2009年10月28日
自作小説『ネゴシエイション』第495話
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☆★☆★☆★☆
ジェニファーと千晶を吉祥寺駅までサーフで送った真希は、大学で講義を受け、五時に片山ボクシングジムに入った。
着替えを済ませると美宇もジム入りした。
顔にワセリンを塗りフルフェイス型ヘッドギアをかぶると、ゼットが腰の高さで立ててくれたグローブに両手を挿しいれる。
ゼットは寝不足なのか、目の下に隈ができていた。
グローブの紐を締めてもらっていると、中年男と若い男がジムに入り、会長と及川トレーナーに頭をさげる。中年男には見覚えがある。高見沢の試合で堀田のセコンドについていた男だ。晃洋ボクシングジムのトレーナーなのだろう。若い男は同ジムの選手で、出稽古のスパーリングに来たらしい。男子更衣室へ向かう。
いよいよ迎える美宇との初スパーリング、武者震いをおさえ真希はシャドーボクシングを始めた。
及川トレーナーがタイマーをセットし、真希と美宇に「準備は?」と訊ねる。二人同時にうなずくと、及川トレーナーがタイマーを再始動させる。
ラウンド開始のブザーと共に、リング中央でグローブタッチの挨拶を美宇とかわす。
アップライトスタイルで時計回りに旋回する美宇の上体を視界におさめ、すり足で前進した。
美宇がワンツーから左ストレートを放つ。真希はメトロノームのように上体を左右に振り、ジャブと右ストレートをヘッドギアの脇で空振りさせた。左ストレートは頭部でUの字を描き、頭上で空振りさせる。
そうしながら左前に踏みこみ、左のボディフックを放つ。真希の左前腕を美宇は右前腕で外側へはじき飛ばし、右アッパーを打ち返す。
速い。しかも喉めがけ飛んできているため、スウェイバックしても顎を直撃される。
真希は咄嗟に、前に出している左脚を背後に引いた。サウスポーにスイッチすることで、スウェイバックするより大きく距離をとったのだ。
アッパーを眼前で空振りさせた直後、左脚を前にもどしオーソドックスに再度スイッチし、距離をつめる勢いを利して左フックを放った。美宇が同じ左フックで迎撃しようとする。
真希は大振り、美宇はコンパクトな弧を描いている。このままでは美宇のグローブが先に当たる。カウンターになるため威力は絶大だ。
真希は左脚を大きく踏みだした。基本スタンスより広く両脚を前後に開いた分、頭部が沈む。美宇の左フックを頭上で空振りさせ、自分のそれを振り切った。
振り切る過程で拳に感じた手ごたえが、肘を経由し肩へ、さらには首筋にまで伝わる。顔の前に来た左肩越し、美宇が後方へたたらを踏むのを見た。
真希はマットを蹴って前進し、追い討ちの右ストレートを放つ。美宇がそれをくぐり、クリンチしてきた。ダメージは大きくないようだ。
会長がブレイクを命じ仕切りなおしになると、美宇はジャブと左ストレートで真希を突き放す。美宇のアウトボクシングが丁寧なのに対し、功を焦った真希の前進は強引に過ぎ、ヘッドギア前面を何度も直撃された。
その展開のまま一ラウンド目が終了した。
インターバル、ゼットが真希のマウスガードを引きぬき、ウガイをさせながら言う。
「インファイトの基本どおりにやれ。頭振って距離つめて、ボディ攻めて加柴の足を止めろ」
そうしようと頭では思ったつもりなのに、二ラウンド目も強引に距離をつめようとし、フックやスマッシュを空振りさせては空振りさせられた。一ラウンド目の序盤、攻防で打ち勝ったイメージが快感をともない身体に染みこんでしまい、抜けきらないのだ。
同じく防御されるにしても、ガードされるのと空振りさせられるのとでは大違いだ。相手のガードを打てば楽だ。自分のパンチがそこで止まり、上体のひねりもそこで止めてもらえるため、無駄な動きは最小限で済む。それに対し空振りはフルスイングとなり、バランスを維持するため足を踏ん張る必要があり、疲労は倍になる。しかも、今の真希は力んでいる。
二ラウンド目の終盤は肩であえいでいた。動きも鈍くなってきた。
