2015年01月11日

作戦術の起源(4)

4節 ジョミニとアメリカ南北戦争

 ナポレオンの「戦争」は、それまでの「戦争」に比べ、その性質を大きく変えた。それまでの「戦争」では、複数の「キャンペーン」が起こっても、個々の「キャンペーン」は「冬営(冬期の宿営)」によって明確に区分されていた。さらには、「戦闘」は各「キャンペーン」で一度しか起きず、「移動・機動」と「近接戦闘」は分離していた。
 一方、ナポレオンの「戦争」では、「冬営」は廃れ、複数の「キャンペーン」が連続段階的に、もしくは同時並行的に繰り広げられた。「戦闘」も1回の「キャンペーン」で複数回起こり、「移動・機動」と「近接戦闘」は1つの連続した「流れ」になった。ジョミニやクラウゼヴィッツのような軍事理論家たちは、「戦争」のこの新しい性質を説明し、新しい「戦争」ドクトリンを見出そうとしたのである。
 ナポレオンの戦争に軍人として参加したジョミニとクラウゼヴィッツは、国家の存亡を賭けた全面戦争よりも、むしろ政治目標を達成する制限戦争において、「陸軍を如何に運用するか」という課題に関心を抱いていた。この運用の方策(技能・技術)を、ジョミニは「戦略」と言い、クラウゼヴィッツは「戦略の次の段階」と記るした。
 さらに、ジョミニとクラウゼヴィッツは、巨大で強靭な野戦軍の衝突を目の当たりにして、1回の「戦闘」のみで敵陸軍を「撃滅」させることができないこと、そしてそれ故に、複数の「戦闘」と複数の「キャンペーン」の成果を効率的に累積する必要性に気付いた。しかし、累積の効率性を高めるための両者のアプローチは異なっていた。ジョミニは「迅速な機動」を重視する「大戦術」を説き、クラウゼヴィッツは「敵重心の物理的撃破」を重視する「(キャンペーン)戦略」を強調した。
 本節では、ジョミニの「大戦術」の概念と、その影響を受けた「アメリカ南北戦争」における「キャンペーン」の特性を考察し、「大戦術」の要件を明らかにする。クラウゼヴィッツの「(キャンペーン)戦略」の意味と、その影響を受けた「モルトケの戦争」の特性については、節を改めて検討することにしたい。

ジョミニの「戦略」とは、何か
  ジョミニは、戦争術を「戦略」、「小戦術(現在の「戦術」に近い)」、「大戦術(grand tactics)」、「兵站術」、「工兵術」に区分している。彼のこの区分は、本書のテーマである「戦争のレベル(階層)」を意識したものではない。しかし、この区分は、現代の軍事専門家たちに、「戦略」と「戦術」を結び付ける概念、すなわち「作戦」の開発とその適用に関し、貴重な示唆を与えた。というのも、ジョミニは、「戦略」、「小戦術」、「大戦術」の関係を明らかにするとともに、「作戦」を考察する上で必要となる「大戦術」の重要性、さらには「大戦術」と兵站の関係を説いたからである。そこで、本節では、ジョミニの「大戦術」の概念を理解するために、彼の「戦略」の定義、「小戦術」との相異点、及び「兵站術」との関係について焦点を当てることにする。
 まず、「ジョミニの『戦略』とは、何か」から始めよう。彼の「戦略」の定義は、絶対王政時代以前の「戦略」と次の3点で異なる。すなわち、それらは(1)「戦略」の目的・目標、(2)「戦略」を適用する段階(過程)、(3)「戦略」の構成要素である。
 第1の相異点は、「戦略」の達成すべき目的・目標である。絶対王政時代以前における「戦略」の目的、すなわち「戦略」によって達成すべきことは、戦場で「戦闘」を交えることであった。そして、その目標、すなわち「戦略」において達成すべきことは、「戦争」に投入する全部隊を物理的・精神的に良好な状態で戦場まで移動させることであった。
 一方、ジョミニが説く「戦略」では、目的・目標の異なる2種類の「戦略」が存在する。1つ目の「戦略」は、「戦争」計画を策定する上で準拠となる部隊運用策(技能・技術)を意味する。現代の戦略家たちは、この種の「戦略」をしばしば「戦争戦略」と言う。もう1つの「戦略」は、「キャンペーン戦略」と言われるもので、「キャンペーン」計画の準拠となる。
 「戦争戦略」の目的は、政策目標の達成に寄与することである。そして「戦争戦略」の目標は「戦争」戦域(彼我の軍事行動に関連する地理的範囲)に投入された敵全兵力の「撃滅」である。この場合、「撃滅」とは、前節でふれたように、敵国の戦争指導者がじ後の「戦闘」を諦めて政治交渉を決意するほど、敵軍隊の人的・物的戦闘力を減殺することを言う。ナポレオンは、1809年の「オーストリア戦争」で3つの「キャンペーン」の総司令官として、フランス2個野戦軍(14個軍団)を指揮し、オーストリア2個野戦軍(10個軍団)を撃破した。そしてその成果によって、彼は有利な条件での講和条約を勝ち取った。この「戦争」におけるナポレオンの「戦争戦略」はフランス陸軍(2個野戦軍)の運用方策(技能・技術)であり、その目的は、有利な講和条約の成立に寄与することであった。また、その目標は、オーストリア全野戦軍の「撃滅」である。
 2つ目の「戦略」、すなわち「キャンペーン戦略」が追求する目的は、「戦争」目標(敵全野戦軍の「撃滅」)の達成に寄与することであり、「キャンペーン戦略」の達成すべき目標は、個々の「キャンペーン」地域に存在する敵野戦軍等の「撃滅」である。「オーストリア戦争」では、「ポーランド・キャンペーン」の司令官ポニャトスキ元帥と、「イタリア・キャンペーン」の司令官ウジェーヌ皇太子、そして「ドイツ・キャンペーン」司令官のナポレオン皇帝自身が、「オーストリア陸軍の『撃滅』に寄与するため」という「キャンペーン」目的を掲げて戦った。それぞれの「キャンペーン」の目標は、「ポーランド・キャンペーン」では1個オーストリア軍団を、「イタリア・キャンペーン」では1個オーストリア野戦軍(2個軍団)を、そして「ドイツ・キャンペーン」では1個オーストリア野戦軍(7個軍団)をそれぞれ「撃滅」することであった。

 ジョミニの「戦略」と絶対王政時代以前の「戦略」の第2の相異点は、「戦略」を適用する段階(過程)である。絶対王政時代以前には、「戦争」の計画策定とその計画の実施は、野戦軍司令官に任されていた。したがって、「戦争」計画の策定者とその計画を実施する人物は、同一の野戦軍司令官であったのだ。野戦軍司令官が机上で部隊運用策を計画し、自らがその計画を「キャンペーン」地域の状況に合わせて補足・修正した後、実行に移した。
 一方、ジョミニの「戦略」は、「戦争戦略」にしろ、「キャンペーン戦略」にしろ、計画策定時に考え出され、計画に盛り込まれた部隊運用策を指す。ジョミニの言葉を借りれば、「戦略」とは、「地図上で計画される部隊運用策(全野戦軍または各野戦軍の運用方策)」なのだ。机上で策定された「戦争」計画や「キャンペーン」計画に盛り込まれた「戦略」を、戦闘部隊である軍団や独立師団が「キャンペーン」地域で実行に移すが、その部隊運用策は「戦略」とは言わない。

 第3の相異点は「戦略」の構成要素である。前述したように、「戦争戦略」は「戦争」計画の、また「キャンペーン戦略」は「キャンペーン」計画の準拠となる。したがって、「戦略」は「戦争」計画の構想と「キャンペーン」計画の構想でそれぞれ明示される、とジョミニは考えた。
 絶対王政時代以前の「戦争」計画の構想は実質上、「キャンペーン」計画の構想を意味した。というのも、この時代の「戦争」は、「キャンペーン」を行う野戦軍司令官に一任され、しかも「冬営」によって、事実上、1つの「キャンペーン」で終わったからである。また、その「キャンペーン」計画の構想には、「戦争」に投入する全兵力(1個野戦軍)の「移動」と「接敵移動」に関する運用方策が盛り込まれた。したがって、「移動」と「接敵移動」に関する部隊運用策の構成事項が「戦略」の構成要素となった。
 ナポレオン時代の計画作成業務はもっと複雑だ。ナポレオンの「戦争」では通常、複数の野戦軍によって複数の「キャンペーン」が戦われた。くわえて、皇帝自らが「戦争」を計画し、各野戦軍司令官が「キャンペーン」計画を策定した。ジョミニは、「戦争」計画の構想に記載される次のような事項を「戦争戦略」の構成要素とした。「戦争」目的と目標、「戦争」戦域と「キャンペーン」地域、「進攻か、それとも防衛か」といった「戦争」型式、投入総兵力数、開戦日時の他に、各野戦軍の「キャンペーン」の目的と目標、「キャンペーン」地域、「キャンペーン」の根拠地、各野戦軍の「大まかな」行動線等である。
 一方、各野戦軍司令官は、皇帝の策定した「戦争」計画にもとづき、自らの「キャンペーン」計画を策定する。その計画の構想には、自らの「キャンペーン」の目的と目標、自らの「キャンペーン」地域とその根拠地、自らの行動線等の他、隷下戦闘部隊(軍団や独立師団)の運用構想が含まれる。したがって、「キャンペーン」計画の構想に記載されたこれらの事項が、ジョミニの「キャンペーン戦略」を構成する要素になる。

ジョミニの「小戦術」と「大戦術」の相異点
 机上で考え出され、「キャンペーン」計画に記載された部隊運用策、すなわち「キャンペーン戦略」は、隷下の戦闘部隊(軍団や独立師団)に提示され、その実行を命じられる。実行を命じられた戦闘部隊は、その「キャンペーン戦略」を現地の状況に応じて補足・修正し、実行する。ジョミニは、戦闘部隊が実行する部隊運用策(技能・技術)を「戦術」と言い、それを「小戦術」と「大戦術」に区分した。
 「小戦術」は、軍事行動、目的・目標、そして手段が「大戦術」と異なる。軍事行動から見てみよう。「キャンペーン」地域の戦闘部隊が実施する軍事行動は、大別して「移動」、「接敵機動」、「戦場機動」、「近接戦闘」、それに「戦場間機動」がある。このうち、「小戦術」は現在の「戦術」のように、「戦場機動」と「近接戦闘」がその適用領域である。つまり、戦場において戦闘部隊を「戦場機動」させ、「近接戦闘」させる方策、または、その方策を実行する技能・技術を、「小戦術」と言う。
 一方、ジョミニの「大戦術」が対象とする軍事行動は何か。この問いに答えるためには、彼の「大戦術」が、第2節で紹介したギベールの「大戦術」とは異なることを念頭に置かなくてはならない。ギベールの「大戦術」は、1個野戦軍による単一の「戦闘」を想定していた。しかし、ジョミニの「大戦術」は、複数の野戦軍による複数の「戦闘」を想定している。したがって、ジョミニの「大戦術」は、「移動」と「接敵機動」の他、「戦場間機動」に関する戦闘部隊の運用方策(技能・技術)を含む。中でも、「接敵機動」「戦場間機動」に、「大戦術」は焦点を当てている。「移動」よりも「接敵機動」「戦場間機動」を重視する理由は、迅速かつ整斉とした「移動」が戦闘部隊の運用術よりも、むしろ兵站術に大きく左右される、とジョミニは考えていたからである。

 次に、目的・目標の観点から、「小戦術」と「大戦術」の違いを検討しよう。「小戦術」の目的は、「キャンペーン戦略」の目標である「敵野戦軍等の撃破」に寄与することである。そして、「小戦術」の目標は、戦場における「敵部隊の撃破」、もしくは「敵部隊の拘束・遅滞・欺編等」である。
 「敵部隊の撃破」には2種類ある、とジョミニは分析する。1つは、敵の兵員・装備・施設を物理的に殺傷・破壊・捕獲することである。もう1つの「敵部隊の撃破」は、敵の兵員を精神的に無力化することだ。ジョミニによれば、物理的な損傷を課すことによる「敵部隊の撃破」は、「熾烈な戦闘」となり、精神的な無力化による撃破は、「低烈度の戦闘」になると言う。
 「敵部隊の拘束・遅滞・欺編等」の目標達成もまた、「敵野戦軍等の撃破」に寄与する。この目標が「低烈度の戦闘」によって達成できるとは限らない、とジョミニは洞察する。確かに、激しい砲撃だけで敵を釘付けにする「戦闘」は「消耗戦」と言われ、しばしば膨大な人的・物的な損傷を伴う。
 一方、「大戦術」の追求する目的は、「小戦術」の目標を達成に寄与することである。そして、「大戦術」の目標は、敵に対して有利な態勢を「迅速に」確立することである。第1節で記したように、部隊が敵に対して有利な態勢を占めるため移動することを「機動」と言う。「機動」は、戦場における敵部隊を効率的に撃破するのに寄与する、とジョミニは考えた。「機動力」は、敵に対して精神的ショックを与えたり、奇襲をかけたり、さらには包囲攻撃や側背攻撃を可能にしたりするからだ。
 また、「機動」は、「小戦術」のもう1つの目標である「敵部隊の拘束・遅滞・欺編等」にも大きく寄与する。なぜなら、敵は、「不利な態勢に立たされる」と予測する時初めて、強力な兵力を投入したり、自らの行動を停止したり、こちらの行動・能力・企図等を誤認したりするからである。
 さらに、迅速な「戦場間機動」は、効率的な数次の「戦闘」遂行を可能にする。1つの戦場で敵を撃破しても、後退する敵を正面から「押しやる」なら、敵は一部の部隊をもって我の前進を遅滞し、再編成・再補充する時間の余裕を得ることができるだろう。その結果、新たに戦場が形成され、損害はそれだけ増大する。したがって、1つの「戦闘」が終わったら、ただちに「機動」して、敵が態勢を整え終わらないうちに、次の「戦闘」に挑むことが必要である。数次の「戦闘」を効率的に遂行することこそ、「大戦術」の最大の狙いである。

 「小戦術」と「大戦術」の違いの最後のものは、両者の使用する主要手段である。「小戦術」では、戦場における火力と突撃力が主要な手段となる。火力と突撃力は、敵に物理的損害を与えることができる。戦場における機動力も「小戦術」の構成手段であるが、これは、火力との緊密な連携が必須だ。しかも、戦場における「機動」の役割は脇役にすぎない。なぜなら、「戦場機動」の狙いは、大砲の掩護下に、戦闘部隊の小銃を主体とする火力や銃剣を使った突撃力の威力を増大させることができる位置まで部隊を移動させることにあるからだ。
 これに対し、「大戦術」の主要手段は戦場外における機動力である。機動力の大小は、移動する部隊の殺傷性と移動速度によって左右される。殺傷性の高い部隊が大砲の射程外(戦場外)でも、迅速に移動するなら、敵に精神的損害を課すことができる。敵の指揮官や兵士の心理に衝撃を与え、混乱させるのだ。混乱した心理状態は、彼らの判断を誤らせ、感情(例えば、不安、恐怖心、疑心暗鬼)をコントロールできなくする。したがって、熾烈な「戦闘」に訴えることなく、巧妙な「大戦術」、すなわち野戦軍の「戦場外機動」によって、「キャンペーン」を成功に導くことが出来る、とジョミニは説く。彼は書いている。
  「『戦闘』は一部の学者たちによって、「戦争」中もっとも重要、かつ決定的意義を有するものであると説かれ 
 てきた。これは厳密に言えば誤りである。野戦軍が熾烈な『戦闘』を交えることなく、『機動』によって敵を敗退さ せることもある」と。

ジョミニの兵站の概念
 戦争術の第4の区分として、ジェミニは兵站術をあげる。兵站術は、兵站業務(補給・調達・輸送・建設・整備・衛生等)に関し、机上で計画を策定するとともに、その計画を実行する方策(技能・技術)である。その目標は、宿営地や集結地における戦闘部隊(軍団や師団等)とともに、移動する戦闘部隊の戦闘力の維持・増進を図ることである。
 絶対王政時代までの「戦争」における兵站業務は、野戦軍を戦場に移動させるための些細な管理事項にすぎなかった。この時代の兵站業務は単一の「キャンペーン」と単一の「戦闘」を想定して方策を考えさえすれば良かった。その上、現地徴発や略奪による補給品の取得が主流であった。絶対王政時代の傭兵戦争になって、要塞や都市に補給処(補給基地)が設けられた。そこに、軍需品(食糧や飼料が主体)を事前に集積し、兵士が携行するか、前線の部隊が受領に来る方式が出現し、定着したのである。しかし、この方式で補給される部隊は、4〜6万人規模のコンパクトな野戦軍にすぎなかった。要するに、当時の兵站業務は、特別な部隊運用策を考え出すほど複雑なものではなく、また高度な技能・技術も必要としなかったのだ。したがって、指揮官が自軍の行動方針を決定するにあたり、兵站業務が重大な考慮要因になることはなかった。このことは、軍需品の補給・輸送の任にあたる輜重部隊が野戦軍の編制にさえ加えられなかったことからも、うかがい知ることができる。
 一方、ナポレオンの「戦争」では、十数万にのぼる巨大な野戦軍が複数の「キャンペーン」や複数の「戦闘」を生起させた。しかも、野戦軍の運用原則は、「分散機動」と「分散戦闘」である。その上、ナポレオンは戦闘部隊の補給に、現地調達方式のみならず、追送方式(隷下の下級部隊に必要な補給品を送り届ける方式)も採用したため、策源地(兵士の招集や軍需品の生産にあたる地域)や補給処(補給基地)から戦場への補給品の継続的な流れを確保する必要があった。したがって、ナポレオン戦争の経験から、ジョミニは、兵站業務が著しく複雑で、高度の技能・技術を必要とする、と考えたのだ。
 ジョミニはまた、兵站上の問題が戦闘部隊の運用方策に大きく影響する、という認識を持っていた。したがって、彼は兵站に関する重要事項、例えば、「補給処を設置すべきかどうか」「設置するなら、どこに設置すれば良いか」「後方連絡線(策源地や補給処と、戦場を結ぶ交通路線群)をどこに求めるか」等を「キャンペーン戦略」の構成要素に含めるように説いたのである。
 さらに、ジョミニは後方連絡線の防護・切断を、対峙する敵部隊の物理的撃破よりも重視したため、兵站は彼にとって、部隊運用上の重要な考慮事項になった。彼は書いている、「戦争の基本原則のうちの1つは、自らの後方連絡線を危うくすることなく、敵の後方連絡線に大量の戦闘部隊を投入することが重要である」と。

