2020年10月19日

グランド練習

日曜日。
高校野球が出掛けるとのことで、学校のグランドを使っての練習ができた。
昨日の交流戦が雨で順延になったこともあり、最低限の用具が学校にあったこともあり、ちょうど良かったのだ。

久しぶりの学校での練習。
草がないグランドでの練習。

選手たちは生き生きと、楽しそうに練習していた。
やはり練習環境によってもモチベーションは変わるものだ。

少ない人数だったが、午前中練習で、けっこういい練習ができたと思う。

下手くそ集団の野球部の選手たちだが、以前と比べたら格段に上手くなった。
世間がコロナ休校中も、私の学校は一切休むことなく授業や部活を続けていた分、もしかしたら、少しは他校に追いついてきているのかも知れない。

それを試す場が、交流戦だったが、来週に延期になった。
しかし、この先大会まで、放火の練習はほとんどできない。
週末には地区の駅伝もあり、また行事も立て込んでおり、唯一の練習時間は朝練だけになった。

一人ひとりが意識高く練習すると、あっという間に上達する。
だが、試合を通して学ぶことは、それ以上の効果がある。
その意味では、練習試合と言えども、貴重な機会なのだ。

それが、今はほとんど行われない…。

今、今まで当たり前だったことが、すべて当たり前ではbなくなり、崩れ去ろうとしている…。
それが、コロナ時代なのだが、ますます世の中が混沌として、人間不信に陥るならば、世紀末現象と言ってもいい。

後半、エンドランの練習をした。
だが、なかなか決まらない。

ピッチャーの牽制が上手いのか、投げるべき球が打ち損じを誘うのか、なんとも判断はつかないが、攻守ともども、必死でプレーしていたのは確かである。

「次から次へと、ヒットを打てると思うか? エンドランはチャンスを広げるんだよ。」

野球は駆け引きのスポーツだ。
と共に、強い気持ちでプレーしないと、打てないし、エラーも出る。

どんなに普段は優しくても、いざ試合になったら、気持ちが切り換えられるような、そんな選手を育てたいと、ここ十年来、野球部の面倒を見ている…。


2020年10月18日

別れ

仏教の教えの『四苦八苦』の一つに『愛別離苦』がある。
この世で思い通りにならないことを『苦しみ』と定義し、「(この世の)人生は苦である」と解いた。
『愛別離苦』とは、「愛する者と別れる苦しみ」のことである。


今日、人間ではないが、一年一ヶ月預かって育てた老犬「琴」との別れをした。
十歳を超える雌犬で、私の愛犬の雄が淋しそうなので、借りて預かっていたのだ。
その老犬「琴」が、最近急に元気がなくなった。

そんな彼女の様子を見て、貸して下さっている犬舎のご主人が、「こちらに戻して下さい。同じ年齢の犬と一緒にして、余生を過ごさせます」、という指示が来た。

と言うわけで、急に「琴」との別れとなったのだ。

前日に「琴」の写真を撮ったが、あまり目が開けられず、元気そうな写真にはならなかった。
「もう、明日の朝で、一緒に散歩するのは終わりだよ…」
「琴」は、分かっているのか分かっていないのか、無反応。

「これまでありがとうね…。」
そう言って、頭をなでる。
開かない細い目が、さらに細くなった。

一緒に暮らしている愛犬「ポン太」は、私が「琴」ばかりをかわいがるものだから、一生懸命私に身体をこすりつけてくる。

「なかなか一緒にいてあげられないから、犬たちはみな淋しいのかな…。」
外は雨が降っていて、十分な散歩もできかった。

「琴」を車に乗せて、犬舎に向かうも、今までのような元気さがなかった。
あまりに大人しく、バックミラーからその姿が見えないので、吐いたり、けいれんしたりしているのではないかと、心配になったほどだ。
「犬舎についたときにぐったりしていたらどうしよう…。」
そんな不安で、どこかで車を停めて、様子を見たい衝動にかられながらも、二十分ほどで犬舎に着く。

果たして「琴」は、ご主人の姿を見て喜んだ。
力を振り絞って、最大減のサービスをした。

その後、じっとしてあまり動かなくなった。
「ゆっくり過ごそうな…。」
犬舎のご主人が言う。
「畑の小屋に行こうか…。」
と。「琴」を軽トラックの助手席に誘った。
「琴」は自分から車に飛び乗った…。

