!」
という理性派もいたりするのです

このあたりの人間関係はもちろん、映画の最初からしっかり描写されているのですが、さきほどの説明のように人物の名前と顔が一致しないまま後半まで見ていたので、もやもやしたのでした

ヘンリー・フォンダがこの町にやってきたのは、恋人に会うためだったのですが、その恋人はすでに結婚して町を出て行ってしまったことを聞かされます
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ショックを受けたヘンリーフォンダは、そのとき同じ酒場にいた地元民の男と勢いでケンカしたりしますが、酒場、女、ケンカといえば西部劇のお約束みたいなものです
そこに、キンケイドが殺されたというニュースが飛び込んできて、町中の男たちが結集します

その前から周囲では牛泥棒による被害が散見され、キンケイド殺しもその牛泥棒らしいということで「吊るしあげろ!」という勢力が集まったのです

酒場でヘンリーフォンダとケンカした男は、キンケイドの友人であり頭に血が昇ってます
棺桶屋の主人は、「集団リンチはいけない。ちゃんと法で裁くべきだ」と主張しますが
「裁判になったら6ヶ月もかけたうえ、捜査不十分で無罪になっちまう。そんなことが許されるか!」という理屈で殺人犯を捕まえようとしています

周囲の男たちも、それにあおられて(そして「不正を許すな!」という西部の正義感、心意気もあるのでしょう)牛泥棒を捕まえるために結集します

彼らの「許すな!」は「吊るせ!」ということです

しかし
西部劇だからといって、ちゃんと法律もあり裁判もあり、判事や保安官もいます

とにもかくにも判事を呼んでくることになりますが、保安官はキンケイド事件の捜査に出かけていて町には2~3日戻りません
副保安官が同行しますが、だからといって勝手に断罪することは許されません

そこに少佐が加わります
少佐は、牛泥棒を裁くのは必ず多数決で決める、と約束して捜索隊を率います

恋人に振られたムシャクシャで、ヘンリーフォンダもこの捜索隊に加わります
この時点では「人殺しなら報復を受けてもしかたがない」という立場です
 
深夜3時頃に、山の中で野営している3人組を見つけて有無を言わせず捕獲します

いきなり寝込みを襲われて縛られて処刑されるというのですからたまったものではありません
そしてこの3人は、結局、吊るされてしまいます
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*若き日のアンソニー・クイン。ちょっと裏のあるメキシコ人役で、余計に疑念を深めてしまう

いくら無実だといっても通用しません
連れている牛はキンケイド氏から買ったものだといっても、どこそこの町の者だと訴えても、彼らは調べもせずにウソ臭いというだけで断罪します

『12人の怒れる男』では、少年が犯人である殺人事件の裁判でさっさと有罪で終わらせようとする流れの中で、たった一人が「無罪」の票を投じます

それがヘンリー・フォンダでした
ヘンリー・フォンダは周りから「あんなに決定的な証拠や目撃証人がいるのに、なんで無罪なのか!」と攻められますが、ヘンリー・フォンダも無罪だと確信しているわけではなく、ただ少年一人の命が自分たちに委ねられているのだから、少しくらいは話し合いをしたいというだけなのです

ここでは、特に人の命が関わっている場合は結論を急ぐのではなく、一度足を止めて考えてみようというメッセージがこめられてます

それこそが人間の理性である、と
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*陪審員8号のヘンリー・フォンダ
 
一応、判事との約束もあるので連行するか、処刑するかを多数決で決めることになります
なりゆきで探索行に付き合ってきたヘンリー・フォンダはさすがにそれは乱暴だろう、ちゃんと調べてから断罪すべきだと抵抗しますが、少数派の意見は届きません

ここは『12人の怒れる男』たちが集まってる都会の裁判所の一室ではなく、寒いネヴァダ州の山の中なのです

それでも(と、観客は)、ヘンリー・フォンダには決死の思いで処刑を止めて欲しいと思って観てます
必死にとめるヘンリー・フォンダだけど、カウボーイたちに逆に袋叩きにあって縛り上げられ、とうとう処刑を止めることができなかった・・・くらいの描写は見たいような気がします