「アメリカ南北戦争」における強靭な編制部隊
 ジョミニの「大戦術」の概念は大西洋を渡り、アメリカ陸軍士官学校ウエストポイントの教育に導入された。ウエストポイントはその後、「アメリカ南北戦争(1861〜1865年)」の両軍に多くの将軍を輩出することになる。したがって、「大戦術」の考え方は南北両軍の司令官たち、特に北軍の司令官たちに大きな影響を及ぼした。彼らは「大戦術」という用語を公式には使用しなかったが、「戦略」レベルと「戦術(ジョミニの『小戦術』」)」レベルの中間に大部隊独特の運用レベルが存在することをジョミニの著作から汲み取った。
 ジェミニの「大戦術」の影響は、「アメリカ南北戦争」の特色である(1)強靭な部隊編制、(2)その部隊による「縦深分散機動」、そして(3)継続的な兵站活動に色濃く表れている。まず、強靭な部隊編制から見てみよう。
 「アメリカ南北戦争」以前、アメリカには、53の「州と地方行政区画」があった。これらの州・地方行政区画の多くは、軍団を隷下に持つ「独自の野戦軍」を配置していた。各野戦軍は各州・地方行政区画の司令官の指揮下に、長期にわたり、独立して「戦闘」を継続できる組織になっていた。野戦軍が独立戦闘能力を保有することは、軍団がそうであったように、一つの野戦軍の「戦闘」における勝利または敗退が「戦争」の結果に決定的な影響を及ぼさないことを意味した。したがって、アメリカの南北両軍は、「大戦術」を遂行する前提条件である「複数の『戦闘』が生起すること」を当初から満たしていたことになる。
 くわえて、南北両軍は、複数の野戦軍を束ねる「軍集団(Army Group)に相当する組織」を設立した。「南北戦争」開始前には、統一された計画の下に各野戦軍を運用する陸軍総司令部がなく、各州・地方行政区画の野戦軍司令官が独自の判断で部隊運用策を決定していた。その結果、「戦争」目的を達成するため、各野戦軍を統合一体的に運用することが出来なかったのだ。陸軍総司令部があれば、各野戦軍の軍事行動を連携させて、効果的な運用、例えば、相乗効果が期待できる運用が可能である。
 「アメリカ南北戦争」開始後、このことにまず気づいたのは、南部連合軍側だった。南軍は、1862年にその領域内に分散配置された各野戦軍を隷下に置く「軍集団に相当する組織」を設立し、ジョセフE.ジョンストン将軍を司令官に迎えた。次いで、連邦軍(北軍)側もその翌年に同じ問題認識から、ユリシーズS.グランド将軍を司令官とする準軍集団を編成した。かくして、南北両軍とも、準軍集団による「キャンペーン」と、野戦軍による「キャンペーン」を遂行する強靭な組織を確立したのである。

「アメリカ南北戦争」における「縦深分散機動」
 ナポレオンの「分散機動・分散戦闘」方式では、複数の「戦闘」が横方向に同時並行的に生起した。一方、アメリカ南北両軍、特に北軍の指導者たちは、複数の「戦闘」を縦深にわたり同時に生起させるよう野戦軍を「分散機動」させた。   
 「縦深分散機動」と言われるこの「機動」は、ある戦場において敵部隊と「戦闘」を交えている間に、主力または一部をもって戦場の域外に大きく迂回させ、敵部隊の後方、奥深くに別の戦場を同時に求めることである。ナポレオンも、同一戦場内の部隊を2つに区分し、区分した一方の部隊を迂回させたが、彼の場合、戦場内での迂回に限定された。区分された一部または主力を別の新たな「戦闘」のため、戦場外で機動させることはなかったのだ。というのは、戦場外での機動が実施される頃には、当初の「戦闘」は終わっているからである。
 軍事史上、最初の「縦深分散機動」は、「アメリカ南北戦争」の中盤に起こった「チャンセラーズヴィル・キャンペーン」において、北軍の「ポトマック野戦軍」司令官ジョセフ・フッカー少将によって行われた。1863年4月27日のことである。この日、ヴァージニア州フレデリックスバーグでロバートE.リー大将の率いる南軍と対峙していたフッカー少将は、隷下の5個軍団を2つに区分し、1個軍団をもって正面の南軍を拘束させるとともに、残りの4個軍団を戦場外に4日間迂回機動させた。その狙いは、リー軍の背後70キロ・メータの奥深い地域に別の「戦闘」を同時に生起させ、リー野戦軍を撃破することにあった。
 南北両軍の司令官たちは、「機動」が「戦闘」の成否を決めることをジェミニの著作から読み取っていた。だからこそ、彼らは、兵力分離のリスクを冒してまで、戦場外での「縦深分散機動」を行ったのである。
 「縦深分散機動」の成功は、「機動」を「キャンペーン」における支配的な軍事行動に浮上させた。「機動」によって有利な態勢を早期に占めれば、奇襲攻撃や、包囲・側背攻撃が出来る。したがって、相対的に劣勢な部隊でも優勢な部隊を撃破し、「戦闘」に勝利することが可能になるのだ。したがって、南北両軍の司令官たちはしばしば、「キャンペーン」の中間目標として、「機動の自由」の確保を掲げた。つまり、「機動の自由」を確保することによって、「キャンペーン」の最終目標である「敵野戦軍等の撃破」を達成する「戦略」である。そして、この中間目標の達成に寄与するために、「戦闘」が仕掛けられた。この種の「戦闘」は、ジョミニが指摘したように「敵部隊の撃破」を狙ったものではないが、「熾烈な戦闘」となった。例えば、「南北戦争」最大の砲撃戦であり、したがって最大の消耗戦であった「ワイルダネスの戦闘(1863年)」に見ることができる。この「戦闘」において、北軍グラント将軍隷下の部隊は、リッチモンドへのグラント将軍の「機動」を容易にするために「戦闘」を行い、南軍リー将軍は、グラントの「機動」を阻止するために「戦闘」を開始したのである。

「アメリカ南北戦争」における継続的兵站
 「アメリカ南北戦争」の第3の特色は、「継続的な兵站活動」の追求である。「南北戦争」では、ナポレオンの兵站方式を適用できないことが、戦争の当初から明白であった。ナポレオンの兵站方式は、「キャンペーン」地域で軍需品を現地徴発する方式と、行動開始以前に軍需品を集積した補給処から追送する方式の併用であった。しかし、「南北戦争」の戦争戦域では、これらいずれの方式も採用できなかった。というのは、両軍とも、現地徴発や事前集積が可能な友好的ないしは中立的な地域を進攻先に求めることができなかったからである。そこで、両軍は、移動する部隊および戦場周辺に集結する部隊に対して、南北両軍の領域内にある策源地から軍需品を荷馬車に載せて運ばなければならなかった。この荷馬車による追送補給方式では、大部隊の移動に時間がかかり、また集結した大部隊への兵站支援が十分にできない。そこで、南北両軍は輸送手段として鉄道を使用した。
 鉄道は、南北両軍の将軍たちに兵站の価値を認識させた。第1に、鉄道は、キャンペーン地域における部隊移動を著しく迅速にし、大部隊による奇襲を可能にした。米国は、「アメリカ南北戦争」までに、世界のどの国よりも多くの鉄道レールを敷設していた。したがって、「南北戦争」では、最初から大規模な鉄道輸送が行われた。この戦争で最初の「キャンペーン」となった「マナサス・キャンペーン(1861年6月1日〜7月21日)」において、南軍のジョンストン少将隷下の野戦軍は鉄道輸送によって、50キロ・メータ離隔したボーレガード准将隷下の野戦軍をわずか24時間で増援したのだ。従来の徒歩移動では、少なくとも2日を要したであろう。この結果、両軍の兵力比が逆転し、南軍がこの「キャンペーン」で勝利をおさめた。
 第2に、鉄道が長距離移動を可能にしたことから、部隊は、徒歩移動よりも物理的に非常に良好な状況でキャンペーン地域内に到着できた。鉄道移動は兵士の疲弊を最小限度に抑えることができることから、部隊士気の低下をくい止めることもできる。
 第3に、鉄道は、従来の戦争では常に分断されていた兵士と家族との絆を回復させるのにも貢献した。鉄道を利用すれば、戦闘で負傷した兵士たちは、野戦病院で苦しまなくてもすむ。彼らはすみやかに家へ帰され、家族の見守る中で回復することができる。また、兵士たちは、休暇をとって一時的に帰郷することも可能である。さらには、手紙を鉄道で輸送することによって、前線の兵士と彼が残した家庭は、精神的に繋がる。
 最後に、鉄道は、継続的な大部隊の移動と補給を可能にした。動員した兵士や生産した軍需品を戦場の野戦軍に対して継続的に供給することによって、長期にわたる「移動」や「機動」、それに「戦闘」が遂行できるようになったのである。「南北戦争」は、「戦争」の長期的継続を可能にした最初の戦例であったと言えよう。
 鉄道が「戦争」における兵站の役割を著しく増大させたため、南北両軍の将軍たちは、行動方針を決定するにあたり兵站上の要因を常に考慮するようになった。このことは、「メリーランド・キャンペーン(1862年9月4日〜20日)」、「ゲティスバーグ・キャンペーン(1863年6月3日〜7月24日)」、「チカマウガ・キャンペーン(1863年8月21日〜9月20日)」、さらには「アトランタ・キャンペーン(1864年5月7日〜9月2日」)等における将軍たちの状況判断を見れば明らかである。
 1862年9月4日、リー将軍隷下の南軍(北バージニア野戦軍)は北軍の領域を占領するためメリーランド州に侵攻した。「メリーランド・キャンペーン」の始まりである。これに対して、北軍司令官マクレラン将軍隷下のポトマック野戦軍は、北軍領域内へ侵攻してきた南軍を撃退するための一連の「戦闘」を行った。1862年9月16日の夜、マクレラン北軍司令官は、「キャンペーン」最大の激戦になると予想する翌日の「戦闘」を開始すべきかどうかの決定を迫られていた。彼は、特に弾薬が底をつくことを特に心配し、大至急、弾薬を列車で輸送するようにワトソン戦争副長官に打電した。マクレランは、弾薬を載せた列車が17日に出発することを確認して、「戦闘」の続行を決断した。かくして、アメリカ合衆国の歴史上、一日の「戦闘」として最も流血の多かった「アンティータムの戦闘(1862年9月17日)」が起こった。
 翌年の「ゲティスバーグ・キャンペーン」でも、鉄道は決定的な役割を果たした。南軍司令官リー将軍は北軍の領地メリーランド州とペンシルバニア州を占領するため、2度目の北部侵攻を開始した。これに対抗する北軍の司令官はミード少将である。両将軍とも、ゲティスバーグが鉄道や主要道路の交差点であり、そこを占領できれば「戦争」を有利に進められると見ていた。つまり、ゲティスバーグは補給と部隊増強の要所だと洞察して、「ゲティスバーグの戦闘(1863年7月1日〜3日)」に両将軍は臨んだのだ。
 事実、「南北戦争」最大の激戦となった「ゲティスバーグの戦闘」の勝敗を決めた最大の要因は、鉄道輸送能力の差であった。北軍のミード将軍は、「キャンペーン」開始前の5倍の鉄道輸送能力を確保して「ゲティスバーグの戦闘」に臨んだが、南軍のリー将軍は、現地調達方式を捨て切れなかった。結果は、兵站支援に行き詰まった南軍の敗退である。
 「チカマウガ・キャンペーン」では、南軍(テネシー野戦軍)司令官ブラクストン・ブラッグ大将は、ジェームズ・ロングストリート軍団(北ヴァージニア野戦軍の2個歩兵師団と1個砲兵大隊)がリッチモンド(南軍の首都)から増援に駆けつけることを確信して「チカマウガの戦闘」を開始した。ロングストリート軍団は11日間、1500キロ・メートルの列車輸送の後、この「戦闘」に加入し、南軍に勝利をもたらした。
 兵站における鉄道の役割を最も劇的に示す事例は、シャーマンの「アトランタ・キャンペーン」である。シャーマン自身の言葉を借りよう。
   ナッシュビルから南方へ伸びる長さ473マイルの鉄道幹線は、1864年5月1日から11月12日まで196日  間に10万人の兵士と3万5000匹の馬からなる野戦軍を補給した。普通の荷馬車でその量の食物と飼料を  輸送するなら、3万6800台の荷馬車を必要としただろう。それだけの台数の荷車を使用する道路輸送は不  可能であった。したがって、「アトランタ・キャーペイン」は、鉄道なしでは成功しなかった、と私は断言する。
 
 「キャンペーン」における兵站の重要性を認識した南北両軍の司令官たちは、後方連絡線の防護と切断を狙った部隊運用を展開するようになった。幾つかの戦例を列挙して見よう。(1)「メリーランド・キャンペーン(1862年)」での南軍の「キャンペーン」目標は、ワシントンD.C.に物資を供給する鉄道を遮断することだった。(2)同「キャンペーン」で、南軍の司令官リー将軍はメリーランドに侵攻した時、まず北軍武器庫守備隊を攻撃し、自軍の補給線に対する脅威を取り去る決断をした。(3)「チャンセラーズヴィル・キャンペーン(1863年)」においても、北軍の司令官フッカー少将は、「縦深分散機動」に任ずる迂回部隊のうち、有力な一部を南軍の後方に送ってその首都リッチモンドからフレデリックスバーグを結ぶ後方連絡線を混乱させようと考えた。(4)「チカマウガ・キャンペーン(1863年)」では、北軍司令官ローズクランズ少将は、南軍の補給線を脅かすことで、要衝チャタヌーガから南軍を追い出そうとした。(5)ワイルダネス・キャンペーン(1864年)では、南軍は補給処を守るとともに、そこから戦場まで伸びる補給線を確保する必要性から北軍の領域に攻勢を仕掛けた。

 「キャンペーン」を計画・実行するにあたり、ジョミニと「アメリカ南北戦争」の将軍たちは、共通の認識を持っていた。それは、政治目標を達成するためには、複数の「戦闘」の成果を効率的に累積する必要があること、そして「戦闘」の効率的な累積を可能にするため、「大戦術」という「戦争のレベル」が極めて重要である、という認識である。その「大戦術」レベルの要件として、第1に、「大戦術」レベルが「戦略」レベルと「戦術(ジョミニの「小戦術」)」レベルの中間に存在する別個のレベルであること、第2に、「大戦術」の狙いが「分散機動」と「迅速機動」による「戦闘」への寄与にあること、第3は、「大戦術」では、兵站の継続的支援と、その防護・切断能力が不可欠であることを挙げた。これらは、現在の「作戦」を構成する要件でもある。


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2014年10月09日

作戦術の起源(3)

三節 ナポレオンの「大戦術」
 
 
 1793年までに、フランスは大部分のヨーロッパ諸国と戦争状態になっていた。「フランス革命戦争」が始まっていたのである。このため、ヨーロッパ諸国は、フランスを皮切りに徴兵制度を採用し、かってない規模で人的資源を動員した。さらに、産業革命は、この人的資源が装備する兵器を大量に生産し、大衆軍隊の時代を到来させた。兵器テクノロジも産業革命によって進歩し、兵器の殺傷性が増大した。
 大部隊の誕生と殺傷性の増大は、19世紀の軍事術、特に軍隊運用術に大きな影響を及ぼした。密集隊形による狭い戦場での「戦闘」は幕を閉じ、広正面に離隔・分散した大部隊による交戦が出現したのだ。司令官の直接指揮の下で「1つの塊り」で行動する野戦軍の時代は、過ぎ去ったのである。「戦争」のこの大変革期に、軍事的天才といわれる皇帝ナポレオンが現れた。
 ナポレオンは第1次イタリア遠征(1796年)から彼の没落(1815年)まで、10数回に及ぶ戦争を経験した。各「戦争」では、数個の「キャンペーン(戦役)」が、各「キャンペーン」では複数の「戦闘」が起こった。したがって、「戦争」と「キャンペーン」は、絶対王政の時代と違い、明確に区分される。
 ナポレオンの戦争を「キャンペーン」の形態で区分するなら、1809年の「オーストリア戦争」を境として、前半期と後半期に分けることができる。前半期の戦争では、ナポレオンは「キャンペーン」において「1つの決定的戦闘」での勝利を追求した。しかしながら、複数の「戦闘」が連続段階的に起きるとともに、最後の「戦闘」が決定的な「戦闘」になった。
 一方、後半期における戦争では、「キャンペーン」地域内で「戦闘」が横方向に同時並行的にも起こった。これら複数の「戦闘」の同時生起が、ボーセットやギベールの指摘した「『機動(接敵機動と戦場機動)』と『戦闘』の連結」とともに、「大戦術」という種子の土壌となり、「作戦」や「作戦術」という果実に結実するのである。