「いつまでも元気でな…。」
私はそう声を掛けた。

「琴」と会えるのは、これで最後のような気がした。

犬との別れも、私に撮っては『愛別離苦』だ。
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2020年10月16日

色使い

板書や教材の色使いにはこだわりがある。
私は、最初の授業で、最低3色は準備するように指示している。

授業では、けっこう色を使う。
だが、ただ色を付けているのではなく、毎回その色に同じ役割りを果たすようにしている。

同僚に、プリントでも同じようなことをしている先生もいて、たとえばプリントの青い字は、「難関大入試に役立つ方法」であったりする。

幸い私の学校では、オルフィスというカラー印刷機なので、試験問題にもいろを付けることができるのだ。理科や社会では、写真がふんだんに印刷されることもある。
すごい時代になったものだ。

教科書もいつしかフルカラー印刷になり、教材プリントもその時代に入ろうとしている。
そして今や、タブレットを一人一台ずつ持たせるとか…。

大したタブレット教材もないので、まだまだ苦しいが、動画を見たり、パワポを創ったりできるので、便利であることは事実。
だが、コンピューターはまだまだ使いにくい。
数学では、実際に手を動かさないと、なかなか習得できないことも事実。

中学校の数学で、三角形の合同の証明を勉強するが、このときの色使いは役に立った。

等しい辺や、等しい角を色分けするのである。
すると、視覚的に三角形の合同条件が見えてくる。
結果、どの条件を使えば良いかが、一目瞭然。

証明を記述するときに記号の間違いも減る。

この手法で、証明の正答率も格段に上がった。
彼らは証明を怖がらなくなった。

だから、私は試験であっても、色を使うことを許している。
彼らは、めいめい図形に色分けをして、さっと証明をこなす。

辺を色づけするには蛍光マーカーは使いやすいし、よく目立つが、板書持の色は、色ボールペンがよい。

結果、彼ら生徒たちは、何種類もの色ペンを持つことになるが、それで学習効率が上がるならば、それはよいことだ。

これ以外にもさまざまな工夫があるが、それはまた別の機会に…。

2020年10月15日

授業の空き時間

「丹澤先生、先生は授業のない時間は何をしているのですか?」

なるほど、生徒から見ると私は暇そうに見えるらしい。
確かに、何をしているのかと言われると困る。

副担任の仕事は、始業前に終えてしまうので、毎日の授業の空き時間にあらかじめ予定を入れることはめったにない。

「もっと生産的な仕事をしなければ…。」
「情報は、アウトプットしてこそ自分のモノになるんだよ。」
「知識を智慧に変えるべく、思索を練らなければ…。」

などなど、分かっているが、ついつい怠惰に流され、惰性に走る。

「そういえば、大した仕事をしているわけではないな…。疲れて休んでいる時も多いな…。」
と、思ったが、その生徒にはあたかも仕事をしているかの返答をした。

なかなか鋭い質問であった。

教員(担任生活が長くなると、いろいろな突発的な仕事がやってくるので、ルーチン的な仕事は、いち早く尾原さえ、空き時間を作っておく必要がある。

私は、長らくそれを実践していたのだ。
ここに来て、担任や学年主任が外れた昨今、その時間がまるまる自由な時間になっている。

それこそ生産的な仕事をするチャンスだったはずなのだが、前述のように、怠けている。

細切れの時間でも習慣化すると、いつの間にか大きな成果を上げていることがある。
毎日5分でも、一つのことを繰り返し、年月が経てば、かなりの実績を得ることができるのだ。