しかしこの映画のヘンリー・フォンダは、反対の意思表明はするものの、結局黙認するのです

なぜか
 
ヘンリー・フォンダこそが、観ている我々だからです
それが悪いことだと解っていても、自分の命を差し出してまで抵抗する意識は僕らにはありません

『12人の怒れる男』とは違い、ここでのヘンリー・フォンダは傍観者です
そして我々の大多数が、傍観者です

例えばいじめ問題では、いじめる側でもいじめられる側でもなく、多くの人は傍観者です
だからなにもしない(本当はできないといいたい)ヘンリー・フォンダの存在が切迫してくるのです
他人事ではないと


ところがそこに保安官が登場して、キンケイドは死んでいないと告げます
撃たれたけど一命は取りとめたと

そして犯人も捕まったというのです

無関係の3人を処刑してしまった捜索隊のカウボーイたちは打ちひしがれます

実は処刑される前に、家族に宛てた手紙を託されますが、そこには自分を処刑しようとするカウボーイたちを糾弾する内容ではないことに驚かされます

「彼らを責めないで欲しい。彼らは正義を振りかざした小数の人間にあおられただけなのだから。本当はひとりひとりは善人なのだ」

無実の人間を殺してしまった者は、これから重い十字架を背負うことになります
実際、捜索隊を指揮し、処刑を決行した少佐は息子に糾弾されて自殺します(直接の描写はありませんが、閉めたドアの向こうから銃声が聞こえる)

「人々が良心を持たないと文明は成立しない」 
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映画の中盤で、牛泥棒を追跡中に馬車を発見して、泥棒の一味だと思い込み追跡するシーンがあります
ところがその馬車はとある議員の新婚旅行の一行だったことがわかります

そしてその新婦がヘンリー・フォンダの元カノなのです
二人の事情を知っている新郎の議員は、落ち着いたらヘンリー・フォンダを新居に招待する、という紳士的な発言でヘンリー・フォンダにトドメを刺します

ここは、かなり作りすぎな展開ですが、勢いで捜索隊に参加したヘンリー・フォンダの元カノ問題のもやもやに決着をつける意味があります
これによってヘンリー・フォンダをリンチ冤罪事件に純粋に向き合わせることができるわけです

そしてこのシークエンスにはもう一つの目的があります
馬車の一行は夜道で強盗に襲われたと勘違いして発砲し、捜索隊の一人がケガします
そして捜索隊も牛泥棒だと勘違いしてたわけです

立場がどうあれ、それが証明されるまでは人間は間違うのだということです

つまりここで自分達はすでに「関係のない人たちを泥棒と間違えた」にも関わらず、処刑に関わってしまうことになるわけです
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*元カノとばったり。シナリオ上ではちゃんと意味がある

その後、ヘンリー・フォンダは深夜の山中の寒さですっかり頭が冷めてしまい「どうして捜索隊に加わったのか?」と聞かれて「なりゆきだ」と認識できるまで冷静に落ち着いてきています

何度か冷静(理性に戻る)になるチャンスはあったのに、一度動き出してしまった巨大な機関車を止められない現実の怖さ、でもあります


酒場で、処刑された男の手紙を読み終えたヘンリー・フォンダと友人は、映画の冒頭のシーンとまったく同じアングルで、今度は馬に乗って町を去っていく場面で終わります

ご丁寧に、最初のシーンでは犬が一匹手前から左上へ走っていくのですが、ラストシーンでは同じ犬が左上から手前に走ってきます

映画の冒頭とラストをまったく同じ場面で締める”円環構造”はよく見ますが、これはドアが開いて誰かがやってきてドアを閉めて誰かが去っていく構造で、映画が完全に終わる印象を与えます

映画は完全に終わりますが、映画のテーマは見ている者たちの中で終わらない問題として残るのです
 
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*冒頭とラストシーン

山中で、神父代わりに参加した黒人カウボーイがヘンリー・フォンダに自分の過去を語るシーンが忘れられません

「私は兄の私刑を見ました。私が小さい頃です
今もその夢で目が覚めます
 兄がなにをしたのか知りません・・・
誰もしらないのです」
 
集団リンチの怖さはここにあります
誰がラリー・キンケイドを殺そうが、しったこっちゃない、という

 