集中とスピードを重視した「大戦術」
 
 1789年に始まった「フランス革命」は、ブロイ、ボーセット、ギベール等の提唱する軍事改革案の実現に拍車をかけた。1790年には、師団編制が採用され、翌年には、カラム隊形(戦闘縦隊隊形)がマニュアル化された。さらに、ギベールの「大戦術」がナポレオンによって実際の「戦争」に適用された。
 ナポレオンは「戦略」という用語よりも、「大戦術」を好んで使ったと言われる。それほどまでに、彼はこの「第3の領域」を重要視した。本節では、ナポレオンの「大戦術」の特質と、その特質が「キャンペーン」に及ぼした影響について検討してみよう。
 ナポレオンの「大戦術」は、彼の戦争の前半期(1796〜1807年)と後半期(1809〜1815年)で、その性格を大きく変えている。ナポレオン戦争の前半期の「大戦術」は「兵力の集中」と「『移動・機動』のスピード」の重視、後半期は「分散機動」が特色である。まず、前半期における「大戦術」から見ていこう。
 ナポレオン戦争の前半期、彼は「兵力の集中」を第1の原則として掲げた。敵に勝る大量の兵力を戦場に集中して敵を取り囲み、その戦場離脱を阻み、「戦闘」に巻き込む。その上で、密集した敵野戦軍を1回の「戦闘」で二度と立ち直れないまでに、その戦闘力を低減させようとした。つまり、「1つの決定的戦闘」に勝利しようというものだ。現代の軍事理論家たちの表現を借りれば、1回の「戦闘」で敵全軍の「殲滅」または「撃滅」を企図したのだ。
 「殲滅」と「撃破」は明白に異なる。前者は、相手部隊がじ後の「戦闘」が不可能なほどに、その戦闘力を低減させることを言う。したがって、「殲滅」は戦争目標の達成に直結する。ここで言う「戦闘力の低減」とは、人的な殺傷や物的な破壊だけを意味するものではない。殲滅は、一般用語としては「皆殺し」の意味で使用されるが、軍事用語としての「殲滅」は、捕虜や兵器の獲得を含む。一方、後者、すなわち「撃破」も、一般用語の撃破とは違い、一定の期間だけ「戦闘」ができない程度に敵部隊を殺傷・破壊・捕獲することを言う。したがって、「撃破」された敵部隊は「戦場」から敗退しても、時間がたてば、再編成・再補充され、次の「戦場」で再び「戦闘」を交えることができる。ナポレオンは対フランス同盟軍を、数回の「撃破戦闘」ではなく、1回の「殲滅戦闘」で軍門にくだし、有利な停戦協定を結ぼうとした。このために、彼は部隊の集中使用が最も重要と考えたのである。
 ナポレオンの兵力集中方法は、「戦場機動」を開始する直前に、部隊を「集結」させることに大きな特色がある。「接敵機動」してきた野戦軍を戦場周辺に「集結」させた後、「戦闘」に挑ませる。このナポレオンの兵力集中方式は、ブロイ元帥の考えとは大きく異なっている。前節で紹介したように、ブロイは離隔して「接敵機動」してきた各師団を直ちに密集したコルドン隊形(縦深の浅い横隊隊形)に展開させ、「戦場機動」に移行することを想定していた。しかし、ナポレオンは「戦場機動」に先立ち、野戦軍の集結地を設け、その中で隷下の各師団を相互支援距離内(隣接師団が1日で支援に駆けつけられる範囲)に離隔・分散して配置したのだ。そして、各師団は、集権的に指揮・統制された。つまり、ナポレオンの下では、自らのイニシアティブで自主的に行動したり、広域に分散したりすることは許されなかったのである。
 何故、ナポレオンは「戦場機動」に先立ち、彼の野戦軍を師団ごと集結させ、集権的に統制したのか。それは、兵力を重点正面に集中的に投入するためである。彼は集結地域のおいて、野戦軍を「攻撃戦闘に任じるグループ」と「阻止・拘束戦闘に任じるグループ」に再編成した。圧倒的な兵力を重点正面の攻撃(現在の「主攻撃」)」に充当し、非重点正面では、兵力を最小限に切り詰め、敵の阻止・拘束・抑留・欺へん等(現在の「助攻撃」)に任じさせた。ナポレオンの言葉を借りれば「戦争術(軍隊運用術)とは、劣勢な野戦軍であっても、攻撃点ないしは攻撃されている点に、敵よりも多くの部隊を常に投入する技能・技術である」と。
 ナポレオンの重点正面は、敵配備の翼側である。やむをえない場合のみ、中央正面に優勢な兵力を集中した。主力による翼側攻撃は、敵の戦場離脱を阻むとともに、「1つの決定的戦闘」による戦勝を可能にする。というのは、翼側攻撃に成功すれば、別の師団を投入して敵の側背に回り込んで包囲できるからだ。包囲された敵は、戦場離脱ができず、「殲滅」される。「殲滅」されれば、敵は二度と立ち直ることができないため、降伏することになる。
 敵の中央正面を突破する場合にも、ナポレオンは一部の部隊をもって翼側攻撃を併用した。翼側攻撃部隊は、敵の「戦闘」回避を阻止するとともに、中央正面における突破を容易にするからである。翼側攻撃の脅威に晒された敵は、中央正面に配置した部隊を一部引き抜いたり、予備隊を投入したりして翼側を強化せざるをえない。当然、中央正面に配備された敵の戦闘力は低下する。そこで、ナポレオンは中央突破を試みた。突破に成功したなら、突破正面に別の師団を投入、戦果を拡張し、戦場において敵部隊を「殲滅」する。かくして、敵国が戦争を継続できなくなるほどの圧倒的勝利、つまり、決定的な「戦闘」による勝利を収めることができる、とナポレオンは考えたのである。
 前半期におけるナポレオンの「大戦術」の第2原則は、「移動」と「機動」のスピードである。ナポレオンにとって、「移動」「機動」のスピードも、敵を「戦闘」に巻き込むため、さらには「1つの決定的戦闘」における勝利を得るための要件であった。ナポレオン軍の兵士たちは、「皇帝陛下は新しい戦い方を考えだされた。陛下は銃剣のかわりに、われわれの足を武器として使用される。」とささやいた。また、ナポレオン自身、次のように述べてスピードの重要性を強調する。「(戦争術とは、)時間と地域とを活用する技能・技術である。私は地域よりも、時間を大切にする。地域は取り返せるが、失った時間は、取り戻せないからだ」と。
 ナポレオンは「移動」と「接敵機動」を速めるため、前節で紹介したブロイ元帥の提案を取り入れ、各師団を相互支援内に離隔した経路上を前進させた。敵よりも出来るだけ早く戦場に到着することは、極めて重要である。交戦に必要な準備時間を得るだけでなく、敵に対して有利な態勢を占めることができるからだ。敵に先んじて、敵の側面を突く位置やその後方連絡線を遮断し易い位置に集結地を確保できるなら、包囲攻撃を仕掛け易い。つまり、敵は「戦闘」を回避する機会を失ってしまう。また、「戦闘」に先立って、小高い丘陵地帯を占領できれば、「戦闘」を有利に展開できる。
 「移動」と「接敵機動」だけでなく、「戦場機動」においても、ナポレオンはスピードを重視した。このため、ナポレオンは、鈍重なコルドン隊形よりか、カラム隊形で各師団を「戦場機動」させた。何故、彼は「戦場機動」におけるスピードを強調したのか。
 コルドン隊形の敵は、ナポレオンの翼側攻撃や突破攻撃に全力で対処し、雌雄を決するか、さもなければ、脅威の比較的少ない部隊から逐次に戦場を離脱し、後図を策すであろう。雌雄を決する場合、翼側攻撃や突破攻撃に対処するため、脅威を受けていない部隊から部隊を引き抜いたり、予備隊を投入したりして、脅威を受けている正面を増援する。この場合、包囲や突破攻撃の成否は、攻撃部隊の「戦場機動」速度が敵の増援速度よりも優越しているかどうか、に掛かっている。一方、離脱を図る敵に対しては、これを拘束・抑留するため、迅速な「戦場機動」と果敢な攻撃行動が必要である。進撃を停止して、射撃態勢をとろうものなら、敵は易々と離脱してしまう。

 対フランス同盟軍もまた、「フランス革命戦争」の間、軽快・迅速に行動でき、一定期間、「戦闘」を持続できる師団編制を導入した。しかしながら、同盟軍側はナポレオンのカラム隊形とは異なり、各師団を従来通りのコルドン隊形で「戦場機動」させた。この方式では、師団の火力発揮が容易な反面、脅威を受けている師団は、脅威を受けていない隣接師団から迅速な支援を得ることが難しい。隣接師団は前面の劣勢部隊との交戦や欺へんに拘束・抑留されるため、一部を引き抜き、増援部隊として転用しにくいからだ。その上、コルドン隊形では、前述したように機動速度が遅く、脅威を受けている師団への適時適切な増援が難しい。
 師団を編成するだけでは、ナポレオンに対抗できないことを悟った対フランス同盟国の軍隊は、コルドン隊形からカラム隊形に転換する。翼側を延伸・増強したり、突破口を閉塞したりするため、師団をカラム隊形で「戦場機動」させて、迅速に対処しだしたのだ。
 対フランス同盟軍による師団編制とカラム隊形の採用に対抗するため、ナポレオンは1802年に軍団の創設を開始し、「1つの決定的戦闘」方式の有効性を証明しようとした。師団よりも高い機動力と強力な打撃力、さらには「強靭力(相当の損耗を出しても、長期間持ちこたえる能力)」を持つ軍団が編成されたのだ。1805年にナポレオンが創設した「大野戦軍(Grande Armee)」は7つの軍団から構成されていたが、それぞれの軍団は、2〜4個歩兵師団、1個軽騎兵師団(または旅団)、約40門の火砲を保有し、工兵と補給部隊が組み込まれていた。この「大野戦軍」なら、師団編制のままであった他のヨーロッパ諸国の野戦軍に対し、「1つの決定的戦闘」で勝利して戦争目的を達成することができる、とナポレオンは確信していたようだ。しかしながら、現実には、「1つの決定的戦闘」ではなく、数次の「戦闘」が連続段階的に生起した。対フランス同盟国軍の師団編制も、それなりの強靭力をもっていたので、「撃破」されても、「殲滅」されることはなかったのである。
 たしかに、ナポレオンは彼の「大戦術」と「大野戦軍」によって、敵を「撃破」することができた。つまり、敵が1つの戦場における「戦闘」を継続できない程度にまで、その人的・物的戦闘力を低減させることはできたのだ。しかし、「撃破」は出来ても、「殲滅」は出来なかった。じ後の「戦闘」までも不可能なほど、敵の戦闘力を殺傷・破壊・捕獲できなかったのである。包囲は敵の強靭な抵抗を受けたし、戦果の拡張を狙う追撃は戦場の内だけで、戦場の外では成功しなかった。兵站が続かなかったからである。
 それでも、連続段階的な一連の「戦闘」で対フランス同盟国軍を「撃破」した後、最後の「戦闘」では、「殲滅戦闘」に持ち込むことができ、対フランス同盟国を降伏させたのである。1805年の「オーストラリア戦争」における「アウステリッツの戦闘」や、1806〜1807年の「ドイツ・ポーランド戦争」における「フリーラントの戦闘」がその好例である。しかし、この方式、すなわち、複数の「戦闘」の後に決定的な「戦闘」で勝利し、戦争目標を達成する方式は、「ドイツ・ポーランド戦争」を最後に二度と起きることはなかった。

「分散機動」を重視した「大戦術」
 1805年、オーストリア軍を皮切りに、対フランス同盟各国も強靭力を備えた編制、軍団の編成を開始した。この結果、ナポレオンのこれまでの「大戦術」、すなわち、集中と速度を重視する「大戦術」は陰りを見せ始めた。そこで、ナポレオンは従来の「大戦術」を大きく修正する。
 ナポレオンが新たに考え出した「大戦術」は、「分散機動」方式である。軍団を寄せ集めて、集中的に運用するのではなく、広正面(相互支援外)に離隔・分散して移動・機動させたのだ。広正面にわたり離隔・分散した機動の狙いは、どこにあるのか。たしかに、彼は、前節で紹介したボーセット学校長の指摘、すなわち、「『分散機動』が敵の戦場離脱を難しくする」ことを期待した。しかし、ナポレオンの考える「分散機動」のより重要な狙いは、敵の分離・分断を誘って、各個に撃破することである。
 ナポレオンは予測し、かつ期待した。広正面に離隔・分散して機動するナポレオンの野戦軍に直面した敵の野戦軍司令官は、隷下の各軍団をナポレオンと同様に、大きく離隔・分散させて対峙せざるを得ない。敵は否応なしに、分離・分断させられる。その結果、野戦軍と野戦軍が一度に交戦できなくなり、代って、各軍団が独立して交戦するようになる。つまり、1つの「キャンペーン」で、複数の「戦闘」が横方向に同時並行的に起こるようになるのだ。離隔・分散は当然、リスクも伴う。ナポレオンは隷下の全軍団の状況を把握できなくなるだろう。しかし、各軍団長に指揮を分権するなら、集中とスピードに卓越したナポレオン軍は、横方向に分離・分断した敵の各軍団を各個に撃破できるチャンスも出てくる。
 分離・分断した敵軍団の各個撃破を狙うということは、複数の「戦闘」を覚悟しなくてはならない。ナポレオンは、「分散機動」の「大戦術」を採用することによって、「1つの決定的戦闘」を断念したのだ。そして、「キャンペーン」の最後に起こる決定的な「戦闘」で「戦争」目標を達成するように、幾つもの「戦闘」を計画することになったのである。
 ナポレオンのこの新「大戦術」に対して、横方向に分離・分断された対フランス同盟軍側も、軍団編制によって強靭な「戦闘」を同時並行的に繰り広げることができた。さらに、産業革命による大砲の殺傷性の増大が、ナポレオンの翼側攻撃に対する頑強な抵抗を可能にした。この結果、対フランス同盟軍は「包囲殲滅」されることはなく、最悪の場合でも、次の「戦闘」への余力を残して、戦場を離脱した。そして、次の戦場での新たな「戦闘」に備えた。 
 このようにして、1809年以降のナポレオン戦争では、「キャンペーン」地域において、数次の「戦闘」が縦深にわたり連続段階的に起こるだけでなく、横方向にも複数の「戦闘」が同時並行的に生起した。加えて、いずれの「戦闘」も決定的な「戦闘」にはならず、ただ相互に殺傷・破壊し、疲弊するだけの「消耗戦闘」となった。「戦争」の勝敗は、部隊運用の成否よりも、国家の潜在的な戦争遂行能力に大きく左右されるようになったのである。
 1809年の「オーストリア戦争」は、横方向への同時並行的な「戦闘」と縦深にわたる連続段階的な「戦闘」が共存する複数「戦闘」の典型的事例である。この「戦争」で、ナポレオンは3つの「キャンペーン(ポランド・キャンペーン、ドイツ・キャンペーン、イタリア・キャンペーン)」の総司令官であったが、自らは「ドイツ・キャンペーン」のみを直接指揮した。「ドイツ・キャンペーン」では、フランスとオーストリア両野戦軍は、1809年4月20日の「アペンスベルクの戦闘」に始まり、10数回に及ぶ軍団規模の「戦闘」を交えた。このうち、緒戦において、3つの「戦闘」(「アペンスブルクの戦闘」「ラティスボンの戦闘」「エックミュールの戦闘」)がほぼ同時並行的に起こったのだ。
 その上、これらの3つの「戦闘」は、約100キロメートルの広正面にわたって繰り広げられた。このため、ナポレオンは、彼の前半期の戦争とは全く異なる指揮方法を必要とした。前半期に起こった「アウステリッツの戦闘(1805年)」」や「イエナ・アウエルシュタットの戦闘(1806年)」の「戦闘」正面幅は30キロメートル前後にすぎなかったから、ナポレオンは全戦況を自ら目視・確認して、状況を把握し、迅速に処置できた。しかし、後半期に起こったこれら3つの同時並行的な「戦闘」はあまりにも広正面であったため、ナポレオンは全戦況を直接把握することができなかった。このため、彼は全体の計画(現在の「全般作戦計画」)を隷下の各軍団長に対して事前に周知徹底するとともに、「戦闘」にあたっては、彼らの状況認識を信じ、そのイニシアティブを期待した。一語で言えば、「指揮の分権」である。
 ナポレオンが全体計画で重視したことは、「分散機動」の他、「敵主力との優先的『戦闘』」や「内線の利」の追求等である。これらの重視事項は、「指揮の分権」とともに、今日の「作戦」を構成する主要要素と考えられている。
 ここで言う「敵主力との優先的『戦闘』」とは、広く分離・分散した敵軍団の中から、その主力部隊を構成する軍団をいち早く特定し、これをまず叩きのめすことである。この間、他正面の敵部隊に対しては、必要最小限の兵力をもって所望の期間、拘束・抑留させる。敵の主力部隊は敵軍の物理的・精神的な強さの要(かなめ)である、とナポレオンは考えた。主力部隊が健在であるかぎり、敵は各種の方策を案出し、実行する物理的手段や戦闘意思を持ち続ける。反対に、主力部隊が撃破されるならば、他の残余部隊が健在であっても、強靭な「戦闘」を継続できない。士気が急激に低下するからである。クラウゼヴィッツは後になって、この要(かなめ)となる部隊や地点を「重心(Center of Gravity)」といったが、まさにナポレオンは敵の「重心」を探し求めたのである。
 「内線の利」とは、敵の兵力分離に乗じてこれを各個に撃破できるというものである。これを追求する要領は次の5段階を経る。(1)分離・分散して機動してくる敵野戦軍の中から、最も脅威となるか、または撃破が容易な敵部隊を特定し、(2)これに戦闘力を徹底的に集中して、迅速にこれを撃破する。次いで、(3)横方向に分離した残余の敵部隊に向かって迅速に転進する。この間、(4)この残余の敵に対して必要最小限の兵力をもって所望の期間、拘束・抑留させる。そして(5)転進してきた部隊と拘束・抑留に任じている部隊とが合体して、残余の敵部隊との新たな「戦闘」を交える。