「そろそろ怠惰な自分から脱却しないか。もう十分休養しただろう。心も癒えただろう。」

心の奥底からそんな声が聞こえてくる…。

一年くらい前に、『やること・手を打つこと・習慣化すること』という文書を作った。
それを久しぶりに開いて読んで見た。

なるほど、全然できていない。
つくづく自分は怠け者だな、と思う。

その「やること」一覧には、一日5分でもいい、という赤字が何カ所もあった。

もう一度、決意を新たにせねばなるまい…。

2020年10月14日

中間試験の点数

担当しているの中1の中間考査の成績が芳しくない。
私の学校では、代数と幾何と分けて授業を行い、試験も分けているが、どちらも、一桁近い点数の生徒を出してしまった。

生徒には、「試験は、自分の作品なのだから、隠すような点を取るな」、と言っているが、そのような点数を取らせたというのは、教えている私自身の責任でもある。

「少し気合いが足りなかったかな…」、と思う。
「もっと、情熱的に授業をしなくてはいけなかったかな…」、とも思う。

概して、授業担当者自信が、楽しく授業をしていないと、そのクラスの成績は振るわない。

そう振り返ると、私自身、このクラスの授業はあまり楽しくなかった。
中1でありながら、忘れ物は多いわ、宿題はやらないわ、それでいて授業中寝る。

私の指導の未熟さなのだろうが、この生徒たちは、どうも、今までの指導法ではだめなようで、私も試行錯誤しながらの授業になっている。

まだ10月半ばを過ぎてなお、中学生になりきれていけないようである。

授業は人間関係が強固になると、うまくいくので、そういう意味では、まだ彼らとの関係が構築できていないのだろう。

歳を取り、余りに幼く見える生徒との距離が大きくなったのかも知れない。
あるいは、私自身、新たに学び続けることを怠っているのだろう。

先日、生徒からの授業評価の高い先生方の研究授業があった。
何年かぶりに、私は選ばれなかった。
だからどうと言うことではないのだが、同じく毎回選ばれている社会科のM先生が、
「研究授業は、私に撮って新しいチャレンジの場です。」
と、言い放った。
さすがである。

学びを深めようと思えば、いくらでも深掘りできる。
見ている先生も、授業担当者もどちらも進化していく…。

どうやら私自身、このところ怠け者生活に陥っていたようである。

学び続けてこその教師、進化し続けてこその学校である。

自戒せねば…。

2020年10月13日

山が色づく

近隣の山の紅葉が最盛期を迎えた。
山に行く道は、平日でも混雑し、紅葉の見られる山の駐車場にはもはや入れない状態だ。
GoToトラベルの効果か、今年もたくさんの観光客が紅葉を見るために山を訪れているようである。

その様子はSNSなどで確認することはできるが、下界の学校からも、太陽の光の加減によっては、山が赤く染まっているのが分かる。

距離にして三十キロ弱。
「今年も、山が色づいたのだな…。」
と、季節の移ろいを感じる。

「ぼんやり、赤く染まった山を見ていたいな…。」
元来怠け者の私は、ふとそうした気持ちになる。

自動車で30分も走れば、そこは紅葉まっただ中。
おそらく今週あたりがピークだろう。
もちろん標高差があるので、高さを変えれれば、まだまだ楽しめるのだろうが、山並と共に見るのであれば、今が一番だ。

この地に住みつき、十年以上になるが、本気で赤く染まった山を見に行ったことはない。
休日は混雑で行けないだろうし、平日に出掛けることも困難だ。
遠足の下見がてら、午後から山に行き、たまたま紅葉に巡り会ったことはあるが、そのただ一回だけである。

そろそろ下界でも一部色づき始めている。
夏の暑さの頃が、ひどく昔のように思えしまう。

取り切れずに残っているグランドの草も、緑色から茶色に代わりつつある。
茎と根が残っているので、ここまま放置することができないので、結局それらも抜かねばならない。

子供たちに真っ赤に染まった山並を見せたら、どんな風に思うだろう。
多少はむしゃくしゃしている生徒でも、少し心が落ち着くのではないだろうか。
自然には、そういう力がある。
だからこそ、遠足などで学校外に出掛ける意味がある。

この地の秋は短い。
いつの間にか、彼岸花の葉が出てきた。
11月になれば霜も降りる。

紅葉が終われば、山には雪が降る。
そして長い冬山の季節になる。

だが、春は必ずやってくる…。
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2020年10月10日

母親の寂しさ

「他のみんなも、そう言っていると聞いています。」
これが、彼女の常套句だ。
何かしら、自分の気に入らないことがあると、その根拠に「他の人」を使う。
子供はたいてい、「みんな言っているよ」、などと親をごまかすが、それがそのまま学校へのクレームに使われる。
具体的に誰なのかなどは、どうでもいい。
「みんながそう思っているのだから、これはおかしい」、という理論である。

残念ながら、みんなが思っていることが正しくないことは多いのだが、気持ちの収まらない人間にとっては、このことは重要なファクターなのだ。

母親は中高、大学時代の息子や娘たちの成長を喜びつつも、寂しさを感じている。
たとえ彼ら、彼女らが、親の手の届かないところに成長していたとしても。自分を超えられたとは決して思いたくはないのだ。
だから、どんなに成功しても、「何を言っているの? 私の子よ」、という具合。
それを祝福することは、親自身の精神的な成長が必要なのだ。