「桐嶋、部活やめるってよ」

◇限りなく透明に近いマクガフィン
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*この映画の仕掛けやホラー映画「アナザー」の仕掛けについて語ってます。未見の方は映画をご覧になってからお読みください
 
なんだかのきなみ評判がいいのに興行的には惨敗らしい、ということだったので打ち切られる前にとりあえず見てきました

この映画の分析や評価はいろんな人が語っているので、僕は軽くまとめます。期待しすぎたところはありますが、やはりなかなか好感の持てる青春映画だと思います
観て損はありません

若手俳優がいっぱい出てきますが、みんな達者なのでなんのストレスもなく映画に没頭できます

僕が語りたいのは、この映画におけるマクガフィンという言葉についてです


マクガフィンというのは映画ファンならお馴染みでしょう
もともとはアルフレッド・ ヒッチコック が好んで使った言葉(概念)です

ヒッチコック映画では、よくスパイによる国家機密的なものを奪い合うというストーリーが登場しますが、その国家機密”的なるもの”をマクガフィンと呼んでました

ヒッチコックによればマクガフィンはなんでもよい(差し替え可能)のです
その国家機密がウラン鉱脈の地図であろうが、新型爆弾の設計図だろうか、それらしくさえあれば(ときにはそれがなにかすらわからなくてもよい)いい、というものです

それを悪者と正義が奪い合うことで発生する、スリル、サスペンス、アクションが(ヒッチコック)映画の眼目である、というわけです

ストーリーを動かすための中心的な存在だけれども、その内容はなんでもいい、というのがマクガフィンです(少なくとも僕はそう捕らえてました)

「レイダース/失われたアーク」ならば、まさに聖櫃(アーク)がマクガフィンです
インディ・ジョーンズが追い求めるお宝が魔宮の秘石だったりクリスタルスカルだったり差し替え可能だからこそ、シリーズ化したのです
(しかしもう差し替えるネタがなくて続編の製作が頓挫しているというウワサもありますが)


さて、そこで「桐嶋、部活やめるってよ」ですが
この映画ではタイトルロールである桐嶋という人物は一切登場しません

え?なにそれ?と思うでしょうが、バレー部のエースである桐嶋が部活を辞める(らしい)という事件を中心に、いろんな生徒たちに波紋を投げかけるという仕掛けなのです

この”登場しない桐嶋”をマクガフィンと説明している映画評やブログが見受けられました
僕は最初に、映画関係者のtwitterでこのことを知りました

「桐嶋、部活やめるってよ」には桐嶋が出ないことはなにかの映画紹介で知ってましたが、その仕掛け=マクガフィンという言葉の使い方に違和感を感じたのです



映画には登場しないがその人物の影響力に振り回されるという仕掛けは、例えばヒチコックの「レベッカ」があります
(漫画「めぞん一刻」では、ヒロインの亡き夫・総一郎さんがそういった使われ方をしてましたね)


ある大邸宅の後妻に迎えられたジョーン・フォンティーンは、ヨット事故で死んだ前妻のレベッカに忠誠を尽くしていた使用人のダンヴァース夫人から執拗に前妻と比べられ、すでにこの世にいない人間の影響力に追い詰められていく、というゴシックホラーです
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*ほとんどお化けなみに不気味なダンヴァース婦人(もちろん左)

そして「レベッカ」というタイトルなのに、映画にはレベッカという人物は登場しません
レベッカの姿を一切画面に出さないことで、ヒッチコックは死者の影響力の強さ、不気味さを演出したのです

「桐嶋、部活やめるってよ」でも、桐嶋の存在が画面に映らないように注意深く演出されています
 
バレー部のエースが部活を辞めることで、まず影響を受けるのがバレー部です

他には、つきあってる女子高生(毎日バレー部が終わるまで待っている)
それから帰宅部の友人3人、というところでしょうか

しかし彼らがどんなに動揺しようと、振り回されようと、桐嶋という人間性(キャラクター)がまるでこちらに(観客に)見えてきません
なぜなら彼らは「桐嶋がバレー部を辞めた、どうしよう。学校にも来てない、いったいどうなってるんだ」とうろたえはしますが、彼らの口から桐嶋という生徒がどういうキャラクターなのか一切語られないからです