三ラウンド目、美宇はワンツーと左フックを上下に打ち分け始めた。
真希が迎撃しようとすると、軽やかなステップで射程外へ逃れる。距離ができると真希は安堵してしまい、無意識のうちにガードをさげた。すかさず美宇が距離をつめ、左右のフックを頭部に浴びせてくる。
真希は右のスマッシュを放ち、空振りさせられた。疲労のせいで軸足の踏ん張りがきかず、身体が左上方に伸びあがる。直後、右ストレートで右の側頭部を打たれた。
ヘッドギアのおかげでダメージはないが、試合であればダウン、下手したらKOされただろう。
スパーリングの全行程を自己採点すれば、一ラウンド目がイーブン、二ラウンド目と三ラウンド目は10対9。つまり判定負けだ。
☆★☆★☆★☆
ゼットは舌を巻いていた。片桐真希の上達の速さに。
空手という打撃系格闘技の素地があるとはいえ、ボクシングを始めてからたったの一ヶ月、加柴との差をこれほど縮めていたとは……
一ラウンド目、加柴が放った左フックはカウンターだった。それを空振りさせた片桐は、結果的にはカウンターに対しさらにカウンターを合わせる形で左フックをクリーンヒットさせた。
二ラウンド以降こそキャリアの差が出た形だが、スパーリングでなく試合であれば、つまりヘッドギアなしで試合用のグローブであったなら、ファーストラウンドで勝負は決していただろう。加柴は実際、ヘッドギアを装着していたにもかかわらずダウン寸前だった。
加柴も天賦の才に恵まれた女子ボクサーだが、片桐はさらにその上を行っている。
ただ、このままでは困る。加柴には世間の注目を集めるほどの優れたボクサーになってもらわないと。韓国にいる麻生明日美がその存在を知り、我が子である可能性に気づき来日してくるほどの。
加柴自身、ボクサーとしての資質において片桐に劣っていると身をもって知ったはず。自信を喪失してしまえば、スランプに陥るかもしれない。
そうならないよう、さらに努力してもらわなければ。
(496話に続く)
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ジェニファーと千晶を吉祥寺駅までサーフで送った真希は、大学で講義を受け、五時に片山ボクシングジムに入った。
着替えを済ませると美宇もジム入りした。
顔にワセリンを塗りフルフェイス型ヘッドギアをかぶると、ゼットが腰の高さで立ててくれたグローブに両手を挿しいれる。
ゼットは寝不足なのか、目の下に隈ができていた。
グローブの紐を締めてもらっていると、中年男と若い男がジムに入り、会長と及川トレーナーに頭をさげる。中年男には見覚えがある。高見沢の試合で堀田のセコンドについていた男だ。晃洋ボクシングジムのトレーナーなのだろう。若い男は同ジムの選手で、出稽古のスパーリングに来たらしい。男子更衣室へ向かう。
いよいよ迎える美宇との初スパーリング、武者震いをおさえ真希はシャドーボクシングを始めた。
及川トレーナーがタイマーをセットし、真希と美宇に「準備は?」と訊ねる。二人同時にうなずくと、及川トレーナーがタイマーを再始動させる。
ラウンド開始のブザーと共に、リング中央でグローブタッチの挨拶を美宇とかわす。
アップライトスタイルで時計回りに旋回する美宇の上体を視界におさめ、すり足で前進した。
美宇がワンツーから左ストレートを放つ。真希はメトロノームのように上体を左右に振り、ジャブと右ストレートをヘッドギアの脇で空振りさせた。左ストレートは頭部でUの字を描き、頭上で空振りさせる。
そうしながら左前に踏みこみ、左のボディフックを放つ。真希の左前腕を美宇は右前腕で外側へはじき飛ばし、右アッパーを打ち返す。
速い。しかも喉めがけ飛んできているため、スウェイバックしても顎を直撃される。
真希は咄嗟に、前に出している左脚を背後に引いた。サウスポーにスイッチすることで、スウェイバックするより大きく距離をとったのだ。
アッパーを眼前で空振りさせた直後、左脚を前にもどしオーソドックスに再度スイッチし、距離をつめる勢いを利して左フックを放った。美宇が同じ左フックで迎撃しようとする。
