2009年05月08日

人権について4

人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ
著者:ジョン ロールズ
販売元:みすず書房
発売日:1998-11
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 1998年発行。著者はスティーヴン・ルークス『人権をめぐる五つの寓話』、ジョン・ロールズ『万民の法』、キャサリン・マッキノン(リンク先英語)『戦時の犯罪、平時の犯罪』、リチャード・ローティ『人権、理性、感情』、ジャン=フランソワ・リオタール『他者の権利』、アグネス・ヘラー(リンク先英語)『自然法の限界と邪悪のパラドックス』、ヤン・エルスター(リンク先英語)『多数決原理と個人の権利』。編者はスティーヴン・シュート、スーザン・ハリー(リンク先英語)。訳者は中島吉弘、松田まゆみ。
 きっかけはバックラッシュ!。キーワードは『ローティ』と『感情教育』。

 アムネスティ主催の講演会の93年度訳。ロールズの話はどうも頭に入ってこない。元が悪いのか訳のせいなのか私が悪いのか。それはともかく全体として文体自体はわかりやすくしている。でも一般向けとはいえない内容である。哲学書みたいな論考とバリバリのフェミニズムが一冊の本になっているし。エルスターの論が一番読みやすいが、解説に終始しているともいえる。

 「感情教育」は、生まれてからの環境によって特定のバイアス――違う肌の色、同姓愛、異教徒etcに嫌悪感を持つ――がかかるのは避けられないことである。そこで教育によって段階的に自己の範囲(視野)を広くして拒絶反応を和らげていこう、という理解でいいのかな。それこそ「我が同胞」が家族や地域で終わらず地球レベルにまでいくような。

 訳者あとがきにもあるように、西洋個人主義の押し付けと感じる箇所はある(特にローティ)。論者から「なるほど」と得るものがあると共に、「何言ってんの」という部分もまたある。学者の罪のひとつに、問題を一般化することによって本質や問題点を曖昧にすることが挙げられる。それを考えればコレでいいのかとも思う。ともかく様々な視座を体験できる。

 「専門以外のことは知らん。他の奴が勝手にやれ」みたいな姿勢をみる。振り返ってみると、日本では(と言うと語弊があるか)どうも分業がうまくできていないと感じる。専門に徹しきれないというか、必要のない所にまで手を出してしまうというか。例えば「誰にも迷惑をかけていない」という言葉からも垣間見れる。迷惑か判断するのはあくまで他者であって、自らできるのは仮判決にすぎない(はずなのに自己完結してしまう)。ETCの件にしたって、性急に事を進める必要があったとはいえ、相対的な不利益を感じたのなら「全体の経済のため」「自己中心的」などと躊躇することは全くない。ここでは判断するのは司法の仕事であって個人ではない。・・・・・・とはいえ、こういった感覚は理屈じゃわかっていても違和感が残る。良くも悪くも。おそらく経済的な成功を望むなら分業意識を徹底させるか、または適所で使い分ける器用さ・意識がいるのだろう。

P71 ロールズ 掘.螢戰薀襪兵匆颪悗粒板
 民主的な万民の社会が正しい方法で安定しているということは、その社会が正義に関して安定しているということなのです。つまり、社会的諸条件はおそらくつねに変化しつづけるでしょうが、人民のあいだにみられる制度や慣行は、程度の差こそあれ、関連する正義の諸原理の条件を満たしている、ということです。さらにいえば、万民の法が遵守されるのは、単に幸福な勢力均衡――それを乱すことがどの人民の利益にもならない――のゆえではなく、人民ごとにその盛衰を変える場合があっても、すべての人民が彼らにとって正しくかつ有益なものとして自分たちのコモン・ローを受け入れ、それを守る気持ちを持つからなのです。このことが意味するのは、民主的な人民から成る社会の正義は、彼らのあいだでなされる豊かさの分配に関して安定している、ということなのです。この場合、豊かさとは、ある社会の軍事的成果のあるなしではなく、他の種類の功績、すなわち政治的・社会的自由の達成、文化のゆとりや表現力、すべての市民の経済的福利などを指します。

P157 ローティ
安全と共感は、平和と経済の生産性との関係と同じく、車の両輪のようなものです。ただ難しいのは、恐怖を覚えざるをえない状況、危険な環境にいればいるほど、人はただちに身内であると識別できない人たちの状況について親身に考える時間もさけず、努力もできなくなる、という点です。感情教育は十分に時間をとって、ゆったりとした気分で聞くゆとりのある人たちにしか効果がないのです。

P175 リオタール
 どのような肩書きを持っているにしろ、教師たる者は、生徒たちに、彼らが知らないことを話しているあいだ、彼らを発語の共有から除外します。生徒たちが理解できない言葉で話しかけることさえあります。教師は、一般的他者である「あなた」の姿ではなく、生徒にとってまったく別の存在である「他者」の姿です。教師は見知らぬ人、異国人なのです。どうしたら異国人と対話することができるでしょうか。対話するためには対話相手の言語を習わなければならないでしょう。(中略)
 文明化の学習過程が強いる沈黙は、「疎隔」(estrangement)という苦役の契機です。それは私の習性とは別の仕方で話し、しかもどういえばよいか私にわかっていることとは別のことをいう、ということです。教師の他者性を通して、沈黙するなかで異質な未知の論理が強いられます。教師は私を人質にとって、私の知らないことを私に聞かせ、いわせるのです。

P232 エルスター 検‖真決原理への対抗装置としての司法審査
究極的には、すでに述べたように、憲法による権利の保護は、単純多数に基盤を求めるべきものなのです。原理上は、多数派の意見が憲法に直接に表現されていても、後世の憲法の再解釈に反映されていても同じことなのです。大切なのは、法律が多数派の、一時的な気まぐれでなく、熟考された意見を反映することなのです。その意味では、情熱や利害に影響されやすい憲法制定会議よりも、ゆるやかに進化してゆくリーガル・カルチャーに信頼をおく方が理にかなっているということができます。しかしながら、リーガル・カルチャーは法廷での決定に対するやわらかな制約にすぎず、憲法起草世代の意見でもなく現代の多数派の熟考された意見でもないものを反映する決定がなされる余地は、つねに残されています。それどころか、法廷が少数派のイデオロギーに――あるいは多数派の一過的な情熱に――振り回されることもありうるのです。

P257 抑制と均衡
 前に述べたように、多数決原理の危険性の源を三つに分けることができます。すなわち持続的な利害、持続的な情熱、一時的な情熱です。またこのような危険は議会内部の多数派のなかにも、民衆のなかの多数派にもみられると述べました。東欧におけるもっとも差し迫った脅威は、二つあります。それは、権力を保持しようとする議会内部の多数派の持続的利害から生じたものと、民衆のなかの持続的情熱から生じた、とくに民族的分裂に関するものと、賠償および懲罰に関する後ろ向きの要求から生じた脅威です。

Posted by s_kuri2002 at 17:40│Comments(0)TrackBack(0) 法学 

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