 ナポレオンは、10数回に及ぶ戦争で大変革を経験した。古典的な「戦争」では、戦場における殲滅的勝利が追求された。たしかに、「1つの塊り」の野戦軍が壊滅的敗北を喫すなら、もう1つ別の「戦闘」を行って挽回することはできない。しかしながら、ナポレオンの戦争が示すように、このような「戦争」方式は終焉を迎えた。「戦争」は今や、まず縦深にわたり連続段階的に、次いで横方向に同時並列的にも起こるようになったのだ。この結果、「戦争」目標を達成するため、これら複数の「戦闘」の成果を活用する方策や技能・技術を必要とした。この方策(技能・技術)こそが後になって、「作戦(作戦術)」と言われるようになる。したがって、複数の「戦闘」が同時に起こることは、「作戦」の必須条件であったと言える。
 後世のナポレオン研究者たちは、彼の輝かしい戦歴の前半期に焦点をあてるため、どうしてもこの間の連続段階的な「戦闘」、すなわち、各独立した「戦闘」におけるナポレオンの部隊運用策や指揮要領について分析する傾向がある。この結果、後半期に起こった同時並行的な「戦闘」が軍事術にもたらした影響については、考察が不十分になり易い。
 また、ナポレオン以後の多くの軍事指導者たちは、彼の前半期における「キャンペーン」があまりにも鮮やかであったため、「ナポレオンを見倣いたい」という願望を抱くようになった。特に、戦争を迅速に終えるため、ナポレオンの「1つの決定的戦闘」を理想的なモデルとして、彼らはこれを追求したのだ。 
これらの理由から、西側の軍事指導者たちは「作戦(作戦術)」と「戦術」を明確に区別することに最近まで失敗してきた。作戦レベルの軍事行動が必要とする独特の機能、つまり複数の「戦闘」を統合する機能の必要性に気付かなかったのだ。「『1つの決定的戦闘』によって戦争を終えたい」という願望は、現在も多くの将校の心に残っており、「作戦」や「作戦術」の理解をじゃましていると言えるかもしれない。



2014年08月17日

作戦術の起源(2)

       「大戦術」の開発 
 
 絶対王政時代の末期になると、フランス軍の指導者たちは、野戦軍を密集集団で運用し、「戦闘」を回避する従来の戦争方式を批判し始めた。そして、彼らは、(1)野戦軍を分割し、分散して運用することによって、(2)「移動・機動」と「戦闘」を結合させることが重要であり、そのために、(3)戦略と戦術の他に、第3の領域である「大戦術(grand tactics)」を開発する必要があると説いた。この「大戦術」の考え方が、今日の「作戦」や「作戦術」の土壌となったのである。

「移動・機動」における野戦軍の分割と分散運用
 絶対王政時代の軍事行動の問題点として、フランスの啓蒙的な将軍たちが第1に取り上げたことは、野戦軍の鈍重さである。野戦軍を1つの密集した集団として運用する従来の方式では、部隊の規模が大きくなればなるほど、「移動・機動」に、それだけ時間を要する。行動の迅速性が失われてしまうのだ。実際、絶対王政時代の末期には、人口の増加、産業革命の生起、重商主義・啓蒙主義の普及等の影響を受け、野戦軍は肥大化した。このため、野戦軍の鈍重さが浮き彫りになった。そこで、フランス軍の指導者たちはまず、野戦軍を迅速かつ整然と「移動・機動」させるための編成を考えた。つまり、「戦術」ではなく、「戦略」に焦点を当てて考えたのだ。 
 先鞭をつけたのは、ビクター・ド・ブロイ元師である。ブロイ元帥は1760年、「移動・機動」のための野戦軍の編成について検討し、野戦軍を2〜3個旅団から成る数個の「司令部機能を持った集団(師団と呼称される)」に分割することを提唱した。師団編制は、フランスのモーリス・デ・サックス元帥によって1757年にその著『空想』の中で紹介されたのが最初である。しかし、サックス元帥の師団は彼の著のタイトル「空想」が示すように、アイディアの提示にすぎなかった。一方、ブロイ元帥は、サックスのアイディアをもとに実験的な師団を編成し、肥大化して扱いにくい野戦軍の分割を国王に訴えたのである。
 さらに、ブロイ元帥は師団ごとの離隔前進、つまり各師団が別々の経路を使い、並列して戦場へ「移動」し、次いで「接敵機動」する案を説いた。確かに、巨大な野戦軍が1本の経路を1列縦隊で行進するよりも、むしろ各師団が指定された各々の経路を行進する方が、戦場に早く着く。ただし、「接敵機動」間、不意に強力な敵と遭遇し、各個撃破されないように、各経路上の師団は、相互支援が可能な距離内(隣接師団が1日のうちに支援に駆けつけられる範囲内)で前進することが肝要である、と元帥は考えた。
 野戦軍は戦場に到着したなら、路外に展開し、「戦場機動」に移行するが、展開完了後の隊形は従来と同様、密集横隊を元帥は想定していた。つまり、到着した縦隊の各師団を逐次に横方向へ移動させ、線状に「師団の間隔なし」で展開する「コルドン隊形(縦深の浅い横隊隊形)」をとった後、野戦軍は一斉に「戦場機動」に移行するのである。
 この想定の下、元帥は、各師団が離隔した経路を「接敵機動」してきた縦隊からコルドン隊形に移向する利点を次のように説いた。「離隔した数本の経路を行進する師団の縦隊は、一本の経路を行進する野戦軍の縦隊が戦場で左右に分かれ、横方向に展開するよりも、迅速・簡単である」と。確かに、野戦軍が縦隊から路外に展開する従来の方式では、展開に時間がかかりすぎる。10数万人にのぼる野戦軍にあっては、「戦闘」の数日前に展開を開始することが必要であった。これでは、演練を積んだ宿敵プロシャ軍に遅れをとる。

「移動・機動」と「戦闘」の連結
 絶対王政時代の戦争方式が抱える第2の問題点は、「移動・機動」と「戦闘」の分離である。野戦軍を肥大化させたのと同じ要因が、絶対王政時代の「『戦闘』を伴わないキャンペーン」を批判する将軍たちを台頭させた。彼らは、戦争目的が1地方・地域の領有にあるのではなく、哲学的観念の擁護・普及、さらには国家の独立と主権の保持にあると考えた。また、彼らは、人口の増加や富の蓄積、さらに産業革命の生起によって、今や国家は「戦闘」による相当の損害も許容できる、と確信するようになっていた。その代表的人物がフランス軍参謀学校の校長ピエール・デ・ボーセット大将である。
 ボーセット大将は、「移動・機動」と「戦闘」が分離する戦争方式を否定し、「戦闘」のために好ましい状況をつくり出す野戦軍の「移動・機動」の必要性を訴えた。ボーセット大将の主張は、ブロイ元帥の師団編制による離隔行進を前提にしていた。大将は、各師団が縦隊で「移動・機動」する地形を検討し、ブロイ元帥の提案、つまり各師団が並列した経路を縦隊で「移動・機動」する案を支持したのだ。大将は1771年の著作の中で「山の多い地形を迅速に通過するためには、野戦軍を分割し、並列した数本のルートを使用して『移動・機動』せざるをえない」と書いている。彼は、山地でも、平地でも迅速・整然と前進できる「共通の移動・機動方式」を模索していたのである。
 その上で、ボーセット大将は、各師団を相互支援距離外(一日のうちに隣接師団が支援に駆けつけられる範囲外)に行進・展開させ、独自の戦線(戦闘正面)を形成させるべきだ、と主張した。つまり、野戦軍を「一つの塊り」で運用するよりも、むしろ師団ごとに大きく離隔させ、そのまま「戦闘」に突入させるべきだというのである。
 ボーセットの考え方は、ブロイと大きく異なっていた。ブロイの提案は各師団を相互支援距離内に並列して「接敵機動」させるのに対して、ボーセット案は、各師団を大きく離隔させ、相互支援距離外で「接敵機動」させるものである。加えて、ブロイの提案は、「戦場機動」の段階で、各師団が野戦軍の一翼を形成するものであるが、ボーセットの案では、師団は独立的に行動し、野戦軍司令官による直接指揮を受けないのだ。つまり、各師団を、広正面にわたり「分散機動」させるのである。広正面にわたる分散機動とは、野戦軍のような大部隊が小部隊に分割(ボーセットの場合、師団に分割)され、その分割された部隊が相互支援距離外で大きく離隔して機動することを言う。
 次に、ボーセット大将は野戦軍を分割した部隊の内部編制、すなわち、師団の内部編制に着目した。前述したように、彼は、師団が野戦軍という密集集団の一部分として行動するよりも、師団ごとに散らばり、独立的に行動すべきだと考えていた。したがって、師団は一定の期間、野戦軍から支援を受けなくても戦闘ができる自己完結能力をもつ部隊であるべきで、そのためには、師団は各種の職種部隊(歩兵、騎兵、砲兵、工兵等)や兵站部隊から構成されるべきだ、と説いた。このような師団は、戦場に到着した後でも、師団独自の戦線を形成し、かなりの期間、激しい「戦闘」に耐えることができる。簡単に言えば、強靭な部隊になる。
 広正面にわたる師団毎の分散機動の利点として、ボーセット大将は次の2点をあげた。第1に、敵は「戦闘」を避けることが難しくなる。各師団が異なる方向から「接敵機動」を行い、そのまま「戦闘」を求めて「戦場機動」をするなら、敵は後退方向が限定され、戦場離脱が難しくなる。いとも簡単に「戦闘」を回避する絶対王政時代の「悪しき戦争方式」に終止符を打つべきであり、そのためには、「接敵機動」「戦場機動」の段階から布石を打っておかなくてはならない、と大将は考えたのである。
 ボーセットが挙げたもう1つの利点は、敵の野戦軍は多正面からの脅威に晒されることから、その指揮・統制が混乱するという点である。確かに、部隊の指揮・統制は、1個の敵より数個の敵に、1方向の敵より数方向の敵に対処しなければならない場合の方が、より複雑になるだけでなく、受動に陥り易い。
 広正面の分散機動は、ボーセットの指摘するこれら2つの利点にとどまらず、最も重要な第3の利点をもっていた。その利点は、フランスの皇帝ナポレオンに大きな影響を及ぼしたコント・デ・ギベール大将によって説かれるところとなった。
 ギベール大将の指摘する第3の利点とは、兵力の重点指向が可能になることである。彼は、広正面に分散機動する各師団に対し、それまでのように同一の戦闘任務ではなく、別々の戦闘任務を付与することを提唱した。ある師団は攻撃戦闘に任じ、別の師団は敵を拘束・抑留、あるいは防御戦闘を遂行するために使用される。そうすれば、「決定的な地点」に対して兵力を集中し、兵力的優勢をつくり出すことができる。これは、各師団に同じ戦闘任務を付与するボーセットの考えとは大きく異なる。
 さらに、ギベールは、決定的な地点に優勢な兵力を集中するには、各師団の「戦場機動」における機動速度が重要であることに気付いた。戦場において、野戦軍はその一部をもって敵を拘束し、主力をもって決定的な地点に機動しても、その機動が鈍重であるなら、敵は拘束されている部隊の一部をすみやかに引き抜き、決定的な地点に配備した部隊を増強することができる。
 それにもかかわらず、従来のコルドン隊形では、地形障害や集落の存在によって「戦場機動」の速度が著しく低下してしまう。加えて、機動中の隊形維持が難しく、しばしば、停止して隊列を整えなくてはならない。そこで、ギベールは、進撃が従来のコルドン隊形よりも速くできる「カラム(戦闘縦隊)」という師団の隊形を考えだした。カラム隊形とは、横隊の大隊を縦深に配置した縦隊隊形で当初進撃し、敵に近接したところで、縦隊のままで銃剣突撃するか、横隊に組み直して射撃するかを決定するものである。
 要するに、ボーセット大将やギベール大将は、「移動・機動」と「戦闘」を連続した流れと考えた。したがって、「移動・機動」の段階から「戦闘」を考えて部隊を運用することを提唱したのだ。この考えは、大部隊の運用策に関するギベール大将のより重要な貢献である「大戦術」に受け継がれていく。

「戦略」・「大戦術」・「戦術」
 ギベールは1772年、「戦闘」と連結する「移動・機動」の方策または技能・技術を表す用語として、「大戦術」を使用した。古典的な「戦略」の定義は、野戦軍という大部隊を単に「移動・機動」させる方策ないしは技能・技術を意味したから、「戦闘」との連結を目指す「大戦術」は、「戦略」を超えるものである。また、「戦術」は単に「戦闘」、すなわち、戦場という狭い範囲内で敵部隊を殺傷・破壊する方策ないしは技能・技術を指したから、「移動・機動」を含む「大戦術」は、「戦術」を超えるものでもあった。ギベールは言った。「大戦術」は野戦軍総司令官の技能・技術であり、すべての軍事行動や武器・編成に関する知識を修得して初めて発揮されるものだ、と。
 「移動・機動」と「戦闘」の関係が分離から連結に変化することは、戦争の大変革を意味する。絶対王政時代までの戦争、すなわち古典的な戦争においては、両者は別物で、明白な関連性を持っていなかった。つまり、「移動・機動」の状況がどうであろうと、総兵力の数的優位や兵士の質的優位が「戦闘」の勝敗を決すると考えられていた。戦争は「一つの塊り」と「一つの塊り」の激突であったから、敵の弱点正面に兵力を集中して有利な状況をつくり出すことなど念頭になかった。アレキサンダー大王やジュリアス・シーザーといった名将たちも、敵に不利な態勢で「戦闘」を強いることはできなかったのだ。この結果、「移動・機動」は、将軍たちにとって、簡単な軍事行動であり、周到な計画も、適時適切な判断も、必要としなかった。
 絶対王政時代の将軍たちもまた、前節で述べたように、「移動・機動」と「戦闘」を分離して考えた。彼らは「戦闘」をしないで、「移動・機動」だけで戦争目標を達成することを競っていた。このため、「移動・機動」と「戦闘」の関係性があまりなかった。当時の「移動・機動」の目標は、有利な態勢を確立することであって、敵軍を撃破することではなかったのである。
 しかし、師団に区分される野戦軍の運用について論じたギベールの著作は、「移動・機動」と「戦闘」の間に密接かつ明白な関係が存在することを記している。彼は、「戦闘」で勝利するためには、「如何に『移動・機動』するか」が鍵であることを指摘し、「戦闘」の観点から「移動・機動」の要領を考えるべきだと説いた。換言すれば、「移動・機動」の失敗を「戦闘」の成功によって補うことは至難であると言うことになる。
 ギベール大将の「大戦術」は、「戦略」と「戦術」の他に、両者を結ぶ第3の領域が存在することを示唆する。「戦略」は野戦軍という大部隊を「移動・機動」させる方策(技能・技術)であり、「戦術」は「戦闘」の方策(技能・技術)だ。そして「大戦術」は、「戦闘」と連結する「移動・機動」の方策(技能・技術)である。この「大戦術」の考え方は、軍事的天才と言われたナポレオンによって実際の戦争に適用されたのである。


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2014年07月04日

作戦術の起源(1)