いや、それこそがこの映画の狙いなんだよ、と
桐嶋という人間性を消すことで、いろんな人たちがどう影響していくのか、そのドラマこそが眼目なのだ、と

ふーむ
僕はそこが逆に引っかかったのです

あくまで、ある人間がいなくなったことで巻き起こるドラマを目指したとして、しかしその人間は昨日までは普通に存在していたわけです(映画内においては)

ところがこの映画では、桐嶋が存在していたという痕跡を一切排除しています

普通は、桐嶋のいない机のショットを入れたり、部活のロッカーや下駄箱で学校にこない桐嶋の名札を見せることで、不在間を煽ったりしそうなものですが、そういうことをまったくやってません

付き合ってる彼女(山本美月)もいるのに、彼女は一緒に撮った写メやプリクラを見るそぶりも(誰かに見せるそぶりも)みせません

ここまでくると逆に疑ってしまいます
あれ、もしかしてなにか原因があって、架空のバレー部のエースという生徒を作り上げてみんなが芝居をしているのではないか、と

というのもこの映画の前に見た「アナザー」というホラー映画があります
この映画は、ある理由から生徒の一人の存在をクラス全員で「いなかったことにする」というストーリーなのです

ですからそのルールを知らない転校生は、自分だけが見えている生徒がいるのではないかと混乱する、という話でした

つまり、みんなが「桐嶋という生徒がいたけれど、部活をやめて学校にこなくなった」という芝居をやっていると思わざるを得ないほど、不自然に見えたのです

学校に来なくなったのなら、どうして誰も桐嶋君の家に様子を見に行かないのでしょうか

しきりに「電話にも出ない、メールの返信もない」と嘆いてますが、1週間の間、誰も本人に会いに行こうとはしません
会った生徒もいません 

不自然な理由はここです

まるで桐嶋という生徒は、学校という空間にしか存在していない(いなかった)かのような不自然さなのです
(ここまでくるとトイレの花子さんとポジションが同じです) 



「レベッカ」ではすでにいない人間の影響力こそがテーマでしたが、「桐嶋」の場合は、影響力のある生徒がドロップアウトすることによる周囲の動揺がテーマです

ところがその生徒の肉体性をきれいサッパリ排除してしまったがために、その影響力というものがなんとも空っぽなものに見えなくもないのです

これが舞台の演劇なら、こんな感想にはならなかったかも知れません
なぜなら、舞台の演劇という空間が、観客に不自然さを受け入れやすくする装置になっているからです

窓が描かれた背景に、学校机があって、先生や生徒(役)がいれば、演劇を見に来た観客はそこに”学校”を想像します

たとえばこれが
「あるバレー部のエースが突然、部活をやめることになったとしたら、他の生徒にどういう影響が及ぶか」
というテーマで、グループディベートをするというなら解からなくもありません

そして演劇という空間は、そういった会話劇に適した表現方法なので不自然さを感じなかったのではないかと思います 



僕が不自然だと思う一番の理由は、これが”一般映画”だからです
映画とは、そこに架空だけれども僕らと同じような別の世界が存在して(もしくは時間的、地域的に地続きで)、カメラという神の視点で覗き見ている、という装置です

だから、映画のリアル(殴られれば痛い、カレーは辛い)は、そのまま僕らの現実のリアルとイコールです
その約束事にのっとって、ストーリーは進んでいくのです

もちろんSFやホラー、ファンタジーなど、現実的ではありえないことも映画になります
その場合は、ちゃんと映画内で「ありえる」リアルを観客に感じてもらわないとその映画が成立しません

「スターウォーズ」のライトセイバーは現実には存在しませんが、もの凄い武器であることは観客に伝わっているからこそ、ジェダイの騎士は存在感を持っているのです

逆にいえば、どれだけ見慣れた町を背景に、よくあるストーリーの映画だろうが「こんなヤツはいないだろう」とか、少しでもこちら(観客)のリアルとの間に違和感を感じてしまうとその映画がウソっぽく見えてしまいます

直接的なことでいえば、役者が素人よりヘタな演技だと、そのストーリーを受け入れる前にシラけてしまうことがあるでしょう
あまりにオーバーな芝居や、ウソ臭い台詞でも同じです



