2016年01月

サマリー

・東大CARP勉強しろよ

・知→情→意 の順序で起きる

・「心情」と「情緒」を混同させるな

 

東大CARPのつぶやきが気になった。  



 

blog.livedoor.jp

サイト内に乗っている提出文章の画像は以下のとおり。

https://livedoor.blogimg.jp/todaicarp/imgs/b/d/bd551732.jpg

東大CARPは2枚の提出文章を書いているのだが、私が気になったのは、この一枚目の文章「2.(1)貴大学学生支援課の見解」の「①過去に原理研究会(CARP)に入った学生が大学に来なくなる等、通常の学業や学生生活ができなくなることが多くあった」という一文。

 

正直、この指摘されていることを知れば、教会内の2世たちの支持も得られないだろうと思う。中高生時代にあれだけ「学業で神を証しする」と言っておきながら、大学に入ってから勉強しないのはおかしいだろう

 



 

さらに現在、UNITEなどで活動している2世は「東大出身」であることを武器にしている。であるならば尚更学問に集中するべきだろう。教会では「知」よりも「情」を重視する傾向にあるが、「知」あってこその「情」である。これについては後ほど違うエントリーで述べようと思う。

 

 

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サマリー

・UNITE演説頑張っている

・UNITEはYNITE?

・サイトは要改善

・演説内容は古い。極端。

・「論破」することが目標ではなく、彼らの心を癒し、彼らが本当の意味で「共産主義」から解放され、我々の活動に加わってこそ「完全なる勝利」ではないか。

・「神の下の救われるべき兄弟」として「共産主義」を見ることを願う。

UNITE

www.ynite.org

UNITE見てきました。演説すごい。政治家ですね。あれだけ自信をもって主張を述べることができるのは「若者の力」を押し出す上でとても効果的だと思いました。

 

UNITEについて思うこと

外的

<Web>

・サイトURLについて

サイトURLを見て感じたのは「ynite.org」と、UがYになっていること。ドメイン取れなかったのかな。

しかし、公式twitterのつぶやきを見てみると

と、略称からしてみれば「YNITE」の方が正しい気がする。どっちなのだろう。 

 

・サイトは「レスポンシブデザイン」にするべき 

最近はやりのレスポンシブデザイン。政治団体として最も重要な「Opinion」に行くまで手間がかからないほどいい。シールズのWebサイトの方がスライド式で見やすいなと思う。HTMLなどWebサイト制作を行えるメンバーがいないのだろうか。

 

・「Opinion」「Story」

「東大生」と言うブランドを使うのなら、それに見合うだけの参考文献からの「引用」に基づく「Opinion」「Story」にするべきだ。個人の「思い」「感情」はいらない。ましてや「マスコミに騙されるな」と演説している人が「Story」では

自分でネットや雑誌などを調べていくうちに、今まで自分が持ってきた考えや、メディアで報じられる内容には、この問題を論じる上で最も重要な視点が欠けていることに気がつきました。*1

というわけです。我々統一教会はカルトだとレッテルを貼られているわけですし、参考基としてふさわしい書籍・論文を使うべきではないだろうか。ネットや雑誌もメディアである(笑)。前提や仮説を吟味していくことこそが学問の真髄だと思うがUNITEには少々足りないと感じる。

 

<演説内容>

・中国を完全な敵国としていること。

「中国共産党」の崩壊は必ずしも「民主化」と同値だとは言えないし、「民主化」が良いことだとも言えない。米国の中東への介入によって起きた散々な結果があるので、「民主化はなし得るのか」という点への疑問にも答えていただけるといいなと思う。

 

・「勝共」よりも「頭翼思想」を掲げるべきではないか。

正直、現状一般ピーポーは「右翼」と「左翼」の戦いにうんざりしているとも言えるのではないか。UNITEは「右翼」色の強いものばかりを主張しているようにも思える。共産主義と資本主義という2強の時代は終わり、現在はより複雑である。共産主義が間違っていて、それを倒したとしても全てが解決するわけではない。UNITEには「反共」をこえた「勝共」として共産党以外の問題をも解決し得る「代案」を提示してもらいたい。

内的

 <反共なのか勝共なのか>

我々は「反共」ではなく「勝共」である。はたして「共産主義は間違っている!」と訴えるのが「勝共」なのだろうか。

「右側」は神側であるとされるが、これはカイン・アベルの問題のようにそれぞれが「表示体」の立場になっているだけだと考えられる。「アベル」が「善の表示体」でありながらその存在自体が完全な善でなかったように、私たちの主張する「右側」も常に自身を吟味する必要がある。また、「カイン」が悪者というわけではなかったが、「悪の表示体」 として摂理の都合上立つことになったように、「共産主義」でさえ、本来は神が本来必要とされていた一側面が存在する可能性があるのだと考えられる。

 

