前回に続いて黒澤明の「虎の尾を踏む男達」を取り上げる。

 黒澤明のフィルモグラフィーを見ても「虎の尾・・・」以外に、歌舞伎に想を得た作品は見当たらない。どうして黒澤明は歌舞伎「勧進帳」を映画にしようとしたのかと考えていたところ、矢野誠一著「エノケン・ロッパの時代」(岩波文庫)の中に、その答えらしきものを見つけた。

 「喜劇王」エノケンこと榎本健一は戦時中、太宰治がおとき話などの古典世界に沈潜したように、戦意高揚の風潮に影響されることなく「助六」「エノケンの法界坊」「オペラ勧進帳」など歌舞伎のパロディ化に意欲を燃やしていた。矢野は、
「パロディと言っても、主題はドラマの内容よりもむしろ、エノケンの歌舞伎の演技術から吸収したかったもののほうが強かったように思われる」
と記している。黒澤明もこのエノケンの流れで「虎の尾・・・」を撮ったのだろう。
 「虎の尾・・・」でエノケンは、歌舞伎「勧進帳」には出てこない強力(荷運び)役で登場する。格式高い演技に終始する義経一行に対して、エノケンの身のこなしの軽さが一際目立つ。エノケンがいなかったらこの映画の魅力は半減どころかほとんど皆無になる。エノケンの笑いこそ、義経の悲劇性に花を添えているのだ。
 映画の最後でエノケンが弁慶に代わって飛び六法を踏むことは前回触れた。「エノケン・ロッパの時代」によると、この飛び六法、エノケンは1934年に浅草松竹座で佐々紅葉作「オペラ勧進帳」を上演する際に「弁慶の飛び六法による引っ込みをやりたい。稽古をつけてくれる人を紹介してほしい」と二代目市川左團治に頼んだという。
 そうやって考えると、エノケンの身軽な動きも名優の型を踏まえた努力のたまものなのか、と感慨深い思いにさせられる。

 さらに「エノケン・ロッパの時代」を読むと、エノケンは1938年、つまり国家総動員法公布の年に松竹から東宝に移籍したことが書かれている。当時について触れた部分。
 「榎本健一は東宝と契約したことで、必然的に活動の場を丸の内に移すわけだが、それ以前の浅草時代の彼を支えた観客の多くは、工場労働者や近郊の農村のひとたちに加えて、暗い冬の時代到来の予感におののくインテリや学生たちによって構成されていたと言われる。彼らは、小男で、さして男前でもなく、むしろひとから軽んじられていたエノケンが、ふとしたことからヒーローとなって君臨してみせる舞台に、おのが貧しき夢を託し、こころからなる喝采を送ったのである。エノケンの演ずるヒーローは、本質的に権力と無縁の場所に居ることで、彼らの観客の熱烈な支持を受けることになるのだが、単純といえばしごく単純な、この舞台と観客の関係は、浅草から、サラリーマン階層が圧倒的に多かった丸の内にその場を移しても変るところでなかった。」(「エノケン・ロッパの時代」)

 当然、エノケンのこの移籍がなければ、エノケンと黒澤の出会いもなく、東宝で「虎の尾を踏む男達」という傑作が生まれることもなかった。
「時代劇の鉱脈(黒澤明「虎の尾を踏む男達」その1)」

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