朝5時起床。2度寝。
台風近づいているため、一日中、冷たい雨。

晴耕雨読ということで、
先送りになっている本を読む。

『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』
(日野晃、押切伸一共著・白水社)読了。

ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う


まず、俺は世界的に著名なコレオグラファー(振り付け師)と言われる、
ウィリアム・フォーサイスを知らない。
そして、バレエに興味を抱いたことのない俺は、
全くどういう本なのか予想がつかなかった。
しかし、一読、巻おくあたわず引き込まれる。
バレエにも武道にも興味が無い人でも、この本は面白い!

そこで丁寧に紹介すると……。

もともと、この出会いのきっかけを作る、登場人物の一人。
安藤洋子は日本のバレエダンサー。

日本人として初めてフランクフルト・バレエ団に所属し、
フォーサイス・カンパニーとも契約した安藤洋子が、
まず日本で武道家、日野氏に出会い指導を受ける。
そして日本から、ドイツに戻った時に、
フォーサイスが安藤のダンスを見て、その変化に気がつく。
そして、フォーサイスは安藤が日本で得てきたものを
自らの生徒達に伝えて欲しいと願い、
武道家・日野氏のワークショップがドイツで開かれることになる。

その後は……。
まず、出版社のコピーを引用すれば……。

スポーツ選手の活躍・復調の影には古武術あり! 
ということで甲野善紀・養老孟司・内田樹の各氏らによる身体論が注目を集めるなか、
コンテンポラリーダンスの世界でも日本の武道は「革命」を起こしている。
ドイツのフランクフルトを拠点に先鋭的なダンス作品を発表しつづける、
世界屈指の振付家ウィリアム・フォーサイス。
彼が自らのダンスワークショップに初めて招いた外部の人間は、
なんと、ダンスにはまったく縁のない日本人武道家だった!
2005年3月、フランクフルトのオペラ劇場で行なわれた
武道家・日野晃のワークショップは、ジャンルや文化の相違を超え、
きわめて刺激的で示唆に満ちたものとなった。
世界中のアーティストや批評家たちから激賞される
フォーサイスをして「運命的な出会い」と、
そしてダンサーたちをして「人生が変わった」とまで言わしめたものは、
いったい何だったのか?
素顔のフォーサイスが挑む、7日間のワークショップ。
彼はそこで、「即興の極意に触れ、胸骨の操作を学び、自宅に日野晃を招き、
達人の技に感嘆し、『留守』を任せ、武道の技に燃え、最終日に閃く」。
フォーサイスが「ダンスのマスター」と称讃し、世界のトップダンサーたちが驚嘆した
武道家・日野晃の技と思想(「触れる・感じる・つながる」ための身体メソッド)が、
本書で語られる。
フォーサイスとの対話も世界初収録された、
フォーサイス作品の入門&研究のためには欠かすことのできない1冊だ。
貴重な写真も豊富に収録されている。
巻末付録:「身体を存在させる」ためのトレーニング。


押切さんとダンスに関する共著(『西麻布ダンス教室』)もある、
いとうせいこうさんは、このように書いてある。

先週はお盆休みで、一刻も早く紹介したい本があったのに出来ずにいた。
それが『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』
(日野晃、押切伸一共著・白水社)なのであった。
この本は実に面白かった。
そもそもあの世界一の振付家、フォーサイスが自らのカンパニーの師として
日本人武道家を呼んじゃうんだから。その事実がまず凄いじゃないですか。
豪放磊落な武道家はダンサーたちに自らの身体を見せる。
押さえつけさせておいて、そこから体を抜いてしまうというような動きの幾つか。
すると、そこに奇跡が起きる。
世界的水準の高さを持つダンサーたちはその身体を理解すべく目をこらし、
自分のものとするために動き始めるのである。
ジャンルを越えた最高のコミュニケーションが開くのだ。