      絶対王政時代の戦争方式

はじめに
 2000年に及ぶ軍事史において、戦略と戦術という用語は古くから定義され、軍隊の組織や運用に反映されてきた。しかし、作戦はヨーロッパにおいて、17世紀の終わり頃から、つまり絶対王政の時代から使用され始めたにすぎない。 しかも、当時の作戦は、部隊規模の大小にかかわらず、戦争におけるもろもろの軍事行動や部隊運用策を意味する一般用語であった。野戦軍が移動することも、小隊が戦闘することも作戦と表現されていたのだ。作戦が特定かつ特異な機能を意味しなかったため、作戦術という概念も出現しなかった。
 絶対王政時代の軍事行動や部隊運用策が、どのような特色を持っていたか、そしてその特色が今日の「作戦」や作戦術の誕生にどのような係わり合いをもっていたのか、あるいは、もっていなかったのか。これらが本節の命題である。これらの命題に取り組むために、絶対王政時代の軍隊の編制について少々ふれておこう。

部隊の「移動」と「機動」
 絶対王政時代、国王や将軍たちは小さくて高価なプロの軍隊を創設した。いわゆる、傭兵による常備軍である。その編制上の最大の部隊は、野戦軍(しばしば「軍」と略称される)で、一個野戦軍の兵力は4〜6万程度あったと言われる。野戦軍の編制は、戦争によって異なる「積み木方式(ビルディング・ブロック方式)」である。絶対王政時代において、編制が常時固定された最大のブロック部隊(基礎となる単位部隊)は、連隊であった。数個連隊が集まって旅団になり、6〜8個旅団で野戦軍を構成するのであるが、連隊の数や旅団の数は戦争によって変化した。つまり、旅団や野戦軍は臨機応変(アド・ホック)に編成されたのだ
 戦争ともなれば、野戦軍は敵部隊に接近するため、国内の駐屯地または営舎を出て行進を開始する。戦役(キャンペーン)の開始である。キャンペーンとは、戦争目的を達成するため、部隊が行う一連の軍事行動のことを言う。絶対王政時代にいたるまでのキャンペーン、つまり古典的なキャンペーンでは、大別して「移動」「機動」「戦闘」の軍事行動が含まれた。しかし、絶対王政時代のキャンペーンでは、「戦闘」が必須ではなかつた。そもそも、キャンペーンという用語は、ラテン語の田園地方または野外を意味するキャンパスに由来する。このラテン語から、絶対王政時代になって、軍隊が駐屯地または冬期用営舎から野外に出て、キャンピング(野外行動)することをキャンペーンというように変化したのだ。したがって、絶対王政時代には、軍隊が「移動」「機動」するだけでも、キャンペーンと言ったのである。
 駐屯地等を出た野戦軍は行進と宿営を繰り返しながら、敵部隊の一部(警戒部隊や偵察部隊等)との接触が予想される地域まで行軍を続ける。この行軍を「移動」と言う。「移動」を行う野戦軍は、行進のための隊形で一本の経路を行進し、行進経路に沿って集結・宿営した。行進のための隊形は数列の密集した縦隊である。
 野戦軍は、敵部隊の一部と接触するおそれがある場合、「移動」から「接敵機動」に移行する。「接敵機動」とは、敵部隊の一部による襲撃を警戒しつつ実施する行進と宿営を意味した。この行進では、先頭を行く旅団が敵部隊の一部を発見すると、その旅団が路外に展開して、横隊で前進する。他の旅団や砲兵・工兵部隊は、先頭旅団の掩護下に路上を数列の密集縦隊のままで前進する。敵部隊の一部を駆逐したなら、先頭旅団は再び路上に戻り、警戒を強めながら、数列の密集縦隊で前進する。
 野戦軍は、敵主力部隊との「戦闘」が予想される地域(戦場という)に近づくと、戦闘のための隊形(戦闘隊形)に移行する。絶対王政時代の戦闘隊形は通常、方陣の密集隊形か、横に長く、縦深の浅い横隊の密集隊形(コルドン隊形)であった。「接敵機動」の隊形から戦闘隊形への移行を戦闘展開と言うが、この戦闘展開には時間がかかった。4万人から成る野戦軍の展開には、ゆうに一昼夜を要するほどだった。
 戦闘展開を完了した野戦軍は、敵主力部隊との交戦を予期して、戦闘隊形(方陣またはコルドン隊形)で前進を開始する。この前進は「戦場機動」と言われる。つまり野戦軍という大部隊が「一つの塊り」として前進したのだ。密集隊形は、統制・調整が比較的容易である。なぜなら、集団内部を統制・調整するため、大声や太鼓の音で指揮官の意図を伝え、その実施状況を指揮官が直接視認できるからである。また、密集隊形は兵士の高い士気を維持するうえからも好ましい。個々の兵士にとって、相互に分散して前進するよりも密集集団で前進する方が仲間意識を増大させ、しかも恐怖心を抑えることができる。

「移動・機動」と「戦闘」の分離
 「戦場機動」の目的は、絶対王政時代の戦争と、それ以前の戦争とでは大きく異なる。しかしながら、どちらの時代においても、「移動・機動」と「戦闘」が分離していた点では、同じである。このことは、両時代の「戦場機動」の目的と、「移動・機動」と「戦闘」の関係を考察することで明確になる。
 絶対王政時代の「戦場機動」の目的は、「戦闘」のための有利な態勢を確立することであった。なぜなら、絶対王政時代の野戦軍は展開した後、血なまぐさい「戦闘」をつとめて回避するようになったからだ。「戦闘」のための態勢を有利にすることを狙って、敵の周辺を機動するか、敵の城や砦を取り囲むだけ(攻囲と言う)で、敵に撤退を余儀なくさせようとしたのである。もし「戦場機動」によってのみで戦争に勝てるならば、「戦闘」を求めて敗北のリスクまで冒すことはない。逆に、「戦場機動」で不利な状況に立たされた側、例えば、戦場を展望できる丘陵地帯を先取されたり、後方連絡線を切断されそうになったりした側は、この戦場での「戦闘」を回避して、いとも簡単に後退することができた。そして、別の季節に新たな戦場を求めたのだ。したがって、「戦闘」はまれにしか起こらなくなった。
 また、絶対王政時代の将軍たちは、敵の将軍と同意の上、戦争間、「戦闘」を行うことなく、長期にわたり「機動」のみに明け暮れることもあった。 この場合、疲弊した側が休戦を提案して、そのシーズンの戦争を終わる。 要するに、絶対王政時代の将軍たちの最高の腕前は、「戦闘」を行わず、敵の裏をかくことであったのだ。したがって、その時代のキャンペーン領域では、「移動」や「機動」が広範囲に行われたが、「戦闘」はまれにしか起こらなかった。「戦闘」が起こったとしても、それは一回きりで、決定的なものではなかった(死傷者は相当でたらしいが)。このことから、18世紀頃の「戦場機動」は「戦闘」から分離していたことが分かる。
 一方、絶対王政時代以前の戦争、つまり古典的な戦争では、「戦場機動」の目的は「戦闘」に挑むことであって、有利な態勢を占めることではなかった。なぜなら、地形や彼我の位置関係が「戦闘」に決定的影響を及ぼすことは、めったになかったからである。ほとんどの「戦闘」が密集集団同士の正面衝突であったため、「戦闘」の勝敗は「戦場機動」の方法というよりも、むしろ野戦軍の総兵力数、保有する武器の量と質、それに兵士の格闘技能の優劣と士気の高い低いによって大きく左右された。つまり、戦争目的の達成に大きく寄与する軍事行動は、「戦闘」そのものであったのだ。このことは、「戦場機動」と「戦闘」が分離し、「戦闘」が最も重要な軍事行動であったことを意味する。
 「戦場外機動」と「戦闘」についても同じこと、すなわち、両者間の分離が言える。確かに、絶対王政時代には、戦場を迂回して、その後方奥深くの要衝に進出する「戦場外機動」がしばしば行われている。しかしながら、占領した要衝を基盤にして「戦闘」に打って出ることは、ほとんどなかった。また、追撃という「戦場外機動」は、ほとんど見られなかった。
 古典的戦争では、追撃がしばしば起こったが、それは、「戦闘」の後に続く軍事行動であって、次の「戦闘」に挑むための「機動」ではない。「戦闘」で勝利した側は、追撃して戦果を拡張しようとするが、次の「戦闘」を予期し、新たな「戦闘」の生起を阻止するために追撃するのではなかった。また、「戦闘」で敗北した側は戦場外に退却するため、後退行動をとるが、それは敗退であって、次の「戦闘」への移行のための後退行動ではなかったのである。

「移動・機動」の重視
 「戦闘」が避けられ、「移動・機動」が流行するようになった第一の理由は、「戦闘」が短時間で、驚くほどの損害を伴ったことだ。絶対王政時代以前の戦争の歴史を紐解いて見ると、「戦闘」は一回のキャンペーンで、一度だけしか起こらず、しかも決定的な「戦闘」であったことが分かる。つまり、当時の将軍たちは「一つの決定的戦闘」に勝利して、戦争目的を達成しようとしてきたのだ。「一つの決定的戦闘」とは、敵軍が一回の「戦闘」で敗北を喫するなら、二度と立ち上がれないような「戦闘」をいう。その「一つの決定的戦闘」は、前述したように密集隊形の野戦軍によって行われた。密集隊形の「戦闘」であるから、戦場地域が3〜4平方キロメーターを超えることは、めったになかった。 狭い戦場地域に密集集団で激突した結果、短時間で膨大な損害を出した。したがって、国の運命は、しばしば「戦闘」開始日の午後には決定されたのである。
 絶対王政時代になっても、時折起こる「戦闘」では、交戦国は大きな損害を短時間で被った。例えば、7年戦争(1755〜1763年)の「トルゴウの戦闘」では、フリードリヒ大王が率いるプロイセン軍5万人は、その3〇%にあたる1万5000人を一日で失ったと言われている。
 第二に、絶対王政時代の戦争は、制限戦争であったことだ。戦争目的の多くは、国境周辺における領土帰属といった係争を解決するため、有利な取引を狙うものである。国の存亡をかけての闘争などというものは、ほとんど見られなかった。したがって、「戦闘」による短期間での膨大な損害は、戦争における「戦闘」の地位・役割を著しく低下させることになり、その結果、「移動・機動」が追求されるようになったのである。
 第三の理由は、軍隊の造成と維持に膨大な費用を要したことである。傭兵の常備軍には一年中、給与を支払わねばならない。また、損害がでれば、それを補充するのに多額の出費を必要とする。このため、当時の国王や将軍たちは、自軍の損害を少なくし、それでいて敵の国庫を涸渇させることが戦争に勝つための効果的な方法だと考えた。そこで、敵を絶えず機動させることによって敵の資金を消費させ、それが涸渇し始めた段階で、交渉によって係争事項を解決しようとしたのだ。
「移動・機動」が流行するようになった今ひとつの理由として、給養方式の変化があげられる。30年戦争(1618〜1648年)の苦い経験とそこから抽出された教訓から、兵士による略奪が禁止され、補給部隊による補給によって野戦軍は給養された。この給養方式では、前線に補給倉庫が設けられ、その補給倉庫と国内の生産地を結ぶ補給路が指定された。そこで、敵の補給路を断つように機動することが、当面の敵部隊を退却させる最も効率的な方法になった。また、補給倉庫は通常、城や砦内、あるいは要塞化された町に設置されたから、これらへの攻囲が頻繁に行われた。城や要塞都市を何日も包囲された敵は、食糧が底を尽き、士気が低下する。このため、敵は「戦闘」を交えることなく、それらを明け渡すことになったのである。

おわりに
 「戦闘」を回避する傾向は、絶対王政時代の軍事行動の一大特色である。この傾向によって、この時代の将軍たちは、古典的な戦争を行う将軍たちと同様、「移動・機動」を「戦闘」から切り離して考えた。つまり、彼らは、「移動・機動」と「戦闘」という2つの行動を連続した流れと考えなかったため、「移動・機動」の結果を「戦闘」の帰結に結びつける方策を模索しなかったのだ。
 「移動・機動」と「戦闘」の分離は、戦略と戦術の分離を意味する。戦略は、部隊を「移動・機動」させる方策ないしは技能・技術、戦術は「戦闘」させる方策ないしは技能・技術と定義されていたからである。あらゆる軍事行動を戦略と戦術のみに区分し、両者を結びつけようとする知的活動の欠如は、「第三の領域」の開発を遅らせた。
「作戦」の概念が醸成されるには、「移動・機動」と「戦闘」は不可分の関係にあるという認識が必要である。そのような認識が軍事思想家の間に芽生えたのは、18世紀の後半、すなわち絶対王政時代の戦争が黄昏を迎え、フランス革命戦争が地平線にぼんやりと現れる頃であった。要するに、絶対王政時代の戦争方式は、「作戦」を生み出す土壌を提供しなかったと言えよう。


2013年05月11日

軍備管理とは何か

軍備管埋と防衛政策

1、はじめに
(l)研究・教育者としての理念:進取の精神の涵養
このため、
       パラダイム・シフトに焦点を
  本講義でも、軍備管理に関する幾つかのパラダイム・シフトを提示
(2)「軍備管理とは何か」「軍備管理政策の将来」について考えてみる
(3)講義の順序 
 ・軍備管理政策とは何か
 ・軍備管理における軍隊の主要な役割
 ・軍備管理と安定化の概念  
 ・軍備管理政策の将来

2、軍備管理政策とは何か
(1)外交政策の一部
  軍事政策とは、区分
ア、軍縮政策と同意語  
イ、軍事政策に関する国家間取り決めとその履行:協定・条約の締結
  という外交交渉と、協定・条約の順守のための諸行動
  軍人アドバイザ論、
why
 ・軍人の専門的知識・技能は外交交渉とほとんど関係ない。
しかし、
 ・軍備管理政策を立案・実施する上で、軍人の「暴力の管理」が有益
EX モスクワにおける海上信頼醸成措置協定
   EX 査察
(2)軍事政策の一部
  軍備管理の目標を追求する軍事政策
ア、軍備管理の目標
 適正な軍備の存在を前提としている。
 ・「安定化」を通じて、武力紛争生起の可能性を少なくする   
  軍備を増強することによって、より安定した軍事環境を構築することも
  可能。
 ・もし紛争が生起したなら、その紛争による破壊を少なくする。
  付随的損害の極小化
 ・軍事費を出来るだけ少なくする。
イ、一方的軍備抑制政策、多国間で暗黙の了解がある軍事政策を含む
      EX 非核3原則、憲法9条、シビリアン・コントロール 
  
3、軍備管理における軍隊の役割
 情報化時代における軍隊観
                      図表1、「軍隊の任務に関するモデル」
(1)戦闘集団論
ア、伝統的軍隊観
                      図表2、 「上田埼玉県知事の新聞記事」
 ・仙谷官房長官の「暴力装置発言」
 ・日本型シビリアン・コントロールの根拠
イ、軍備管理に対する見解
 ・一般国民:軍備管理=軍縮
 ・自衛官の態度:反対か、無関心、消極的関与
(2)戦闘中核論   
ア、中心的機能は戦闘であるが、それだけでは、強力な戦闘機能を発揮できない   
 ・社会との接点(環境適応機能)    
 ・非戦闘機能は余技
 ・自衛隊的思考:
                     図表3、 「隊友会相談役;隊友の記事」
イ、軍備管理に対する見解
 ・一般国民:他国との協定論者
・自衛官の態度:消極的関与
(3)多機能集団論    
ア、新軍隊観        
 ・専門的知識・技能は「安定した国際関係・国内環境を樹立する
  ための知識・技能」
 ・軍備管理、危機管理、平和維持、復興支援、災害救助、麻薬取
  り締まり、海賊取り締まり活動を遂行する    
 ・部隊運用、装備、訓練・教育、編成に反映    
 ・軍隊機能に優先順位をつけるか、戦闘と非軍事を
  統合一体化して機能を発揮させる。
イ、軍備管理に対する見解
 ・軍事政策は、
    軍備管理の概念と純(伝統的)軍事の概念を統合一体化したもの。  
    「現代において、純軍事政策というものは存在しない。」
 ・自衛官の態度:積極的関与
(4)21世紀の米軍の考え方
   米国高級軍人と日本の軍事専門家(含む自衛官)の「軍備管理思考」
   比較
EX. 陸幕防衛部長と米国防大学学校長の会話
 ・自衛隊の2/3を北方機動させることの危険性
 ・SSM部隊の偶発事故による戦争生起の可能性

4、軍備管埋と安定化の概念
  軍備管理の三大目標のうち、冷戦時代、核兵器の軍備管理で
  最も重視された目標。
(1)「危機の安定化」
ねらい:危機時においても、先制攻撃のインセンチブを出来るだけ抱か
     せないような軍事関係を構築
要領:敵対国双方が、「先制攻撃は必ず失敗し、しかもその損害はぼう
   大なものになる」ということを相手に予測させる態勢(「安定し
   た抑止」態勢)を確立  
 ・軍人の専門的知識が不可欠(購読課題)
(2)「軍備競争の安定化」
ア、 軍備競争の種類
 ・現状打破の軍備競争:相互に「軍事的劣牲を回避し、優位に立と            
  う」とする軍備競争   
 ・現状維持内の軍備競争:一方は、優位を維持し、他方は劣勢              
  の程度を縮めるための軍備競争
イ、「軍備競争の安定化」のねらい  
 ・現状打破の軍備競争を回避
 ・「軍事的劣牲を回避するため、軍備を増強する必要がある」とい
  う認識を出来るだけ抱かせないような軍事関係の構築 
ウ、「軍備競争の安定化」の2大前提
 ・軍事的劣牲を回避しようとする軍備競争(現状打破の軍備競
  争)は激烈である。
 ・激烈な軍備競争のみが戦争になる。
  つまり、現状打破の軍備競争は戦争になる。 
エ、現状打破の軍備競争を回避するための着意事項
 (ア)最悪の事態を想定しない:リスク計算をする
    ソルズベリ卿の言葉
     「医者に言わすと、健康に役立つものは、何もない。
      聖職者に言わすと、罪のない人はどこにもいない。
      法曹家に言わせば、法を厳守している人は誰もいない。
      そして軍人に言わせれば、安全なところはどこもない。」
 ・理論と実際の相違
  国防の論理:最悪の事態
  政策の論理:蓋然性
 (イ)軍備競争をもたらす国家の属性を理解せよ
・国家は、他国からの脅威に対して敏感であるため、
 軍事的劣勢意識をもちやすい。
 国家は、自国を軍事的に「劣勢である」、
あるいは「劣勢になる」と考えやすい。
・国家は、自らが他国に及ぼす脅威については鈍感であるため、
 軍事的劣勢を回避したいと考え易い。
 「軍備を増強し、劣勢を回避すれば、
安全がより保障され影響力も増大する」と考える。
 