思春期の息子は母親の関わりをできれば避けたいと思う。
だから、母親から何か訪ねられても、いい加減に答える。
面倒になれば、適当に話を合わせる。
さらにしつこければ、ただただ返事をするだけになる。
だから、本心ではない場合もある。
しかし、母親は、その一言を学校にぶつける。
「息子もそう言っています…」、と。

要は、淋しいのだ。
子供が成長してゆき、自分から離れていくことに寂しさを感じているのだ。
子離れできない親、と言っては気の毒だが、残念ながらそのとおりなのであろう。

その寂しさから、「学校はどんな教育をしているのだ」、と訴えたくなるのは、分からないでもない。
だが、そうした反発する時期、離れている時期を経て、人は大人になっていくのだ。
世の母親は、それが理解できずに、苦しみ、寂しさにしがれている。

「私は母親よ。私を無視しないで。私の方を向いて!」
とばかりに、子供に執着してしまうのは、世の常ではあるが、それは不幸でもある。

よく考え見れば、親たちに「子育て講座」なる期間や機会はほとんどない。
だから、試行錯誤になるし、自分たちもそのように成長してきたことを忘れ、今現在に、心を乱してしまうのだ。

そんな視点で親の話を聞くと、「聞いてあげるだけでも、少しは気が晴れるのかな…」、と思う。
学校という場は、本来親たちへアドバイスする機関でもあるのだろうけれど、昨今はそんな余裕や、スキル、そして親たちも聞く耳を持っていないだろう。

私たち教師は、親子ともどもの成長を願って、そんな中で仕事をしている。

2020年10月09日

食事会

定期試験になると、昼に学年で食事会をすることにしている。
放課後に部活動もなく、夜にも学習会がある日常では、学年のメンバーすら集まれる時間帯がないのだ。
そこで、せめて試験中の日中くらいは…、と学年の先生で「何かおいしいもの」を食べようという企画である。

それが今回は、私の隠れ家の離れの囲炉裏で行うことになった。
出不精の私にとっては、どこか店に行く面倒からは解放されたが、その分、準備に翻弄された。

年に何回かしか使わない囲炉裏の掃除やら網や鉄板を洗ったり…。
皆が来る前に炭興しを終え、すぐに焼けるように準備をしたり…。
「汁物を作れ」と言われたので、前日から仕込みをしたり、と、なかなか忙しかった。

それでも、小雨の降る肌寒い仲での炭焼きバーベンキューは、なかなか面白かった。
そんなに食べられるわけではないが、大人のバーベキューなので、いろいろな食材が投入される。