映画でも演劇的な演出もありますし、アニメという別表現もありますが
ちょっと無理のある設定に説得力を持たせるには、大枠から考えなければならない作業なのです

つまりこの「桐嶋、部活やめるってよ」は、実写映画にはもしかしたら向いてなかった素材かもしれません


これが1日だけの話ならまだよかったかも知れません
一人の生徒がドロップアウトしたことに対するドタバタをたった1日で描く、ということなら不自然さは感じるヒマもなかったでしょう

これが1週間の話なので、無理が出てくるのです


ただしこの映画の「学生時代になにかに打ち込む尊さとしんどさ」にグッときて感動した人を間違いだというつもりはありません

この映画に素直に感動できるのは、桐嶋を(完全に)透明な存在で受け入れられた人が得られる感動なのです
そういう意味で、映画制作者の狙いを真摯に受け取っているといえます
 

最初は、同じ金曜日をなんども繰り返し、一つの出来事をいろんな生徒の視点から語っていく演出に軽く興奮し、それぞれのストーリーがどう決着するのだろう、という強い興味で最後まで飽きずにみました

誰が誰を好きで、誰に対してどういう気持ちをもっているのか、ということがワンシーンを角度を変えて繰り返されることでジワっと見えてくるところなどミステリー小説的な面白さもあります

特に、橋本愛が最初、バドミントンの部活にいくときにミサンガをつけてる(プロミスリング)というシーンがあるのですが、その伏線の結末がある種の残酷さをもってこちらが理解させられるシーンは、あの愛すべき映画部の部長(神木龍之介)に肩入れしている多くの観客の涙を誘わずにはいられませんw
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*橋本愛は「アナザー」にも出てたね

このように、シーン、シーンでは笑わせられたりホロリとさせられたりと、ちゃんとツボを押さえているよくできた青春映画です

だから「桐嶋って本当に存在したの?」と穿った見方をしてしまい、全面的に感動に浸れなかったのは、多分、僕がひねくれてるだけでしょう(涙ポロリ

もう一つ、違和感があったのは、この学生達はあまりメシを食わないのかなーということでした
というのも、僕は中学~高校生くらいの頃はいつも腹が減っていて、早弁なんか当たり前で昼になればパンを買って食い、帰り道では買い食いし、ラーメン大学ではミソラーメンと丼飯、としょっちゅうなにかを食べていた記憶があるのです

まあ、腹が減るかどうかは個人差があるのでなんともいえないところではあるのですが、ガツガツしている、というのはこの年代の特性でもあるのです

それはなにも食欲だけではなく、性欲もそうでしょうし、部活や好きなことに打ち込むことに対してもガツガツしているはずです(そして映画では実際そうですし)

ですからある意味象徴として、どこかで豪快にメシを食うシーンが欲しかったかなーとは思います

ただし、そんなのはもうとっくの、昭和の昔の世代のことで、今頃の若者は小食ですよといわれれば何もいえないのですが・・・


その影響力だけがストーリーの格として必要だったならば、確かに桐嶋という生徒は透明であってもいいのでしょう
それこそ「青島、部活やめるってよ」でも「室井、部活やめるってよ」でもいいのです

おお
桐嶋というのは差し替え可能ですね
じゃあ、マクガフィンという使い方は決して間違ってはいなかったのですね

わーい

うーむ・・・ 

ファミリーツリー

◇クルーニー玄太80㌔
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『サイドウェイ』はいい映画でした
美男美女が出たり、派手なドンパチがあるわけでもなく、といって誰かが病気で死ぬわけでもないのにジワっと心に迫る、面白い映画でした

そのアレキサンダー・ペインが7年ぶりに監督したのが『ファミリーツリー』です
ちなみに今年のアカデミー脚色賞を受賞してますが、いわれるまで気がつきませんでした

そういえばジョージ・クルーニーがこの映画の演技でアカデミー賞を取るか取らないかと騒がれてたのはなんとなく覚えてましたが

ジョージ・クルーニーは家庭を顧みなかった男です
奥さんがボートの事故で昏睡状態に陥ったので、家庭(娘2人)に目を向けざるを得なくなるというプロットです

10歳の次女はむやみに攻撃的で、誹謗中傷した同級生の家に謝罪に連れていくはめになったり、全寮制の学校に通う長女はマリファナ三昧のビッチ風だったり、ジョージパパの気苦労が耐えません