5、損害限定化の概念    
(1)抑制する損害の種類
 ・伝統的損害限定
  味方の損害: Ex.友軍相撃の防止
 ・情報化社会の損害限定
  相手の損害
  付随的損害 (EBO:ネガティブな影響を考慮)
(2)損害の抑制手段
ア、兵器体系
   Ex. 大量破壊兵器の開発・保有・使用、非人道的兵器の使用禁止、
      PGMの保有
イ、運用法
   Ex. 正面攻撃の回避、
     作戦レベルの重視(戦闘の成果を戦略目標の達成に
     巧みに連結させる)


6、軍備管理政策の将来  
  RMAの追求によって、軍備管理の目標は変化するか
(1)危機の安定化は崩れるか
  非対称戦の追求によって、先制攻撃の誘因が増大するか 
 ・先制攻撃の優位性
 ・大量破壊兵器の先制使用の脅威
 ・A2AD作戦      
   想定:米軍が適時適切にその戦力を戦場に投入した場合、
       その圧倒的な軍事的・技術的優位から通常戦では対抗できない
   目的:作戦領域への米軍の進出を遅滞させる
 ・ASB
   想定:敵の先制攻撃に対処できれば、紛争を抑止できる
   目的:敵の先制攻撃を阻止
(2)軍備競争の安定化は崩れるか
 激烈な軍備競争は起こるか
 他国は、米国のRMA軍を情報兵器の革命的進歩ととらえ、
 これに対抗するRMA軍隊の創設を希求
(軍事的劣勢を回避=現状打破の軍備競争)した場合   
 ・情報型RMA軍化は激烈な軍備競争にならない。     
 各国とも、情報型RMA軍化で劣勢に立っており、この状態を
 「回避しよう」とは考えない。(米情報型RMA軍の 優位は自他ともに認める)
(3)損害限定化の追求
 将来の軍備管理政策の主要目標
ア、消耗戦回避思想の開発と普及
 ・軍事行動の最終目標は敵撃破ではない。
 ・敵の脆弱点に対してのみ打撃し、目標を達成する。
 ・軍事力のみならず、非軍事力による打撃の奨励
イ、作戦レベルの部隊運用の重視
大部隊と大部隊の大規模戦闘を意味しない
 Ex. System Approachの普及
  (空軍のEBO、陸軍・海兵隊のSOD、海軍のNCW)

7、おわりに  
(1)パラダイム・シフト
I、軍備管理と軍縮は同意語ではない。軍事政策の一部だ。
II、軍備管理政策は、軍隊の副次的任務ではない。
防衛政策の立案にあたって、戦闘機能と軍備管理機能は
融合されるべきである。
III、防衛政策は、戦争に勝利することよりも、
 先制奇襲の誘因や現状打破の誘因を抱かせないことが重要だ。
IV、軍備管理政策においては、「最悪の事態」ではなく、
「予測される最悪 の事態」に備えるべきである。
V、「自らの防衛政策が他国に及ぼす脅威について
鈍感であってはならない。」
VI、自衛隊はこれまで戦略と戦術の開発に心血を注いできたが、
今後は作戦レベルの開発を重視すべきである。



追記: 
  図1〜3はSSNF(Strategic Study Net Forum)会員にのみメールで送信。
  なお、会員入会希望者は下記メール・アドレスに筆者との関係(講義・講演を聞いたことがある、
  拙著書を読んだ、名刺を交換したことがある、現会員某氏の紹介等)を書いて申請して下さい(無料)。

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2013年04月06日

作戦とは何か

自衛隊は作戦を再定義せよ 

1、はじめに
自衛隊の作戦の定義
 *軍事行動・部隊運用の一般用語
 *大部隊の行動・運用:兵站重視の行動・運用
 *戦闘に地位と役割を付与

2、現代戦における作戦の定義
  戦略と戦術を結び付ける行動・運用法:戦争目的達成に寄与する戦闘のための行動・運用法

(1)工業化時代の作戦
消耗戦:戦闘の成果が戦争目的の達成に決定的な影響
   

ア、効率重視:効率的な戦争目的の達成
*効率的な殺傷・破壊
*一回の戦闘で、戦争目的達成が理想(「重心」思想)
*複数の戦闘の成果の総和

イ、戦闘重視:戦術重視
*戦争目的は不変である
*戦争目的は政治指導者が策定し、付与される  

ウ、計画策定重視の作戦術   
*MDMP(OBO)方式

(2)情報化時代の作戦
    非消耗戦:戦闘以外の要素が戦争目的の達成に大きく影響

ア、効果重視:効果的な戦争目的の達成
*効果的な戦闘:被我の人的損害の限定化と付随的な被害の回避
*複数の戦闘の生起
*複数の戦闘の相乗効果:各戦闘の成果の総和以上   

イ、戦争目的重視:戦略重視
*戦争目的は変更される
*戦争目的は、政治指導者と作戦指導者が共同で策定   

ウ、デザイン重視の作戦術
*SOD(EBO)方式

3、おわりに
*自衛隊は戦術重視から作戦重視に転換せよ
*情報化時代に適応するように作戦を再定義せよ



2013年03月31日

SODとは何か

MDMP vs EBO vsSOD比較   

(1)MDMP・EBO・SODの相違                    
                   図1、 システム・アプローチの比較
(2)システムの特性

MDMP
  *状況は単純で、したがって、因果関係はわかり易く、予測可能
EBO
  *状況は複雑だ、しかし因果関係は、予測できる場合が多い
SOD
  *状況は複雑で、因果関係は、予測できない

(3)作戦指揮
  
                    図2、 MDMP,EBO,SODの概念図
MDMP   
  *終末状態と作戦目標が同じ(「終末状態」という概念存在しない)
  *明確かつ不動の作戦目標
EBO
  *戦争目的が変化するため、変動する終末状態(作戦目標+)
                    図3、 EBO型作戦目標と終末状態  *終末状態に及ぼす影響(結果)を作戦目標に設定
       ・戦争目的はしばしば変更され、したがって終末状態も変動する
       ・目標よりも影響を洞察
  *ノードの打撃(戦術行動)を繰り返し、好ましい影響を生じさせるとともに、悪影響を回避
SOD
  *漠然とした終末状態
  *戦術目標の達成がもたらす直近の影響を作戦目標とする。
                    図4、バタフライ効果と作戦目標・終末状態

(4)基本的な考え方

MDMP
  *戦術重視
       ・接敵行動、攻撃、防御に焦点を当てる
       ・なぜなら、敵部隊の撃破(戦闘)が戦争目的の達成に寄与大
       ・しかし、戦闘に勝っても、戦争に敗ける可能性大
  *問題解決重視
       ・「望ましい終末状態」は「作戦目標」という形で上級指揮官から付 
        与又は自明
       ・「終末状態は達成できるかどうか」「基本的な問題が何であるか」について自明で、
        各級指揮官のコンセンサスは容易
       ・付与された作戦目標を達成する最も効率的な殺傷方法を模索することに全力
       ・しかし、問題の把握に誤りがあれば、最良の行動方針も無意味
  *分析的アプローチ
       ・敵部隊、地形、気象、我が部隊の状況等、戦場の構成要素に焦点
       ・しかし、住民や世論、自然環境、戦後復興といた大局には無配慮
EBO
  *作戦重視
・戦闘に勝っても、戦争に敗ける
・戦闘における勝利が、戦争を継続させる
・情報関連兵器の発達によって、小部隊でも、戦略目的に大きく 寄与できる

*問題解決重視
・「望ましい終末状態」「作戦目標」は、作戦期間中に変化する
・したがって、融通性のある目標(影響)を設定
・しかも、融通性のある目標(影響)の設定は、比較的容易
・しかし、融通性のある目標(影響)を生み出す方法・手段の選定が難しい

  *全体的(ホリスティク)アプローチ
・戦術行動が作戦環境(住民や世論、自然環境、戦後復興)に及ぼす悪影響
及び作戦環境が戦術行動に及ぼす悪影響に焦点
・しかし、作戦環境を好ましい方向に変える戦術行動や施策には配慮しない

SOD
*作戦重視
*問題設定を重視(デザイン段階の設定と指揮官の専念)
                       図5、 デザインと計画策定の関係      
      ・「望ましい終末状態」「作戦目標」は作戦期間中に変化し、
       しかも指揮官の間でコンセンサスがない。
      ・したがって、前提、特に上級指揮官の考え(戦略指針)や付与される手段への疑問。
      ・作戦環境の解明に努力を思考。
           状況を正しく、深く理解することが最重要
 
*全体的(systemic )アプローチ
           ホリスティックと同意語
      ・作戦環境を好ましい方向に変える戦術行動や施策を模索
     ・しかし、計画策定(幕僚業務)が困難
      ・デザイン過程に計画の骨子を概念規定する(paradigm)
     

追記: 
  図1〜5はSSNF(Strategic Study Net Forum)会員にのみメールで送信。
  なお、会員入会希望者は下記メール・アドレスに筆者との関係(講義・講演を聞いたことがある、
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2012年12月27日

戦争と科学技術(PART II)

戦争は科学か、それとも芸術(art)か(その2)<span style="font-size: large;">

2、芸術(art)としての戦争

(1)ドイツ・ロマンチシズムの影響
 戦争遂行が芸術(art)であるという見解は、まったく新しいというわけではない。サックスやロイドといった啓蒙時代の軍事理論家達は、戦争における精神的な要因の重要性を理解していた。それでも、彼らはさらに1歩踏み込んで、「戦争が複雑性・不確実性・混沌・予測不能性・不合理性でいっぱいである」と見なかった。
 軍事理論のうち、戦争についての見解が劇的に変化したのは、18世紀後期から19世紀初期にかけてのドイツである。ドイツにおける文化的な傾向の一つが、ロマンチシズムであった。ドイツのロマンチシズムはフランスを支配した啓蒙主義的世界観に疑問を呈した。「反啓蒙」のドイツ思想家達は、世界は単純でなく、非常に複雑で、数えきれないほどユニークな要素とイベントで構成され、そして常に流動していると観た。彼らはニュートン科学に熱心ではなかった。ドイツのロマン主義者達は自然界の複雑さに益々焦点を当てるようになった。この複雑さゆえに、ニュートン科学のモデルは説明できない、と彼らは主張した。ドイツのロマン主義者達は、現実を理解するために歴史のアプローチを採用した。すべての理解は、時間と場所の力学の主観的な結果とみなされた。この考えによって、ドイツの知識人達は、現実が普遍的法則または原則に従わないと確信した。

(2)ベンホルストとシャルンホルスト
 啓蒙時代への反発として始まったロマンチズムもまた、ゲオルク・ハインリッヒ・ホン・ベンホルスト(1733ー1814)、ジョハン・ゲルハル・ホン・シャルンホルスト(1755ー1813)、そしてクラウゼヴィッツのようなドイツの軍事理論家や軍人に大きな影響を及ぼした。軍事的啓蒙時代の一般的な考えに疑問を呈した最初の著作が、ベンホルストの3部作『戦争術への所見:その進歩、矛盾、そして確実性』(1796-1799)であった。ベンホルストは、古代ギリシア・ローマ人が戦争術に熟達し、頂点にいたことを指摘した。古代ギリシア・ローマ人は、他の誰よりも「芸術的(artistic)だった」。啓蒙時代の戦争術は、科学や芸術のように知識を進歩させ、生来の才能を伸ばした、と彼は書いた。彼の見解では、戦争術は不変の法則に基づくものではなく、むしろ未知で、コントロールできない人間の精神と関係している。精神的な力は、部隊に生命を付与する。したがって、その力は戦争の遂行における主要な要因である。ベンホルストは、戦争が数学や天文学とは異なり、科学とは言えないと思っていた。
 シャルンホルストは、彼の時代に流行した作戦遂行システムを人為的で一方的であると見た。戦争術は現実の研究に基づくものである。そうでないなら、戦争術は抽象概念になってしまう。彼の小論『軍事史の活用:その不備の原因』(1806)で、シャルンホルストは「偉大な将軍は、歴史を通して戦争術の原則を研究してきた」と書いた。戦争術の幾つかの分野は、数学的に表現できる。しかし、その他の分野は状況に左右され、機械的に研究されるものではない。したがって、もって生まれた才能なしに研究しても偉大な将軍には決してならない、とシャルンホルストは言う。

(3)クラウゼヴィッツとモルトケ
 クラウゼヴィッツは、すべての側面で組織的に戦争の原理を提示した最初の軍事理論家であった。ドイツのロマンチシズムの考えに影響された彼は、啓蒙時代の軍事思想家と違った世界観を持っていた。また、彼は、シャルンホルストの実用主義と相対論的なアプローチによっても影響された。彼は戦争を複雑で予測できない現象と考えた。クラウゼヴィッツは、一般論だけを信じた。そして、それ以外は、実際の戦闘おける霧と摩擦によってどれも有効でない。戦争システム論は、戦争における「限りない複雑さ」を説明することができないから、戦争の実際とはかけ離れた理論的な構成概念になる、と彼は説いた。それゆえに、彼は、戦争の複雑な現象を、普遍的原則を有する単純システムにしようとするどんな試みも、無益な行為だと考えた。
 クラウゼヴィッツは、戦争が社会生活の領域に属していると思っていた。つまり、戦争は科学でも、芸術でもない、というのである。戦争は科学ではない。なぜなら、それは行動の問題であるからだ。そして、戦争は芸術でもない。なぜなら、それは生命のない、ないしは受動的な人間が行うものではなく、生命があり、反発する力を行使するものであるから。
 人間的要因は、戦争の本質― 時代を通じてどんな戦争も特徴づける恒常的で、普遍的な固有の性質 ―といわれるものを決定する。戦争の本質は、変化する戦争の動機と形態、または技術的進歩に関係なく不変である。人間の態度・行動は、戦争の本質の主要な部分である。戦争遂行における人間的要因と精神的な要素の重要性に関するクラウゼヴィッツの分析は、戦争についてのわれわれの理解に大きく貢献した。戦争は、人間の性格、人間の態度・行動の複雑さ、それに人間と体調の制約によって形づくられる、と彼は書いた。戦争の物理的側面と精神的な側面は有機的に一体化され、密接不可分である。彼はまた、「戦争は、生きた力が死んだ集団に対して行う行動ではなく、相互作用する2つの生きた力の衝突である」とも述べた。勝利は、戦場の征服にあるだけでなく、戦闘部隊の物理的で精神的な崩壊にある、と。
 どんな戦争においても、精神的な特徴は、憎悪、敵愾心、暴力、不確実性(または戦争の霧)、摩擦、恐怖、危険、不合理性、好機、そして幸運である。クラウゼヴィッツにとって、戦争は、原始的暴力、憎悪、そして敵意から成る三位一体であった。クラウゼヴィッツは「危険が戦争の摩擦の一部であり、しかも危険という概念なしには、戦争を理解することができない」と述べた。さらに、戦争は「身体的な尽力と苦しみをともなう」。それは「創造的な精神が歩き回ることができる可能性と好機でいっぱいである。」クラウゼヴィッツは、戦争のように、偶然の出来事がおこる自由な競技場はどこにもないと書いた。客観的だけでなく、主観的にも、戦争の本質は、ギャンブルである。
 「すべての事実についての不確実さは、戦争において独特の困難さを伴う。なぜなら、すべての行動が夕暮れ--目標を過大視させたり、グロテスクな様相にさせたりする--のような状況で起こるからである」とクラウゼヴィッツは考えた。彼は、「指揮官が完全に知ることができる唯一の状況は、自分の状況だけである」ことを指摘した。敵の状況についての指揮官の知識は、しばしば頼りにならない情報に基づく。したがって、指揮官の評価は誤っているかもしれない。そのような不完全な評価は、まずい無為無策や、まずい行動をとらすことになる。クラウゼヴィッツは、摩擦が図上の戦争と本当の戦争の違いから生ずる唯一の概念であると主張した。この「至る所で接触して生じる大きな摩擦は、測りしれない影響をもたらす。摩擦は簡単なものをとても難しくする力である。」摩擦は、不確実性・過失・偶然の出来事・技術的な困難さ・思いがけない事象を含む。そして、それらは、人間の決定・行動・士気へ影響を及ぼす。
 ヘルムート・ホン・モルトケ卿は、「軍の作戦を構成するほとんどのことは、科学に基づいているが、対立する指揮官の意志と意志が衝突するとき、芸術性が前面に出て来る」と述べた。彼は、戦争において何も確かなものはないと考えた。したがって、戦争においては、一般的な法則は存在せず、生まれつきの才能が重要である、と。
 モルトケ卿がプロシア(ドイツ)の参謀総長(1857ー1888)として在職した間、戦争に関するクラウゼヴィッツの教えは、プロシアの軍事理論家や軍人によって広く共有された。その結果、ドイツ人達は、戦争遂行を科学より芸術であると考えた。彼らは、誰も戦争でのイベントをコントロールすることができないと確信していた。どんな戦争でも、曖昧さ、混乱、そして混沌で満ち溢れている。戦争では、絶対不変なことはありえないし、不確実性は、マスターされることができない。さらに、モルトケは次のように説明した。戦争においては、「すべてのことは不確実で、危険が伴う。そして、大きな成果を達成できる別の道は、常に困難な問題をかかえている。好機、過失、そして失望が伴う戦争では、空間と時間の計算は、勝利を保証しない、」と。
 両大戦間(1919ー1939)に、ドイツ人は戦争を、自由で創造的な活動または芸術と考えた。戦闘状況は多様である。そしてその状況はしばしば、そして、突然変わり、前もって予測することはできない。計り知れない要素が決定的な影響を持つ。特に敵の独立した意志がわれの意志に対抗する時は、そうである。摩擦と過失は、毎日の出来事である。
 戦争の本質に関するクラウゼヴィッツ的見解は、今日でも有効である。人間的要素は戦争の重要な側面である。人間性は、軍事テクノロジの大きな変化にもかかわらず、ほとんど変わらなかった。戦争はあまりに複雑で、予測できない活動であるため、機械に支配されたり、擬似的理論によって説明・処理されたりすることができない。人間の頭脳だけが、突然で予期しない状況の変化にタイムリで、適切な方法で反応し、敵の行動と反応に対処することができる。敵には、彼自身の意志がある。敵の反応は、予測不可能、または不合理である。
 不合理なタイミングとその程度を予測することができないか、または測定することができない。戦闘におけるどちら側の不合理な決定も、戦争の進行と結果に重大な影響を及ぼすことができる。敵の行動と反応を評価するにあたって、認知される不合理さは、しばしば人間の文化的な価値の反映である。敵の指揮官の決定は異なる社会、伝統、そして文化の産物である。それゆえに、敵の指揮官は、我の社会の価値と軍事文化に照らして不合理であると思われる決定を下すかもしれない。個人またはグループの精神的な状態と、ストレスの下での彼らの反応は、まったくわからない。