焼き上がると、「丹澤先生どうぞ」、ともてなされたので、ちょっと良い気分。。

片付けもささっと終えて、ゴミも持ち帰ってくれた。

「こんなんで、親睦が深められたのかな…。」
皆が帰って、一人、愛犬の散歩をしながら、そんなことをふと思った。

コロナでなくても飲み会や学校全体での食事会も一切ない中で、学年での食事会は、貴重な機会なのだ。

冬になれば、野球部でもここでバーベンキューをする。
高校生でも、「やりたい」と言えば、場所を開放する。

ちゃんと片付けられるならいいのだが、中学生は食べ終わると遊び始めるので困る…。
それでも、彼らの心に思い出が残ってくれるならそれでいい…。

少年期の強烈な経験は、その後の成長するにつれ、貴重な体験としていつまでも記憶に残る。
炭をおこすにしても、今となってはそうそうできる体験ではない。

中学生でも、自分たちで準備させれば、少しは学びになるに違いない…。

「助っ人でも頑張って練習していると、12月のバーベキューに呼んでもらえるよ。」
ある野球部員が、助っ人部員にそんなことを言っていた。

「彼らも密かにバーベキューを期待しているのかな…」、と私はほくそ笑む。

教育活動に役に立っているのなら、私の隠れ家もその役割を果たしているというものだ。

次の学年食事会では、やっぱり海産を食べたいな…。

2020年10月08日

保健室受験

今年の二学期中間試験でも、保健室受験をする生徒が出た。
熱があってもなお、試験を受けよう、という訳ではない。

どちらかと言えば、不登校気味で、しかも定期試験となれば、さらにプレッシャーがかかり、教室に入れない生徒の受け皿としての、保健室受験である。

彼女らは、疲れればすぐにベットに横になることができる。

教室には入っていないので、欠席にはなるが、それでも「試験を受けた」という実績になり、点数もつく。

このシステムが良いのか悪いのかは分からないが、このところそのようにして、心が病んでいる生徒たちにも試験を受けるチャンスを与えている。

「保健室もキャパオーバーになっています!」
教務主任が朝の朝礼で叫ぶ。

そうは言っても、教室に入れない生徒がいることは事実。

体調が悪くて試験を受けなければ0点。
保健室で受験すれば、そのまま点数はもらえる。
診断書でもあれば、さらに情状酌量される。

私立学校にしては珍しく、寛容で救済力たっぷりの措置である。

「質問対応で保健室に行ったけど、寝てたよ…。」
職員室に戻ってきた教員の空しい声が響く。

「ひとたび入学させた生徒は、手をかけ、根気よく寄り添い、必ずや立派に成長させて卒業させるのだ」、という校長の思いを実現して、保健室受験以外にも、さまざまな手を打つ。

少子化の時代。一人の生徒のウエイトはますます高くなった。
親の子供に対する思い入れも大きい。

それでいて、世の中は困難なことばかりが続く…。

だが、世の中がどうであっても、それでも学校は、淡々と流れて欲しいと思う。

保健室に集う彼女らを、単なるわがままと見るか、思春期特有の心の病と見るか…。

私は教師になり立ての頃は、「試験が受けられなかったのですね。でしたら、学校は続けられませんね
」、という具合に、すぐに転校を勧められたものだ。

思い通りにいかない親の落胆も、相当大きなものだったに違いない。
もちろん、当の本人も、どうしてよいか分からず、苦しんでいたのだろう。

そんな時代から、三十年以上経つ…。

2020年10月07日

祈りの調べ

この春大学を卒業したばかりの、その女性の祈りは美しかった。
久しぶりに美しい祈りの調べを聞いた。

人間にとって一番美しいのは、祈っている時の姿であるという。
無私無我の気持ちで、神に祈りを捧げる敬虔なしせいは、その思いが純粋であれば純粋であるほど、美しく、神々しさすら感じるものだ。

以前、私が美しい祈りを聞いたのは、高野山に詣でたときである。
もう、十数年前になる。
僧侶による高野山真言宗の唄の調べは、心地よさと美しさを感じたものだ。
以来、多くの祈りの場に立ち会っているが、美しい調べとであることは、滅多にない。
圧倒的多数の僧侶の読経は、その波動が美しくないように思える。

宗派は違えども、その美しさは共通している。

この美しさは、祈りそのものが、大いなる存在である神と対峙している姿であるからだ。
そして、その対峙するに値する心の状態を維持していなくてはならないからであり、さらには、底に自我の思いが存在しないからである。

その姿勢と態度に、神に近づこうとする思いがある。
その思いは、何人からも尊崇されるにふさわしい心根であり、人間本来の正しい生き方そのものを表しているのだろう。

美しい祈りの調べのMさん。
「まだまだ若いのに素晴らしいな」、と思う。

泥と埃にまみれた穢れた私から見れば、まさに高貴な存在のように見えた。

昨今、宗教学校でも祈りの時間が減っていると言う。
形式化し、生徒たちが真面目に取り組めない、という理由もあるのだろう。

しかし、それは、本来あるべき人間としての姿勢を放棄しているようにも見える。

美しい調べのMさんの祈りを聞いた生徒たち。
一瞬だが、幸福感が増大したのではないだろうか。

決して刹那的な動画では体験できないバイブレーションが、そこにはある。

学校教育でも、宗教的な涵養を重視するようになって久しいが、世の中それほど変わっていないように思える。

まずは、大人たちの宗教に対する意識が変わらないといけないのだろう。
今のままの学校教育で、子供たちにそうした純粋さを伝えるのは、やはり難しい…。

saburo-netbird at 22:00|この記事のURLComments(0)教育問題 
プロフィール

丹澤 三郎

中学、高校の教員になってもう30年以上になります。なんだか、がむしゃらに歩んできたような気がします。このブログでは、日常の学校生活中から、子供とのかかわりを紹介しています。若手の教員の方に参考になれば幸いです。タイトルは、以前学級通信を発行し続けてきたことがもとになっています。

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