2013年11月
似たものや近いもののやる事や存在そのものが嫌で仕方がない事をこう呼ぶ。私はこの人間の習性とも言うべき特質から我が身を省みたいと思う。
猿が好きだという人はあまりいない。理由は人間の間抜けな姿を演じられているような気がするからだという。これはある意味当たっていると思う。私の知人である人物が好きになれないという人がいるが、これも端から見ればそっくりさんである。(本人はこれを言われるのが一番嫌だと言っていたが…。笑)かく言う私もどうしても好きになれない人がいる。と言うか、存在する事に否定的であると言っても過言ではない。しかし、その中に実は思考回路や嗜好が近いと言う要素がある事は否めない。(勿論それ以外の大きな要素に否定的ではあるのだが…)彼のそんな姿を見ていると、「自分がああなると自分が存在を否定したくなるような人間に自分自身がなるのだ」と思い反面教師にしている部分がある。
人間は言語を使う優秀な生き物かと言えば、実は言語に使われ支配される哀れな生き物であると言う方が正しいと気づく。我々は母語の持つ語彙の範囲を脱する事ができない。外国語を学び理解するという事は、いわゆる新しい視点を学ぶ事であるが、習得するまでには一生を費やすだろう。例を挙げると韓国にはアヒルとカモの区別がない(집오리と물오리と言う言い方はあるが、どちらも中間を表す言葉である)と言う事はアヒルではなくカモでなければ駄目だという感覚は理解しにくいだろう。これは欧米で「rice」が米から苗、稲などすべての状態を表す事と同じである。逆に日本人は「罪」と言う言葉に「sin」と「crime」の違いをどちらも罪だろうと考えてしまうようなものである。
その言葉そのものがない場合もある。アイヌ語には「ピソイ」(掌の小指側の手首より上あたり)と言う単語があるらしい。これは熊の掌のこの部分がおいしいために誕生した名詞らしいが、我々の想像を超越した感覚である。先ほどの例では習得に時間がかかっても理解できるかも知れないが、この例はかなり困難を極めると推測する。もう一つの解釈としてその集団全てにその感覚が存在しないか、全部がその支配下にあり、当たり前すぎて表現する言葉がないと言うケースもある。ステレオタイプに当てはめられるのはこの顕著な例であろう。
相手の嫌なところばかり気になってそれを指摘し続けるのは相手に自分の姿を見ているからである。それを責めると自分の悪行が浄化されるような気持ちがするのかも知れないが、それをそのように解釈するのは自分自身か同一集団の人間だけである。「差別するな」という人が差別をしていて、「反省するべきだ」と言う人が最も反省していないのである。なるほど、「マーフィーの法則」にあったように「他の人ならとっくに怒っているぞ」と言う人が最も怒っていると言う指摘も頷ける。続きを読む
猿が好きだという人はあまりいない。理由は人間の間抜けな姿を演じられているような気がするからだという。これはある意味当たっていると思う。私の知人である人物が好きになれないという人がいるが、これも端から見ればそっくりさんである。(本人はこれを言われるのが一番嫌だと言っていたが…。笑)かく言う私もどうしても好きになれない人がいる。と言うか、存在する事に否定的であると言っても過言ではない。しかし、その中に実は思考回路や嗜好が近いと言う要素がある事は否めない。(勿論それ以外の大きな要素に否定的ではあるのだが…)彼のそんな姿を見ていると、「自分がああなると自分が存在を否定したくなるような人間に自分自身がなるのだ」と思い反面教師にしている部分がある。
人間は言語を使う優秀な生き物かと言えば、実は言語に使われ支配される哀れな生き物であると言う方が正しいと気づく。我々は母語の持つ語彙の範囲を脱する事ができない。外国語を学び理解するという事は、いわゆる新しい視点を学ぶ事であるが、習得するまでには一生を費やすだろう。例を挙げると韓国にはアヒルとカモの区別がない(집오리と물오리と言う言い方はあるが、どちらも中間を表す言葉である)と言う事はアヒルではなくカモでなければ駄目だという感覚は理解しにくいだろう。これは欧米で「rice」が米から苗、稲などすべての状態を表す事と同じである。逆に日本人は「罪」と言う言葉に「sin」と「crime」の違いをどちらも罪だろうと考えてしまうようなものである。
その言葉そのものがない場合もある。アイヌ語には「ピソイ」(掌の小指側の手首より上あたり)と言う単語があるらしい。これは熊の掌のこの部分がおいしいために誕生した名詞らしいが、我々の想像を超越した感覚である。先ほどの例では習得に時間がかかっても理解できるかも知れないが、この例はかなり困難を極めると推測する。もう一つの解釈としてその集団全てにその感覚が存在しないか、全部がその支配下にあり、当たり前すぎて表現する言葉がないと言うケースもある。ステレオタイプに当てはめられるのはこの顕著な例であろう。
相手の嫌なところばかり気になってそれを指摘し続けるのは相手に自分の姿を見ているからである。それを責めると自分の悪行が浄化されるような気持ちがするのかも知れないが、それをそのように解釈するのは自分自身か同一集団の人間だけである。「差別するな」という人が差別をしていて、「反省するべきだ」と言う人が最も反省していないのである。なるほど、「マーフィーの法則」にあったように「他の人ならとっくに怒っているぞ」と言う人が最も怒っていると言う指摘も頷ける。続きを読む
Archives
Categories
Recent Comments
解析君
Profile
龍馬自然堂
スワローズガジェット
お気にいりブログ
Profile
龍馬自然堂
QRコード
訪問者数
- 今日:
- 昨日:
- 累計:
スカウティング関連記事
ブログ鑑定書