結論
 「戦争の遂行が科学か芸術であるか」の疑問は、決して解決されない。科学とみる主張は主に、戦争を含む社会生活のすべての領域で確実性を捜し求める人間固有の傾向から生まれる。もう一つの科学重視の原因は、ニュートンの科学理論の影響と先進技術の力に対するほとんど盲目的な信頼である。それでも、戦争の遂行を科学と見る多くの試みは、何度も失敗を繰り返してきた。戦争はあまりに複雑で、混沌とし、そして予測できないため、どんなに進んだ科学的手法を使用しても、科学的に遂行できない。このことは、軍事問題で科学の重要性を過小評価したり、無視したりすることを意味しない。科学とテクノロジは、戦争の特徴における主要な要因であったし、今後もありつづけるだろう。歴史は、科学とテクノロジが戦争の勝敗を決した事例でいっぱいである。
 科学的手法は戦争現象を説明する際に、広く使われるべきである。戦争についての健全な理論は、科学的手法の使用に基づく。いろいろなビジネス・モデルは、軍事組織の管理、戦力計画の策定、そして兵器の設計に応用できる。定量化の手法は、個々の兵器の使用、そしてそれらの戦術的使用を評価し、強化するのに役立つ。しかしながら、無形の要素が主要な役割を演じる「戦争の作戦レベル」や「戦争の戦略レベル」では、定量化の手法が適用されるとき、その手法の有用性は次第に減少する。
 要するに、戦闘力を強化するために科学とテクノロジを使用することと、戦争の遂行で科学的手法を適用することの間には、大きな相違がある。戦争に関する我々の知識と理解は、科学である。しかし、戦争遂行そのものは、芸術である。これは、科学や技術の進歩に関係なく、将来も変わらない。過去においてそうであったように、戦争の性格は劇的に変わるだろう。しかし、クラウゼヴィッツによって説明された戦争の本質は、変化しないだろう。戦争は、その無形な要素--人間的要因とその精神的な要素--を除けば、比較的単純で、予測可能で、コントロール可能である。
( Milan Vego「Science vs the Art of War」issue 66, 3rd quarter 2012 JFQより80%の超訳。Dr. Milan VegoはNaval War Collegeの統合軍事作戦部作戦課の教授)


戦争と科学技術(PART I)

戦争は科学か、それとも芸術(ART)か(その1)

序論 
 人間は一般に不確実性に対して不安を感じる。それゆえに、いろいろな原則や法則を導き出すとともに、ものごとをコントロール可能で、予測可能にするために模索する。古代から、軍人達は戦争での指揮において確実性を探求してきた。彼らは、敵の戦力と意図、そしてその対応行動を含むすべての状況について重要要素を正確に知ろうと努めてきた。

1、科学としての戦争

>(1)歴史的考察

科学革命の時代、1600−1700年頃
 戦争の遂行が科学であるという考えは、戦争そのものとほとんど同じくらい古い。古代の軍事理論家達は、戦争の遂行を導いている特定の原則と法則を捜し始めた。ルネッサンスの頃、ヨーロッパ人は、古代の軍事理論家クセノフォン(430ー354 BCE)やジュリアス・シーザー(100ー44 BCE)によって書かれた軍事論文をもとにそれらの原則や法則を模索した。
 17・18世紀後半の科学革命は、物理学・化学・天文学・生物学・医学における進歩の成果であった。科学的な議論は、アイザック・ニュートン(1643ー1727)のような偉大な思想家によって、社会を再秩序化する役割を負った。また、テクノロジとの緊密な関係も存在した。ヨーロッパの戦争における最初のテクノ科学革命は、時計にたとえられ、順序性、規則性、そして予測性のシンボルになった。時計の概念は、ヨーロッパ軍隊によって模倣された。
 さらに、築城学と砲撃術が幾何学的な原則と弾道学の進歩によって著しく発達した。攻城術で最も有名な人物は、フランスのセバスティン・プレステ・ボーバン元師(1633ー1707)である。彼は築城の科学を進歩させるために、幾何学・建築学・砲擊術に関する知識を普及した。30年間にわたり、ボーバン元帥は多くの要塞を設計し、50近くの攻城戦を行い、そのほとんどに成功した。
 イタリア生まれのオーストリア元帥レイモンド・モンテクッコリ(1609ー1680)は、17世紀後半の最も有名な軍人であり、軍事理論家であった。彼は戦争を「科学的に」説明しようとした最初の人物である。モンテクッコリ元帥は、すべての科学のように、「戦争の科学は、経験を普遍的な法則に変えることを目指す」と述べた。
 フランスの元師ジャック・フランソア・デ・シャストネ侯爵(1656ー1743)は、戦争について組織的に取り組んだ軍人である。彼は、「戦争を理解するための唯一のアプローチは、経験ではない」と思っていた。侯爵の意図は攻城戦に見られるように、戦争を一組の原則と法則にもとづくものにすることであった。さらに、伝統と個人の経験に頼る人々に対して、彼の時代の戦争は組織的・理論的研究が欠如している、と彼は説いた。彼の見解では、野外戦は、ボーバン元帥の攻城戦のように科学的に行われる必要があった。それゆえに、幾何学と地理学、そしてそれらの戦争への応用が強調された。
 フランスの軍事理論家で、軍人であったジャン・シャルル・デ・フォラール(1669ー1752)は、戦争遂行に関する普遍的な原則を発見するために科学的な観点から戦争を調べた。彼はまた、戦闘における精神的な次元にも取り組んだ。彼の著作は、啓蒙時代の多くの軍事理論家や軍人、例えばモーリス・デ・サックス、フレデリック大王、ナポレオン・ボナバルトI世(1769ー1821))に影響を及ぼした。サックス(1696ー1750)は、小銃射撃戦の時代に最も成功した将軍で、有名な『戦争術に関する空想』(1757)を書いた。その序文で、彼は次のように述べた。「戦争はあいまいで、不完全な科学である。一方、他の全ての科学は一定の原則のうえに成り立っている」と。
啓蒙時代、1750〜1800年頃 
 17世紀の科学革命とニュートン科学は啓蒙時代の扉を開いた。その大部分が貴族階級の出身であった将校達は、啓蒙時代の哲学的で、知的で、文化的な傾向によって影響されるようになった。彼らは、他の科学のように、戦争が組織的に研究されなければならないと考えた。かくして、戦争に関する普遍の理論が形成されるところとなった。それゆえに、「軍職は戦闘の経験を用いるだけでなく、理論的にそれを研究しなければならない」ことになった。戦争研究の強調は、軍事理論と取り組んだ出版物の著しい増加をもたらした。
 啓蒙時代における軍事思想の支配的考え方は、戦争の政治的な側面についての理解、戦闘における精神的な要因の役割の認識、それに戦争研究への擬似科学的原則の適用に見られる。当時の重要な軍事理論家として、ターピン・デ・クリス伯爵(1709ー1799)、ポール・ギデオン・ジョリー・デ・メイゼロイ(1719ー1780)、フレデリック大王、ピエール・ジョゼフ・デ・ボウセット(1700ー1780)、ジャック・アントイネ・ヒポリテ、コント・デ・ギベール(1743ー1790)、ヘンリー・E.ロイド(1720ー1783)、そしてディートリッヒ・ハインリッヒ・ビューロー男爵(1757ー1807)があげられる。
 啓蒙時代後期の軍事理論は、いわゆる幾何学的ないしは数学的な学派の主唱によって占められた。これらの主唱者は、本当の戦争が血なまぐさい戦闘でなく、計算された移動によって敵を追い詰めるため、上手な「機動」を行うことにある、と確信していた。野戦軍はチェス盤の上の駒のようなもので、指揮官はすべての組合せに熟達するチェスプレーヤのように振舞うことを要求された。戦場における個人的で創造的なパフォーマンスが大きな役割を演じることはなかった。偉大な指揮官の行動は、戦争の法則によって説明された。
 ウェールズの将軍で理論家のヘンリー・E.ロイドは、戦争研究への科学的なアプローチを強く支持した人物である。彼は、野戦軍をいろいろなパーツから成る機械装置と比較した。機械装置の良し悪しは、第1に、そのパーツに、第2に、これらのパーツが配列される方法に左右される。彼は、戦争がニュートン学説の一部門であると書いた。
 啓蒙時代において最も有名な軍事理論家であるプロシア軍の将校ビューロー男爵は、戦略に関するロイドの科学的なアプローチまたは幾何学的な科学を支持し、これを補強した。野戦軍が戦闘に従事する前に、彼の理論が勝利の鍵を提示する、と彼は確信していた。ビューローの見方は「今後、戦役(campaign)の運命を決定するために、無謀な考えや冒険的な戦闘を必要としない」というものだ。戦闘は、科学的に優れた戦略によって不必要なものになる。つまり、戦争はもはや芸術(art)ではなく、科学であった。ロイドやその他の啓蒙時代の理論家達は、戦争が科学的な側面とともに、天賦の才がもたらす独創性の余地を残すと考えていたが、ビューローは「戦争の領域は、生まれつき才能のある人物がもはや戦争に専念する気を起こさないほど狭くなるだろう」と主張した。
脱軍事啓蒙時代、1800−1950年頃
 フランスの革命家達とナポレオン1世によって実行された「決定的な戦争(decisive warfare)」は、幾何学的な学派の見解が誤りあることを証明した。しかしながら、啓蒙時代の軍事思想の支持者達は、その影響力を失うことはなかった。啓蒙時代の軍事思想は、アントニイ・ヘンリ・ジョミニ(1779ー1869)とオーストリアのチャールズ大公(1771ー1847)によって修正採用された。実際、19世紀の多くの軍事理論家はその考えの基礎を、啓蒙時代に開発された理論に求めた。
 スイス生まれのフランス人ジョミニ将軍は、戦争に関する幾何学的なシステムを開発する傾向は避けたが、それでも、啓蒙時代に築かれた考え方に基づいて彼の理論を打ち立てた。ジョミニは、戦争にとって重要な普遍的原則を特定し、さらにフレデリック大王の戦役の研究を通してその原則を理解しようとした。ジョミニは彼の有名な『戦争術の概要』(1838)において、無視すると危険な「戦争の基本原則」があり、その原則の適用は常に成功をもたらす、と書いた。彼は一連の原則を修正したが、ロイドとビューローのレンズを通して発見した考えから決して逸脱することはなかった。
 皇帝レオパルト2世の息子チャールズ大公は、ハプスブルク君主国の最高の将軍であり、軍事理論家であった。彼の著作は、啓蒙時代末期の考えに基づいていた。『高度の戦争術の原則』(1806)で、彼は「戦争科学の原則はわずかであるが、不変である」と述べた。そして更に「原則の適用だけは、決して同じではない。野戦軍の状況のあらゆる変化がこれらの原則の異なる適用を必要とする」と書いた。また、『戦略の原則』(1814)の中で、チャールズ大公は、ほとんど完全にビューローの『戦争の一般理論』と彼の幾何学的部隊運用の考えを採用した。
 戦争遂行が芸術ではなく、科学であるという見解は、ジョミニ研究者達に限られてはいなかった。20世紀の指導的軍事理論家である英国のJ.F.C.フラー将軍(1878ー1966)もまた、戦争遂行が科学であると確信していた。彼はロイドの理論によって大きく影響された。『戦争科学の基礎』の中で、戦争の科学的手法とは、過去の戦争における事実を如何に知るか、そしてこの事実を現在の状況および次の戦争において如何に適用するか、についての常識的アプローチである、とフラーは書いた。フラーは、「戦争は、すべての人間活動と同じくらい科学であり、科学にならなければならない」と主張した。
 マルクス・レーニン主義の理論家達も、戦争が科学的原則に基づくと思っていた。ウラジミール・レーニン(1870ー1924)の弁証法的唯物論の原則と、社会の性質における規則性は、1917年以降におけるソ連の軍事理論に影響を及ぼした。ソ連の軍事理論は、装備に対する限りない信頼に立脚していた。有名なマルクス主義の軍事理論家フリードリッヒ・エンゲルス(1820-1895)は、戦争におけるすべての大革命は、戦争の偉大な達人たちによってもたらされるのではなく、優れた兵器の発明と装備品の変化によってもたらされと思っていた。
現代の理論、2000年前後
 伝統的に、戦争遂行に関する西洋のアプローチは、「戦闘の普遍的法則」を確立するためにニュートン学説を探求してきた。それゆえに、戦争におけるすべてのことを定量化しようとする努力がなされた。1990年代半ばから、戦争へのシステム・アプローチ(またはシステムへの全体的アプローチ)が、米軍や西側軍隊の有力な学派によって唱えられてきた。この例証として、「ネットワーク中心の戦争(NCW)/作戦(NCO)」、「影響ベース型作戦(EBO)」/「影響ベース型作戦アプローチ(EBAO)」、そして「システム全体的作戦デザイン(SOD)」--作戦デザイン、そして最終的にはデザインに変化した--が米軍やNATO軍で広く受け入れられたことがあげられる。NCW/NCO主唱者達の影響は、2000年代前半の絶頂期から、大きく後退した。また、米国統合部隊コマンド(U.S.JFC)は2008年夏に、EBAOの機械学的要素を公式に放棄した。しかしながら、EBAOの若干の理論的な側面は、米国の統合ドクトリン文書で保持され、NATOによって修正使用されている。NCW/EBO/SODに共通の特色は、それらが証明されていない新しいテクノロジに基づくということである。それらは、適切なテストと経験的な証拠によって証明されることなく、採用された。それらはいずれも、戦争の性質に関する新ニュートン学派の見解を反映し、クラウゼヴィッツ的見解を拒否した。
 「影響ベース型作戦」の支持者は、状況を把握し、重心を特定するために、いわゆる「システムのシステム分析(SoSA)」を受け入れた。SODは、一般システム論と複雑性理論に基づく軍事理論である。デザインは、「指揮官が、適応性のある複雑システムを如何に変えるか」について理解するのに役立つ推理方法論として定義される。その目的は、作戦の始めに存在する状況--つまり、観察されたシステム--と、作戦の終わりの状況--つまり、望ましいシステム--の間の隙間を埋めることである。デザインの支持者は、戦争がクローズ・システムよりも、むしろ複雑で、適応可能なシステムであると認識する。彼らはまた、敵の態度・行動に及ぼす我の物理的行動の影響を予想し、評価することは困難極まりないと考える。

