2009年10月30日

自作小説『ネゴシエイション』第498話 その1

2回に分けて投稿。


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選手と練習生の指導を及川、森川の両トレーナーにまかせ、進士は晃洋ボクシングジムの佐山トレーナーと事務室で向き合った。
晃洋ボクシングジムの会長からは、健吾の引き抜きについて昨年の夏から話を受けている。佐山トレーナーはこの日、会長の代理として進士の意思を確認するつもりに違いない。
移籍の話がいったん立ち消えになったのは、ひとつには堀田幾男がA級ボクサートーナメントにエントリーしたため。彼が優勝すればスーパー・ウェルター級の日本チャンピオン、つまり健吾に挑戦することになる。同じジムに所属するボクサー同士の試合は、日本ボクシング協会のルールで原則として禁止されている。

引き抜きの話が立ち消えになったもうひとつの理由は、健吾がニコライ・ヤンとの試合で判定負けしたこと。勝敗以上に健吾の技術的なスランプが露になり、商品価値がさがったのだ。あの時点で健吾の引き抜くのは、たとえ移籍金を相場の半額にできたとしても、晃洋ボクシングジムにとっては高い買物に思えただろう。
そう判断したからこそ堀田幾男のトーナメント出場を許したのであり、あわよくばタイトル獲得を期待できると思ったはず。

結果的には一時的なスランプから脱却した健吾が、いや、スランプに陥る以前よりさらに高いレベルに達した健吾が、自らの商品価値の高さをあらためて証明することとなった。
晃洋ボクシングジムとしては、ますます健吾を引き抜きたくなったことだろう。同ジムは資金力に恵まれている。移籍金の金額についても糸目をつけないはず。
あとは健吾の意思次第。
進士は何も、移籍金に目がくらんだわけではない。弱小ジムに所属しつづけるより、資金力に恵まれた晃洋ボクシングジムに移籍した方が健吾のため、そう思っている。
何より、美宇や園香を助けるための戦いに会長である俺が身を投じた以上、健吾の世界挑戦を実現させるための努力がおろそかになりかねない。引き抜きの話に耳を貸さないのは無責任だ。

佐山トレーナーは選手を引退してからいっとき、テレビ番組の製作会社に就職していた。その社会経験のせいか、言葉づかいは丁寧で物腰は柔らかだ。
「高見沢選手の引き抜きの件ですけど、うちの会長は断念したそうです」
進士は驚き、言った。
「と言いますと?」
「うちの会長、ああ見えて青少年の健全育成とか、子供に夢をあたえるとか、そういったことに関心あるんですよ」
進士には話が見えない。
佐山トレーナーが続ける。
「おとといの試合、高見沢選手が育った養護施設の子供たちがたくさん来てたじゃないですか。高見沢選手はまさに、あの子たちにとってヒーローです。うちの会長のもうひとつのビジネスは、片山会長もご存知ですよね?」
進士はうなずいた。晃洋ボクシングジムの潤沢な資金は、同ジム会長のソープランドやラブホテルの経営に依っている。

佐山トレーナーが続ける。
「職業に貴賎なしとか、清濁併せ呑むとか言ったところで、高見沢選手を応援する子供たちに大人の事情は通用しません。風俗店経営者である自分のジムが高見沢選手を引き抜いて、養護施設の子供たちの夢を壊したくない。おとといの試合会場で、うちの会長はそう思ったそうです」
「いや、でも、晃洋さんの会長のお店とジムとは、別でしょう」
「うちのジムが、インターネットで何て書かれてるか知ってます? 晃洋ジム所属の選手は、日本ランカーになったらご褒美もらえる。つまりランキングの高さに応じて、会長の店の女の子をあてがってもらえる、そう言われてるんですよ。ランキング五位なら店の人気五番目の女の子を、一位になれば人気ナンバーワンの女の子を、ってね」

「くだらなさ過ぎて笑えますね。そもそも、チャンピオンになったらどうなるって書かれてます?」
「ラウンドガールをあてがわれるって」
「はっ……俺の奥さんが聞いたら怒り狂いますよ。女性差別、職業差別の書き込みだって」
「だけど高見沢選手を応援する子供たちがそんな噂を聞けば、どんな気持になると思います? 特に女の子が聞いたら。そんなのはデマだと教えてくれるような大人に相談できると思いますか。仮に相談してデマだと言われて、それで安心できると思いますか」

進士がリアクションに困っていると、佐山トレーナーは続けた。
「その代わりってわけじゃありませんけど、高見沢選手に世界挑戦の話がめぐってきたときは、うちがうつ興行を利用してもらいたい、そう言ってます」
「失礼ですけど、晃洋ジムには現在、世界挑戦できそうな選手がいますか」
晃洋ボクシングジムは複数の世界チャンピオンを輩出しているが、ここ数年は泣かず飛ばずだ。健吾の世界挑戦を晃洋ジムが主催する興業に乗せるにしても、同ジム自らがかかえる選手の世界戦をメインイベントに据えなければ、つまりダブル世界戦という形をとらなければ、ビジネスとしての旨みは少ないのではないか。
だとすればやはり、健吾の引きぬきをあきらめたというのは不可解だ。

(その2に続く)

ryuya777 at 06:56コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ!
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