真希は大振り、美宇はコンパクトな弧を描いている。このままでは美宇のグローブが先に当たる。カウンターになるため威力は絶大だ。
真希は左脚を大きく踏みだした。基本スタンスより広く両脚を前後に開いた分、頭部が沈む。美宇の左フックを頭上で空振りさせ、自分のそれを振り切った。
振り切る過程で拳に感じた手ごたえが、肘を経由し肩へ、さらには首筋にまで伝わる。顔の前に来た左肩越し、美宇が後方へたたらを踏むのを見た。
真希はマットを蹴って前進し、追い討ちの右ストレートを放つ。美宇がそれをくぐり、クリンチしてきた。ダメージは大きくないようだ。
会長がブレイクを命じ仕切りなおしになると、美宇はジャブと左ストレートで真希を突き放す。美宇のアウトボクシングが丁寧なのに対し、功を焦った真希の前進は強引に過ぎ、ヘッドギア前面を何度も直撃された。
その展開のまま一ラウンド目が終了した。
インターバル、ゼットが真希のマウスガードを引きぬき、ウガイをさせながら言う。
「インファイトの基本どおりにやれ。頭振って距離つめて、ボディ攻めて加柴の足を止めろ」
そうしようと頭では思ったつもりなのに、二ラウンド目も強引に距離をつめようとし、フックやスマッシュを空振りさせては空振りさせられた。一ラウンド目の序盤、攻防で打ち勝ったイメージが快感をともない身体に染みこんでしまい、抜けきらないのだ。
同じく防御されるにしても、ガードされるのと空振りさせられるのとでは大違いだ。相手のガードを打てば楽だ。自分のパンチがそこで止まり、上体のひねりもそこで止めてもらえるため、無駄な動きは最小限で済む。それに対し空振りはフルスイングとなり、バランスを維持するため足を踏ん張る必要があり、疲労は倍になる。しかも、今の真希は力んでいる。
二ラウンド目の終盤は肩であえいでいた。動きも鈍くなってきた。
三ラウンド目、美宇はワンツーと左フックを上下に打ち分け始めた。
真希が迎撃しようとすると、軽やかなステップで射程外へ逃れる。距離ができると真希は安堵してしまい、無意識のうちにガードをさげた。すかさず美宇が距離をつめ、左右のフックを頭部に浴びせてくる。
真希は右のスマッシュを放ち、空振りさせられた。疲労のせいで軸足の踏ん張りがきかず、身体が左上方に伸びあがる。直後、右ストレートで右の側頭部を打たれた。
ヘッドギアのおかげでダメージはないが、試合であればダウン、下手したらKOされただろう。
スパーリングの全行程を自己採点すれば、一ラウンド目がイーブン、二ラウンド目と三ラウンド目は10対9。つまり判定負けだ。
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ゼットは舌を巻いていた。片桐真希の上達の速さに。
空手という打撃系格闘技の素地があるとはいえ、ボクシングを始めてからたったの一ヶ月、加柴との差をこれほど縮めていたとは……
一ラウンド目、加柴が放った左フックはカウンターだった。それを空振りさせた片桐は、結果的にはカウンターに対しさらにカウンターを合わせる形で左フックをクリーンヒットさせた。
二ラウンド以降こそキャリアの差が出た形だが、スパーリングでなく試合であれば、つまりヘッドギアなしで試合用のグローブであったなら、ファーストラウンドで勝負は決していただろう。加柴は実際、ヘッドギアを装着していたにもかかわらずダウン寸前だった。
加柴も天賦の才に恵まれた女子ボクサーだが、片桐はさらにその上を行っている。
ただ、このままでは困る。加柴には世間の注目を集めるほどの優れたボクサーになってもらわないと。韓国にいる麻生明日美がその存在を知り、我が子である可能性に気づき来日してくるほどの。
加柴自身、ボクサーとしての資質において片桐に劣っていると身をもって知ったはず。自信を喪失してしまえば、スランプに陥るかもしれない。
そうならないよう、さらに努力してもらわなければ。
(496話に続く)


