2009年10月30日
自作小説『ネゴシエイション』第498話 その2
その1からの続きです。
・・・・・・・
佐山トレーナーが言う。
「ボクシング人気は低迷してます。ジム同士、持ちつ持たれつですよ。それに日本人世界チャンピオンが誕生した翌日は、どのジムも入会希望者が普段より増えます。大阪のボクサーが世界を獲っただけで、大阪にかぎらず、日本中のジムで同じ現象がおきます。高見沢選手がうちの興行で世界を獲れば、うちのジムにとってもそれは期待できます」
「だけどそれは、辰吉と鬼塚が同時期に世界チャンピオンだった頃までの話じゃありません?」
「その通り。十五年前と違って今は、ボクサーの人気がボクシングという競技自体の人気に直結しづらい。だけどうちの会長は、かつてのような活気をボクシング業界にもたらすだろうと、高見沢選手を高く買ってます。にわかのミーハー女性ファンではなく、ボクシングにロマンを感じるタイプの若者に刺激をあたえる、そんな古いタイプのボクサーに見えるんでしょう」
「そんな古いタイプのボクサーに影響を受ける若者が、今の日本にどれだけいますかね?」
「そんなこと言うなんて……まさか片山さん、高見沢選手を何が何でもうちに移籍させたいんですか」
「いや、そうじゃなくて、おたくの会長さんがあまりに自分を卑下してる気がするから。晃洋さんから世界を獲った人たちは何人もいますよね? 彼らの功績までもが会長さんのビジネスを理由に否定されるのは、フェアじゃない気がします」
「時代が変わったんですよ。正確には、ボクシング業界が体質を変えざるを得ない時期にさしかかったんです。たとえば、拳闘の興業と暴力団は持ちつ持たれつ、そんなイメージを払拭したくて、ボクシング業界はダフ屋行為の全面禁止を目指しはじめました。それだけじゃない。暴力団関係者がリングサイド席を占めることがなくなるよう、警察と手を取り合ってます。警察との協力関係は他にもあります。引退した選手の就職先としてジムが警察官への途を斡旋する、そんな動きがボクシング協会と警察とのあいだで一昨年からあります。片山さんも知ってるでしょ?」
「もちろん知ってます。引退したボクサーが生活苦から犯罪に手を染めることを防ぎ、むしろ社会に貢献させるチャンスをあたえることでボクシングのイメージアップを図る。警察は警察で、人員不足の問題解消を図ることができる。まさに持ちつ持たれつですね」
ここ数年の不況で警察官志望の若者はむしろ増えているらしいが、それと比例するかのように警察官の不祥事も増えていると聞いたことがある。警察が引退したボクサーに期待しているのは、スポーツマンシップを高い職業倫理につなげてくれる、そんな人材かもしれない。
佐山トレーナーが言う。
「そう。ここ数年、ボクサーや元ボクサーによる犯罪の認知件数は急増してます。業界としても看過できないとこまで来てるんでしょう。ボクサーとそれ以外のスポーツ選手の犯罪とでは、世間が受ける印象はまったく違いますから。うちの会長のビジネスも表向きは特殊浴場っていう建前ですけど、店内で実際に行われてるのはまあ、あれです。必要悪とはいえ一種の犯罪です。でもうちの会長、ああ見えて実は男気のある人物です。業界のイメージのために高見沢選手の引き抜きをあえてあきらめたうえで、それでも世界挑戦をバックアップするためひと肌脱ぐ、その気持には一点の下心もないはずです」
「もちろん、そんなことは疑ってません。ただ、晃洋ジムの会長さんがこれまでボクシング界に貢献された実績を否定されるのは、さびしい気がしただけです」
「うちの会長に代わって言いますよ。うれしいと同時に、もったいない言葉だと。それはそうと、高見沢選手のこととは別に、もうひとつ提案があります」
「何でしょう」
「片山ジムの女性ボクサーが最近、各ジムに出稽古して大活躍だそうですね。うちのジムでも話題になってます」
「ミュー……加柴のことですか」
「そう。先ほどのスパーも見事でした。相手の女性もすごいパンチ力とテクニックでしたけど、加柴さんがキャリアの差を見せつけた感じですね。彼女、アマチュア経験は?」
「ありません。高校時代は剣道部で、うちに通うようになったのは健康目的です。ただ、プロデビューする予定です。もうひとつの提案というのは、加柴のことですか」
