木曜日の深夜一時〜三時のために生きている、みたいな感じだった。
その時間に起きて、聴きながらテープに録るという行為が、自分の中での“聖なる時間”だった。


漫才師・タレント・文筆業・たけし軍団構成員:水道橋博士インタヴュー
※『ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選』(太田出版)より

 異様に腕と口のたつ漫才師。異様に筆のたつ作家。バラエティ番組に対応すれど染まらない、出るだけで画面にサブカル臭を漂わせる、そういう意味でとても信頼のおけるお笑いタレント――浅草キッドを形容するならそんなところだろうが、二人にはもうひとつ、「我々の代表」という側面もある。「ビートたけしのオールナイトニッポン」を聴いて衝撃を受け、人生を変えられ、毎週ラジオの前で悶々と「いつかは俺もこの人のそばに」と焦燥感にかられていたのが我々「オールナイト世代」「たけし信者」であるとするなら、その中で本当に弟子入りした、つまり夢を現実にしたのが浅草キッドの二人なのです。しかも、玉袋筋太郎は高校時代からたけしの追っかけをしており、「追っかけの兄ちゃん3人組」の一人として我々リスナーにも知られた存在だったが、水道橋博士は、岡山県倉敷市で一人悶々と弟子入りする日を夢見ていた――つまり、より我々に近いのです。そんな博士に、羨望と尊敬の念70%、嫉妬の念30%でもって話をきいたのが、以下です。(聞き手:兵庫慎司)


――博士はいろんなところで「中学時代、甲本ヒロトはラジオから流れてきたビートルズで人生を決めたが、俺はラジオから流れてきたビートたけしの声で人生を決めた」という話をされていますよね。

水道橋博士(以下、博士) 中学生の頃、ヒロトと俺、同級生だったからね。でも、正確に言うと、「ビートたけしのオールナイトニッポン」が始まるのは十九歳になる歳で、高校生なんだよ。だから、本当は「中学時代」というフレーズをとったほうがいい。でも、そうするとヒロトと同じクラスにいたというニュアンスがなくなっちゃうからね(笑)。

――あれ? 高校生で十九歳って……。

博士 留年していて、そのとき高校三年生だった。だから、そういうどん底というか、思春期の暗闇の中にいる時期。俺、十五歳から十六歳くらいにかけて、けっこうシリアスに体調よくなくてね。学校に行くとお腹が痛くなるという、過敏性大腸症候群とかいうものだったらしいんだけど、親には祈祷師のところに連れて行かれたり、心療内科に通わされたり、開腹手術させられたり……本当、自分でもよくわかんない。あの頃、何をやってたんだろう。まさに闇の中というか、鬱々たる時期。やっぱりそういう時期は深夜ラジオを聴くんだね。

――第一回目の放送は、リアルタイムで聴いてました?

博士 深夜放送、ずっと聴いてたから、リアルタイムで聴いてたはずなんだけど、俺、「ダディ竹千代のオールナイトニッポン」最終回に(ビートたけしが)乱入したと思ってた。でも、この本を読むと、ダディ竹千代のほうが第一回放送のゲストに来たんだね。そのへんの記憶が曖昧になっているけど。でも、ショック受けたなあ。まずしゃべりのスピードに驚いた。あと、第一回目から「放送禁止用語しりとり」や、ヤクザネタみたいなことをガンガン言っていて、その放送コードがない感じがグッときたね。それからもちろん毎週聴いたし、当時は、木曜日の深夜一時〜三時のために生きている、みたいな感じになっていった。その時間に起きて、聴きながらテープに録るという行為が自分の中での“聖なる時間”だった。

――で、一年後には(ビートたけしの母校の)明治大学を受験して合格、上京されますよね。

博士 授業中、一番後ろの席だったんで、イヤホンで、テープに録った「たけしのオールナイトニッポン」聴きながら『真説「たけし!」――オレの毒ガス半世紀』(講談社)を読んでたんだ。そこで「将来は、この人のところに行こう」と決めた瞬間、窓からの風景が本当に変わって見えた。全然出口が見えなくて、「どこまで続くんだろう」ってずっと思ってたけど、バーッと光が射した気がしたなあ。あの風景が変わった瞬間の感じは、今でもよく憶えてる。そこから突然、一生懸命受験勉強し始めた。ようやく学校へ行く理由が見つかったから。

――それまでは本当に出口なしで、「俺の人生どうなっちゃうんだろう?」って思ってた?

