ずれている個人主義批判
個人主義批判が講義にて行われることが多いが、私はこの個人主義の批判がまったく的を射ていないものだと考える。
そもそもキリスト教では、「各個人が神の子供である」「それぞれが神から愛されている」という「個の自覚」があり、その自覚が自分だけでなく同じ人間に適用されることから神の元の兄弟姉妹の愛があるのではないか。これはまさしく、自分が「個人」という1単位で尊重されるように他人も尊重する個人主義そのものである。
個人主義を批判する講義・礼拝を聞くとそのほとんどは「自己中心になってはいけない」と言う主張がコアにある。はっきり言おう。これは個人主義ではなく利己主義である。自己中心=利己主義であるのになぜか個人主義と結びついてしまっているのだ。
消える全体主義的な信仰
個人主義のついに存在するのは一般的に全体主義だと言われる。
個人主義が批判される今、(まぁこの批判はずれているところがあるのだけれども)教会は全体主義へと向かおうとしているのだろうか?
草創期ではそもそもの「個人」に目は直接的には向けられず、摂理という全体目的を果たす中で個体目的も達成される。。そんな信仰感であった。
それが昨今ではどうだろう?天一国宣教という公的な資金で行われるものでさえ個人の教育という個人主義的な目的が重要視されている。今本部の方針さえも摂理という全体主義的なものと、個人の自由・教育という個人主義的なものがごっちゃになって、傾向としては個人主義的な方向へと向かっているように思う。全体として摂理への緊迫感がなく、団結力にイマイチかけるのもそういった理由からだろう。
全体主義への転換を
この記事では、はじめに自己中心の批判として「個人主義」を持ち出すのは違うという話から、偶然にも現在本当の意味での「個人主義」的なものに教会が傾きかけているということを伝えた。
私はいまこそ「個人」なんていう甘っちょろいものを排除して、摂理という「全体主義的な方針」へとシフトするべきだと考えている。そもそも、摂理の中だと自分という個人が満たされないと考えていること自体が間違いではないか?私たちの周りを取り巻く「環境」とのマッチング自体が運命的なものである以上、どんなことをしていようとも天によって教育されているのが私たちではないだろうか。
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個人主義批判が講義にて行われることが多いが、私はこの個人主義の批判がまったく的を射ていないものだと考える。
そもそもキリスト教では、「各個人が神の子供である」「それぞれが神から愛されている」という「個の自覚」があり、その自覚が自分だけでなく同じ人間に適用されることから神の元の兄弟姉妹の愛があるのではないか。これはまさしく、自分が「個人」という1単位で尊重されるように他人も尊重する個人主義そのものである。
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消える全体主義的な信仰
個人主義のついに存在するのは一般的に全体主義だと言われる。
個人主義が批判される今、(まぁこの批判はずれているところがあるのだけれども)教会は全体主義へと向かおうとしているのだろうか?
草創期ではそもそもの「個人」に目は直接的には向けられず、摂理という全体目的を果たす中で個体目的も達成される。。そんな信仰感であった。
それが昨今ではどうだろう?天一国宣教という公的な資金で行われるものでさえ個人の教育という個人主義的な目的が重要視されている。今本部の方針さえも摂理という全体主義的なものと、個人の自由・教育という個人主義的なものがごっちゃになって、傾向としては個人主義的な方向へと向かっているように思う。全体として摂理への緊迫感がなく、団結力にイマイチかけるのもそういった理由からだろう。
全体主義への転換を
この記事では、はじめに自己中心の批判として「個人主義」を持ち出すのは違うという話から、偶然にも現在本当の意味での「個人主義」的なものに教会が傾きかけているということを伝えた。
私はいまこそ「個人」なんていう甘っちょろいものを排除して、摂理という「全体主義的な方針」へとシフトするべきだと考えている。そもそも、摂理の中だと自分という個人が満たされないと考えていること自体が間違いではないか?私たちの周りを取り巻く「環境」とのマッチング自体が運命的なものである以上、どんなことをしていようとも天によって教育されているのが私たちではないだろうか。
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