人工知能プログラミングの本を執筆中ですが,その第22章は「Elizaまたの名を人工無脳」というタイトルです(20章まではCommon Lispプログラミングの話,21章以下が人工知能の話です).以下は第22章のまとめの節の内容です.
Elizaのしていることは,入力パターンに応じた出力をしているだけで,文の意味を理解しているわけではない.短期記憶も長期記憶も無ければ,世界に関する知識もない.短期記憶がなければ直前の会話の内容を踏まえた応答もできないわけで,人工知能ならぬ人工無脳と言われる所以である.しかし1960年代に作られたElizaは,人間の認知メカニズムについての知見が大きく進んだ現在でも,知能とは何かという根本的な問いを我々に投げかけている.対話エージェントの原型とも言えるこのプログラムに,形態素解析機能をつけ,構文解析機能をつけ,照応解析機能をつけ,意味解析機能をつけたら,それは人工知能と言えるのだろうか?
短期記憶のない認知症の患者でも,一見認知症とは思えないほどの会話のやりとりをするのを見ると,短期記憶のないElizaでもElizaルールを次々と拡張して,一体どこまで行けるのか,軽度の認知症患者を真似るところまで行けるのかという疑問がわく.逆に,何ができれば人工知能といえるのか,Elizaに何を追加すれば人工知能になるのか,記憶は必要だろうが,そのほかの機能は何が必要なのか,一体会話を理解するとはどういうことなのかという疑問も.
一方,この程度のプログラムでも,人間の振る舞いを真似るプログラムに人間の側が大きく動かされてしまうという事実も,人間と人工知能との関係に注意すべき点があるということを教える.会話動作を含めて外見上行動が人間的でありさえすれば,ヒトは人工物でも相手を同類と捉えてしまう.Siriは少し会話を進めるとたちまち馬脚を現わしてしまって,Siriに没入する人はいないが,会話型エージェントの代表格は今では映画「her」に登場するサマンサであろう.この映画では主人公とサマンサとの感情の交流とサマンサの成長・進化が軸となってストーリーが展開していく.つまり,ヒトは人工物と感情の交流が可能であることが前提とされている.この場合問題となるのが個体性の問題である.一見相手は自分と唯一の関係を持っているように見えながら,実はサマンサは同時に8316人の人間と個別の会話をし,641人の自分と同じような恋人がいることを知ったとき,主人公は愕然としてしまう.はたしてエモーショナル・エンジンを持つエージェントに個体性は必然なのか.
人間に分かりやすくするために,対話型システムでは時々擬人化エージェントが利用される.たとえば,映画「A.I.」では歓楽街Rouge Cityの中でどんな質問にも答えてくれるエージェントDr. Knowが登場するが,それはいかにもそれっぽい「博士」みたいな風貌をしているし,スカリー時代のAppleが作ったプロモーションビデオ「Knowledge Navigator」に登場するエージェントは「執事」という位置づけになっている.一方,スタートレックやSpace OdysseyのHALのように,宇宙船全体を統括するような全体制御システムは,インタフェースとしての対話機能があっても擬人化されないようだ.それはシステム全体を代表する存在なのだ.CortanaやSiri APIがデベロッパーにも公開されることになって,改めてこれから知的インタフェースとしての対話機能や個別タスク用擬人化エージェントの研究開発が進むであろうが,1960年代に開発されたElizaは対話機能の原型を提示したものとして,歴史的な意義がある.
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