博士 思ってたねえ。相当思ってた。卒業したら家業(紙問屋)を継いで、仕事が終わったらフィリピンパブに通いつめたりして、実家の店に勤めてるパートの短大生の子かなんかと結婚して、たまに、深夜、一人で録り貯めた「オールナイトニッポン」のテープを聴き返しながら、一生が終わるんだろうなって思ってた。ものすごく灰色の将来しか見えなかった。「とにかくたけしさんに会いに行こう、そうしないかぎり、この鬱屈とした曇天には出口がねえぞ」って。

――自分を「たけしのオールナイト」が救ってくれたのは、今振り返ると、どういうところが最も衝撃的だったからだと思います?

博士 これはあちこちで話していることだけど、放送を聴いていて、お笑いって絶対に、負けのない職業だと思えたんだよね。一生貧乏のまま終わっても、笑い飛ばせればいいわけだから。俺、それまでは竹中労に憧れて「ルポライターってかっこいいな」と思ってたんだけど、部屋にひきこもってオナニーばっかりしている自分が、何が正義を問えるのか?社会のために何か行動を起こせるのか? 起こせるはずがないじゃないか!」と思ってたの。もちろんお笑いの世界だって「クラスでひとことも話さない俺にできるはずがない」とは思うんだけど、でも、ひょっとしたら「こいつはしゃべらない男だぞ」ってことで笑いにつながることもあるだろうし、結果的にまったく売れなかったとしても、それも笑い飛ばせるわけだし、どっちに転んでも「しょうがねえなこいつは」って言葉で救われる。だからお笑いこそが最強だと思った。たけしさんがやったように、やりたい放題で、女を抱いてもいいわけだし。だって「たけしのオールナイトニッポン」のおねぇちゃんネタって、不倫をリアルタイムで実況してたようなもんじゃない? ああいう反社会的なことを公然とやっても、そこに笑いさえあれば、それは認められるんだって感じ。それまでは「正義」ってことが俺の中ですごく重要だったんだけど、正も邪もどちらも合わせて呑みこむ「お笑い」の中に突破口がある、そこにやっと出口を見つけた。お笑いは本当に最強の職業だな、って感じが「ビートたけしのオールナイトニッポン」にはあった。今でもたけしさんのそばに、十何年もずーっと一緒にいるんだけど、まるで売れない芸人とか、いっぱいいるわけじゃない? でも、彼らにも負けはないわけだしさ。そういうメッセージは、「たけしのオールナイトニッポン」の中にすごく入っていた。人生、勝ち負けじゃないんだよ、っていうことを教えてもらったのが一番大きいかな。あとは、「くだらねぇな」とか「しょうがねぇな」っていう価値観。

――それで大学に受かって上京されるんですが、すぐに弟子入り志願者としてニッポン放送前に通い始めたわけではないんですよね。

博士 いや、上京してすぐに一度トライしたんだ。これから草野球やるっていう夜明けの多摩川のグラウンドに、弟子志願をしに行ったんだけど、ちょうどその場に(グレート)義太夫さんも弟子志願で来てて。当時、義太夫さんはヘルズ・エンジェルスみたいな恰好だったんで、それを見てすごく恐くなって。「この人と弟子の座を争わなきゃいけないんだ」と思って、そこで言い出せなかったんです。そこから弟子になるまで四年経った。

――で、大学すぐやめちゃうんですよね。その後の四年間は何を?

博士 4日しか行ってない。取得単位0。パチプロやってた時期もあるし、歌舞伎町のオーダーワイシャツの営業も三、四年やってたし、セールストークを買われて、豊田商事に誘われたこともある。その頃は、巨大なゴキブリホイホイの中にいる感じだった。だって歌舞伎町の中から足抜け出来ないんだ。一週間で一〜二万円稼ぐんだけど、そこで周りの一緒にバイトしているやつら、みんな食費を節約してオーディオ買うんだよ。そこだけで、みんな競ってるの。全員、彼女もいないし。あとは麻雀やって、パチンコやって……だから、俺、今のネットカフェ難民の気分がよくわかるよ。

――でも、毎週「たけしのオールナイト」を聴いていると、どんどん弟子が増えていることが耳に入ってくるわけで、そこで「俺は何してるんだろう?」っていう……。

博士 もちろん、そのために上京してきたわけだから、そういう気分にはなりましたよ。

――でも、弟子志願には行かない?