「その通り。彼女をスター選手として売りだせば、女子ボクシングにとって大変なプラスになると見こめます。いずれは加柴選手の世界戦実現も、うちのジムがバックアップさせていただけたらと」
「ありがとうございます。うちのジムで晃洋さんのためにできることがあれば、何でも言ってください」
佐山トレーナーとのやり取りは友好的な雰囲気に始終したが、進士は警戒していた。
晃洋ボクシングジムは二十年前、麻生明日美が映画の役作りのために通っていたジムだ。佐山トレーナーも元は、晃洋ジムに所属していたボクサー。年齢からして、麻生明日美が通っていたのと同じ時期にプロデビューした可能性が高い。明日美をジムで見かけ、さらには会話くらいしたことがあっても不思議はない。
美宇の存在を知りながら麻生明日美に言及しないのは、あまりにも不自然だ。麻生明日美の存在を進士が知らないと思っているにしても、「昔、うちのジムに女優が通ってたんですよ。加柴美宇って子、その女優に生き写しです」くらいのことを言うのが自然だ。
何より、健吾の世界挑戦を見返りを求めずバックアップするようなお人よしであれば、性風俗経営で成功できたはずがない。
これにはきっと裏がある。
美宇が麻生明日美の娘である可能性に気づいたうえで、さらには二十年前、麻生明日美に何があったかを知っているうえで、何かをたくらんでいるに違いない。
最悪の場合、二十年前の事件隠蔽にかかわった者たちに美宇の存在を教え、何らかの見返りを求めている、そんなシナリオすら考えられる。
健吾の世界戦うんぬんはオマケで、美宇をバックアップする提案を餌に彼女を監視下に置く、それこそが一番の狙いに違いない。
引き抜こうとしないのは、美宇に何らかの危害がくわえられた場合、彼女が所属するジムとして何らかの関与があったのではないかと世間から疑惑の目を向けられる、そんな事態をあらかじめ回避するためだろう。
対策が必要だ。
一番いいのは、麻生明日美を一刻も早く探しだすこと。
そのうえで、美宇と麻生明日美が親子である証拠をDNA鑑定などで入手すること。
ゼットは韓国のアイドルとメル友になることで糸口をつかもうとしているが、手段として回りくどすぎるかもしれない。
(499話に続く)
佐山トレーナーが言う。
「ボクシング人気は低迷してます。ジム同士、持ちつ持たれつですよ。それに日本人世界チャンピオンが誕生した翌日は、どのジムも入会希望者が普段より増えます。大阪のボクサーが世界を獲っただけで、大阪にかぎらず、日本中のジムで同じ現象がおきます。高見沢選手がうちの興行で世界を獲れば、うちのジムにとってもそれは期待できます」
「だけどそれは、辰吉と鬼塚が同時期に世界チャンピオンだった頃までの話じゃありません?」
「その通り。十五年前と違って今は、ボクサーの人気がボクシングという競技自体の人気に直結しづらい。だけどうちの会長は、かつてのような活気をボクシング業界にもたらすだろうと、高見沢選手を高く買ってます。にわかのミーハー女性ファンではなく、ボクシングにロマンを感じるタイプの若者に刺激をあたえる、そんな古いタイプのボクサーに見えるんでしょう」
「そんな古いタイプのボクサーに影響を受ける若者が、今の日本にどれだけいますかね?」
「そんなこと言うなんて……まさか片山さん、高見沢選手を何が何でもうちに移籍させたいんですか」
「いや、そうじゃなくて、おたくの会長さんがあまりに自分を卑下してる気がするから。晃洋さんから世界を獲った人たちは何人もいますよね? 彼らの功績までもが会長さんのビジネスを理由に否定されるのは、フェアじゃない気がします」
「時代が変わったんですよ。正確には、ボクシング業界が体質を変えざるを得ない時期にさしかかったんです。たとえば、拳闘の興業と暴力団は持ちつ持たれつ、そんなイメージを払拭したくて、ボクシング業界はダフ屋行為の全面禁止を目指しはじめました。それだけじゃない。暴力団関係者がリングサイド席を占めることがなくなるよう、警察と手を取り合ってます。警察との協力関係は他にもあります。引退した選手の就職先としてジムが警察官への途を斡旋する、そんな動きがボクシング協会と警察とのあいだで一昨年からあります。片山さんも知ってるでしょ?」