フォーサイスの真骨頂のひとつは御存知のように、コンタクト・ダンス。
インプロビゼーションの中で触れ合うことがそのまま
次の両者の動きに影響を与えていく、
きわめて理知的で物理的なダンスの方法だ。
考えてみれば、こうした身体の触れ合いを焦点化する以上、
いつかはそのダンスが武道と交わってもおかしくはなかったのである。
武道こそコンタクトが決め手の身体技の集合体であり、
名人はそのコンタクトをいかに細かくとらえるかに集中し続けるからである。
事実、武道家・日野晃は究極のコンタクトにおいて
「対立しない」という極意にまで到達しているのだと言う。
向かい合った相手は自分を斬ろうとしている。
しかし、その相手と「対立しない」。
"私を斬ってください"という意識を全開にし、
なおかつ絶妙のタイミングで動いて相手の攻撃をよけてしまう。
このようなレベルの武道家であればこそ、
フォーサイスのカンパニーは全面的に受け入れ、
その指導のもとにコンタクト・ダンスを変化させていく。
最終的にそこにあるのは身体同士の会話であり、
ランゲージバリアをやすやすと越えるコミュニケーションである。
また日野側にしてみれば、
フォーサイスのカンパニーが持つ身体レベルの高さゆえに、
講義がより深まり、より奥義に近くなっていったはずでもある。

つまり、本書は類いまれな「出会い」の記録であって、
その意味でも感動的な内容を数多くふくんでいるのであった。
端的にいうと、書いている押切さん自身が書きながら何かを発見したり、
圧倒的な感覚をいかに言葉として書きつけていくかに集中したりする様が、
私にはこれまた感動的だった。
書いていてそんな状態になれる幸福は一生のうち
そう何度もあるものではないからである。
今後、理知的で物理的なコンタクト・ダンスが、
さらに本能とも共存するような理知を持ち、
物理を超えて見えるような物理となっていくことは十分にあり得る。
武道家・日野晃との出会いがフォーサイス・カンパニーの思考を
根本的に組み変えてしまったからには、これ以後の公演が何より楽しみだ。
と言うような本だが、
我々、格闘技ファンにも馴染み良く、例えれば、

熊川哲也が、ブラジルのシュート・ボクセに留学して、
闘いの極意を学びバレエに応用出来ることに目覚める。
〜その逆バージョンだと思ってもらえばいい。

それ位、意表を突く設定だ。

読んでいて、本は、併線だらけになるのだが、
いくつかメモ代わりに引用すると、

最初に、日野氏は世界指折りのカンパニーのダンスを見て……。

それにしても、面白くない。洗練された当て振りと変わらない。
それは、クラシック・バレエが記号化された動きだからかもしれない。
ハワイのフラダンスのように、動きそのものが表象文字的意味を持つのではなく、
アルファベットも字のごとく意味を持たない記号だからか。


そして、彼らにやみくもに武道の神技を見せるわけではない。
むしろ、武道を神秘で封じ込めることなく、
自らの武道の修行で得た、人の動きの理想形を、 言葉で理論化しいている。

私の言う身体の合理的な動き、つまり、力線が存在する身体の動きだ。
この身体の動きは想像を超えた動きができる。

「攻撃とは狭い視野でしかない、もっと広く」と。
動きや思考の癖をとりきらないで、何かが大きく変わると誤解している、
そんな姿勢を、「正面から向かい合っていない」と日野は表現する。

「古来習体の容形をのぞき、本来清明の恒体に復す」という言葉だ。
とにかく「自分を知り、自分の癖を取っていくことが、武道の修行なのだ」


そして、日野の言葉と肉体の実践による教えに
ダンサーたちは啓蒙され、共鳴していく。
そして、その態度を見て日野氏も感銘を受ける。

武道をしていて、まったく別の世界なのに共鳴でき、
なおかつ「人生が今日で変わった」と言ってくれる人がいるとは夢にも思わなかった。
もちろん、頭では、「私と共鳴する人はどこかにいる」と確信はしていたが、
それがダンスの世界であり、 しかも三五年間ダンスを作りつづけ、
世界屈指の振付家ウィリアム・フォーサイスだとは、
当たり前のことだが知るよしもなかった。

私は常々、武道は人の可能性を引き出す普遍的なメソッドだと確信していました。
つまり、哲学であり、具体だからです。
それを、瞬時に理解してくれた人、フォーサイスさんと出会えた。


改めて日野氏、本人の経歴も興味深い。

一九四八年、長唄や日本舞踊などの見事な腕をもった芸者の子として、
日野は大阪に生まれた。
中学生になると、女子にモテたいという"純粋な"動機から、
鉄棒を中心とした器械体操に熱中しはじめる。
当時、中学生が持つことは珍しかったカメラを駆使して、
誰にも習わず、運動を分析的にとらえる作業をくりかえし、
ついには東京オリンピックの強化選手に選ばれるまでになった。