博士 そうですね。もうあきらめてたんですよ。それで、四年経ったときに、周りのバイト仲間や友達が、全員故郷に戻って就職することになったんです。周りが全員カスみたいな生活してたから、お互い慰められてたんだろうね。「カス同士だな」って安心してた。で、周りが故郷に戻るってなったときに、「俺、何してるんだ?」って現実に引き戻された。で、ようやく意を決して弟子志願に行くんです。

――で、深夜のニッポン放送前に通い始めて。その時期は何人くらい弟子志願がいました?

博士 下手すりゃ百人くらいいたよ、ほんとに。その中で、特に親しい奴だけでも十人くらいはいたから。俺の場合、最初はニッポン放送前だったけど、そのうち北の屋の前とか、サンミュージック前とかで待つようになった。いろんな場所で待っていたほうが印象づけられるんじゃないかと思って。四谷のサンミュージックの裏に、当時、殿のマンションがあったんで。そこで待ってたら家にあげてもらったこともあった。「中においでよ」って。そこで、ラジオでネタにもなった“札幌の女”にも会ったなあ。

――家に呼ばれて「弟子にしてください!」みたいな?

博士 いや、座らされて「あんちゃんたち、何してんの?」みたいな感じ。「弟子にしてください!」は一回目ですでに言ったから。

――土下座とかしたんですか?

博士 最初は土下座もしたな。自分で考えたネタを書いた手紙を渡したら、通りすがりに受け取ってもらえて。そしたら、ご本人から直接電話がかかってきたからね。放送禁止のネタばかり書いたら「兄ちゃんの面白いから、次は『モンティ・パイソン』みたいな台本を書いて持ってきなよ」って。で、当時、俺、「モンティ・パイソン」観てなかったから、慌ててレンタルビデオ屋に借りに行って。でも、そこからは全然書けなかったね。

――じゃあそれから毎週いろんな場所で待ち伏せをして?

博士 そうそうそう。それを七ヵ月間、毎週やった。あてどもない感じがしたなあ。毎週毎週、三時間から四時間立ちっぱなしだから。それで、七ヵ月目くらいにちょうど「風雲たけし城」(TV番組)が始まることになって、その場にいた弟子志願者が全員採用される事件が起きた。「明日、緑山スタジオに全員集合しろ」って。ちょうどその時いた十人くらい、全員で緑山スタジオに行ったんです。そこで、ようやく俺も採用になったと。でも、最初はずーっと透明人間扱い。軍団の人も話しかけてくれないし、もちろん殿も話しかけてくれない。殿とはそこから七年間、ひとことも話さないからね。楽屋にいるのに見えない人。それもけっこうキツかった。

――そうやって透明人間になった後も、「オールナイトニッポン」は聴いてたんですか?

博士 いや、現場に行けるようになった。スタジオの金魚鉢(放送ブース)の外で、俺、ずっとハガキを見てたなあ。一〜二万通くらいあるんだけど、人生相談とか悩み相談みたいなのを封書で送ってくる人もいて。それを読んでいると、昔の病んでいた自分を思い返すんだ。「うわー、こいつ、あの頃の俺と一緒だ」って。それがすごく切なかった。俺が殿のところに行こうと思ったのは「悩み相談なんか書いてくるな、悩んでる奴は死ね!」ってラジオで言ってたのが、すごくよかったんだよね。それで吹っ切れたというか、「そうか、ダメだったら死ねばいいのか、でも死ぬくらいならその前に家を飛び出して弟子志願をしたいな」って、逆説として受け取ったんだ。あのメッセージも俺にとっては大きかった。

――透明人間とはいえ、スタジオに入れたときは感無量だったでしょ?