私は「勝共」とは、ただ単純に「共産主義を打ち倒す」ものではなく、「共産主義」を信じてやまない人たちが、自然屈服する内容であるべきだと信じる。

共産主義を求める人たちの「心」を理解してこその「勝共」ではないか。私たちは「論破」することを求めてはいないはずだ。彼らの心を癒し、彼らが本当の意味で「共産主義」から解放され、我々の活動に加わってこそ「完全なる勝利」である。

 

私はUNITEが「共産主義」を敵としてしか見ないような人間的なものではなく、「神の視点」を絶えず考え、尋ね、「神の下の救われるべき兄弟」として「共産主義」を見ることを願う。 

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サマリー

  • 「因果応報」「公正世界仮説」は、人間の目から見た「公平さ」を元にしている。
  • 「放蕩息子」の話のように、神は人間の目から見ると「不公平」なことをされる。しかし、それこそが「神の愛」の表れであるとも言える。
  • 「因果応報」を中心とする教会内部の教育論は「神の立場に立てない」という堕落性が現れた物ではないか。
  • 分派問題もこの問題が関わっているだろう。
  • 「因果応報」「公正世界仮説」は誰も救わない。救えない。

 

「因果応報」「公正世界仮説」とは

 「因果応報」とは仏教の教えからくるもので、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」*1ということ。

「公正世界仮説」とは、下記リンクが詳しく説明しているが、「因果応報」と同じく「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」というルールが「この世」では働いているという仮説である。

psychmuseum.jp

ヨブ記についての記事で取り上げましたが、「因果応報」という考えは「神の願い」から離れているとも考えられるのではないか。

kirisutosya.hatenablog.com

 また、イエス様の有名なたとえ話である、ルカ15:11~32の「放蕩息子」の話を見ても、人間から見た「公平」を神は同じように重視されていないと言える。

 ある人に二人の息子があった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産の中で私が頂く分をください』。そこで、父はその身代を二人に分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分の物を全部取りまとめて遠いところへ行き、そこで放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした。何もかも浪費してしまった後、その地方にひどい飢饉があったので、彼は食べることにも窮し始めた。
 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、誰もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ち返って言った、『父のところには食物の有り余っている雇い人が大勢いるのに、私はここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人の一人同様にしてください』。
 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りより、その首を抱いて接吻した。息子は父に言った、『父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』。しかし父はしもべ達に言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、履物を足に履かせなさい。また、肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから』。それから祝宴が始まった。
 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、一人のしもべを呼んで、『一体、これは何事なのか』と尋ねた。しもべは答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛を屠らせなさったのです』。兄はおこって家に入ろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父に向かって言った、『私は何ヵ年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友達と楽しむために子ヤギ一匹も下さったことがありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰って来ると、そのために肥えた子牛を屠りなさいました』。
 すると父は言った、『子よ、あなたはいつも私と一緒にいるし、また私のものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのにみつかったのだから、喜び祝うのは当たり前である。

 教育現場における「公正世界仮説」

「教育」を支持する者は特にこの「公正世界仮説」を重要視していると言える。彼らは 「良き教育」を受けた者は「良い将来」が待っていると言う。信仰に関しても同じく、「良き教育」を受けた者、「良い家庭環境」で育った者が「良い2世」として育つと。

この仮説は、「逆の立場」の2世にも影響を及ぼす。これが恐ろしい。「道を外れた2世」は、「今まで教育をきちんと受けてこなかった」からだ、「家庭環境が悪い」からだ、、と言われるようになる。たとえ、そうでなかったとしても、「彼ら」は自身の支持する「教育」の重要性を守るため、手のひらを返したように「原因」を作る。

影響

影響は大きく2つあると考えられる。

 1.セーフティ・ネットがない。機能しない。

本来「許し」という者が宗教の大きな成果物であるとも言えるのに、我が教会にはあまり見られない。TMが「許し・愛し・団結せよ」と言われているが、それを実践することができているのかは私たちが日々反省するべき大きなポイントだとも思う。

教会内、特に教育系にはびこる「因果応報」を中心とした考えは、一度道から外れてしまった者を「再び神の元へ帰す」という本来の使命よりも、「さらに突き放す」ことをしてしまう。

人間は過ちを犯す生きものである。そして、神は何度も人間に裏切られても許してくださったお方である。

2.「逆恨み野郎」が増える

「因果応報」を中心に育てられた2世の多くは「忠実に」その言葉を守っていくだろう。しかし、この世は理不尽なことで溢れている。たとえ、何一つ禁忌を冒さなかったとしても、悪いことは起きるのだ。まぁ、メシアさえもあれだけ良いことをされながら苦労の連続であったのだから当たり前なのであるが、「自分は違う」と思ってしまうのかもしれない

「言われたことを守ってきたのに!」という理由で神を恨む者が多いと感じる。これは個人の問題でもあるが、「教育」による者だとも言える。「因果応報」を元にした教育は自分のケツも自分で吹けない「逆恨み野郎」しか産まない。

結論:「因果応報」では誰も救えない

*1:goo辞書

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