「もちろん知ってます。引退したボクサーが生活苦から犯罪に手を染めることを防ぎ、むしろ社会に貢献させるチャンスをあたえることでボクシングのイメージアップを図る。警察は警察で、人員不足の問題解消を図ることができる。まさに持ちつ持たれつですね」
ここ数年の不況で警察官志望の若者はむしろ増えているらしいが、それと比例するかのように警察官の不祥事も増えていると聞いたことがある。警察が引退したボクサーに期待しているのは、スポーツマンシップを高い職業倫理につなげてくれる、そんな人材かもしれない。
佐山トレーナーが言う。
「そう。ここ数年、ボクサーや元ボクサーによる犯罪の認知件数は急増してます。業界としても看過できないとこまで来てるんでしょう。ボクサーとそれ以外のスポーツ選手の犯罪とでは、世間が受ける印象はまったく違いますから。うちの会長のビジネスも表向きは特殊浴場っていう建前ですけど、店内で実際に行われてるのはまあ、あれです。必要悪とはいえ一種の犯罪です。でもうちの会長、ああ見えて実は男気のある人物です。業界のイメージのために高見沢選手の引き抜きをあえてあきらめたうえで、それでも世界挑戦をバックアップするためひと肌脱ぐ、その気持には一点の下心もないはずです」
「もちろん、そんなことは疑ってません。ただ、晃洋ジムの会長さんがこれまでボクシング界に貢献された実績を否定されるのは、さびしい気がしただけです」
「うちの会長に代わって言いますよ。うれしいと同時に、もったいない言葉だと。それはそうと、高見沢選手のこととは別に、もうひとつ提案があります」
「何でしょう」
「片山ジムの女性ボクサーが最近、各ジムに出稽古して大活躍だそうですね。うちのジムでも話題になってます」
「ミュー……加柴のことですか」
「そう。先ほどのスパーも見事でした。相手の女性もすごいパンチ力とテクニックでしたけど、加柴さんがキャリアの差を見せつけた感じですね。彼女、アマチュア経験は?」
「ありません。高校時代は剣道部で、うちに通うようになったのは健康目的です。ただ、プロデビューする予定です。もうひとつの提案というのは、加柴のことですか」
「その通り。彼女をスター選手として売りだせば、女子ボクシングにとって大変なプラスになると見こめます。いずれは加柴選手の世界戦実現も、うちのジムがバックアップさせていただけたらと」
「ありがとうございます。うちのジムで晃洋さんのためにできることがあれば、何でも言ってください」
佐山トレーナーとのやり取りは友好的な雰囲気に始終したが、進士は警戒していた。
晃洋ボクシングジムは二十年前、麻生明日美が映画の役作りのために通っていたジムだ。佐山トレーナーも元は、晃洋ジムに所属していたボクサー。年齢からして、麻生明日美が通っていたのと同じ時期にプロデビューした可能性が高い。明日美をジムで見かけ、さらには会話くらいしたことがあっても不思議はない。
美宇の存在を知りながら麻生明日美に言及しないのは、あまりにも不自然だ。麻生明日美の存在を進士が知らないと思っているにしても、「昔、うちのジムに女優が通ってたんですよ。加柴美宇って子、その女優に生き写しです」くらいのことを言うのが自然だ。
何より、健吾の世界挑戦を見返りを求めずバックアップするようなお人よしであれば、性風俗経営で成功できたはずがない。
これにはきっと裏がある。
美宇が麻生明日美の娘である可能性に気づいたうえで、さらには二十年前、麻生明日美に何があったかを知っているうえで、何かをたくらんでいるに違いない。
最悪の場合、二十年前の事件隠蔽にかかわった者たちに美宇の存在を教え、何らかの見返りを求めている、そんなシナリオすら考えられる。
健吾の世界戦うんぬんはオマケで、美宇をバックアップする提案を餌に彼女を監視下に置く、それこそが一番の狙いに違いない。
引き抜こうとしないのは、美宇に何らかの危害がくわえられた場合、彼女が所属するジムとして何らかの関与があったのではないかと世間から疑惑の目を向けられる、そんな事態をあらかじめ回避するためだろう。
対策が必要だ。
一番いいのは、麻生明日美を一刻も早く探しだすこと。
そのうえで、美宇と麻生明日美が親子である証拠をDNA鑑定などで入手すること。
ゼットは韓国のアイドルとメル友になることで糸口をつかもうとしているが、手段として回りくどすぎるかもしれない。
(499話に続く)