母親という存在がいなくなってしまったために、父親的存在とその娘達が向かい合わせにならざるを得ないといモチーフは、かつて日本にも西田敏行の「池中玄太80㌔」というドラマがありました

あちらは3人の娘を連れた再婚相手が急死してしまったために、赤の他人の西田敏行と3人娘がいかにして”家族”を形成していくかのホームドラマでしたが、こちらは2人の娘とも実子です

ナレーションによれば次女が3歳のときに家庭を捨てたということですが、ジョージは別居していたのでしょうか
もし、妻の事故によって7年ぶりに家庭に戻ってきたということなら、もうちょっとそのへんの久しぶり感、例えば壁紙が変わってたり、見知らぬ家具が置いてあることにジョージが気づくといった演出が欲しかったところです

もっといえば、例えば、学校に娘を迎えにいって自分の娘を見分けられなかったくらいの断絶でもいいくらいです
映画を見ていると一緒に住んではいたけれど、仕事にかかりきりでまったく家庭を顧みなかったくらいの温度なのです

こちらの見落としで、もしかしたら家庭内別居くらいの設定だったのかも知れませんが(だったら冒頭のナレーションはなんなんだということですが)

一緒に住んでいても疎外感のある家庭というのはいくらでもありうるので(娘の発表会の演目を知らないなど)、まあ、そういった事情ということでもOKです
要は、そんな父親がやっと家族に向き合って、いかにしてもう一度家族を取り戻すかという話なのですから


ただしこの映画が「池中玄太」と違うのは、まだ母親が死んでいないということです
昏睡状態ではあるけれど、死んでいないのです

母親の生死のゆくえ、という問題が横たわっているために、ジョージパパが娘たちの方向だけを向いているというわけにはいきません
それは娘たちも同じです

そこでこの映画(原作)では、母親(妻)が浮気していたという爆弾を放り込みます

シナリオの作劇的にいえば、ここまでが起承転結でいう〔起〕ですね
序破急の序でも、三幕ものの1幕目でもいいですが 
ようするに冒頭で状況が説明され、あるきっかけでストーリーが動き始めるのがここです

この爆弾はいろんな効果を生み出します

夫婦がうまくいかなくなる理由はいろいろで、どちらかが一方的に悪いとは言い切れないものです
映画の冒頭でジョージは昏睡している妻の前では全面的にこちらが悪くてもいい、目を覚ましてくれ、と心の底から祈ります

ところが浮気爆弾が炸裂したために、ジョージは激しく動揺します
動揺したあげく、ジョージはいきなり走り出します。いてもたってもいられません

ジョージがどこに走っていったかというと友人の家です
友人たちは妻の浮気を知っていたのです。問い詰めたら吐きました

自分だけが妻の浮気を知らなかった
まあ、ショックのダメ押しです。ジョージ、ダブルショック!

しかし、なんとこれがきっかけで、ジョージパパと娘が一緒になって浮気相手探しを始めるのです
長女は母親の浮気現場を見たことで、母親と大喧嘩して、だから昏睡している母親をまだ許せていないのです

しかし浮気相手という共通の敵を見つけたことによって、疎外だった父親と急接近せざるを得なくなります
次女の扱いに手を焼いたジョージパパが長女にどうすればいいか助言を求めるシーンがあります
「わたしのときはママとキャンプにいったわ」と長女は答えるのですが、一緒にいる時間を深めるのがこの映画の場合、浮気相手探しというところがナイスなアイデアですw

ところがその浮気相手探しのクエストに、長女のカレ氏が付いてきます
そうじゃないと嫌だと長女が言ったのですが、このカレ氏がまたガサツでジョージパパからして見ればがっかりさせられる人物です

父親としてみれば、いつか自分の娘に紹介されるカレ氏は、できれば礼儀正しく、ハンサムで頭がよく・・・とハードルを上げがちですが、もう、いきなりスタートでずっこけるレベルの男(キャラクター)なのです