>(2)数量化できないものの定量化
 

 勝利の要因を理解するため、現代以降、定量分析の要素を適用する試みが多数なされてきた。これは、戦争遂行を科学として見る人々に多い。その主張は、定量化手法の使用が指揮官の判断と経験よりも「客観的である」というものだ。
 ロシア人は、19世紀後半から軍事問題の予測に数学的な解決法を使用した。ロシア人は、最適の行動方針を特定し、戦場での相対的進撃速度を予測するため、複数の戦闘モデルを導き出した。ソ連は、弁証法的に、また科学的に、彼らの方法論が健全で、しかもマルクス・レーニン主義の教えと一致していると思った。1960年代初頭までに、武力紛争の数学的処理は、ソ連のオペレーション・リサーチ(OR)--目標を指向する人間の活動を合理的に組織する社会科学--の分科として分類された。ソ連のORは、決定や実証が可能なように、軍事科学の戦術的・技術的な側面を測定可能な客観的インデックスで表そうとした。ソ連は、特に戦術・作戦指揮官が健全な決定をするためのツールとして、いわゆる戦力の相関関係を強調した。この方法は、意思決定に役立つように、戦力の直接的・数量的比較、選定された戦場要素の定量化、そしてそれら要素に関する数式で示すものだった。
 西側では、ORとして知られているいろいろな数学的手法が、特定の兵器の効果の増大化と戦術の開発に使われた。ORの起源は第一次世界大戦にさかのぼる。1914年に、英国の数学者F.W.ランチェスターは、勝利と数的優勢の関係を定量化したいわゆるN-2乗の法則を考案した。ORは、イギリス諸島の防空上の難問を解決するため、1930年代後半にイギリスで使われた。第二次世界大戦では、ORは、対潜水艦戦(ASW)において輸送船団の規模や最適捜索技術を考案する際に使われた。たしかに、ORは輸送船団の損失率を減らした。米国は、機雷戦・ASW・航空攻撃の効果を増大させるため英国のORを手本にした。
 システム分析(現在、政策分析として知られる)は公共部門で使われ、軍隊によって採用されるもう一つの定量化の手法である。この手法の狙いは、最少の資源で達成される目標の価値を最大にすることにある。数学的手法を用いることで、軍事アナリスト達は数学的モデルを使用して戦争の定量的側面を強調した。したがって、定量化されることができない直観力、勇気、そして意志力といったものは、すべて除外された。
 米軍におけるシステム分析の最も強力な主唱者は、国防長官ロバート・マクナマラであった。彼は在任間(1961ー1968)、所要戦力と兵器の調達に関連する重要な決定にあたり、システム分析を多用した。マクナマラは、南ベトナムで戦争の進展を評価するだけでなく、芸術よりも、むしろ科学として戦争を遂行しようと、決定を下すに際し、定量化手法を使用した。ペンタゴンは、米国が「最少のリスクでベトナム戦を勝利するために何をすべきか」について確定する主要な測定値として、いわゆるボディ・カウントを適用した。しかし、そのような測定基準は、意味がないとわかった。米国の高級官僚達は、「戦争が純粋に技術的な問題である」という思考の罠にかかって、敵の決意や政治戦略の意味を把握することができなかったのである。
 ペンタゴンによるビジネス実務の強調は、1990年代後半から「戦場での目標達成度」を評価する際に、測定基準への大々的依存をもたらした。これらの定量化手法は、本質的に指揮官の判断や直観に取って代わった。戦争へのシステム・アプローチの支持者達も、対立する部隊の戦闘力と目標達成率を評価するために定量化手法に頼る。例えば、「影響ベース型作戦(EBO)」を支持する人々は、伝統的な軍事的意思決定要領(MDMP)と比較して、いろいろな測定基準を拡大使用する。
(その2に続く)

2012年08月17日

デザイン術とは何か

学生テキスト、2.0版 「デザイン術

1.はじめに
 デサイン・ドクトリンは、米陸軍の「フィールド・マニュアル(FM)5-0、作戦」に記載されるとともに、米統合部隊コマンド(USJFCOM)司令官マティス大将が作戦デザインの統合領域への格上げを主張したことから、デザインに関する議論は今や、「如何にデザインするか」に移行した。初期の段階では、デザインを学ぶことは、デザインの方法論についての説明文書が不足していたことから難しかった。しかし、現在学生の直面している問題は、デザインに関する本・ドクトリン・マニュアル・論文が氾濫していることだ。これらの資料は、その核心部分は共通であるが、用語上の相違があり、しかもデザインの実際的な側面を強調するもの、学問的な側面を強調するもの等、様々である。このこと自体は、デザインに関する議論が活発であることを示すもので、非常に良い徴候である。しかし、それはまた、デザインを理解しようとする気力をくじけさせてしまう。本書は、デザインを学ぶ学生のために、最新の入門書である。
 
 先進軍事研究学校(SAMS)は、デザインが米国陸軍に公式に導入される以前から、デザインに関して活発な議論を交わしてきた。SAMS研究員と、イスラエル軍の師団長兼歴史家であるシモン・ナヴェー退役准将とのアカデミックな関係は、1990年代半ばに始まった。この頃、イスラエル国防軍(IDF)のシンク・タンクである作戦理論研究所(OTRI))は「システミック(全体的な)作戦デザイン(SOD)」の研究を開始した。両者の関係は、作戦術の歴史に関する相互の関心から生まれた。
 SODが2005年1月にSAMSで取り上げられた頃、米陸軍のトレーニング・ドクトリン・コマンド(TRADOC)は、すでにそのアプローチについて深い関心をもっていた。なぜなら、SODがイラクでの戦争で明らかになっていた概念上の矛盾を解決する可能性を秘めているよう思えたからである。戦争が 反政府武力行動、ないしは内戦の様相を呈するようになるとともに、「文化」が戦争の重要な構成要素であることが明白になるにつれて、ナヴェー准将は、イスラエル国防軍上級将校とOTRIの卒業生と共にSAMSに招待され、SODに関する多くのワークショップや実践的な演習を開始した。この時のSODセミナーには、SAMS教職員、退役陸軍将官、そして先進作戦術研究団(AOASF)を構成する研究員が参加した。8人のSAMS学生は、SODを研究するために選ばれ、ナヴェー准将とOTRI学者からの助言をうけた。SODは、現実の軍事環境への全体論的(ホリスティクな)アプローチとして、関心の的となった。さらに、SODは、適応性を狙い、文化の中心的役割を理解し、設問と学習によって構成された。
 SODを研究し、実践するために、先進軍事研究プログラム(AMSP)から8人の学生が選抜された。それは2005年のことである。5月、このグループは、SODの成果と、軍事的意思決定プロセス(MDMP)及び影響ベース型作戦(EBO)とを比較するため「ユニファイド・クエスト2005演習」に参加した。デザインの概念は、この演習に参加した上級将校達の注意をひいた。というのは、SODのアプローチは従来のものと異なっていたからである。それは、敵性勢力(ライバル)の性質についての全体論的(ホリスティク)な設問から始まり、「問題」の理解に至るものであった。全体論的な設問と問題の理解のため、批判的で創造的な思考を生み出すディスコース(問答型議論)方式が採用された。SODに関する米国の最初のプレゼンテーションで、マーク・インチ大佐は以下のように述べている。
     「システミック作戦デザイン(SOD)」は、作戦計画策定者に対して問題を設定し、解決の方向
     性を示すため、ディスコースによって戦略ガイダンスを理解し修正する、指揮官主導のプロセ
     ス(要領)である。

 FM5-0もまた、新しいデザイン・ドクトリンにおける指揮官の役割を次のように強調する。即ち、(1)対話と協同の重要性を説明する、(2)デザインを、戦闘指揮における状況の理解に結びつける、(3)詳細な計画の策定を可能にする問題と解決策を設定するための方法論を付与する。
 同じ頃、「ユニファイド・クエスト2005演習」に参加者しなかったSAMSの少佐達もSODに関心をいだきはじめた。SODに関してのモノグラフ、とりわけ、線形と非線形の考え方、意思決定プロセスの形態・機能・論理、認識上のイニシアティブ、戦争の作戦レベルの有効性、ディスコースの性質と役割、デザインと計画策定の関係、特定事項や他国の軍隊へのSODの適用に関するものが、広く公表され始めた。かくして、SAMSの学生は、デザイン・チームの中心的なメンバーとしてあらゆる「ユニファイド・クエスト演習」に参加するようになった。2007年に、SAMSは「ユニファイド・クエスト演習」の経験から、デザインをコア・カリキュラムに導入した。この要求に応じて、『デザイン術:学生テキスト、1.0版』が2008年に出版された。学生テキストは広く回覧され、デザインの価値を鮮明にした。

2. デザインとは何か

(1)デザインの定義
 ドクトリンによれば、「デザインは、複雑で、難解な問題を理解し、イメージを鮮明に描き提示するとともに、そのような問題を解決するためのアプローチを案出するために、批判的で創造的な思考を適用する方法論である。」この定義は、デザインについて少なくとも4つのことを述べている。
第1に、デザインは、批判的で創造的な思考の適用である。
第2に、デザインが扱おうとする状況は、複雑で、難解である。
第3に、理解・イメージ・提示は、デザインと戦闘指揮を結びつける。
第4に、デザインは、問題と解決策を明らかにする。ただし、軍事の文脈では、解決策が行動方針(COA)と同じものでない点に注意を要する。デザインすることは、指揮官の意図を示す解決策を生むことである。これに対して、計画策定は、任務を達成するために可能な一連の行動を意味する複数の行動方針(COA)を比較することである。

(2)デザインと科学・芸術の違い
 ナイジェル・クロスは、デザイン思考法を説明するために、デザインを科学や芸術と比較する。知識の対象となる分野は、科学ならば自然界、芸術ならば人間の経験、デザインならば人工物である。一方、知識で重要な価値は、科学ならば合理性と客観性、芸術ならば反省と主観性、そして、デザインならば想像力と実用性である。同様に、知識を開発する要領は、科学ならば実験と分析、芸術ならば批判と評価、そして、デザインならばモデリングと総合(ジンテーゼ)である。
 

(3)デザインと計画策定の違い
 プロの軍人だれもが共有する代表的な枠組みとツールは、計画である。したがって、デザインは従来の計画策定と比較すると分かり易い。

計画策定の目的
 米陸軍FM 3-07は、計画策定の目的について次のように記している。
計画策定は、単純であるべきだ。なぜなら、そのことが作戦の複雑さを減らす最大の要因であるからだ。最も効果的計画は、明確で、簡潔で、直接的である。主導的な計画策定は、生起したイベントに反応することよりも、むしろイベントを事前に予測する。主導的な計画は、前もって行動を考えて、評価する。主導的な計画は、行動方針が望ましい終末状態の達成に寄与するかどうかを判断するために、行動方針の結果を鮮明にイメージすることが必要である。主導的な計画は、実施間、複雑さの影響を減らす。

計画策定の前提
 スティーブン・ゲラス大佐は、合理的な意思決定モデルの前提事項を明らかにした。そして、そのモデルが「軍事的意思決定過程(MDMP)」のような詳細な計画策定方法の基礎となっている。MDMPのような合理的な意思決定モデルは、次のような前提に立脚する。第1に、このモデルは、問題またはゴールが明確に定義できること、第2に、決定のために必要とされる情報を得ることができるか、ないしは利用できること、第3に、最適の解決策を特定するため、案出されるすべての選択肢が考慮され、比較され、評価されること、第4に、環境が比較的安定し、予測できること、最後に、意思決定プロセスを機能させるための十分な時間があること。

計画策定の特質
 これらの計画策定の理論に関する陸軍ドクトリンの記述に加えて、ヘンリー・ミンツバーグの次のような指摘は重要である。計画策定は、明白な結論をもたらす形式的な手順である。この形式化は(1)分解する、(2)明快に説明する、(3)プロセスを合理化することを意味する。この形式の合理性は、もちろん、総合ではなく、分析・分解にある。
 

計画策定のまとめ;目的・前提・アプローチ・文化・論理
表1は、軍事計画策定の目的・前提・アプローチ・文化・論理をまとめたものである。
この表から、我々は、イベントが起こる前に、計画策定がイベントに影響を及ぼすアプローチであることが分かる。また、この表は、作戦環境について次のような前提を必要とする。計画策定は、(1)明白で、安定し、はっきりした終末状態が指揮官の計画策定ガイダンスや指揮官の意図として付与されること、(2)将来のイベントを予測することができること、(3)各行動方針を分析することによって、目的を達成する最良の方法を特定できること、(4)この過程は単純で、明白で、簡潔で、直接的であることを前提としている。計画策定アプローチは、策定作業を同時に行うために、問題を分解する。計画策定は、合理的なマネージメントの文化と結びついている。つまり、階層的で、決定的で、客観的で、技術主義的な態度が、最適な決定を下すことを可能にすると考える。計画策定の根底にある論理は、合理的で、厳密で、還元的で、反復可能である。

デザインの目的
 これに対して、陸軍FM3-24によれば、「デザインの目的は、より深い理解、その理解に基づく解決策、そして学習と適用の手段を提示することにある。」TRADOCパンフレット525-5-500は、複雑な作戦環境に適しているアプローチを次のように提示する。還元主義と分析は、相互に作用し合う複雑なシステムでは役に立たない。なぜなら、還元主義や分析は、構成要素間のダイナミックスを見失うからである。相互に作用し合う複雑なシステムの研究は、還元主義的よりも、むしろシステミック(全体論的)でなければならず、量的であるよりも、むしろ質的でなければならない。そして、分析的な問題解決よりも、むしろ帰納的なアプローチを使わなければならない。
ナイジェル・クロスは、「多くの専門職のデザイナーがどのように機能するか」について調査し、以下の結論に達している。
デザイナーは、
*新しい、予想外の解決策を見つける。
*不確実性を大目に見て、不完全な情報で行動する。
*想像力と建設的な予測を問題に適用する。
*問題解決の手段として、図表等のモデル・メディアを使用する。

デザインの前提
 陸軍ドクトリンとデザイン理論の間に橋渡しをするため、リック・スウエインは、デザイン・アプローチの前提を検討する。デザインは、学習への懐疑的であるが好奇心旺盛な知的アプローチと、事実と信条に対して批判的なスタンスをとる。したがって、作戦デザインは、連続的な学習の必要性を確信するか、ないしは人間環境における安定状態に懐疑的な態度をとる。作戦デザインは、ある団体による状況への介入が他の利害関係団体からのいろいろな反応を引き起こすことを想定する。軍事計画策定者達はこのような想定をしばしば除外する。というのは、彼らは、現地や全世界の人々の動機が利他主義的であると考えるとともに、敵の行動は受動的である、と思って行動するからである。


デザインのまとめ:目的・前提・アプローチ・文化・論理
表2は、デザインの特徴をまとめたものである。
 デザインの第一のゴールは、状況の理解である。状況の理解は、常に不完全であるから、問題と問題解決に関して継続的な学習・適応・再フレーミングを必要とする。デザイン・アプローチは、計画策定とは異なる。なぜなら、デザイン・アプローチが異なる前提に立脚するからだ。デザインは、終末状態が漠然として、未知数で、移動する標的である。つまり、イベントのパターンが不明確で、どの行動方針が最も実り多いかを事前に予測することができない。また、最短経路が必ずしも直線でない場合があり、単純でない場合もある。従って、デザイン・アプローチは、それを合理化しようとするよりも、むしろ複雑さを認め、原因と結果の不確かな関係に直面して行動することである。デザインは、いろいろな視点から解釈を共有するために、対話と協同、図示とモデリングでユニークな状況に取り組む。これは、環境の構成要素に焦点を当てるよりも、むしろ環境内の関係や世界観との関係に光をあてる。分析・分解は、まだデザインでの役割があるが、しかし、問題状況へのシステミックな対応の総合化が強調される。前もって決定を束ねるよりも、むしろデザインは連続的でダイナミックであり、しかも環境との相互作用に応じて決定を適応させる。
 デザイン文化は、本質的に参加型で、多元的である。それは、間主観的な*意味を見出す継続的な反省とディスコース(問答型議論)を奨励する。デザイン文化は、最適性ではなく、むしろ認識的で、感覚的で、倫理的な価値の観点から改善を追求する。デザインの論理は、したがって批判的で、創造的で、連続的で、循環的である。
*間主観とは、お互いの主観・認識をぶつけあえば、客観的な判断を導くことができるという考え方。

、なぜ、デザインを学ぶか
 FM 5-0は、デザインを学ぶ理由として、次の事項をあげている。デザインは難解な問題の理解を改善し、変化の予測を助け、好機を作り出し、推移をマネージする。デザインは、正しい問題を解決すること(問題を正しく解決するのではなく)を奨励し、ダイナミックな状況への適合を促進し、戦略と戦術の間の連結を強化する。創造的なデザインは、努力の節約、省庁間及び政府間の統合、少ない予想外の結果をもたらすことができる。
 デザインは、アイディア・メイキング(着想形成)にも役立つ。図3は、思考の3つの目的を表す。即ち、アイディア・メイキング、センス・メイキング(意味形成)、ディシジョン・メイキング(意思決定)である。(このモデルは、個人・チーム・組織体の思考に等しくあてはまる。)指揮官と幕僚の思考目的は、この3つのタイプに区分できる。多数のフイルド・マニュアルは、意味形成のツールと意思決定のモデルについて触れている。しかし、改訂FM5-0の発表以前には、新しいアイディアと新しい解決策を生み出す方法、つまりアイディア・メイキングに関する詳細な議論はなかった。