博士 それはもちろん。だって、俺にとっては、ビートたけしの弟子になった瞬間がゴールなんだから。

――はははは。問題発言ですね(笑)。

博士 もちろん、ゴールだと思ったら実はそれがスタート地点で、そこから物語がまた始まる、ってことは人生で何度もあることなんだけど、それでも俺にとって人生最高の瞬間は「ビートたけしの弟子に俺はなれた!」と思ったとき。それは間違いない。だから、あの当時の日々の誇らしさはすごかったね。「入口をつかんだ」って感じで。

――あと、博士にとっての「オールナイトニッポン」というと、何と言っても忘れられないのが“亀頭白之助襲名披露”事件ですが。

博士 それは、相当番組の後期だよね。その前から「水道橋博士」って名前が重くて嫌だったんだ。「物知り」みたいなキャラクターで固められるのが嫌だったし、もっとバカっぽい芸名のほうがいいなって。で、亀頭白之助って奴が軍団を辞めた時に「二代目亀頭白之助を襲名させてください」ってダンカンさんに言ったら、「じゃあ、それ『オールナイトニッポン』の中でやるか」ってなった。

――博士がちゃんと型どおりの襲名披露の口上をやって、「時期尚早との声もございますが」って言った瞬間に殿が「何が時期尚早だ!」ってつっこんだの憶えてます(笑)。

博士 番組内でちゃんと襲名したんだけど、亀頭白之助と玉袋筋太郎じゃ、インパクトありすぎて(笑)。事務所から「これじゃあ仕事とれませんから」って言われて、元に戻した。

――博士は地方で鬱々としながら毎週「オールナイト」を聴いて「いつかは殿のもとに」と思ってたわけですよね。僕もそうですし、そういう少年たちって、当時日本中に何万人もいたと思うんです。だから博士は、その少年たちの中で、夢を実現した唯一の人、みたいなところがあると思うんです。

博士 そう思うね。「私は現在、地方でこういう生活をしていますが、当時『ビートたけしのオールナイトニッポン』を聴きながら、ニッポン放送の前に行こうか行くまいか何度も悩みました。博士は、もう一人の私なんです」というような内容のメールはよくもらうし。俺も、そっち側にいる自分を何度も想定したからね。きっといずれは故郷に帰って、貯めていたオールナイトのテープを毎晩聴きながら泣くんだろうな、って思ってたからさ。

――正直、当時のたけし軍団って、みんながみんな、博士ほどたけしさんに心酔してる人たちばかりでもなかったと思うんです。

博士 そうだね。俺と玉袋がコンビを組んだのは、そこの連帯感だから。「俺らは本当にビートたけしのことが好きなんだ!」っていう。俺たちが人気者になりたいわけじゃない、単にビートたけしの一番近くにいたいだけっていう。ビートたけしの弟子じゃなかったら、俺、お笑い界に入ってないから。

――芸人になりたかったわけですらない?

博士 俺の場合、そう言っても過言じゃないんだよね。少なくとも自分にとっては「お笑い」というジャンルよりも「ビートたけし」のほうが存在として大きかったし、「ビートたけし」のほうが好きだったのは間違いないね。

――あと、以前に博士が見せてくれたノートがすごく印象的だったんです。博士が「たけしのオールナイトニッポン」のテープを繰り返し聴きながら、全部のネタを手書きで書き起こして、そこに分析を加えているっていう。あのノートはいつ頃のものなんですか?

博士 あれは弟子になる前。東京に来てから。

――あのノート、すごい迫力ですね。写経みたいな。念が籠っている感じがしました。

博士 そうそう、まさに写経。田中くんっていう、当時一緒に住んでいた友達と一緒にやっていたんだけど、いつか田中くんはニッポン放送に入って、俺は芸人になって、そしてふたりで「ビートたけしのオールナイトニッポン」をCD−ROMで歴史的資料として残そう、みたいな話をしていた。この面白さを誰かが後世に残さなくてはいけないんじゃないかっていう使命感があったんだね。だから、まさにこの本の意図と同じ(笑)。

――のちにご「浅草キッドのオールナイトニッポン」をやられたときはどうでした?

博士 それはもう、何と誇らしかったことか。「ビタースウィートサンバ」(「オールナイトニッポン」のテーマ曲)がかかったとき、あのときも俺にとってのゴールだった(笑)。この間、自分たちの「オールナイトニッポン」を聴き直したんだけど、これが、ひどい内容でね。「札幌のソープで俺が何回イクか当ててください」ってクイズを出したり、ジングルでも「ウッチャンナンチャンが嫌いな浅草キッドのオールナイトニッポン!」とかさ、「いちいち噛みつかないと気がすまないのか、この人たちは」みたいな(笑)。でも、当時はそうだったんだよね。やっぱり心底「ビートたけしのオールナイトニッポン」から影響を受けているんで。


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