なにせ母親の親族に会いに行って、痴呆症の祖母のおかしな言動をみてゲラゲラ笑うデリカシーのないやつなのですから
(まあ、しっかり祖父からパンチをくらいますが)

典型的なゆとり世代のバカ者に見えますが、どこか抜けてるところがあり決して嫌なだけのキャラクターにはしていません
このキャラクターを嫌な人間にしてしまうとストーリーが壊れてしまいます

そして浮気相手探しの旅に、まったくの赤の他人を入れることで、親子ならではのむきだしの感情のぶつかり合いが軽減されるという効果もあります(それを嫌って長女は他人を間に入れたかったのかも知れません)

とにかく、このバカは映画にとって適度なスパイスとなってます
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この映画はジョージの一人称映画です
カメラには必ずジョージが入ってますし、ジョージが知らないことは観客も知りません
(このあたりで父親と娘の断絶と和解というのは、サブプロットであることがわかります。ではメインプロットはなにかというと・・・)
 
これは主人公に感情移入させるには一番てっとり早い方法です
ジョージが浮気を知って動揺したときは、観客も一緒になって「このモヤモヤをどう決着つけるんだろう」と映画に入り込めるからです

そしてとうとう浮気相手と対決です

相手にも家庭があることがわかります
娘が相手の奥さんの相手をしている間に、ジョージは浮気相手と二人きりになるのです

とろこが怒りに任せて相手をぶん殴るということはしません
もし自分がジョージだったら・・・やっぱり殴ったりはしないだろうなと思います
なぜならこの映画でジョージはごく普通の男でしかないからです

実際にこういう場面に居合わせることになったら気まずさにいたたまれなくなりそうですが

ここではジョージは圧倒的に優位です
浮気相手は家庭を壊したくないので、いつ奥さんにバラされるかハラハラしてます

圧倒的に優位なはずのジョージですが、聞かなくてもいいようなことを聞いて余計に落ち込んだりしてます

なにやってんだジョージ

しかしこれはジョージにとって避けて通れないシーンだったのでしょう
なぜならこれは動揺したジョージがいかに自分の気持ちに整理をつけるかという映画だからです

心穏やかな結果にならないとしても、なにもしないではいられないのです
(帰り間際のジョージのちょっとした復讐が、終盤の伏線になってますが)


怒鳴りあって殴りあうシーンというのは感情の発散ですからインスタントにスッキリさせる効果があります
「ファミリーツリー」はハワイが舞台で、BGMにはハワイアンが流れてますが、なんだかずっと曇ってたり地面が濡れてたりしてスカっとしません

母親がとうとうダメだと知ったときの長女や次女のリアクションも、泣き叫ぶシーンを巧妙に回避してます

なぜなら泣き叫ぶというのも感情の発散なので、その行為に関わらず観客にカタルシスを与えてしまうからです

観客に安易なカタルシスを与えないというのはこの映画の演出意図です

ジョージは浮気相手を目の前にしても、怒りで自分の感情を爆発させることがありません
安易に感情を発散しえないキャラクターがジョージだからです 

ではこれが陰々滅々な辛気臭い映画かといえば、まったくそうではありません

長女のバカ彼氏は笑いを誘いますし、実際のお葬式でもあまりに大げさに泣き叫ばれたら逆にコミカルな感情を持つのと同じように、この映画では母親の生死問題が重く横たわってますが、笑えるシーンもそこそこあります

しかしそれは、ちょっと過剰だったり、ちょっと妙な状況だったりする可笑しさです



親子3人で、母親の遺骨を海に蒔くシーンでようやくピーカンになります
といって、親子3人の心が急にカラっと晴れるわけではありません

こちらの感情とは関係なく、曇った空もいつかは晴れるでしょう、というくらいの節度あるシーンです
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まさにジョージ・クルーニーの映画です
ジョージ・クルーニーは「ER」シリーズの小児科医の役でお馴染みでクセのある演技をしますが、この映画の演技がベストなのかどうかはよく判りません

不満をいえば、ちょっとジョージいい人過ぎるなーということです
 
しかしこの映画ではなんといっても長女役のシャイリーン・ウッドリーが可愛い、ということでしょう
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