2010年12月20日(月)
以前は、日本語の受け身を「伝統的な受身」と「翻訳調の受身」に分けて考えていました。例えば、次のようになります。
伝統的受身
弟がパンを食べた→弟にパンを食べられた
泥棒が財布を盗んだ→泥棒に財布を盗まれた
先生が健をほめた→先生に健をほめられた
翻訳調受身
弟がパンを食べた→弟にパンが食べられた
泥棒が財布を盗んだ→泥棒に財布が盗まれた
先生が健をほめた→先生に健がほめられた
2つは、「を」が変化しないままか、「を」が「が」に変化するという見かけの上での違いはありますが、それ以上に違っているのは、「伝統的な受身」では、迷惑や被害を受けた人が文の背後で顔をしかめているのに対して、「翻訳調の受身」では、文の後ろに誰も隠れていないという点です。
文の背後で顔をしかめている人が誰かというと、日本語には、話し手と聞き手がすでに知っていることは、ダイエットされて消えてしまうという特徴がありますから、特に名指しされていない場合は「私」になります。
つまり「弟に食べられた」のは「私のパン」であり、「泥棒に盗まれた」のは「私の財布」であり、「先生に健ちゃんをほめられ」て、悔しい思いをしたのは「私」です。「兄は弟にパンを食べられた」といえば、このパンは兄のものです。
ところが、変化しないままの「を」も、「を」から変化した「が」も、どちらも「は」に換えることができ、会話ではこの場合のほうがむしろ多いくらいです。
これは「は」に「が/の/を/に」などの代行をしながら文末と呼応するという性質があるためです。
つまり、次のような文が成り立ちます。
1. あのパンは弟に食べられた
2. 父の財布は泥棒に盗まれた
3. 健ちゃんは先生にほめられた
これらの文が、はたして「伝統的な受身」なのか「翻訳調の受身」なのか、誰にもわからなくなっています。
ということは、「伝統的な受身」か「翻訳調の受身」かという区別は役に立たないということになります。
「じゃ、どうするんだ」といえば、日本語の受身には、もとの文を受身の文に変換した場合、次の2種類の受身文があるというのが、まあ妥当ではないかと思うのです。
<「プラス1人」型の受身>
~もとの文にはいない
迷惑や被害を受けた人が現れる受身文
<「クロス」型の受身>
英語式に「が格」と「を格」が入れ替わる
~もとの文と同じで、誰も現れない受身文
つまり、誰かひとり、プラスされるか、されないかという違いです。
上の「は」を使った3つの文は「誰も現れない受身文」という気がしますが、これは、「は」の代行では「が」が最も多いということとも関係しています。
ところが、例文「2」の受身文は、文意から「被害を表しているから、迷惑や被害を受けた人が現れる『伝統的な受身』ではないか」という声をよく聞きます。
しかしこれは、もとの文「泥棒が父の財布を盗んだ」も被害を表しているからにすぎません。
「伝統的な受身」である「泥棒に父の財布を盗まれた」なら、この文の背後に「腹を立てて怒っている私」が感じられます。
また「3」には、「先生が健ちゃんをほめた」結果、悔しい思いする「私」の存在は感じられませんし、そもそも迷惑や被害など感じとることもできません。
初級の学習者に日本語の受身を紹介する場合、次のことから始めてください。
「もとの文の「が」または「は」を「に」に、文末を『~(ら)れる』に換えると、迷惑や被害を受ける人が現れることがある」
これを導入しておくと「雨が降る→雨に降られる/夫が死ぬ→夫に死なれる/子どもは公園へ行く→子どもに公園へ行かれる」といった、自動詞文の受身が納得しやすくなります。
日本語と文の構造がよく似ているといわれる韓国語にも、自動詞文の受身というものはありません。
受身にしたとき、迷惑や被害を受ける人が、文の背後から立ち昇ってこなければ、いわゆる「迷惑の受身」にはなりません。
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