マーティン・スコセッシ監督が子どものころ、カトリックの司祭になりたかったという。
 その事実は、初期の名作『ミーン・ストリート』(1973年)で既に表現されている。



 スコセッシ監督が遠藤周作の『沈黙』を映画化したがっているのも、そんな個人的背景がある。



 読売新聞の連載「時代の証言者」では現在、篠田正浩監督の聞き書きが掲載中だ。
 本日付のインタヴューによると、スコセッシ監督は先日来日した際、篠田監督に対し、
 「篠田の『沈黙』は宮川一夫で撮ったのか。オーソン・ウェルズがグレッグ・トーランドで『市民ケーン』を撮ったようなものだな」
 などと話したという。

 日本映画にも造詣が深いスコセッシ監督だから、遠藤周作の『沈黙』を知ったのは篠田正浩監督の映画版を通してなのかもしれない。

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 スコセッシとキリスト教といえば、キリストを主人公に据えた『最後の誘惑』が思い浮かぶ。
 だが、今思えば『タクシードライバー』や『グッドフェローズ』のような暴力的な映画でさえ、キリスト教的な世界観で彩られているような気がする。
(「気がする」だけで、ちゃんと実証してはいない)
 どんな暴力的な作品でも、結果的にはすべて勧善懲悪になっている。
(これも「気がする」レヴェルだけど)



 その最たる例はスコセッシ監督が苦節40年にして念願のアカデミー賞を獲得した『ディパーテッド』。おとり捜査でマフィアに潜入した警察官(レオナルド・ディカプリオ)と、マフィアまみれの警察官(マット・デイモン)、そして、狂気じみたマフィアの親分(ジャック・ニコルソン)が絡む傑作だ。



 言うまでもなく、『ディパーテッド』は香港映画『インファナル・アフェア』のリメイクだ。しかし、両作品はラスト部分が大きく異なっている。
 細かくは触れないが、簡単に言うと、『インファナル・アフェア』のラストは「無間道」という中国語タイトルが示すとおり、現実が無間地獄であり無であり空であり空即是色であり、救いがない、という世界観を表したものだ。
 これに対し、カトリック司祭志望のスコセッシ監督による『ディパーテッド』は、現実は無間地獄だ、などという虚無的な世界観を否定し、救いのあるラストに改変されている。
 この改変は、興行的な要請もあったのだろうが、仏教国とキリスト教国の違いを示す面白い例だと思った。

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 ここで突然、先日「さばムンド・インテルナシオナル」で触れた「スコセッシ監督が選んだ必見の外国映画(非アメリカ映画)39本」の話になるが、スコセッシが選んだ映画39本のリストを考える宿題になっていた、「3点目の気付き」を発見した。
 このリストにはフランス映画が10本入っているのだが、この中に、ゴダールも敬愛する巨匠ロベール・ブレッソン監督の作品が1本も入っていないのだ。



 これは奇妙なことだ。
 何もシネフィル的な観点だけで言っているのではない。
 ロベール・ブレッソンといえば、フランス中部の田舎(基本的にフランスの田舎はカトリック文化が根強い)で生まれ、カトリックの影響がその作品に色濃く表れている映画監督である。カトリック司祭志望のスコセッシがブレッソンに反応しないはずがないのだ。

 スコセッシ監督の外国映画リストはスコセッシ監督のファンによって加筆されるべきだろう。その際には今村昌平やブレッソン、メリエスなどが入るだろう。