運動を分析的にとらえるという、 独自の理論化は、
武道を志す前から始っていた。
そして、世界を旅するジャズ・ドラマーの経歴もある。

――制約がなく、「ここだ!」と閃いたと同時に音を出さねばならない
フリー・ジャズの経験が武道をやる上で大事だったのではないか


さらに幾つか、理論化の言葉が興味深い。
例えば、『武道に於ける型』は――。

では日野が考える型とは何か?
それはつまり、運動の始点がどこか、運動が線としてどうつながっていくか、
動きによって体重はどう移動していくのか、
意識が変わると動きはどう変わるのか、
どの部位に緊張を与えると他の部位が緩むのか――
それらを検証するためにつくられた、先人の「知恵の集積」のことである。


新渡戸稲造の名著『武士道』にも言及していて、

日野も「官僚の心得とでも表現すべきもの」と位置づけている。

極端に言えば、武士道に「身体」はない。
それに対し、武道には無限の汎用性がある、と日野は確信していた。
そして、それを身体によって示した。


「武禅」という、独自のメソッドもある。

座禅のように「悟ったつもり」に陥りがちになるのを避け、
あくまでも他人の目を通して確かめていくことで、自分を磨いていく体験。
ここが、武道の入り口だ。武道の達人の境地にはいたらくとも、
人生の達人にいたる道の第一歩である。

肉体に意図的な運動を要求せず、具体的な動きは無意識レヴェルにまかせる、
そして、その運動全体は自分のイメージで構築する、ということだ。
それゆえ、肉体そのものが自然に生物的な動きになるということだ。


そして、武道とバレエの融合は、二つの英語に集約されていく。

例えば「DON'T THINK, FEEL」は、
ブルース・リーの名台詞として、
手垢がつき、お馴染み過ぎるフレーズだが、
言葉は真理を湛えている。
そして、その真理は、この本でも繰り返され、
さらに、「FEEL&CONNECT」と、その奥儀を訳される。

各関節を動かすことによって、刺激を認知する、
感覚する、感じる……つまり、「Feel &Connect」である。
また、あたかも草や木が風でそよいでいるような、
魚が水の中で泳いでいるような、
という比喩は、「contact」の奥義につながる。

相手の手が、武器が、こちらの手や武器に当たる。
それは、それに応じて動くという、「Feel &Connect」なのだ。

私が皆に伝えたのは『対立しないこと』だ。それは概念ではなく、
本当に身体運動として実現させていただろう。


いわゆる、古武道系の本や『達人主義』などのムックで、
日野氏の存在は知っていたが、
今までは、俺に、ここまでの"気づき"はなかった。
それは、この本を編み、 長年、日野氏の存在の翻訳者であった押切氏が、
「およそ6年前に初めて会話させてもらった以来、
私はどのように書けば日野晃という人間が伝えられるのか、 考えてきた」
と書くように、 心酔する弟子による、師匠が「……かく語りき」では、
普通の人には届きずらいものがあった。
しかし、その意味では、武道の真価を問う場所が、日本ではなくドイツ、
他流試合ではなく、世界一のバレエ団に紛れ込んだ、という設定は、
その存在を際立てせ、その凄みを見事に照射した。

何故、この本が俺にとって面白いか?
それは、俺の体内にある"内知の知"を掘り起こされることだ。
ここに書かれてあることは、既に分っていた。
そして、自分の内なる確信を、
言語化し、躰で実践し、実証する人の存在に、興奮するのだろう。

そして、それは運命的だ。

俺が、この本、ここに書いてあることと"出会う"ことは、
あらかじめ運命づけられている。

日野晃との出会い、
「FEEL&CONNECT」の概念との出会い、
まずはREADだ。
そして、そこで素通りする人もいるだろう。
しかし、そこにぐっと来る人、
懐かしくも看過できない真実の匂いを嗅ぐもの、
それは運命づけられている。

夕方、雨降りのなか、
カミさん、子供と皮膚科へ。
足の豆を削って貰う。

その後、外食の焼肉だが、これが見事に失敗。

HDDチェック。
『Jr〜偉人の子供たち』
4月にTBSで放送、
石原良純、中島知子司会。オモロ。

『友へ チング』DVD再観了。

友へ チング


海の浮き輪が流されるシーン、雨の殺害シーン、
この2シーンは、何度見ても素晴らしい。

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