2009年10月31日

自作小説『ネゴシエイション』第500話

早く完成できるようがんばります。


・・・・・・・

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翌日の三時十分前、T&Jフィットネスクラブの従業員事務室で真希は出勤の打刻をした。
制服の半そでポロシャツとショートパンツに着替え、トレーナーストレッチの指名が入っている旨の業務報告を受ける。
指名した会員は水野愛美。
ため息つきそうになるのをプロ意識でこらえた。水野愛美に指名されるのは五回目だ。

会員にマシーンの使い方を指導した後、女子トイレやシャワー室、パウダールームやサウナ室のチェックに取りかかる。
高級フィットネスクラブであっても、盗撮ビジネスの共犯女性が入りこまないとは限らない。会員である女優の着替えや入浴を盗撮しDVDにして通信販売すれば、クラブの入会費用など安いものだろう。
ゼットにプレゼントされた盗撮カメラ探知機は反応しなかった。挙動不審な女性もいない。

七時になった。案の定、水野愛美は落ちこんでいる様子だった。彼女が真希を指名するのは、決まって嫌なことがあった翌日。真希をフィットネスクラブのトレーナーとしてではなく、心理セラピストか何かとみなしている。
食事に誘われるのは目に見えているので、予防線を張るため言った。
「後期試験の準備はいかがですか」
「普段から勉強してるから大丈夫」
「さすがですね。わたしは火の車ですよ。今日も徹夜で勉強しないと」
「片桐さんは優秀だって聞いてますよ」
「いえいえ、留年しないだけで精一杯です」
「ねえ、この後、ちょっとだけお食事できない?」
予防線は無駄だった。断るための別の口実を考えようとすると、先手を打たれた。
「わたしね、昨日すごく悲しいことがあったの。このクラブの会員の女の子と、その仲間の男の人が協力してくれっていうから協力したのに……」

無視するわけにはいかなかった。他の会員女性に宗教やマルチ商法の勧誘でも受けたのかもしれない。あるいは、女子トイレや更衣室の盗撮の協力を求められたのかもしれない。そうであれば、上司に報告する必要がある。
「水野さん、その会員女性、どなたです」
「佐々木百合子さんって人」
聞いたことがない名前だ。
「何の協力を求められました」
「食事しながら聞いてくれます?」
応じる他ない。クラブとは無関係なプライベートの人間関係かもしれない以上、現時点では上司に相談できない。

退勤の打刻をしシャワーと着替えを手早く済ませ、ビルのエントランスで水野愛美と落ち合った。
高級レストランに誘われてはたまらない。廉価なステーキショップのチェーン店が目に入った。
「あちらにしましょう」
一方的に言い、足早に向かった。水野愛美はついてきた。
ビールの誘いを断りきれず、一杯だけつきあうことにした。

食事が済むと水野愛美が話しはじめる。
「信じてくれないかもしれないけど、さっき言った佐々木百合子さんって人、CIAのエージェントと行動してるの」
信じないどころか、真希の胃はすぼまり、食べたばかりのステーキを吐きそうになった。昨年末、荻窪の公園で襲撃してきた男たちを連想して。
あの男たちが所持していた自動拳銃をインターネットの画像で調べたところ、シグ・ザウエルという銃である可能性が高いと判明した。日本でも人気のあるアメリカの連続ドラマで、主人公のスパイが使うのもその銃らしい。

実際のCIAエージェントが日本で拳銃を携帯しているなどと思いたくないが、ここ表参道はアメリカ大使館がある赤坂から遠くない。和製スパイ小説によれば、CIAの東京支部やそのメンバーを公安職員は「赤坂」と呼ぶらしい。
わたしと杏奈を襲ったあの男たちも、「赤坂」なのだろうか。
ゼットたちはやはり、美宇だけでなく園香をも守るため動いているのか。何らかの理由で園香に危害をくわえようとしている「赤坂」から。
わたしと杏奈が襲撃されたのも、それと関係あるのか。園香がT&Jフィットネスクラブに勤務していると「赤坂」がかぎつけ、彼女の友人であるわたしたちから何かを聞きだそうと。

「片桐さん、どうしたの? 顔色悪いけど」
「いえ、大丈夫です」
言葉とは裏腹に、腿の付け根が独立した生き物のように小刻みに震える。
水野が言った。
「CIAのエージェントは英会話教室の講師を隠れ蓑にしてるんだけど、最初は体験レッスン受けてみないかって誘ってきたの」
恐怖のせいで頭の中が真っ白になり、水野の言葉の意味を認識するのにしばらく要した。
「そこで協力を求められたんですか」
「ううん、体験レッスンは普通に終わって、その後居酒屋で食事したの。でね、それから井の頭公園に行ったんだけど、そこでガラ悪いヤツにからまれて」

言葉をさえぎり、言った。
「ちょっと待って。その英会話学校って、吉祥寺にあるんですか?」
「そうだけど、どうして?」
「いえ……そのエージェントの名前は?」
「本名かどうか分からないけど、デイヴィッド・R・レデュックっていうの」
やはり……
「彼が自分で、CIAのエージェントだって名乗ったんですか」
「はっきりとは言わなかったけど、デイヴ、こう言ったの。わたしと知り合ったのは偶然じゃないって。わたしと同じ大学の竹井節子ちゃんについて調べたいからだって」

竹井節子なら真希も知っている。水野愛美がビジターとしてT&Jフィットネスクラブに何度か連れてきている。
真希は訊ねた。
「でも、それだけじゃCIAのエージェントとは断定できませんよね?」
「デイヴね、こうも言ったの。『僕の国だけでなく、日本のためにもなることを目的にしてます』って。国益なんて口にするのは、CIAのエージェントってことじゃない? それにさっきの話の続きだけど、ガラ悪いヤツにからまれたとき、デイヴはあっという間にやっつけたんだよ。柔道ならってるらしいけど、格闘技なんて普通、実戦のケンカでは大して役に立たないんでしょ? それなのにあんなことできたってことは、特殊な訓練受けてるに違いないもん」

いくつかの条件がととのえば、ストリートファイトで柔道は、空手やボクシングより恐ろしい。それを水野愛美に教えても意味はないので、さらに質問した。
「竹井節子さんの何を調べたいって言ってました?」
「横井久っていう人の愛人かどうか、それをたしかめたいって」
「それは誰ですか」
「中年のオジさんってだけ聞いたけど、詳しいことは……」
「そのデイヴって人、佐々木百合子という女性以外にも誰か仲間がいました?」
「いた。それでね、節子ちゃんを尾行したいって言うから」
真希はさらにさえぎり、言った。
「どんな人たちでした?」
自分のペースで話をさせない不満を隠そうともせず、水野は言った。
「デイヴが会長って呼んでる人と、その奥さん。会長はすごくハンサムで、奥さんも美人」

片山ボクシングジムの会長とその奥さんだ。彼らの行動はチーム真としてのそれで、ゼットがその場にいなかったのは大阪に行っていたためだろう。
水野愛美が何か言う前に席を立ち、トイレへ向かった。
個室に入り、目を閉じ考えた。何か重大なことが見えてきそうだ。

(501話に続く)

ryuya777 at 10:21コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ!
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