ジョヴァンニッキ2

即興演奏家が本業よりアート鑑賞に夢中になっているブログです。

2015年06月

浅草の「ギャラリー アビアント」から「菅野くに子展」の案内葉書が届いた時、好みのタイプの絵なので、ぜひ行こうと思っていた。


しかし、結果的には行けなかった。惜しいことをした。浅草は私の勤務先からあまり遠くない。しかし自宅とは逆方向なので、帰りが難儀なのだ。そのため気軽に立ち寄ることはできず、行くときは「よし行くぞ」と気合を入れないとダメなのだ。

菅野くに子の作品をいくつかネットで観た。いくつかはルフィーノ・タマヨの作品に似ていた。タマヨも私の好きな画家の一人である。今後、個展が開催されたらぜひ行きたい。

「オリーブの木の下で 瀧ケ崎千鶴 日本画展」(t Truth:横浜)に行った。


素晴らしい作品が展示されていた。その魅力がどこから来るのか、私なりに考えてみた。すると「主客転倒」というか、「正副逆転」という概念が浮かんできた。

例えば案内葉書に採用された「オリーブ」には、オリーブの実と葉が描かれている。そこには「重点の置き方」と「描き方」という要素が含まれている。それらが普通と逆になっているのではないか、というのが私の考えである。購入した絵葉書の中にも、同じようにオリーブを描いた作品がある。


どこがポイントかというと、普通はオリーブの実にスポットライトを当て、葉は脇役に押しやると思う。しかしここでは主役は葉に移され、実はその地位を下げているのである。

また普通は岩絵具が中心で、金泥・銀泥などはサポート的な役割を担っていると思う。しかし、この作品では逆に、主役に抜擢された葉を金泥・銀泥などで描き、脇役に落とした実を岩絵具で描いているのである。

瀧ケ崎千鶴の絵の上品さは、この「逆転手法」によるのではないか、と勝手に想像してしまった。


逆といえば、例えば伊藤若冲が裏から絵具を塗ったとか、そういう話は本に書いてあったり、テレビで紹介されたりしている。しかし今回のように、題材の採り上げ方と画材の両方において主客をひっくり返すという事については、初めて意識した。(過去に触れたことがあったかもしれないが、記憶にない。)

上品な日本画を鑑賞すると心が平穏になるような気がする。いい展覧会に行った。

「幻想耽美」(Bunakamura Gallery:渋谷)に行った。京橋で開催された「SIXレスポワール展」に出展した♪桑原聖美がこちらにも展示するというので、「同時多発的・桑原聖美」を味わってみようと思ったのだ。


「現在進行形のジャパニーズ エロチシズム」という副題が添えられていたが、私はこの副題は展覧会の実態と少し違うと思った。エロチックな表現というより、グロテスク・SM的表現が多勢だったからである。本題の「幻想」という言葉は意味が広いので、これらのジャンル全体をカバーできるとは思うのだが。

そのような展示傾向のなかで光彩を放っていたのは、巨匠♪多賀新の作品である。これは誰しも認めることであろう。拾い上げたばかりの状態では顔を背けたくなるような素材でも、多賀新にかかると立派な芸術作品に昇華する。そこには上品さも備わっている。

著名作家という点では♪金子國義もあげられる。しかし多賀新に比べると迫力の点で物足りなさが残る。ファンの方に怒られそうだが、金子國義は澁澤龍彦の勢いに乗り、その潮流の中で名前を挙げた作家ではないかと思った。

一方、京橋・渋谷同時多発の桑原聖美の作品は、周囲の作品との距離感において、2つの開催地でポジションが逆転していたのが興味深かった。すなわち京橋ではエロスの面で他作品より上位に位置していたのに対し、渋谷では逆に他作品よりエロス面で抑制され、穏やかさと上品さが突出してしまったのである。「エロス度」の周囲との兼ね合いは、意外に重要課題かもしれない。



幻想系(エロチシズムを含む)の作家は、絵が売れにくいというのが最大の課題かもしれない。例えば私が自宅の壁に飾る絵を求めて展覧会に来たとする(仮に先立つものがあったとして)。その場合、古典的な「裸婦」なら許容範囲だが、表現がどぎつい現代の幻想絵画は敬遠してしまう。

幻想オリエンテッドのアーティストは、このようにハンディを背負っているが、隠れファンは大勢いると思う。その中で資産家の人がいたらなんとかしてくれないかなあ。他人事のようで苦しいが・・・。

「SIX(シックス)レペルトワール展」(ギャラリー オル・テール:京橋)に行った。


「レペルトワール」は辞書によるとフランス語で「レパートリー」のことだという。6人の作家が創作すると、それぞれの個性によって作品が制作されるので、展覧会に際して画廊は6つのレパートリーを持つという意味であろうか。

この画廊は幻想的なアートを多く採り上げる。今回も展覧会のタイトルには明記していないが、幻想が中心テーマであろう。この「幻想」という軸から逸れないようにしながら、各アーティストが競作したような展覧会だった。

「幻想」の周辺には「エロス」と「グロテスク」という深淵なるテーマがまとわりついている。今回の展示作品には、それらのサブテーマに傾斜したものもあったし、ジャンル不詳のものもあった。案内葉書を見ると、様々な個性が主張し合っている感じがする。


既知の作家は♪桑原聖美と♪林千絵で、二人とも個性的な作品を展示していたが、他の作家も負けじと独特の味わいを打ち出していた。

「ナカムラ徹展 “存在の夢”」(ギャラリー広田美術:銀座)に行った妻ジョアンナ(仮名)も同行してくれた。


妻と行くためにこの展覧会を選んだのは偶然だった。昼頃に銀座近郊で用事があったので、その前に画廊でも観て行こうという事にしたのだが、開廊時間が遅いところが多く時間帯が合わない。その中でこの画廊は11時から営業してくれていたので行くことにしたのだ。

そういうわけで、大変失礼なことに内容よりも開廊時間で展覧会を選んだのだが、結果的にこれが大当たりだった。恥ずかしいことに作家のナカムラ徹(てつ)は知らなかったのだが、その作品は素晴らしく、驚いた。

展示された作品には思索を求めるような表題が付けられていた。例えば案内葉書に採用された「夢中落花」はネットで調べると「美しい言葉」として紹介されている。文学作品にもいろいろ使われていたようだ。

何回も書いているが、私はコンセプチュアルな作品を好まない。絵画なら観てそのまま直感で美しいと味わえる作品が望ましいのだ。それに対してナカムラ徹の作品はどれも宗教的・文学的裏打ちがあるように見えた。

では嫌いかというと、そうではない。ナカムラ作品を、純粋に造形作品として観ても鑑賞に耐えるからだ。これまでにも、同様の作家と作品には多数出会ってきた。

「聖橋」は、私のように純粋な造形を求める鑑賞者と、コンセプチュアルな掘り下げを好む鑑賞者のどちらにも受け入れられる作品だと思った。私にとっては、簡素な中に直線と曲線の美しい調和があり、色彩も美しいので、それで充分満足的なのだ。

一方、内容を深めたい人にとっては、聖橋が「こちら側」と「あちら側」との接点だということを元にして、深い思索に沈むことができると推測する。

結論として、良く出来た作品というものは、そのコンセプチュアルな面を見ようが見まいが、同等の美を鑑賞者に施してくれるものだ、ということになる。


行くきっかけは偶然だったが、結果としていい展覧会に行けて良かった。

このページのトップヘ