2004年09月05日

大使たち

再びホルバインの登場。
今回はロンドン・ナショナルギャラリーに所蔵されている《大使たち》について。


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画面には二人の大使の姿があり、その間にはさまざまな品物が棚に並べられて
いる。左はイギリスに赴任したフランス大使のジャン・ド・ダントヴィル、右
は司教のジョルジュ・ド・セルヴという人物らしい。ダントヴィル29歳、セ
ルヴ25歳と画面には書かれている。当時としてもそれほど死に近い年齢ではな
いはずだが、彼らの周りには生のはかなさ、死への暗示が満ちている。例えば
弦の切れたリュート、地球儀、書物、これらは17世紀に流行するヴァニタス画
に登場する主要モチーフである。さらに画面下部のクリーム色の「しみ」と呼
ばれるものは、トロンプ・ルイユの技法である「アナモルフォーズ」によって
描かれている。アナモルフォーズとは一般に見る角度を変えたり曲面鏡を使っ
て見ると正しい図像が現れる絵画のことであり、その起源はルネサンス期に制
作された教会の丸天井画のための技術であったという。ここでは横から見ると
骸骨があらわれる仕組みになっている。骸骨はいうまでもなく死の暗示であり、
ヴァニタス画にも登場するモチーフである。

引き伸ばされた骸骨を補正した図






アナモルフォーズについて、ジャック・ラカンは『精神分析の四基本概念』
でこの絵画を論じている。彼によれば、人間は成長過程において、イメージの
充満した〈想像界〉から、それぞれに意味を付与し分節された〈象徴界〉に移
行する手続きを踏むという。例えばこの「赤く」て「丸い」ものは「りんご」
であり、あの「黄色」で「細長い」「バナナ」とは違う、という風に。この象
徴界への移行は世界の把握であると同時に、認識の一元化、固定観念の呪縛と
しても機能する。それをラカンは「去勢」という。ルネサンスを基点として、
ばらばらの状態であった視点は透視図法によって論理的に整理された。しかし
ホルバインの絵画では、象徴界で猛威を振るう「遠近法」という一元化にもう
ひとつのパースペクティヴを挿入し、無意識に行いがちな遠近法の視点に違和
をもたらしている。

話を整理してみよう。まずこの絵画においては、アナモルフォーズの挿入によ
ってパースペクティヴの複数化が起こっている。このことは一元的な視点への
抵抗であり、幼児の成長過程での「去勢」になぞらえた社会への警鐘ともとれ
る。ここで描かれた対象に戻ってみると、それらはヴァニタス(虚栄)のモチ
ーフであった。ひとたび視点を移せばそこには死が控えている・・・。「メメ
ント・モリ(死を思え)」、ホルバインはこの言葉にふさわしい画家であった。
彼は人間の裏側の死という姿を常に見続けていたのである。だから彼はあれほ
どの死せるキリストを描き、婚約の肖像には象徴を紛れ込ませたのだ。

ところで、この絵画に描かれている地球儀について考えてみる。それは歪みと
しての地球儀である。地球儀は世界をひとつの認識として確定する象徴でもあ
るのではないか。現在の形に近い最古の地球儀と呼ばれているものは、1492年
マルチン・ベハイムによってつくられた。図らずもコロンブスがアメリカ大陸
を発見した年である。もちろんこの地球儀にはアメリカ大陸は描かれておらず、
大西洋の果てにはユーラシアが続いていた。大航海時代の幕開け以降、世界地
図は劇的な変化を遂げる。またコペルニクスが天文学を学びはじめるのもちょ
うどこの頃だった。世界認識の変動著しい16世紀において、人間の視覚認識も
過渡期にあったといえる。そんな中で、絵画における歪みの表現はダ・ヴィン
チをはじめとする画家たちに描かれるのである。

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この記事へのコメント
 このトリック画はロンドンのナショナルギャラリーでしたか。 何度見てもその謎めいた骸骨のトリックは面白いものですね。
Posted by カンターレ at 2004年09月05日 14:09
今回のホルバイン、
ヤン・ファン・エイクみたいで面白かったよ。
Posted by あげは at 2004年09月05日 22:26
確かに謎が多い絵画です。それだけに多くの人たちがいろいろな意見を述べているみたいです。特に多いのが上でも述べたけれど心理学からの反応。イリュージョンの問題で近代美術に絡める人もいるみたいですが、例えばデュシャンピアン(マルセル・デュシャン狂の人)がちょっとした記述に必要以上の想像を巡らせるのも、こうした謎が多いからなんでしょうね。
Posted by ジャロ at 2004年09月09日 06:53