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涼宮ハルヒの憂鬱「エンドレスエイト」の感想、というより批評・考察に近い内容です。
最初に断っておきますが、この記事は批判するために書いているのではなく、アニメをより楽しめるようにするためです。あしからず。かなり長くなってしまっていますが、お付き合いいただければと思います。

さて、なぜ書こうかと思ったかというと


以下の記事を見つけたからです。
考察シリーズ18 エンドレスエイト考察(もす!さん)
そして、その記事の中にあるリンク
なぜ「エンドレスエイト」は8回続いたか。(茂木健一郎視点)(仮定の不在証明:執事喫茶セントエルモさん)
の記事を読んだからです。
それに対する感想・批評・そして僕自身の考察となっています。どちらかというと作り手側に厳しい意見になっているのは、僕自身がそういう立場にいる人間だからです。

まず、共通している主張は


以下のものです。
アニメがジャンクフード化して、見る方がただなんとなく見ているという状況が出来上がっているのが非常に悪い。
もっと具体的に言うと、本編中の出来事を考え、吟味し、その意味を読み取るという行為をしない。
(もす!さんの記事から引用)

さて、アニメや映画・ドラマ、極端に言うとコマーシャルなどの映像作品を見たときに「意味を読み取っている」人はどれくらいいるのでしょうか? その人が映像関係者なら意識的に、または無意識的にやっていることでしょう。

しかし、ほとんどの人はそのようなことは考えずにただ筋を追い・個別に感想を持って終わります。特にテレビという媒体は映画館で映画を見るのとは異なり対価を払わずに見ているため、その傾向は顕著でしょう。

しかし、それは本当に悪いことなのか?


個人的主張を言わせてもらえるならば、それは悪いことではありません。そうなって当然のように世の中には映像があふれていて、いちいち考えていては疲れてしまいます。全体としてそういう傾向になるのは自然だと思います。人間は楽をしたいもので、安易な娯楽を求めます。その極致が「華氏451度」の世界だといえるでしょう。

もちろん、映像を考えて視聴し、その意図が分かったときには、仮定の不在証明さんの記事で引用されている奈須きのこさんの言葉どおり「その苦労に見合う風景が広がっている」ので、その映像をもっと深く楽しむことができるでしょう。

それでは何が悪かったのか?


それを考えるには「なぜ視聴者がここまで批判したか」を考えなければなりません。

アニメは無条件に与えられる娯楽じゃありません。
制作者たちが頑張りに頑張って作り上げたものです。
(もす!さん)

と書かれていますが、製作者の努力だけではなく、実は視聴者の側も、テレビアニメであっても対価を支払っているのです。それは「時間」。テレビアニメであれば1話で30分、今回のように8回であれば4時間という映画2本分の時間を拘束されているのです。

つまり、なぜ批判が相次いだのか? の結論を言えば対価に見合う利益、つまり「4時間」を消費したわりに「楽しめなかった」ということなのです。ここで言う「楽しむ」とは単純な「興奮」だけでなく「興味深い」という意味も含めています。つまり利益がないと感じたのです。

結局何が悪かったのか?


結論を先に言えば「企画が失敗した」のです。4時間という時間かけた結果、相手を満足させることができなかったのです。

・同じことの繰り返しという、苦しみやフラストレーションにより、そういった(考えないでも娯楽を提供される権利が自分にはあると思い込む)視聴者を振るいにかけたのは明白な事実だろう。
(仮定の不在証明さん)

とありますが、制作者側が絶対にやってはいけないことは「お客を選ぶこと」です。もちろん「メインターゲットとする層」というのは設定しますが、入ろうとする人を拒否してはいけません。

良い作品というのは、間口が広く奥が深いものだと僕は考えます。仮定の不在証明さんの記事の中に
・東のエデンや、うみねこのなく頃になど、その輪(ジャンクフードと化している昨今の娯楽作品)から外れた作品も存在します。


とありますが、「東のエデン」などはサスペンスの常套である「謎が謎を呼ぶ」というジャンクフードの構造の中に主張が少し入っていただけで、視聴者を最後まで引き付けていたのは「ジャンクフード」の部分なのです。

今回の「エンドレスエイト」においても「ラストには凄いことが起こるに違いない」と楽しみにしていた人は多く、最後まで見た人が多かったことは批判の多さからも分かるでしょう。それは今までの「ハルヒ」の面白さや「京都アニメーション」という制作会社の信用もあったのだと思います。しかし、それが裏切られた結果になってしまったため、視聴者は批判したのです。

企画はなぜ失敗したのか?


批判は真摯に受け止めなければいけません。作品は見てもらえなければ意味がないのです。失敗を繰り返さないためにも反省は必要です。

個人的に一番の原因だったと思えるのは以下の理由です

・手抜きに見えた

ほとんど変わらない脚本を8回も繰り返した。このことに視聴者は目新しさを感じず、脚本の労力を削減したもの、とみた、ということです。

絵や演出を毎回変えて手抜きに見えない努力をしていたことは明らかです。しかし、補えきれていなかったのです。絵や演出を毎回変えることは明らかに労力をかけているのですが、残念ながら気づかれにくいところであり、視聴者はあまり気にしなかったのです。

脚本はほとんど同じでも成功しているものもあります。テレビ版エヴァと新劇場版ヱヴァです。脚本はほとんど同じでも、新要素を散りばめることによってうまく視聴者を引き付けています。

また、逆に労力を減らしているにもかかわらず成功している例もあります。細田守監督の「時をかける少女」や「サマーウォーズ」などの作品では、両方とも人物に影を描かないという労力削減をしていますが、キャラクターデザインや演出により全く手抜きに見えていません。

実はこの「手抜きに見えない」というのはなかなか難しいものです。制作には予算や期間が決まっていますが、その中でうまくやらないといけません。そして一番大切なのは「判断するのは視聴者」だということです。制作側がいくら苦労していても視聴者には制作者が苦労している現場は見えないのです。

ということで


個人的な結論とその主な原因を書いたので、最後にアニメを楽しむのに一助となればと思い、ちょっと書いてみます。

エンドレスエイトの最終回のラスト、多くの人はハルヒの「私も行くからね!」でカタルシス(すっきりした感じ)を味わった人は多いと思います。それはなぜでしょうか? もちろん今まで終わらなかったものがやっと終わるというという安心感やBGMの効果もあったでしょう。でも、ここではもう少し細かいところを見てみましょう。

実はこの話数、上に書いてあるラスト付近のシーンまで「ハルヒと視聴者は目が合わない」のです。また、胸をつつかれるまでハルヒと接触しないのです。「ハルヒ」という作品でハルヒの顔を思い浮かべた場合、たとえば「ネクタイを引っ張られているシーン」や「サムデイインザレインのラストのあっかんべー」「モニターをじとっと見つめている」のように見ている人と目が合っているシーンが多いことに気がついている人もいるかもしれません。この作品で多用されている「キャラクターと目が合う」という行為をラストまでやっていないのです。

これにより、ラストで目が合ったときに得る達成感を増やしていると考えられます。また、触られることにより「ハルヒと近い位置にいたい」という視聴者の心理に応える形になっています。

さて、いろいろ書いてきましたが


これで終わりです。アニメを楽しんでもらうため、と最初に書いたにもかかわらず、個人的な考えが主になってしまい申し訳ありません。

楽しみ方は人それぞれですが、これからもアニメや映像作品を楽しんでいきましょう。これを読んでくれた人が、その人にとっての傑作に会えることを願いながら終わらせていただきます。

お付き合いくださいましてありがとうございました。