思春期を迎えた少年というものは必ず夢を追う。夢実現のためには、無鉄砲で怖いもの知らずの年頃である。当時の、貧しい家庭の少年が軍隊に走ったのは、外に夢を実現するすべがなかったからだ。切羽詰まれば大人だって女性だって捨て身になる。満州事変以後の領土拡張政策に乗って、多くの農民が満州へ渡った。長野県では村ぐるみ移住した村もある。私の従妹は小学校卒業と同時に、知り合いを頼って単身満州へ渡って行った。生きていくため、少女だって冒険しなければならなかった。今でも、捨て身で海を越える難民が後を絶たないが、当時満州へ渡った日本の農民も捨て身の難民に近かったった。


 食えない農民。行き場のない長男以外の農村青年。といった社会問題を背景に、満州事変以降の軍拡路線はエスカレートしていった。日本を憂う青年将校のほとんどが農村出身者。農村の危機を肌身で知った者たちばかりだ。彼らの多くは北一輝の影響で社会主義的思考の持ち主が多かったらしい。農村の疲弊ぶりを知っている者なら当然だろう。昭和維新と称して決起した2.26事件の首謀者たちもすべて農村出身。しかも長男はいない。平和な日本では暮らしの立たない連中ばかりなのだ。戦争を拡大し領土を広げることで活路を見出そうと考えたとしても無理もない。日本の大衆も又これを熱望した。貧乏人の子沢山、農村には二男以下の余剰人間が腐るほどいたのだから。


 このような状況下で満州事変が大成功し軍を勢い付かせた。この勢いで支那事変へとエスカレート、日本の支配地は無限に広がっていく。つれて民間人も大陸へ渡れば飯が食えるとばかりに、続々渡って行った。言うなれば戦争バブル。支那の夜や蘇州夜曲のような歌が大流行したような世相であった。慎重論に耳を貸す者など居ようはずがない。もう誰にも止められない、行くとこ、ろまで行くしかなかった。戦争に勝てばいい暮らしが出来ると、大衆は信じ込んでいたし。事実勝ち戦が続いていたのだから、庶民は熱狂的に軍の強硬路線を支持した。なまじ慎重論など唱えれば、軍のトップでもテロの標的にされれる状況下にあった。

 
 満州事変から支那事変へと戦争熱に浮かされた日本国は、遂に勝ち目のない日米戦へと踏み切ってしまう。世界的視野を持った識者には、これが如何に無謀な戦争であるかはわかっていた。でも、阻止する力はなかった。日本国の実権は視野の狭い田舎者に握られていたからだ。政治家に軍部を抑える力はなく、更に難儀なことは、軍の首脳に田舎者の若手将校たちを抑える力のなかったことだ。血気に逸る若手の方に世論は味方していたから、将軍たちも無視できず、若手の顔色を見ながら物事を決めていたらしい。我輩がなんでそんなことを知っているかと言えば、戦後に出版された多くの回顧録を読んでいるからである。


日米開戦時連合艦隊令長官だった山本五十六大将も日米戦反対だったらしい。なぜそれをはっきり言わなかったのか、と問われたとき、「そんなこと言ったら殺されている」と言ったそうだが、テロで政治が動いていたような時代のこと、あり得る話である。長男不在の軍隊で、その軍が政治を動かしていたのだから、当時の政治には長男的思考が全く欠けていたわけだ。長男的思考とは家を守り土地を守ること。これに対して土地も家も持たない二男以下は、新しく他に求めなくてはならない。なにしろ次郎から八郎、十郎までいた頃だから、世論としては二男以下の声が圧倒的に強い。神武
(ずんむ)のように生きるくらいなら死んだ方がましだ、という意見が大勢を占めたのは無理もない。だからあんな自殺的な戦争が出来たのだと思う。日米戦の末期には主婦まで竹槍を持ったのだから、一億総自決の構えだった。


 そして敗戦。正気を取り戻した大衆は、無謀な戦争を口々に責めた。無謀な戦争をしたのは自分たちなのに、自分には何の責任もなくて、すべて軍が悪い、軍事政権の責任だ、ということにして、大衆は知らんふり。先の戦争責任については様々な意見があって、未だ決着したとは言えないが、指導者をけしかけたのは、大衆であることに間違いはなかろう。大衆の顔をもっと子細に見ると、次郎三郎四郎五郎六郎といった顔が殆ど。これでは慎重な長男的思考は通用しない。一か八かの次郎たちのペースだった。